第12話 あなたのことを知りたくて

 ひんやりとした朝の空気で、グリューネは目を覚ました。

 視界に映ったのは、見慣れてきた年季の入った天井。視界を廻らすと、ベッドが置いてあるのとは反対側の壁に、床から天井までの高さいっぱいに備え付けられた棚に、びっしりと本が並んでいる。半身を起こして、開ききらない目を擦る。昨日の夜はとても頭が痛かったが、今はすっきりとしている。フレデリックが持ってきた薬のおかげだろう。ベッド脇にある小さなナイトテーブルには、硝子の吸飲みが置いたままだ。飲んだ薬の苦さを思い出して、渋面になる。


 ここはグリューネの部屋として、フレデリックが用意した場所だ。元々書架として使っていた部屋で、ベッドが置いてある側の壁の棚にも、反対側と同じように本が入っていた――安全上の理由から全て移動させた――らしい。今はベッドとナイトテーブル、ドレッサー、クローゼットが置いてある、簡素な部屋である。必要な家具があれば買い足そうと言われているが、今のところ不足はない。


 起き上がってドレッサーの鏡を覗き込むと、首筋にぽつぽつと柔らかな新芽が生えてきていた。それらを雑に指で摘んで――柔らかい葉は切ったり抜いたりしてもあまり痛くない――部屋を出る。狭くてやや急な階段に少しだけ気を張りながら降りて、短い廊下の先にある扉を細く開ける。


 扉の先はいわゆるリビングだ。部屋の端には小さなキッチンがあり、そこには既にフレデリックの姿があった。湯の沸く音や、火がぱちぱちと爆ぜる音がしていて、朝食の支度をしてるのだろうと分かる。


「おはよう」


 振り向かないままフレデリックが言うので、思わず飛び跳ねそうなくらい驚いた。しかし声をかけられた以上は無視できない。そのまま彼の背中におはよう、と小さな声で返す。しばらくそうして扉に隠れるようにしていると、とうとう彼が振り向いた。


「今、朝食を用意している。もう少し待っていてくれ」

「……何か、手伝うことは?」


 そう訊ねると、彼は少し悩んでから、温めたパンを皿に乗せて差し出してきた。


「では、パンにバターと蜂蜜を塗る仕事を与えよう」

「全然仕事じゃないじゃない……」


 つまり、特にすることはないということである。グリューネは食卓につき、パンにバターと蜂蜜を塗った。フレデリックの分にも、適当に塗っておく。

 グリューネには家事の経験が無い。できないことはやらなくていい。そうフレデリックは言ったが、さすがに生活のほとんどを、彼に頼り切るわけにはいかない。それは何か、形だけとはいえ妻としての沽券に関わる気がするからだ。とはいえ、今日はさすがに出る幕なしだ。それとなくどこに何があるのかを観察しながら、席で待つことにした。


 竈にかけられている鍋を見ると、鍋の中でひとりでにレードルが動いている。竈の火も、何もしていないのに、勝手に小さくなったりしている。初めて見たときにはぎょっとしたものだが、これらは全て魔法で行っていることだ。どうやっているのか訊ねると、火加減と攪拌を一定の条件下で自動で行うように命令式を組んでいる、とのことだ。説明されても、魔法が使えないグリューネにはピンとこなかった。


 そうこうしているうちに、朝食の支度が整った。バターと蜂蜜がたっぷりと塗られた温かいパン。それから、ほとんど自動で作られた野菜と鶏肉のスープと、フレデリックが炒めていた卵が、それぞれ器に盛られてテーブルの上に並んだ。


「どうぞ」

「……ありがと」


 頂きます、と食前の挨拶をして、卵を掬って口に運んだ。丁寧に炒められた卵はふわふわとしていて甘い。既に何度か作ってもらっているが、この炒り卵が、屋敷を出てから食べたもので一番おいしいとさえ思っていた。屋敷でも同じようなもの――それも料理人が作った――は食べていたけれど、いつも砂を噛むような味がしていた。それほど、あの場所での食事は息が詰まるものだったのだと、今になって改めて実感した。


 ここには、父はいない。妖精令嬢の陰口を言う人も、怯える人もいない。

 ここには――このひとしか、いない。


 顔をあげると、正面に座っているフレデリックと視線がぶつかる。気恥ずかしくなって、ごまかすようにまた卵を頬張る。二人しかいないのだから、向かい合って食事をするのはなんら不自然なことではないが、変に緊張してしまう。


「頭痛は良くなったか」

「ええ。薬が効いたみたい。アルブレヒトに挨拶ができなかったのが、申し訳なかったけど……」

「気にするな。あれはそんな細かいことをいちいち気にしたりしないから」


 そう言いながらパンを囓る彼を見て、どうやらアルブレヒトが親友と言っていたのは本当みたいだとグリューネは思った。一緒に食事をしているときの様子からも、二人が気の置けない関係であることは伝わってきた。出会ってまもなく結婚した妻よりも、フレデリックのことをはるかによく知っているだろう。

 正直なところ、それは少しばかり妬ましい。この嫉妬深い性格は本当に良くない。そういう自覚はあるのだが、どうしても胸の内にチリチリと火花が散るような焦燥を感じてしまうのだ。


 この人のことを知りたい。近しくなりたい。

 恋をしているものにはごくありきたりな、そういった欲求が少女にはあった。


「ねえ、今日は……下の薬局でお仕事をするのでしょ。何か、無いのかしら? 手伝うこととか……」

「手伝う? 君が?」


 ひどく訝しげな確認に――ある程度予想はしていたが――少しむっとしながら、グリューネは返す。

 

「だって、退屈なんですもの。毎日毎日本を読むのもちょっと飽きてきたし、外出は控えろと言われるし……少しくらい、わたくしの退屈を晴らす手助けをしてくれてもいいのではなくて? 旦那様」


 そう詰めると、フレデリックは顎に手を当ててひとつ頷いた。


「君の主張は尤もだ。しかし君は魔法使いではないし、薬の知識も無いだろう。手伝ってもらうとして、精々来た人に茶を出すとか、床に落ちた薬草の屑を掃いて捨てるとか、そんな仕事ばかりになる。楽しさややりがいは、あまり得られない作業だと思うが」

「別にいいわ。ちょうど美味しいお茶の入れ方を勉強したところですからね」

「君がそれで構わないなら、俺に拒否する理由はない。では、食事を終えたら下へ行こうか」


 うんうんと頷いて、グリューネは皿に残っている食事を平らげていく。正面のフレデリックが小さく咳払いをした。笑おうとしたのを誤魔化したように見えたので、少女はそれを見咎めた。


「なによ」

「いや、なんでもないよ」

「なんでもなくないでしょ」


 言いなさい、とグリューネがきつく睨むので、観念したようにフレデリックは口を開いた。


「君は機嫌が良いとき、本当に分かりやすく嬉しそうにする。雑用をそんなに喜ぶと思わなかったから、少し面白かったんだ」


 そう指摘されて少女は白い肌を真っ赤にして押し黙った。退屈なのは本当だし、本を読むのに飽きてきたというのも本当だ。しかし彼女が喜んだ理由としては、退屈を凌ぐ方法を見いだしたことよりも、フレデリックと一緒にいられる時間が増えたことに対してだった。この男が、そういった細かな感情の機微に疎かったおかげで、そこまで看破されるには至らなかったが、自分がそんなに分かりやすく感情を表現していたことを指摘されるのは、やはり恥ずかしい。


 シェーンヴァルトの屋敷にいた頃、特に物心ついてからは、嬉しさ楽しさという感情を表現する機会自体が少なかった。母が亡くなって、そして義兄が屋敷を出て、それは一層少なくなって、自分がどういった時にどういった風に喜んでいるのかさえ、よく分かっていなかった。少なくとも、今は相当に分かりやすく、嬉しさが出てしまっていたようだが――


「そ、そんなに、分かりやすかった……?」


 食器を片付けながら訊ねると、夫は頷いた。まだ先程の面白さを引きずっているのか、心なしか口角が上がっているような気がする。


「そうだな。俺の目から見ても、分かる程度には」


 俺にとってはありがたいことだがと、そう言いながら食器を洗う男の隣に並んで、グリューネは綺麗になった食器を横からひったくる。


「あなたは少しくらい、そのあたりの努力をなさい。ばかりではないのだから」

「君が素直、か……肝に銘じておくよ」


 笑いを堪えているらしい夫の脇腹を、妻は肘で小突きながら――二人は朝食の片付けを済ませたのだった。


***


 フレデリックが経営している薬局は、毎週火曜日と金曜日に開かれている。

 首都ファウゼンには当然医者もいるし、医者の処方する薬も流通している。では、魔法使いが開いている薬局には、どのような人が訪れるのか。その多くは、病名のつかない様々な症状に苦しむ人たちであるという。慢性的な偏頭痛、心当たりのない身体の怠さ、加齢に伴った節々の痛みなど、訪れる人の悩みは様々だ。


 リビングを出て階段を降り、一階の薬局に向かうと、既に扉の前には人が待っていた。杖を握った、腰の曲がった老女である。フレデリックの姿を認めると、老女は口を開いた。


「フレッド先生、おはようございます」

「おはよう。膝の調子はどうだ、お婆さん」

「おかげさまでだいぶ良いですよぉ」

「そうか。では同じ薬を、もう一週間分処方しよう」


 薬局の鍵を開けて、ぞろぞろと薬局の中へ入る。老女を部屋の手前側にある待合のソファに座らせてから、フレデリックはグリューネを連れて部屋の奥へと進む。奥にある作業台の上には乾いた薬草の束や、ラベルのついた小瓶が置いてあり、壁に掛けられたコルクボードに留められたカレンダーには、今日薬を取りに来る予定の人と思われる、名前が書かれている。


「グリューネ、君の仕事だ」


 その言葉と共に、紙袋を渡された。中からは香ばしい良い匂いがしている。薬草を混ぜた茶葉のようだ。


「お婆さんに茶を出してあげてくれ。湯はそこに、道具は右の棚の上から二段目だ」

「は、はい」


 いざ仕事と言われると、適当にはできないという責任感が湧いてきた。棚からティーポットとカップを取り出して湯で予め温めて、茶葉を計る。紙袋には『一人分スプーン一杯、抽出時間三分』と書かれている。ポットと同じ棚に入っていた『三分』と書かれた砂時計をひっくり返して、砂が落ちきってから、カップに茶を注ぐ。それをソーサーに乗せて、ソファに腰掛けた老女の元へ運ぶ。

 先日行った『白やぎ亭』で見た、愛想の良い配膳の係たちのことを思い出した。こういうのは、愛想良くするのが良いのだろう。グリューネはできるだけ笑顔になって、老女の前にカップを差し出した。


「おはようございます、お婆さま。お茶をどうぞ」

「まあ、ありがとうねえ」


 老女はカップを受け取って、ふうふうと少し息を吹きかけて冷ましてから口をつけた。


「ここで頂くお茶はいつもおいしいねえ。はて……お嬢ちゃんは、先生の妹さんかえ?」

「えっと、あの……妻、です……」

「妻」


 繰り返して、老女は目を丸くした。老女に渡す薬を詰め終わったフレデリックがやってきて、付け加えた。


「ああ、紹介が遅くなって申し訳ない。彼女はグリューネ。縁あって先般、俺の妻になった」

「あら……まあ、まあ……」


 老女はこれでもかと目をまん丸に見開いて――まるで珍獣を見るかのように顔を近づけて、グリューネを見つめた。そうしているうちに、再び薬局の扉がノックの後に開かれて、今度は体格の良い若い男がやってきた。


「先生、頼んでいた害虫避けの薬取りに来たぞ――おお、婆さんも来てたのか。……何してんだ?」


 男からすると、馴染みの住民が、馴染みのない少女をまじまじと見ている状況である。老女はぷるぷると小刻みに震えている手を持ち上げて、グリューネを指差しながら言う。


「つ、妻じゃって……」

「妻?」

「この子……先生の、奥さん、じゃって……」


 若い男の視線が少女に向く。どうしていいか分からずグリューネは、とりあえず愛想笑いを浮かべてみた。男は間を置いてから、呆然とした様子で口を開いた。


「先生が結婚……!? しかもこんなちっちぇえ子と……!?」

「ち、ちっちぇえとはなんですか……!」


 男の言葉に反論していると、三度、薬局の扉が開かれた。服の上からでも分かるような、豊満な肢体の女性である。


「センセー、お父ちゃんがまた育毛剤もらってきてって~……アラ、なんかお取り込み中?」

「おい大変だ! このちっちぇえお嬢さんが」

「先生の奥さんなんじゃって」


 打ち合わせでもしていたのかと言いたくなるような、美しく息の合った流れである。女性は数度瞬きをしてから、グリューネの頭のてっぺんから足の先までを舐めるように見渡して、にやりと笑った。


「へえ? センセーったら全然食いついてくれないなと思ってたけど、こういう趣味だったわけね!」

「待ちなさい! い、今聞き捨てならない言葉が聞こえたわ!?」


 四度、薬局の扉が開いて――ほぼ先程と同じような流れが繰り返されている。いよいよ、収拾がつかなくなってきた。こうなっては、人が集まるだけ集まってから説明する方が早いだろう。そう考えたフレデリックは、驚愕する人々に取り囲まれて照れたり、怒ったり、焦ったりしているグリューネに彼らの相手を任せて、必要な薬を用意し始めた。


 こんなに薬局の中が騒がしいのは初めてだ。ある程度、こうした展開になるのは予想していたのだが、想定していた以上に人々は驚いているらしく、そして想定していた以上に、グリューネは振る舞っていた。自分の額に花が咲いていることなんて、おそらく今は意識していないだろう。


 彼女を『化け物』と呼んだ人々の目に、今の彼女はどのように映るだろうか。


 ぼんやりとそんなことを思いながら、一通りの薬を用意し終えたフレデリックは、手を叩いて人々に静かにするよう、呼びかけるのだった。

 

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