第17話 君の味方/あなたの味方
家に帰るまでのことはうろ覚えだ。
腕を裂いて生えてきた枝が痛くて、重くて――譫言のように痛い痛いと言い続けていた気がする。枝が生えてきたのは右腕だけだったが、それなりの太さと長さがある枝だったので、見てくれは酷いものだっただろう。しかし、フレデリックに抱えられて帰る間、周囲から何かを言われるようなことはなかった。むしろひどく静かで、布越しに伝わる人の肌の温かさや適度な揺れは、痛みさえなければぐっすりと眠ってしまえそうだった。
これまで、花や、蔓や、そういった柔らかいものはいくらでも生えてきたことはあったけれど、木の枝が生えてきたのは、初めてのことだった。いや、そんなことはほんの些細なことかもしれない。重要なのは――自分が望んだとおりに身体から植物が生えてきたことだろうか。
意識がはっきりとしたのは、ベッドの上に横たえられたときだ。グリューネが瞼を上げると、視界の端に大量の本が映り込んだ。ここは自室ではなく、フレデリックの部屋だ。疑問符を浮かべて身体を起こそうとするが、枝が突き出ている右腕に全く力が入らない。そうしていると、ちょうど部屋の主がやってきた。
「起きたのか。腕に麻酔を打ったから、動かしにくいだろう」
「……あの人は、どうしたの?」
「……真っ直ぐ家に帰ると約束してくれた。大丈夫だよ」
ひとつ息をつきながら、フレデリックはベッドの脇に椅子を寄せて座った。それからグリューネの右腕を手に取って、生えている枝を眺めた。彼はこの体質を改善するために、日々知恵を絞ってくれているらしかった。だから仕方のないことなのだが、じろじろ見られるのは少し恥ずかしく、落ち着かない。多少はそれがましになるだろうと考えて、グリューネはこうなった経緯を話すことにした。話を聞き終えて、彼は微かに眉を顰めた。
「では、君が望んだように、腕から枝が生えたと?」
「具体的に枝を考えたわけではないけれど……細くて柔らかい蔓では、人の重みを支えられないと思ったの。それで、もっと頑丈なものって、思い浮かべて……」
「それで枝か。君の身体にはつくづく驚かされる――」
そう言って、フレデリックはばつが悪そうに視線を巡らせ、薬局から持ってきたのであろう剪定用の鋏を手に取った。右腕から生えている枝を丁寧に切りながら、彼は再び口を開いた。
「……ありがとう。彼女を――マイヤを助けてくれて。君が追いかけなければ、取り返しのつかないことが、起きていたかもしれない」
その後も珍しく歯切れ悪く、言葉を選びながら、フレデリックは話した。
「俺は、マイヤに間違ったことをしたとは思っていない。俺は妻である君を裏切るべきではないし、またそうしたいとも思っていない。変に気をもたせるようなことも言うべきでは無いと思った。ただ――」
枝を切る手が、止まった。グリューネが視線だけで伺うと、フレデリックは今まで見たことがないような、なんとも言えない顔をしていた。痛いと言おうか、苦しいと言おうか――それをどう表現して良いか、本人も理解できていないような、そんな顔をしていた。
「彼女が傷つくような言葉を選んでしまった、と思う。それを、反省している」
あのとき、薬局でフレデリックが彼女――マイヤにかけた言葉を、グリューネも聞いていた。外で聞いているこちらまで思わず苦しくなったのだから、直接顔を突き合わせて言われた女にどれほど刺さったのか、想像に難くない。けれど、よくよく聞いてみればそれは、彼らしくない行動だった。何しろ彼は常に、人の道理として正しい選択をするよう、頑なに心がけている。彼ならもっと、落ち着いて彼女を拒むこともできたと思う。そうしなかったのは、できなかったのには、理由があるように思えた。
「……どうして、そんな風に、言ってしまったの?」
グリューネがそう訊ねると、彼は予期して思っていなかったのか意外そうな顔をして、それからしばらく口を引き結んで考え込んだ。そして、誤解や曲解をしないで欲しいが、と前置きをしてから答えた。
「彼女と研究について話し合うのは、俺にとって、意義のある時間だった。天文科は、権威を笠に着ているような連中も多いが、彼女はきちんと自分を高めるための努力ができる、尊敬に値する優秀な研究員だ。初めて論文の手伝いに行ったとき、彼女はかなり緊張していて、同じことを三回書いたりしていた」
そんなことを憶えていられる程度には、印象深い出来事だった。そう、彼は言う。しかし、彼女は。これまで築いてきたものが跡形もなく崩れるとしても、彼に一時の愛を求めた。フレデリックにしてみれば、ごく普通に接していた友人が突然、恋人関係を結ぶか、友人としての縁を切るかの二択を迫ってきたようなものだったのだろう。
「彼女の言葉は、これまで俺と議論を交わした時間を――想い出に値しないものとしているように思えた。それが何か、こう……」
「……悲しかった?」
「その表現が適切かどうか、自信は無いが」
男女間の友情が存在しうるのかどうか、それは未だ、議論の余地がある問題ではある。しかし少なくとも、同性間の友情よりも繊細なものであることは間違いないと言っていい。感情は、目で見て秤量することはできない。たったひとかけらの情動で均衡を欠いて、あっけなく崩壊するのもままあること――グリューネがこれまで読んできた多くの恋愛小説の中では――だ。
沈黙が降り、ぱちんぱちんと枝を切る音だけが部屋に響いた。枝の切り口はいつものように、すぐに綺麗な皮膚に戻っていく。枝はぱらぱらと木屑を零しながら床に落ちて、その様子を見ながら、フレデリックがここへ自分を連れてきたのは、部屋を木屑で汚さないようにするためだったのだと、グリューネは気が付いた。少し俯いているフレデリックの顔はいつも通りの無表情なようでいて、しかしどこか、悲しそうにも見えた。
――彼も、悲しかったのかもしれない。恋心を分かってもらえなかった女と同じように。友情を蔑ろにされたことに、人並みに傷ついていたのかもしれない。
「……頭を下げなさい、フレッド」
「は?」
「いいから、下げなさい」
意図が分からないまま、手を止めて渋々下げられた男の頭を、グリューネは左腕を伸ばしてそっと撫でた。癖の少ない灰色の髪は、少し硬く感じた。
不安なとき、痛いとき、苦しいとき――フレデリックは、頭を撫でてくれる。子供扱いされているようで複雑な気持ちが無いと言えば嘘になるが、その触れ方の優しさに、いつも勝手に救われている。君の味方だと、言葉も無しに伝えてくれている気がして。
だから、同じように彼の頭を撫でた。ほとんど初めて、自分から他人へ手を伸ばした。誰かに手を伸ばしては、怖がられたり気味悪がられたりするばかりだった。だからどうしても、手つきはぎこちなく、優しいと呼ぶには程遠い気がする、けれど。同じように、伝わってくれるだろうか。
あなたのことが本当は大好きで――あなたの、味方なのだと。
「……もし、これから女性に何か言われて、傷つけないような返答に困ったら、逐一
撫でられながら沈黙したままの夫の様子に気まずくなり、少し早口になって少女は続ける。
「ほら――あなたが言ったのでしょ。ふたりで上手くやっていこうって。だから……あなたも、できないことはやらなくてもいいの。……わたくしができることは……してあげるし……」
フレデリックが、少し頭を持ち上げた。長い前髪の奥で、夜闇色の目は驚いたように見開かれている。グリューネは、だんだんばつが悪くなってきた。そんなことを言ってはみたが、自分にできることなどたかが知れているだろう――そう考えていると、小さく吹き出すように、フレデリックが笑った。
「……できないことか。そんなもの、あると思っていなかったな」
「あなた、時々イヤミっぽいわね……」
「事実だ。生活するうえでできないことなど、もはや何も無いからな。……だが、君の言うとおり。できないこと、うまくやれないことが、俺には多くあるらしい」
フレデリックは頭を上げて枝の剪定を再開する。大ぶりな鋏の刃が肌のほど近くを掠めていくのは少し怖い。しかし、彼は至極丁寧に、細心の注意を払ってくれている。切り口を指で撫でられるのは、くすぐったくて、そわそわと落ち着かなくなってしまう。二重の意味で緊張していると、不意にフレデリックと視線がぶつかった。
「――同じ報酬が手に入るならあの人と結婚しただろう、と君は言ったな」
再び口を開いた男は、グリューネがマイヤを追いかけるときに残していった言葉を突然口にした。どきりと心臓が跳ねる。それに併せて身体を強ばらせてしまったせいか、フレデリックは手を止めて、じっと見つめてきた。その心情はやはり、計り知れない。夫を信用していないことを咎めるつもりだろうか。しかしグリューネとしては、信用するしない以前の問題としてそう言ったまでなのだ。
「だ、だって、そうでしょう。あの人――マイヤ? は成人してる女性だし、あなたと同じ魔法使いだし……わたくしと結婚した時のように、変な噂は立たないはず。あなたなら、そういう合理的な判断をするのではなくて?」
「なるほど、一理ある。だが、報酬が同じなら――いや、多少偏りがあったとしても。選択する余地があったのなら、俺は君を選んだと思う」
どういうことだ。まさか世間の根も葉も無い噂のひとつの通り、成人した女性より少女が好きだとかそういうことなのだろうか。俄然彼のことが分からなくなり、訝しい顔になって、更に訊ねる。
「どうして?」
「君が、助けてと言っていたから」
まるで予想だにしなかった回答に、グリューネは目を見開く。確かに、初めて会った日に、そんなことを言ったような気がする。発作が起きて、身体のあちこちから蔓が生えてきて、痛くて、人に見られて化け物と言われて、最悪な日だった。そんなとき、手を差し伸べてくれたのがフレデリックだった。あのときはとにかく、誰ひとり助けてくれる人などいなくて、彼の腕に縋って、震えていたことを憶えている。
助けて欲しい。誰でも良いから、この現状から助けて欲しい。
それは間違いなく、グリューネが願い続けた、ただひとつの望みであったと言って良いだろう。
「――俺は結婚そのものにも女性にも、興味は無い。そんな男と結婚するのは、ほとんどの女性にとって不幸なことだろう。だから、結婚なんてするつもりは無かった」
一度言葉を切って、フレデリックは少女の左手に視線を向ける。ほっそりとした薬指には、結婚指輪が光っている。
「けれど、君は。置かれた環境を変えることができるという点で、俺と結婚することに意義を見出すことができる稀有な人だった。君は自身を尊重しない環境から脱却でき、加えて夫という社会的保護者を得られ、しかもその夫は君の体質から来る苦痛を改善する術を幾つか持っている。君以上に、俺を傍に置くことのメリットがある人はいないだろう。――だから、君と結婚することにしたんだ」
指輪の嵌められた少女の手を取って、男は続ける。
「どうだろう。君にとって今の生活が、以前よりも良いものだと、思えていると良いが」
あのとき――フレデリックがこっそり屋敷にやってきた日――報酬と引き換えに結婚することにしたという話を、彼は否定しないと言った。だから、グリューネはひどく怒ったのだ。だが、こんな話は聞いていない。まさか結婚を決めた理由のひとつが、自分の口にした言葉だなんてことは。
グリューネは赤面しながら歯噛みした。むしろこれで、恋心も愛情も無いなんてどうしてなのか。まるで滅私奉公ではないか。どうやら考えている以上にこの男は、彼の言うところの『道理』の奴隷であるのかもしれない。けれど、彼がそんな男だから、今ここにいられる。その手を握り返して、言葉を返す。
「……いろいろ、あったけれど。……今の方が……ずっと、幸せ」
「そうか」
安心したように息をついて、フレデリックは目を細めた。グリューネは、胸の奥に込み上げてくる感情が口から漏れないように必死に唇を引き結ぶ。彼が夫として正しくあるよう努めていることへの信頼はあれど、好意を表明して冷たくあしらわれる可能性は依然としてある。ましてや、一方的な好意の表明ほど、扱いが難しく暴力的なものであることは、この度のことが証明した。
だから、まだ言えない。彼が、道理に従う夫ではない、ひとりの人間として見てくれるまでは。
好きという言葉も、愛してるという言葉も、まだ、言えないのだ。
綺麗に枝を切り落とし終わってから、フレデリックはグリューネを彼女の部屋へ運んだ。あれほど骨を、皮膚を突き破ったように生えてきていた枝なのに、切り落としてしまうと不気味なほどなにも、跡形が無くなっていた。
肉体を酷使した疲労からか、グリューネはひどい眠気に襲われている。ベッドに横たえられて、重たい瞼をどうにか持ち上げていると、フレデリックが頭を撫でた。それは眠りを促すように心地良い。瞼を閉じてうとうとしていると手が止まったので、つい目を開けてしまった。目が合ったフレデリックが、おかしそうに笑う。
「……どうして笑うのよ」
「いや、ここしばらく、君が何かに似ていると思っていたんだ。その正体に今ようやく、思い当たった」
「……なあに?」
問いかけると、フレデリックは懐かしむような響きの声で返した。
「猫だ」
「ねこ」
「そう。――昔、仔猫を飼っていたことがある。白い仔猫だ。温かくて、ふわふわしていて、構わないと怒るが、構い過ぎても怒る。……君によく似ている」
後半の言葉を聞いて、そんな風に見ているのかと憤りの気持ちが湧くが、思い当たる節がありすぎて、何も言い返すことができない。しかも彼が、どこか寂しそうな目をするものだから、なおのこと抗議の言葉は喉の奥に引っ込んでいってしまった。昔ということは、既にその仔猫は彼の傍からいなくなって久しいのだろうから。
「……じゃあ、その仔猫のようにわたくしを可愛がりなさい。誰にでも公平に親切なのは、あなたの良いところだけど――それなら、妻であるわたくしは、もっと特別に扱うべきではなくて?」
「それはつまり、もっと可愛がれ、ということか?」
「……」
火がついたように、顔が熱くなる。それはもちろん、本音を言えばその通りなのであるが、実際にそれを言葉にされると非常に恥ずかしいというか、厚かましいというか、ましてそれを要求しているその人に言われるのは、いったい何の辱めを受けているのかと言いたくなるほどの羞恥がある。
目を逸らして押し黙っていると、不意にひんやりとした指が頬を撫でて、そのままするりと顎の下へ滑っていく。びくりと肩を震わせて視線をフレデリックに向けると、彼は穏やかに微笑んでいた。
「夕食までまだ時間がある。……少し、お休み」
顎の下を指が撫でる。仔猫のように可愛がれと言いはしたが、猫のように撫でろと要求したわけでは断じて、断じてない。けれど、愚かにも胸は高鳴ってしまう。これまでの触れられるのとは何か違う。文字通り、可愛がられている。そのように感じてしまうのは、思春期特有の思い込みだろうか。恋心の前に、矜持などは簡単に敗北してしまった。いっそ、このまま猫になってしまいたい。延々と指先で弄ばれていたい――
指の先が肌から離れるその一瞬まで、心臓はばくばくと鳴っていた。フレデリックが部屋から去って、ようやく落ち着きを取り戻しつつあったが、とても眠れそうにはない。ぎゅっと固く目を閉じて、雑念を払おうとすればするほど、瞼の裏では、恋しい人の微笑みが眩しく焼き付いている。
果たして夕食の時、落ち着いて顔を合わせていられるだろうか――そんなことを悶々と考えているうちに、きちんと疲労が蓄積している身体は、深い眠りに落ちていくのだった。
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