第10話 日暮れの散歩
フレデリックの自宅は、平民街の東側の、やや寂れた通りの一角にある。縦に長い建物で、石造りの壁には蔦が這って苔生しており、過ごしてきた長い年月が偲ばれる。周囲の建物と比較しても、かなり古めかしい作りだ。ここはある魔法使いの老女が長らく住んでいた家で、彼女がここを離れるというときに、フレデリックが買い取ったのである。そのため、今でもこの家は近隣の人々から『魔女の家』と呼ばれている。
玄関の扉は二ヶ所ついていて、片方の扉の横には『
その扉は、開けるとすぐに石畳の階段になっている。細長い空間は薄暗いが、扉を開くと自動的に点灯する照明――魔法でそのような動作をするランプだ――を取り付けてあるので、昇降に支障が無い程度の明るさは常に確保できるようになっている。階段を上った先の階からが居住空間で、この二階は居間となっている。
フレデリックが扉を開けるや否や、キッチンから大きな音が聞こえてきた。自然の成り行きでその現場を見に行くと、そこにはぐわんぐわんと音を立てて床に転がっている鉄製の鍋と、しゃがみ込んでいるグリューネの姿がある。どうやら今の音は、鍋を落としたものらしい。
「怪我は?」
「へ、平気よ。音に驚いただけ」
差し伸べられたフレデリックの手は取らず、彼女はひとりでにぱっと立ち上がり、キッチンの棚に置いてあった何かを慌てて――本人はごく自然に振る舞って――隠した。残念ながら、目敏い男はそれが料理の作り方を記した本であることに気付いてしまった。時間的には、そろそろ夕食の支度をするのにちょうど良い頃合いである。
「夕食を作ってくれるところだったのか」
「小腹が空いたから、ちょこっと何かつまめるものを作ろうとしただけよ」
「つまめるものか……その割に随分大きな煮込み鍋を出していたようだが……」
転がった鍋に、視線が向かう。煮込み料理に使うのに最適な、厚みのある鉄鋳物の両手鍋だ。フレデリックが自分で料理するときは、火加減も煮込み時間も魔法で制御してしまうので、材料を入れて放っておける煮込み料理が一番楽だったりするのだが、そうでなければ一般に煮込み料理は、どちらかというと手間がかかるし、少量を作るのは効率が良くない。ちょこっと何かつまみたいときに、適しているかと言われると疑問の残る選択である。
「う、うるさいわね。小さな鍋が、見当たらなかったのよ」
グリューネはつんとそっぽを向いてしまった。真珠色の髪が揺れて、微かに甘い香りがした。彼女の額に咲いている花の香りだ。
嗅覚というのは案外繊細で、憶えのない香りが家の中ですることに、はじめは些か落ちつかなさがあったのだが、ようやく慣れてきて、穏やかな心地になる良い香りだなと思うようになってきた。残念ながら、その花を育んでいる当人の気性までは穏やかにならないようだと、むくれている少女の横顔に内心苦笑する。
結婚してから、一週間ほどが経っていた。しばらく一緒に過ごしてみて分かったが、グリューネという娘は少し怒りっぽくて、そして存外真面目な性格らしい。フレデリックが、出来ないことはしなくていいと言ったのは、嫌味などではなく本心からなのだが、彼女はそれに対して何らかの感情――共同生活を送る上での義務感、あるいは妻としての沽券など――から、出来ないことだからしない、ということに抵抗があるようなのだ。
そのせいなのか、ここ数日隠れて料理に挑戦している。別に隠れなくても、本人がやる気でいるのなら黙って見守るし、必要なら手を貸しもするし、どんな珍妙な料理を食卓に並べられようと食べきるつもりでいる。しかし隠れて料理を練習しようとしていることにもまた、何か推し量れない感情があるのだろう。フレデリックは転がった鍋を――もう少し取り回しの容易な鍋を用意しようと思いながら――拾い上げ、グリューネに言った。
「折角で悪いんだが、今日の夕食は外に食べに行かないか」
「外へ?」
「友人が、俺たちの結婚を祝いたいのだそうだ。酒も出している店なのでやかましいが、料理は旨い。ここからだと、少し街中を歩くことになるが」
どうだろうか、と確認するまでもなく、目に見えて彼女は顔を輝かせた。初めて会ったときは、重く暗い影を背負ったような雰囲気だったが、今の彼女は忙しないくらい、くるくると表情を変える。――化け物などと疎まれて育たなければ、さぞ明るくお転婆な令嬢だっただろうと、容易に想像がつくほどに。
「ええ、ええ、構わないわよ。そのお友達というのは、どんな人?」
「アルブレヒトと言って、同じ薬学科にいる、調子が良くて親切な男だ。俺たちの事情は概ね知っているし、君が『妖精令嬢』と呼ばれていることも知っている」
一瞬前まで輝いていた少女の顔に、不安そうな影が過った。『妖精令嬢』の知名度はフレデリックが思っていたよりも高いようで、平民街の者ですら結構な割合の人間が、『妖精令嬢ことグリューネ・シェーンヴァルトは、奇怪な体質を持つ娘である』と知っているのだ。ただ、平民街の人間は、彼女が奇怪な姿になったところを直接目にしてはいないので、噂話程度に留まっている。日常の会話で話題にのぼることは、ほとんど無い。
他人のことに無関心なフレデリックは
「心配ない。彼は君の体質についても承知しているし、万が一のことがあっても、君に心無い言葉を浴びせたりはしないよ」
「……そ。まあ、何か言われたところで、別になんともないけれどね」
そう言いながらも、グリューネは額の右端に咲いている花の根元を隠すように、髪を触った。こうしているとき、大体彼女の言葉は強がりである。彼女は奇異や悪意の視線に敏感だ。フレデリックは逆にそういうものに鈍感すぎる方だから、常よりも気を配る必要があった。
「それなら、早く行きましょう。あんまり待たせることになったら失礼でしょう?」
そう言いながらも、おそらくは自分が早く外へ出たくてたまらない様子のグリューネは、いそいそと外出用の外套を羽織って催促してくる。頷いて、フレデリックも外出の支度を整えた。
***
「近頃、体調はどうだ?」
自宅のある通りは住宅が多いため、日没からは比較的人通りが少ない。薄暗くなり、あちらこちらで街頭が灯り始めた道を進みながら、フレデリックは訊ねた。前を歩きながらそこら中をきょろきょろと見回していたグリューネは、その問いに顔を渋くする。
「まったく問題ありません。今朝も言ったけど、ちょっと過保護すぎないかしら? ……あなたが考えてくれた方法のおかげで、良くなったのよ」
生えてきた花を全て切り落とすのではなく、あえて残しておくという方法。晩餐会の日に、フレデリックが提案したものだ。彼女の右の額上部に咲いているのは、あの日に生えてきたものだ。あれから特別大きく育ったりはしていないようだが、十分にエネルギーを得ているのか、色鮮やかで瑞々しいままだ。実際、シェーンヴァルト家の侍従に訊ねたときも、彼女は元気だということだったから、この方法に一定の効果があるということは間違い無いのだろう。
「空耳のほうは相変わらずだけれど……」
「空耳?」
無意識に漏れ出た言葉だったのか、あ、とグリューネが失敗したというような顔をした。もちろんそれを聞き逃すような愚を、この男が犯すはずはなかった。これは彼女の体質を解き明かすのに、重要な情報になり得るからだ。
「何が聞こえるんだ」
「……はっきりと名前を呼ばれたように聞こえるときもあるし、ぼんやりと何か聞こえただけのような気がする日もあるわ」
「それも、昔からか?」
「……そうよ。でも、それとこれとは、関係無いの。発作が起きた日も、そうでない日も、聞こえたり聞こえなかったりだもの。何か別の……違う病気よ、きっと」
観念したようにそう言い切って、グリューネは俯いてしまった。
彼女はこれまで、この空耳のことをほとんどの人に隠していたに違いない。その理由など、聞くまでもない。ただでさえ、他に例の無いような体質を持ち、時に化け物などと罵られるような娘が、挙げ句の果てに正体不明の空耳まで聞こえるとなると、人々が彼女を一層気味悪く思うであろうことは、想像に難くないからだ。
街灯が彼女の髪を照らしている。月の光を集めたように白く輝いている髪と対照的に、額に咲いた花は鮮やかに赤く、そして俯いた顔には濃い影が落ちている。
「……フレデリック。わたくしはやっぱり、おかしいの? わたくしは、」
その先を言おうとした彼女を、フレデリックは片腕で抱き寄せる。少女の華奢な身体は簡単に腕の中に収まってしまった。驚いて言葉を止めた少女に言葉を投げる。
「君がその先を言ってはいけない。そうなりたくないのなら」
「……どうしてあなたは、わたくしがそうじゃないと言えるの?」
「前にも言った通りだ。俺の目には、君のような少女がそのように見えたりはしない」
この言葉は、決して嘘ではない。
化け物と呼ばれるべき存在はもっと他にいることを、知っているから――。
細い腕が、しがみ付くように背中に回されるのを感じた。グリューネはフレデリックの胸に顔を埋めるようにして、小さな声で呟く。
「……空耳のことは、まだ内緒にしておいて。お友達にも、誰にもよ」
「分かった。だが、聞こえたときは必ず教えて欲しい。君の体質を知るのに必要なことだから」
腕の中で、小さな頭がひとつ頷いた。この娘の、こうしたときの素直さは好ましい――いつもこうだともっとありがたいが――と、フレデリックは思っていた。
そのまま頭をしばらく撫でてやっていると、胸の内に何か、懐かしい感情が湧き起こった。これは、なんだろうか。手触りの良い髪の感触に、憶えがあるような気がしている。これはなんだっただろう。その追憶の糸を手繰っていると、そのうちに、俯いていた頭が少し、上向きになった。湖面のような緑青の瞳は何かを訴えるようで、頬には赤みが差している。
「……これ、わざとしてるの?」
「これとは?」
「……もういいわ。はあ~……馬鹿みたい……」
するりと腕の中から抜け出して、グリューネは再び、道を歩き出した。
何が馬鹿みたいなのか、多分聞かない方が良いのだろうと思いながらフレデリックは、夜風に漂う甘い香りの後を追うのだった。
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