第16話 彼女のノブレス・オブリージュ

 走るなんて、何年ぶりだろう。

 幼き日に、屋敷の庭園を走り回った記憶が薄らと蘇る。息が上がるのも、足が痛くなるのも構わずに、優しい母に見守られながら駆け回っていた。人に向けられる悪意も、身に受ける苦痛もぼんやりとしていて、走り回っている自分は、幸せを感じていたような気がする。


 ――それがどうだ。今は何故か、よく知りもしない女を追いかけて走っている。


 こんなこと、する必要は無かった。フレデリックは正しかった。ひとりの妻を持つ男として、自分に恋慕を向ける女の哀願を撥ね除けて、一線を越えずにいてくれた。ならばそれを喜ぶべきで、あの場で夫の話を聞いてこの件については終わりにするべきだ。それで元通り。平穏で安泰な夫婦生活を再開できたはずだ。


 なのにどうしてか、裏切られないか一番心配していたグリューネは、夫に迫った女を追いかけている。ひっぱたいてやるためなんて、ほとんど後付けの理由だ。そうでもなければ、追いかけるもっともらしい理由なんて何もなかった。もっともらしい理由もないのに、追いかけていた。


「もし、お婆さま! 黒い髪の女性を見かけなかった?」

「ああ~、そんな人なら、少し前に階段を上がっていったよ」

「ありがとう!」


 階段に差し掛かり、ドレスの裾を軽く持ち上げる。平民街を上へ上へ、昇って行く人は珍しい。途中途中すれ違う人に訊ねて、女の足取りを追う。貴族街がほど近くなると、訊ねられる人の影すら無くなってきた。昼下がりだというのに驚くほどの静寂が、石畳の街路を包んでいる。グリューネはぜえぜえと荒くなる自分の吐息だけを聞きながら視界を廻らせて――そして、貴族街へと続く小さな橋の、欄干の外側の細長い縁に立っている、女を見つけた。


「ちょっと……何をしているの!」


 息も絶え絶えに、叫んだ。欄干の向こう側に立った人が、緩慢な動作でこちらを向く。一心不乱に走ったのだろう、長く綺麗に切り揃えられた髪は乱れ、涙の涸れた目は淀んでいる。女は、静かに口を開いた。


「貴女こそ、何をしているの……? ……私を、笑いに来た?」

「な――」

 

 グリューネは一歩近付くが、女はいつでもそこから飛び降りてしまいそうな気配で、無闇に距離を詰められなかった。橋の下は空き地になっているが、かなりの高さがある。もちろん天文台の魔法使いならば、この高さから落ちたとしてもどうにかできる術は持っているのだろうが、自ら落ちるつもりであれば、どうにもするつもりはないだろう。言葉に詰まっていると、自嘲気味に女は続けた。


「聞いていたんでしょう。さっきの話。貴女から見た私は、さぞ滑稽でしょうね」

「……別に。滑稽だなんて、思ってない」

「人間ができていること。さすがは貴族のお嬢様。良い教育をされてきたんでしょうね。……私とは、全然違う」


 女の虚ろな視線が、俯いて下を向く。ほとんど悲鳴のように、グリューネは叫んだ。


「馬鹿なことはやめて! 誰もあなたに、そんなことは望んでない!」

「哀れむのは止めて! 選ばれた貴女に、私の何が分かるのよ!」


 鬼気迫る表情で、女は振り返って叫んだ。思わず息を飲んでしまうくらい、女の言葉は切実なものだった。


「私はいつも理解しようとしてた。あの人が何を好きで、何が嫌いか。どういう話なら興味を持ってくれるか。有意義だと思ってくれるか。価値があると思ってもらえるか。あの人と同じ目線で話をしたくて、あの人の書いた論文は全部読んだ。……貴女は、そんなことしてないでしょう? それでもあの人は貴女を選んだ。何にもしてない貴女を選んだ」


 その語気の強さに思わず気圧されて、小さな悲鳴が漏れそうになる。陰口を言われるような、まとわりつくように粘ついた重苦しい悪意とは違う。心臓に刃を立てられているかのような、鋭く明確な敵意だ。

 

「貴女が羨ましい。妬ましい。どれだけ努力をしたって、私は報われなかったのに。平然とあの人の傍にいる貴女が心底羨ましい! ……貴族なら、いくらでも相手を選べたはずじゃない。どうしてあの人なの。どうして……わ、わたし、やっと、初めて、好きになれた人だったのに」


 女はぼろぼろと泣き始めた。何歳も年下の少女の前で泣いていた。グリューネは、それをみっともないとは思ってはいなかった。女が、自分をひとりの女として見ていたからだ。初めて好きになった人を横から奪っていった憎い女。向けられている感情がどれほど恨みや憎しみに塗れていても、ここにいるのが子供ではなく、同じひとりの女であると認めている。それはある種の、敬意にも似ていた。


「……でも、もういいの。私、馬鹿だったわ。賢いことだけが取り柄だったのに、賢くあることだけが、あの人に見てもらえる手段だったのに――それすら、なくしてしまったんだもの」


 ――女が欄干から手を放すのと、少女が駆けだしたのは、ほぼ同時。


 激しい呼吸で肺を痛めつけながら、全力でグリューネは走った。女の細い身体がぐらりと傾ぐ。それよりもなお華奢な少女は、欄干に駆け寄り手を伸ばす。が、あと僅かに届かない。女の手は掴まえる寸前ですり抜ける。少女は、息を飲んだ。


 駄目だ。届かない。

 あと少し、あと少し

 

 脳裏にそんな考えが過った瞬間――ばき、と、骨が裂けるような音とともに、右腕に激痛が走る。落ちていく女に伸ばした腕のところどころが裂け、木の枝が突き出してきた。その枝は時間を何倍速にもしたかのような勢いで伸び出して、落ちていく女の身体を絡め取り、宙に吊り下げた。人間一人分の命の重みが、細い腕にずっしりとかけられている。痛みのあまり、崩れ落ちそうになるのを、グリューネは欄干にしがみ付いて耐えた。


「くっ……ぅ……!? 痛……っ!」

「なっ……に、これ……!? なんなの……!?」


 吊り下げられた女は驚嘆の眼差しで、自らを絡めとる木の枝を、それらを腕から無数に生やした少女を見上げている。その光景は、魔法使いの女にさえ異様で、瞬間的には恐怖すら覚えるものだった。そして少女の苦悶の表情と、それが自分を救おうとした故のものだと気付いて、女は下から声を張り上げた。


「ねえ……やめなさい! 貴女に、私を助ける理由なんてないでしょう……!」

「な……なによ……


 その言葉に――女は、息を飲んで、目を見開いた。苦痛に顔を歪めながら女を見下ろす、少女の青緑の瞳には使命感にも似た強い意志が宿っている。


「目の前で人が身を投げたら……助けるのが当然でしょう……! あなたが、私の夫に手を出そうとした人でも……、見捨てる理由には、ならないわ……!」


 ――焦がれ続けた男が選んだ人のことを、この女が何も調べなかったはずはない。

 妖精令嬢。生まれつき奇怪な体質を持った少女。神経質で、我が儘で、父親にさえ疎まれて、社交界で化け物だと囁かれていた少女。本当は結婚する相手なんて、選ぶどころかいもしない、どこにもいけない少女。だから余計に、憎たらしかったのだ。フレデリックは事故のように、体良く厄介な娘を押し付けられただけじゃないかと、そう思ったから。


「あなた……わたくしのことを、羨ましいと言ったけど……わたくしも、あなたが羨ましいわ」

「……私が……?」

「そうよ。だって……こんな風に、おかしな見た目にもならないし……一人前の女性と、思ってもらえるじゃない。わたくしなんか……今のところ、口煩い姪っ子くらいの感じの、扱いしか受けてないんですからね」


 でも、と一度言葉を切って。奇怪な腕の痛みを押し殺して、少女ははっきりと口にした。


「いろんな都合で勝手に決まってた結婚だけど――わたくし、フレデリックが好きよ。あなたの方が先にあの人を好きになったのだとしても、その時間に免じて譲ったり、する気はないわ。その代わり、恨み言なら直接いくらでも聞いてあげる」


 妖精令嬢は微笑んだ。重さも痛みも感じてないかのように、薄紅色の唇を弓形にして。

 なんて腹立たしく、憎たらしく――なんて可憐な、笑みだろう。思わず、女は見蕩れていた。 


「もちろんあなたに、わたくしと向き合う勇気があるのならね?」


 そんな、少し意地悪な笑みが垣間見えたのも束の間、少女は女を絡め取った腕を引き上げようと、もう片方の手で欄干を掴んで力を込めていた。が、一向に引き上げられる気配はない。腕を動かして枝がぱきぱきと音を立てる度に、少女の顔が歪む。


 見蕩れるような笑みを浮かべていた少女は、一転歯を食いしばって必死な形相となっていた。


「もうっ……生えてきたなら、言うこと、聞きなさいよ……!」


 懸命に少女は女を引き上げようとするが、当然と言えば当然、グリューネ自身にそのような腕力は無い。辛うじて、伸びた枝が絡め取った女を、少女の体重が錘となってその場に留めているだけである。ここがもっと人目につく場所であったら良かったのだろうが、平民が貴族街に赴く用事が無い以上、この道を通る人はごく僅かだ。少女は、思わず天を仰いで叫んだ。


「っ……、――あなたの、せいだからね、フレデリック――!」


 その叫びは、人気の無い通りに虚しく響き――一拍置いた後、呟くような、しかしはっきりと耳に届く声が返ってきた。


『発動領域、確定――天命反転』


 少女と女を挟むように、光で描かれた円形の陣が広がる。枝に絡め取られて吊り下げられていた女の身体は、重力に逆らうようにふわふわと浮き上がり、橋の上にゆっくりと降ろされた。驚いて目を丸くしている女と少女が天を仰ぐと、箒に乗った魔法使い――フレデリックが、そこにいた。


 ゆっくりと空中を旋回して橋の上に降りてきたフレデリックは、女を見て、それから少女を見て、その様子の異様なことに目を瞠った。それから丁寧に、女に絡まっている枝を外してやる。腕から無数の枝が生えたグリューネは、もはや痛みに耐えかねている様子で、泣きべそをかきながら、橋の上に横たわって男に文句を言った。


「った……いたっ……来るのがっ……遅いわよ……!」

「君の行動の意図が分からず、考え込んでいた。……すまない、ひとりにしてしまって」


 変わり果てた腕を抱えて呻いている妻を抱き上げて、フレデリックは女――マイヤへ向き直った。マイヤはぐっと奥歯を噛みしめるように押し黙って、視線を逸らした。その様子に男が何を思ったかは分からない。それくらい、いつも通りの調子で彼は言った。


「見ての通りだ。俺はこの子を連れて帰らなくてはならない。……君を送っていってはやれない。変な気を起こさず、まっすぐ家へ帰ってくれるな?」


 決死の告白も、愚かな痴態も、そんなもの何もなかったように、言った。

 分かっている。許されたわけではない。彼にとって、何もなかったことになっただけだ。それでも、変わりなく声をかけてくれたことは限りない温情に思えて、女は泣いた。泣きながら、黙って頷いた。それを見た男もまた、ゆっくりと頷いた。


『迷彩、展開』


 魔法を起動する文言と共に、少女を抱えた男の姿は、景色に紛れて掻き消えた。変わり果てた奇怪な腕を、人目に晒さないための配慮であることは、言わずもがなだ。残された女は、橋の上で座り込んだまま、空を仰いだ。


 ――妖精令嬢は化け物だと、誰かが言った。確かに彼女の身体を目の当たりにして、そのように呼ばれるのも無理からぬことだと思った。けれど、彼女は結局のところ、化け物でもなんでもない少女でしかなかった。


 どれだけ許しがたいことがあっても、どれだけ自身が苦痛を伴っても、正しい選択をした。どのような理由があろうとも、死の淵にあるものは救うべきだと示した、高潔な少女。当たり前に助けてもらってなんてこなかったくせに、『人を助けるのは当たり前だ』なんて口にする、愚かな少女。誰かを羨み、誰かに恋をする、ごく普通の少女。


 そんな子を――どうして化け物などと呼べるだろう。


 フレデリックが歩いて行った道を振り返る。当たり前のように少女を抱き上げた、男の姿はどこにも見えない。ゆっくりと、マイヤも立ち上がる。顔を服の袖で拭いながら、傾きつつある陽の下を歩いた。


 ――わたくし、フレデリックが好きよ。


 それはあまりにも単純で飾り気が無い、本心からの言葉。何故か、その言葉が他のどんな言葉よりも、腑に落ちるように心を落ち着けた。


 胸の奥を抉られたような、痛みはある。しかしぽっかりと開いたその穴には、手酷く恋を失ったことなど素知らぬ風が吹き込むような心地がする、不思議な晴れやかさもあった。


 ――そっか。貴女も、好きなんだ。


「それなら、仕方が、ないなあ」


 

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