第18話 その猫は死んだのだ

 フレデリックは研究室で、薬学科の参画している事業――荒廃した農地を再生させる計画――の資料を纏めていた。


 過去の戦乱が荒廃させた土地は、少なくない。王城を戴くファウゼンには各地から様々な食物が運ばれてくるため実感が薄いが、土地の痩せ細った地方の都市は餓えることは無いにしても、豊かな生活を送っているとは言い難いのが現状だった。地方都市の再生は現王室も急務と捉えており、土壌を改善する肥料や栄養剤の研究開発を『王立天文台シュテルンヴァーテ』の薬学科が担っていた。


 現在、この事業に関することを仕切っているのはアルブレヒトだ。そのためフレデリックにも今日のように、突発的に雑務が割り振られたり――曰く信頼の置ける友だからということで――する。


「この休日に何があったか、聞かない方が良い感じかい?」


 資料を広げて内容を検めていると、アルブレヒトが近付いて声をかけてきた。フレデリックは大きく溜息をつき、紙を捲る手を止めないまま言葉を返す。


「……察しがついているくせに、知らんふりをして訊いてくるな」

「察し、とまではいかないよ。下手な想像を、膨らませてみただけさ」


 言いながら肩を竦め、傍にあった椅子を引いてアルブレヒトは腰掛けた。

 マイヤ・ニッコラは、二週間ほどの休暇の届けを出していた。彼女がこのように長期の休暇を申請するのは初めてであることと、寮へ帰ってきた彼女の様子が平時と異なっていたことから、彼女の近しい人々は何かあったのだろうと噂している。そのことが、顔が広く社交的なこの男の耳に届いていたとしても何ら不思議ではない。


 マイヤの名誉を思うなら、下手に話を広めるべきではない。たとえ自身がいくらか迷惑を被っていたとしても、いたずらに彼女を貶めることには何の正当性も無い。何より、誰よりも今回の件で憤る権利があるだろうグリューネが許している。ならば、それで良しとすべきだろう。フレデリックは手を一度止めて言った。


「確かに少々、問題はあった。が、既に解決している。それ以上、俺から話すことは無い」

「君のとこのお嬢様はどうしてる?」

「変わりない。今日は夕食を作ってくれると言っていた」


 それを聞いて、アルブレヒトは吹き出すように笑った。


「オーケー。それなら本当に、解決してるみたいだな」


 それきり、アルブレヒトはその話について聞いては来なかった。どこまで彼が知っていて、どこまで下手な想像とやらを膨らませたのかは分からなかったが、こういうときに変に好奇心を発揮せずにすっと引くところが、人間の心の機微に寄り添うことのできる、彼の長所なのだろう。自分には絶対にできそうにないと思いながら、フレデリックは友人に問いを投げかけた。


「時にアルブレヒト。仔猫のように可愛がる、とは具体的にどのような行為を指すと思う」


 その問いに、一瞬硬直してから彼は半笑いになって返した。


「え、なんだい急に」

「昔飼っていた猫に似ているという話をしたら、グリューネにそのように要求された」

「ああ、そういうこと。いかがわしい話かと思ったよ……」


 アルブレヒトは大仰に安堵の息をついてみせてから、腕を組んで思案する。


「ちなみに、君はどう解釈したんだい?」

「とりあえず、言葉の通り受け取った。猫を撫でるように、顎の下を撫でてみた。特に嫌がられたり怒られたりはしなかったが、そういうつもりで言ったのではないのだと、後で言われた」


 笑いを堪えながら、アルブレヒトはその話を聞いていた。顎の下を撫でられながら、そうじゃないという顔で赤面しているグリューネの様子が目に浮かぶ。おそらくそれはそれで嬉しかったので、そのときすぐには何も言えなかったのだろう。さておき、面白がっていないで親友の問いかけには答えてやる必要があった。


「その飼っていた猫っていうのは、君が好きで飼っていた、ってことでいいのかな?」

「……そうだな。俺が俺の判断で飼っていた。そういう意味で、好きで飼っていたと言える」

「なるほど、なるほど」


 頷いて、アルブレヒトはしばし首を捻って考え、そして答えた。


「思うにそれは、『君の意思で可愛がれ』ってことじゃないかな」

「俺の、意思で……?」

「そう。君は大体、夫としてこうすべき、って行動してるだろ。そうじゃなくて、君が君の意思で、夫だからとかそういうことを考えないで、愛情を示して欲しいんじゃないかな。なんの義務感も負い目も無しに、その仔猫を可愛がったようにさ」


 この回答に、ある程度アルブレヒトは自信があった。あの子は、グリューネは。決して仕方なく結ばれた形式上の夫婦というだけの気持ちで、この男の傍にいるのではない。過ぎ去った女にさえ嫉妬するくらい、この男に惚れ込んでしまっている。彼には彼の道理があるのだと理解はしているが、少しでも、彼女の気持ちが報われて欲しいという思いは常にあった。フレデリックは、ひとつ息をついて目を伏せ、口を開く。


「自分の意思で愛情を示す、か」

「難しいかい? ……まあ、ゆっくりやっていけばいいんじゃないか。君たちはまだお互いのこともよく知らないわけだろ。普通の男女は、もう少し時間をかけて夫婦になるものだからね」

「そうか。……そうかもな」


 納得したように頷いて、フレデリックは資料の精査に戻った。

 澄ました顔の賢い男は、仕事に脳味噌の半分を使う傍ら、愛情とは何かということを、考え続けていた。


***


 昼下がり。徐に来客を知らせるベルが鳴った。自室のベッドの上で、寝転がりながら料理の本を広げていたグリューネはその音で飛び起きて、玄関へ向かいそろそろと階段を降りた。これまでフレデリックが不在の間に来客があることはなかったので、初めてひとりで来客に対応することになる。家主の妻としてだ。そのことにはいくらかの緊張があった。咳払いをひとつして、意を決して玄関を開けた。


「はい――」


 扉を開けると、そこにいた人物に、さらに緊張が走ることとなった。


 そこにいたのは――マイヤ・ニッコラだった。しばし、沈黙が降りる。彼女とは一悶着あったばかりだった。グリューネ自身は十分に彼女の心情を理解したつもりだ。だから、彼女が先日、夫に手を出そうとしたことについては、既に水に流してはいる。話があるなら聞いてやるとも言ったけれど、本当に訪れてくるとは、正直あまり思っていなかった。扉から顔を覗かせて硬直しているグリューネに対し、なお気まずそうな様子の女は、絞り出すように声を出した。


「こん、にちは」

「……こんにちは」


 グリューネの返答の声には多分に、困惑の響きが含まれている。こうした反応をされることは、マイヤも想定していただろう。それくらいこの行動は常識外れで、常軌を逸している。それでも、女にはここに来なくてはいけない理由があった。


「あの……身体はもう、大丈夫……ですか?」

「身体……? ああ、ええ、大丈夫よ」

「そう、ですか。良かった……」


 再びの沈黙。その気まずさに耐えかねて、マイヤは手に持っていた紙袋を、押し付けるようにグリューネに差し出した。


「あの、これ。ご迷惑、かけたお詫びに……。……こんなことで、許されるなんて思ってないけど……」


 紙袋からは、微かに果物の香りがした。袋を受け取って、中を覗き見てみると、先日貰ったものと同じ店のコンポートの瓶が幾つか入っていた。


「……本当に、ごめんなさい。二度と貴女たちに、迷惑はかけません。……私は、これで」

「待って」


 踵を返して足早に去ろうとするマイヤの手を、グリューネは咄嗟に掴んだ。マイヤがあまりにも驚いて肩を振るわせたので、かえってグリューネは平常心に戻った。


「……別に、取って食べたりなんてしないわ。そんなに怯えないで。……折角来たんだから、お茶くらい付き合いなさい」

「え、あ、でも」


 そのままマイヤの手を引っ張って、階段を上り、リビングへと連れて行く。困惑する彼女を椅子に座らせて、グリューネは紅茶を淹れた。あの日も、二人に紅茶を振る舞うために薬局へ降りたはずだった。それがあんなことになるとは、思ってもいなかった。つい先日のことのはずだが、不思議と随分時間が経っているような気がしている。――それくらい、密度の濃い週末だった。


 以前マイヤが持ってきたジャムと、家にあったクラッカーとを皿に乗せて、紅茶と一緒にテーブルに置いた。てきぱきとここまでをこなして、グリューネは彼女の正面に腰を下ろす。


「……さ、どうぞ」

「……あ、ありがとう、ございます」


 気まずい空気をなんとなく引きずったまま、二人は紅茶と菓子を口に運んだ。紅茶のカップを置く音と、クラッカーを咀嚼する音ばかりがリビングに響いていたが、そのうちにグリューネが口を開いた。


「ねえ、無理にとは言わないけれど、普通に振る舞ってちょうだい。わたくしにも、それから、フレデリックにもよ」

「……どうして? 普通『二度と近付くな』とか、そう言うものだと、思うけど」


 マイヤの答えは、ごもっともである。自分の夫や恋人、そういった存在にちょっかいをかける余所の女にかける言葉といえば古今東西、決まっているようなものだ。しかしグリューネは、フレデリックが彼女を信頼と尊敬に足る学友と思っていることを知っている。友情を蔑ろにされ悲しんでいたことを知っている。


 一度拗れた関係を正すことは困難だ。しかし元のように、友人として二人が話せるようになって欲しいという気持ちはあった。――それを自分から言われることがまた、彼女を傷つけるかも知れなくとも、他でもない、マイヤの行動によって被害を被るかも知れなかった自分はそう考えているのだと、そのことを伝えたいと、グリューネは考えていた。


「わたくしをそんな狭量な女と一緒にしないでくれる? 別に、こないだのようなことをされなければ、夫が友人と有意義な時間を過ごすことは構わないのよ。……友達とでしか得られないものだって、あるはずでしょ?」


 そう言って、グリューネは紅茶を一口飲んだ。マイヤは押し黙ってそれを聞いている。幾度めかの沈黙。先程までと雰囲気の違うグリューネの声がたどたどしく、その沈黙を破った。


「……話は変わるのだけど。あなた、盤上遊戯チェスはできる?」

盤上遊戯チェス? まあ一応……」

「では、一戦付き合ってもらえない?」

「え、ええ。いいけど」


 突然の提案に困惑しながら、マイヤは了承する。グリューネは頷くと、ぱたぱたとリビングを出ていって、少しの後、立派な携帯遊戯盤を抱えて戻ってきた。テーブルにそれらを並べると、少女は胸の前でそわそわと両手を合わせて言った。


「人と遊ぶの、初めてだわ。ずっと戦術集とか、棋譜スコアを見てばかりだったから」

「そうなの?」


 どうして――と訊ねようとして、マイヤは口を噤んだ。噂に聞くとおりの『妖精令嬢』に、気軽に遊びに付き合ってくれる人など、これまでいなかったのだろうから。


 穏やかに陽光が差し込む部屋。同じ男に想いを寄せたふたりの女は、ひとりとひとりの人間として向かい合っていた。

 おかしいな、この状況。二人ともが互いに、そう思っているに違いなかった。

 

 人と、人との繋がりは。必ずしも好意的な感情によってのみ、作られるものではない。けれどそれは、理解し合えないこととは別のものだ。羨望が、嫉妬が、ふたりの女を理解者として引き寄せて、この場所に座らせていた。


 この先、私たちはどうなるのだろう。

 ずっと、沈黙が繰り返し続く関係のままかもしれないし――あるいは、そうではない別の何かに、なれるのかもしれない。少なくとも、前へ進む一手はもう、打たれていた。


「――チェックメイト」


 嬉しそうな少女の声に、悔しそうな女の声が続く。

 その後、重なって響く笑い声が、長いこと部屋の空気を震わせていた。

 そのことは――ふたりのほかに、誰も知らない。


***


 猫はもう、飼わないと決めていた。


 可愛い猫だった。足下に纏わり付いてきて、小さな牙で指先を食んで、傍に寄り添ってくれた、優しい仔猫。あの子は、死んでしまった。いや――。俺が傍に、置いたせいで。


 彼女がその仔猫に似ているとすぐに思い当たれなかったのは、思い出したくなかったからだ。姿を認めればいつも、甘えた声で鳴いて傍へやってきたその猫が、ある日部屋の前で動かなくなっていたことを。あんなにも温かだった命が冷え切って、硬くなっていたことを。その身体を抱き上げたときの、絶望を。思い出したくなかったからだ。


 しかしもう――彼女は、この腕の中に納めてしまった。


 そんなことを考えながら歩いていると、いつの間にか家の前までやってきていた。見上げるとリビングには灯りが点いていて、夕食の香りが漂ってきている。彼女は、何を作ってくれたのだろう。抜群に美味しいなんてことは、期待はしていない。もしかすると焦げていたり、逆に生焼けだったりする料理を、食べきらなければならないかもしれない。けれど、それすら何故か少し、楽しみにしている。


 今の生活は、上手くいっている。不満は無い。グリューネのあらゆることは、焦らず慎重に調べるべきだ。賢明に、良き妻であろうとしてくれている彼女の、良き夫であり続けよう。


 扉を開けて、階段を上る。リビングへ歩を進めると、キッチンに立っていた小さな姿が振り返った。


「おかえりなさい、フレッド」


 君は、今のほうがずっと幸せだと言った。その言葉は真実だと、花のような笑みが示している。

 君をここへ、連れてきて良かった。漠然とそんなことを考えている。物語のようなロマンスは無くとも、それでも君が幸せで、笑って過ごせているなら、それでいい。


「――ただいま」

 

 良き夫であり続けよう。彼女と、彼女が笑っていられる生活のために。

 

 誰かや、何かや、己の過去にはもう何も――何も奪わせたり、するものか。



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