第11話 祝杯

 飲食店が並ぶ通りにさしかかり、俄にあたりが賑やかになる。店先で客を呼び込む威勢のいい声や、酔いが回って陽気になった人々が、通りで手を叩いたり踊ったりしている。グリューネは目を盛んにぱちぱちと瞬かせて、その雰囲気に圧倒されているようだった。そのうちに何も言わずにフレデリックの腕を掴み、はぐれないように身を寄せて、人通りの多い道をたどたどしく進んでいく。


 ほどなく、白い山羊の看板が下がった店の前に辿り着いた。その名の通りのここが、『白やぎ亭』である。

 店の扉を開けると、内側に吊られていたベルがカラコロと鳴り響き、店内に来客を知らせる。いらっしゃいませ、と元気の良い挨拶の後に、フレデリックには聞き慣れている、陽気な男の声が聞こえてくる。


「おっ、きたきた。こっちこっち!」


 声の方を見れば、店の角の広いテーブルについた金茶の髪の男が、ひらひらと手を振っている。アルブレヒトである。こういうとき、彼は進んで目立ってくれるので、探しやすくていいなと思う。フレデリックは腕に掴まっている少女を促して、そちらの席へ向かった。その席に近づくと、アルブレヒトが立ち上がって、やや大げさな礼をした。


「どうもはじめまして、グリューネお嬢様。俺はフレデリックの親友、アルブレヒト・ホフマンです。どうぞ、お見知りおきを」


 親友だの大親友だの、フレデリックはなったつもりが実はない――とはいえ世話になっているので、好きに名乗らせている――のだが、良く通る声でそのように名乗る姿は、魔法使いや研究員というよりも役者のようだ。


 対して、そのように挨拶されたグリューネはドレスの裾を少しつまみ上げ、ごく軽く膝を曲げただけの、気軽な礼で応じた。身につくまでに幾度も繰り返したのであろうその動作は優雅ではあるが、あくまでさりげなく、この大衆食堂の雰囲気にさえ良く馴染んで見えた。


「はじめまして、アルブレヒト。ご存じのようだけど、わたくしはグリューネ。フレデリックの妻です。もう貴族の娘ではないから、堅苦しい挨拶は結構よ。どうぞよろしくね」


 その姿に目を瞠って、アルブレヒトは笑いながら手を叩いた。それから自分の席の向かいにある椅子を引いて、夫婦にかけるよう促した。


「これは参った。敬わずにはいられなくなってしまうような、完璧なレディじゃないか。――ささ、何でも好きなものをじゃんじゃん頼んでくれよ、ご両人!」


 グリューネがメニューを眺めている間にも、男二人は手慣れた様子で料理を注文していく。料理人がてきぱきしているのか、それほど待つことなく、様々な料理がテーブルの上に並んだ。バターを乗せたバゲットに、摘みたてのように瑞々しいサラダ。じっくり煮込まれた豆が入ったトマトスープ、岩塩とハーブでじっくり焼いた骨付きの仔羊ラム肉。加えて男たちは酒を注文し、グリューネは林檎のソーダを注文する。木製のジョッキで乾杯すると、その軽く小気味良い音が、祝いの席の雰囲気を盛り上げた。


「お嬢様、お皿を貸してごらん。分けてあげよう」

「ありがとう、アルブレヒト。あなたは屋敷にいた使用人の誰よりも気が利きそう」

「それは光栄だね。必要なお薬があれば是非ご用命を――と言いたいところだが、それはもう間に合ってるもんな」


 会ったばかりだが、グリューネとアルブレヒトが親しくなるのにはさほど時間がかからなかった。何しろアルブレヒトは女子供には特に親切で、しかも人の世話を焼くのが好きな方だ。グリューネは生まれ育ちから、人に世話をされるのがある程度当たり前で生きてきたので、一緒にいると自然と役割が決まるのかもしれない。料理をグリューネの小皿に取り分けながら、アルブレヒトが口を開いた。


「しかしあれだね。俺が晩餐会に行かなかったおかげで、君たちが結婚することになったと思うと不思議な気分だよ。いわば俺が君たちの仲人さんというわけだ」


 極めて俗っぽく言えば、件の晩餐会は天文台の魔法使いたちにとって、出資者パトロン争奪戦ともいえる行事だったのだ。社交的なアルブレヒトが出席していれば、彼らの所属する薬学科は有力な出資者を獲得できた可能性もあっただろう。その代わり、庭園で倒れている妖精令嬢を見つけて、助ける者はきっといなかった。

 あれは争奪戦から早々に脱落ドロップアウトしていた、本来の目的に対して極めて不真面目な男がいたから起きた偶然なのである。そう思うと、本当に些細な偶然が積み重なった結果として、この結婚があった、といえるだろう。


 もしあの日、フレデリックと出会わなければどうなっていただろう。ということを、しばしばグリューネは考える。答えは、どうにもならない。今まで通りの日常が続いていただけだ。あるいはもっと別の形で、伯爵が別の誰かにあの手この手で娘を売り込むことになったかもしれない。


 ひとつ確かなことは、おそらくあの時、あの場所でなければ――妖精令嬢と識欲魔人は、出会うことがなかったのだろうということだ。


「確かに。そういう意味では、お前には感謝すべきかもしれない。ありがとう」

「そのありがとう、素直に受け取って良いか悩むな……なあ、お嬢様?」

「そうね……」


 フレデリックが感謝しているのは、主に件の『禁書』に関する証書に対してである。グリューネとの結婚はいわばそれについてきたオマケのようなもので、いかにフレデリックが結婚生活に真摯に向き合っているとしても、そもそもの動機が自己中心的であったことは否めない。それを当人の目の前で、涼しい顔して話すあたりも、グリューネからすると非常に小憎たらしい。甘酸っぱい炭酸を一息に煽って、コンとジョッキを机に打つ。


「――過程は最悪だったけれど。おかげで今日このように、一緒に楽しく食卓を囲むことができているのだしね。どういたしまして、で良いと思うわ。……すいません、これおかわり頂ける?」

「おお……なんて寛大な人なんだろう。……フレデリック、君……本当に、彼女に感謝した方が良いぞ……」

「勿論。尽くすに値する素晴らしい伴侶だろう」

「下手なお世辞を言っている暇があったら、肉の骨を外してくださるかしら旦那様」

「お安いご用だ」


 そう言って寄せられた皿に乗った仔羊肉の骨を、フレデリックは丁寧に外し始めた。その様子を――酒が入ったのも手伝って――ぶるぶると震えながらアルブレヒトは見ていた。貴族にも、おそらく王族が目の前に出てきたって阿ったりなんかしないだろう男が、幼い妻の言うことを素直に聞いている。これを面白いと言わずにどうしろというのだろうか。天文台の奴らが見たら、一様に目を点にするだろう。人によっては、衝撃を受けて現実逃避を始めてしまうかもしれない。


 それくらいのことを、その男にさせている。そんな自覚があるはずもない少女は、綺麗に骨を外された肉を頬張って、ご機嫌そうにソーダのおかわりを飲んでいる。隣でその様子を見ているフレデリックの顔は常と変わらず色が無いが――不思議とどこか、満足気にも見えた。


「……君が歴代振ってきた振ってきた女子が見たら、ショック死しそうな光景だな……」

?」


 何気なくアルブレヒトが呟いた一言で、穏やかだった卓の空気が、一瞬にして冷えた。あ、と思ったときには既に遅く、据わった目のグリューネはカトラリーを皿に置いた。ナフキンで口元を拭って、次の瞬間には、驚くほど可愛らしい笑顔になって――しかし乗り出してきた半身からは隠しきれない圧が滲み出ている――問いかけてきた。


「アルブレヒト。それは……この男に惚れる女がいた……ということ?」

「ええ……はい、まあ……います、ね……」

「『います』と言った? 今もまだいるのね?」

「言葉狩りだぁ! 助けてくれ、フレッド!」


 フレデリックは肉の骨を外す大仕事を終え、ちびちびと酒に口をつけていた。急に話を振られてきょとんとしている彼に、少女の針のような視線が刺さる。


「あくまで、あくまで形式的な夫婦関係ですけどね。浮気は認めないわよ。そんなことをしようものなら、あなたも相手もただでは済まさないわ」

「……確かにこれまで――それなりにそういった申し出があるにはあったが。これまでに受けたことはないし、まして結婚までしたのだから、これから受けることなどあり得ない。安心してくれ」

「……ちなみに、どれくらい、あったのかしら?」


 急に鋭さを失ってもごもごと問いかけるグリューネの言葉に、フレデリックは視線を宙へ向けたのち瞑目して、指を折り始めた。片手の指が折れたところで少女の顔が曇り、両手の指が全部折れたところで、彼女は男の服の襟元を掴んだ。


「ちょっと、そんなに!? 見栄を張っているならやめなさい今すぐに!」

「いや、正確に数えた。君の倍も生きてるのだから、そう驚く数でもないだろう」


 少女は男の襟を放すとテーブルに突っ伏して、しばらくするとぐすぐすと泣き始めた。


「信じられない……天文台の女たち……趣味が悪すぎるわ……」

「お、おーい、お嬢様?」

「そんな女、のに……」


 ぽつりと呟かれた言葉に、アルブレヒトは目を丸くした。

 だって、それではまるで――取引で結婚することになった男のことを、本当に好いているかのような言葉だったからだ。


「――酒だな」

「え?」


 アルブレヒトの思考を遮るように、淡々とした親友の声が割り込んだ。先程まで少女が機嫌良く煽っていたジョッキの残りを飲み干して、彼は続ける。


「彼女が飲んでいた二杯目、林檎酒シードルが入っていたらしい」

「……」


 突っ伏している少女に、男たちは視線を落とす。さっきまで凄んだり、怒ったり、泣いていた少女はいつの間にか、紅潮した頬でうとうとと微睡んでいた。



***



「ごめんなさいね、見た目がほとんど同じだから他のテーブルのと取り違えちゃって……」


 『白やぎ亭』の配膳係の女性が、ソーダと酒を間違えたことについて、そう言って頭を下げてきた。グリューネが酔っ払ったこと以外は特に害は無かったので、普通に会計を――全部アルブレヒトが支払って――して、店を出た。


 ――嵐みたいな少女だ。アルブレヒトは、親友に背負われて眠っている少女にそんな感想を抱いた。

 喜ぶのも、怒るのも、泣くのも、全てにおいて力一杯で、加減を知らない。確かに言われたとおり、ちょっと怒りっぽい、普通の女の子だった。


「今日はありがとう。彼女も楽しんだと思う」

「どういたしまして。俺も楽しかったよ。……なあ、さっきの、聞こえてた?」


 フレデリックはその問いには答えず、背負った少女に少しだけ視線を向けた。それは慈しむような目でもあり、同時に如何ともしがたい諦観の籠もった目にも見えた。


「俺には、彼女が一番欲しいものは、与えてはやれないだろうと思う」


 曖昧にそんな言葉を残して、フレデリックは軽く手を振り、帰路についた。その背中を見送りながら、アルブレヒトは、少女が呟いた言葉を反芻していた。


「……あんな言葉、本当に惚れてなきゃ、出てこないよな……」


 この結婚は、上手くいっていた。夫婦の関係はほどほど良好で、きっとこれからも豊かな生活が送れるだろうという、希望さえ持てるような。


 だからこそ、彼女の恋は――致命的に見込みがないのだ。

 恋も愛も無くあの男は、ただ道理に従って、夫として彼女に尽くそうというのだから。



***



 帰宅したフレデリックは、背負っていたグリューネをベッドの上に静かに横たえる。十分に気を配ったつもりだが、その揺れで彼女は目を覚ましてしまい、小さく呻いた。


「うー……」

「すまない、起こしたか」

「あたまが……おもいわ……」


 酒を酒とも思わず、調子良く飲んでしまっていたのだからそうだろう。フレデリックはひとつ息をついて、水と悪酔いに効く薬を持ってきてやり、硝子の吸飲みにそれらを入れた。


「薬を持ってきた。とんでもなく苦いが、良く効く」


 苦いと言われてかなり不満そうな顔をしたが、少女は薄く目を開けると、口元に寄せられた吸飲みを咥えて、その苦い薬を全て飲んだ。飲んだ後には、口の中の苦さに呻いていたが、落ち着くといくらか思考が明瞭になったようで、横たわったまま唇を尖らせて、訴えた。


「……さっき言ったこと、本気ですからね。……浮気は許さない、という話よ」

「しないよ。恋人になって欲しいと言ってきた女性たちも、大半は名前もよく知らないような人だ。俺の耳障りの良い評判だけ聞いて鵜呑みにしてしまった、気の早い人だろう。……実際のところ、俺はそれほど異性に好かれる方ではないよ」

「……ほんとう?」


 圧制者のような横暴さと、迷い子のような頼りなさ。相反するようなふたつの顔が、交互に現れる。不安そうな問いかけに、迷いなく男は頷いた。言葉に偽りはないという自信を込めて。その様子にいくらか安心を得たようで、グリューネは小さく息をついた。


「……それならいいの。報酬目当てでプロポーズされたうえに浮気されるだなんて、そんな惨めな思いはごめんですから」

「ごもっともな意見だ。君が余計な心配をしないよう、軽率な行動はとらないよう心がけるとするよ」

「良い心がけね。……じゃあ、わたくし、着替えて休むから、その……」


 もごもごと口籠もりながら、少女は言う。まだ酒は残っているだろうが、立ってひっくり返るほど前後不覚ではなさそうだ。頷いてから立ち上がって、踵を返す。


「ああ、おやすみ。明日は薬局を開ける日だから、朝は少し遅くて良い。ゆっくり休んでくれ」


 フレデリックは妻の部屋を後にして、上階にある自室へと向かった。

 自室の机の上には借りてきたばかりの『禁書』の一冊が置いてある。以前はこの一冊を借りるのに何ヶ月と時間がかかったが、シェーンヴァルト伯爵から賜った証書の効果は絶大である。すぐさま貸し出しの手続きをすることができ、煩わしい時間を省くことができるようになった。

 実に快適だ。満足げに椅子に座り、その本を開く。頁を捲りながら、しかし頭の片隅では本の内容とは無関係のことを考えていた。


 ――妖精令嬢ことグリューネ・シェーンヴァルトが。その仮説は、いくつかある。


 少なくとも、今それを明らかにすることは、何の利益も生まないと分かっていた。それで彼女の体質がどうにかなるものではなく、かえってこの不思議とうまくいっている――ような気がする――結婚生活に、不和を生じかねない。彼女を不安にさせるようなことは、言うべきではないしすべきではない。


 もしこの答えを求めるのなら、信頼関係を築いて、もう少し踏み込むことを許されるようになってから、仮説の空白を埋めていくしかない。


 ――などと、このようなことを、考えてしまう時点で。

 あのように見つめてもらう資格など、きっとありはしないだろう。



※表現上、未成年の飲酒シーンがございましたが、本作品は法律・法令に反する行為を容認・推奨するものではありません。

お酒は二十歳になってから、節度を守って楽しみましょう。

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