第15話 賢くなんていられない私たちは

 遡ること、十数分前――


 自室のベッドで眠っていたグリューネは目を覚ました。本を読んでいる途中で、いつの間にか眠ってしまっていたらしい。読みかけの本は、緑色の多様な薬草が描かれたページが開かれたままになっている。半身を起こして欠伸をしながら、なんて自堕落な生活だろうかと思う。朝食は夫に作ってもらい、自由な時間に午睡を取る。シェーンヴァルトの屋敷にいるときは、なんだかんだといろんなことを教える講師が来たもので、自由な時間は今ほど多くは無かった。


 しかし、今の生活はあまりにも自由すぎて、罪悪感を感じることもある。無論、他でもない夫は気にしてはいない様子ではある。だからこそ、薬局の手伝いという、多少なり貢献できることが見つかったのは幸いだ。


 ――上手くやっていこう、ふたりで。


 結婚したその日、フレデリックはそう言った。きちんと自分のことを「ひとり」とみなしてくれていることが、グリューネは嬉しかった。実際のところは何をするにもまだ半人前の子供だが、そう誓いを立てた以上は、一人前の働きをできるようになりたい。おいおい家事も覚えて、薬局の手伝いもたくさんできるようになって、そしてフレデリックに、最高の伴侶だと認めさせる――というのが、現在の少女の目標、あるいは野望と呼ぶべきものとなっていた。


 そもそもは、一生かけていびり倒してやろうと決めて結婚したはずであった。しかし、いざ生活を共にし始めたら想像以上に大切に――そう呼んでいいものか議論の余地はあるが――されてしまい、とても不当にいびれるような心境にはなれなかった。それどころか、どんどん彼を好きになってしまっている。彼の言動が、ただ義務的に妻を慮っている結果のものだとしても、果たして義務だからといってこれほど、大切にしてくれる人がいるだろうか。実の父ですら、大切にはしてくれなかったというのに。


 その恨みと悲しみが、少女の心から消えることは無い。だからこそ、夫が過保護にしてくるのが窮屈な反面、嬉しくて嬉しくて堪らなくもあるのだが――


「……わたくしって、本当に単純ね……」


 グリューネは溜息をついて、両手で顔を覆った。本当に、呆れるばかりだ。内心で褒めちぎってはいるが、フレデリックに欠点がまるで無いというわけではもちろんない。人の感情にまるで理解を示さないことがある点は、なかなか致命的な彼の短所だと思う。だが惚れた弱みというやつか、それすらも許容し始めている自分がいる。全くもって、恋とは恐ろしい魔法だ。


 ぱんぱんと頬を叩いて立ち上がると、空腹感があった。時計を見れば正午を過ぎており、なるほど腹も空くわけだと納得する。階段を降りてリビングへ入ると、食卓の上に見覚えのない紙袋が置いてあった。近づいてみると、紙袋の傍に小さなメモが置いてあり、整った字でこのように書かれている。


『妻へ。天文台の知り合いが訪ねてきたので、薬局で話をしている。これは頂いた土産なので、起きてから空腹だったら食べると良い』


 紙袋を開けると、中には瓶が幾つか入っており、取り出してみると鮮やかな色のジャムやコンポートが詰められていた。日差しを受けてきらきらと光る様は一種の芸術品のようである。頂いた礼を言う前に開けるのはどうだろうと思いつつ、空腹が勝ってしまったので、ひとつだけ開けることにした。


 スプーンで小皿の上に果実を何個か掬い上げ、頬張る。胃に沁みるような甘みと程良い酸味。柔らかく煮込んでありつつ、さくさくとした歯触りを残しているリンゴのコンポートは、実に美味であった。その美味しさにしばし呆けてしまったが、これを持ってきてくれた客人はいま、下の薬局でフレデリックと話をしているはずだ。目が覚めた以上、礼を言わないわけにはいかない。夫と話をしているのであれば、紅茶でも出してもてなすのが妻としての仕事だろう。グリューネは小皿を置いて、湯を沸かし始めた。


 いつもよりさらに丁寧に紅茶を淹れ、小ぶりな盆の上に、二人分のカップと菓子を乗せて、グリューネは注意深く階段を降りた。天文台の知り合いとは、どんな人だろう。わざわざあんな書き方をしているのだから、アルブレヒトではないのだろう。突然、こんな小娘が妻だと言って現れて、変に思われないだろうか。そういえば、どうしてフレデリックは自分が眠っていることを知っていたのだろう。


 そんなことを考えながら、薬局の扉をノックしようと手を持ち上げたところで――中の会話が漏れ聞こえてきたのである。


「貴方が好き。愛してるの」


 扉を打つところだった手が、その寸前でぴたりと止まる。にわかに、心臓が早鐘を打ち始めた。聞き間違いでなければ、薬局の中からは知らない女性の声がして、そしてまるで、愛の告白のような言葉を言っていなかったか。聞き間違いであれと思いつつ、グリューネは盆を落とさないように手に力を込め、扉に耳を寄せた。


「ずっと貴方のことを見てた。ずっと貴方だけを想ってた。……でも、諦めなくちゃならないから……」


 どくんどくんと、心臓の音がうるさいほど耳についた。そのくせ、中の人の声は更に鮮明に耳に届いてきた。その女性は今にも泣き出しそうで、必死に訴えるような声で、想い出をくださいと懇願している。その言葉の意味はおそらく想像しているとおりで、言葉をかけられているのは当然フレデリックだ。今、この薬局の中には彼らしかいないのだから。


 ――恋愛小説を読んでいるとき、グリューネは思っていた。どうしてこの主人公は、自分と恋仲の男に言い寄ってくる女にこんなに弱気なのかと。自分だったら絶対ひっぱたいてやるのにと。だが、実際にそのような状況になって、その主人公の気持ちがやっと分かった。


 こんな、こんなことになったら、とても身体が動かないのだ。もしも、その男が受け入れてしまったら。実は自分とのことは遊びで、本当は別の女が好きだったら。割り切ってそういう関係を持つことを良しとする人だったら。その可能性を、少しだって考えないでいられるほど、彼のことを知っていると言い切れるか?

 あの小説の主人公――あんなに真心を込めて愛していると言われていた――ですら、恋人に言い寄ってくる女に対して、この人は私の恋人だと、正面から言うことができないでいたのに、どうやってこの扉を開けることができるだろう。


 できるはずがない。好きだとも、愛しているとも言われたこともないのに、どうやって妻の顔をして、その女性の頬を叩けるだろう。


 扉にかけようとした手は、そこから少しも動かすことができなかった。心臓が痛いほど脈打っていて、頭が回らないくらい熱を持っていて、フレデリックの言葉が聞こえてくるのを、怯えながら待つしかできなかった。


 怖い。彼がもし、彼女の言葉を受け入れてしまったらどうしよう。扉一枚隔てた向こうで、その女性を優しく慰め始めたら。嫌だ。絶対に嫌だ。妻としての立場がどうとか、そういう問題では、もはやない。こんなに心底惚れ込んでる男を、ひとときでも他人のものになんてしたくないという、明確な嫉妬心だ。しかしそれを以てしても、裏切られるかもしれない恐怖を押さえ込んで、この扉を開けることは適わない。そしてとうとう、部屋の中から刑吏の宣告のようなフレデリックの声が聞こえた。


「――想い出、か」


 続く男の言葉は、ここまでの恐怖心を全て杞憂に変えるものであった。彼は徹底的に、女性の願いを撥ね除けた。しかし同時にひどく冷徹に過ぎて、杞憂していたこととは違った角度から、グリューネの心を突き刺した。


 男が言葉を言い終えて、勢いのある足音が扉へ近づいてくる。慌てて身を引いたのと、薬局の扉が開いたのはほぼ同時で――その人と目が合った。


 長くて綺麗な黒い髪。いかにも研究員という役職の似合いそうな、眼鏡をかけた賢そうな大人の女性。そんな人が、大粒の涙を零していた。目が合った瞬間、彼女ははっと目を見開いたが、すぐに奥歯を噛みしめて顔を歪め、横をすり抜けるようにして走って行ってしまった。


 呆然と扉の前で立ち尽くしていると、薬局の中で背を向けていたフレデリックが振り返る。目が合った彼は、本当に稀なくらい驚いた顔をした。互いを認識しながら、何も言い出せない。その不毛さに耐えかねて、先に口を開いたのはグリューネだった。


「お……追いかけ……ないの……?」


 何を言ってるんだろう、と思った。たった今、フレデリックが彼女を拒絶するのを耳にしていたのに、ましてそんなことはして欲しくもないのに、そう彼に問いかけた。彼は一度目を伏せて大きく嘆息してから、静かに口を開いた。


「……彼女を追いかける理由は無い。泣いて走り去る女性がいたとして、俺が追いかけなくてはいけないのは君だけだ」


 それを聞いて、安堵と同時に息が詰まった。この問いかけが、先程まで行われていたやりとりのいくらかを耳にして、ことを確認するためのものだと、男はすぐに察したはずだ。そのうえで、どう答えるのが一番この娘を安心させられるのかということを考えて、今の言葉を返したに違いない。

 グリューネはいよいよ強ばっていた身体から力が抜けて、ゆるやかに膝から崩れ落ちた。幸いと言うべきなのか、低い位置から転がり落ちたティーカップと菓子の皿は、中身を零して音を立てるだけで、割れることは無かった。驚嘆の名残を拭い去れていない顔のまま、フレデリックが近付いてきて、目の前に膝をついた。


「君が心配してるようなことは、無い」

「……本当に?」

「ああ、無い。君が納得するまで、弁明しよう」


 緊張から解放されたせいか、驚くほど静かに涙が目から零れてきた。躊躇いがちに伸べられた手が涙を拭う。ひんやりとした手の感触が心地良かった。


 夫婦だなんて、妻だなんて、形ばかりだ。こんなものは片想いしてるのと何も変わらない。わざわざ言葉にさせなければ、信用することもできない。彼がこうして慰めてくれるのは妻を愛しているからじゃなく、たまたま巡り合わせで妻となったものへ、夫としてすべきことをしているだけ。ここで座り込んでいるのが誰でも、関係は無い。


 フレデリックがあの女性へ向けた言葉に、傷つく必要なんて本当は無いはずだ。それでも彼の言葉が刺さったのは、つまるところあの女性と自分とが、さしたる違いの無い愚か者同士だと気付いてしまったからだ。彼の道理に優しさを見出して、惚れ込んで、自分を見てくれていると勘違いした、愚か者なのだ。立場が逆だったら、きっと自分も同じことをした。いや、もっとひどかったかもしれない。無理矢理、この男を奪ってやろうと手を尽くしたかもしれない。


 おかしな話だ。グリューネには、あの女のことの方がよく分かる気がした。恋をしたら誰も彼も、賢くはいられない。貴族の令嬢だろうが、聡明な研究者だろうが、例外は無い。恋によって愚かになった点で、ふたりの女はよく似ていた。


 恋の苦しみから救われるには、その恋を成就させるしかない。成就させることができないなら、別の方法で終わりを見つけるしか無い。彼女は一時の夢でそれを果たそうとしたけれど、それはどうしても、どうしても許すことはできない。だから、別の方法で諦めてもらうしか、ない。


 偶然だろうと何だろうと、フレデリックの妻は、ただひとりしかいないのだから。

 

「……もし、同じ報酬が手に入るなら、あなたはあの人と結婚したでしょうね」

「……何を、」

「あなたの弁明は、後で聞くわ。わたくし、行ってくるから」


 涙を雑に拭って立ち上がり、扉の方へ歩き出すグリューネの手をフレデリックが掴んだ。困惑の色濃く滲んだ声が問いかける。


「待て、グリューネ。どうして君が――」

「そんなの決まっているでしょう」


 男の手を振り払って――少女は意を決したように顔を上げた。



 きちんと、終わらせなくてはならない。

 自分のために、彼女のために。賢くなんていられない者たちのために。

 誰ひとり報われることのない、この戦争こいを。


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