二章 識欲魔人

第9話 識欲魔人

 『王立天文台シュテルンヴァーテ 研究員および研修生における規則集』


 一、王立天文台(以下、天文台)に所属する研究員は、常時『輝く五芒星勲章ペンタグラム』を携行することを義務づける。

 自身および相手の身分の如何に拘わらず、求めがある際には必ず『輝く五芒星勲章』の提示と共に、自らの所属・在籍番号を開示しなくてはならない。


 一、市街地および公営街道での、戦闘行為または攻性魔法の使用を固く禁ずる。

 この規則に抵触した場合、貴族院および天文台から選抜される査問委員会において、該当事由を虚偽無く申告しなくてはならない。同査問委員会は、申告をもとに厳正なる協議を行い、適切な処分を決定する。


 申告に虚偽がある、あるいは該当事由が特に悪質であると判断される場合、王国法に則った刑罰を与える可能性がある。


 一部抜粋。


***


 薬学科の『識欲しきよく魔人』こと、フレデリック・ロバーツの結婚は、王立天文台シュテルンヴァーテを震撼させた。常に研究室の机にびっしりと本を積み上げ、声をかけることすら憚られるようなその男の人間関係は、天文台では少しばかり有名だった。


 彼はこれまで学府内の、どんなに目が覚めるような美女が言い寄っても、どんな機知に富んだ才女が想いを寄せても、決して交際をしてこなかった。女性に興味がない――どころか、おおよその人間に、興味がないと思われた。彼が目を向けるのは古今東西の知識が記された書物だけ。それが、ある種の常識として罷り通る程度には、彼は他人に関心を向けないのだ。


 それが突然――結婚である。

 交際すらも飛び越えて、いきなりそんなことをしでかす突拍子の無さが、いっそ余人ならざる彼らしいとも言えばそうかもしれない。とにかく彼を知るものたちは、結婚相手が十五歳の貴族の令嬢だということも相まって、それはそれは驚嘆した。


 あるものは上手いこと出資先に取り入ったのだろうと考えたし、またあるものは、なるほど彼は同年代の女性に興味が無かったのだと納得したものもいる。しかし基本的に自分たちの研究が最優先の魔法使いたちの関心は、結婚した当人からもその相手からも離れ、すぐにあるべき場所に戻っていった。

 今はただ、あの『識欲魔人』がめでたいことに結婚した、という事実だけが、周知されている。


「やあ、おめでとうフレデリック。結婚したんだって?」

「ああ、ありがとう」


 似たようなやりとりを幾人もと繰り返してうんざりしているかと思ったが、意外にもフレデリックは、そうして声をかけてくる者たちひとりひとりに感謝の言葉を返していた。


「なあ、実際どうなんだ『妖精令嬢』は」


 そう訊ねたのは、自称親友のアルブレヒト・ホフマンである。読んでいた本から一瞬視線をあげて、フレデリックは問い返した。


「どう、とは?」

「ひどい癇癪持ちだってことでも有名だっただろ、彼女」

「そうなのか」

「いや、なんで君が知らないんだよ……」


 相変わらず、というかなんというか。フレデリックは自分が結婚した相手に対しても、興味は薄く淡泊な反応を示した。アルブレヒトは、シェーンヴァルト伯爵がフレデリックを訪ねてきたことを知っているので――他の学科の者は、知らないものも多いらしい――その流れで彼と伯爵の取引のことを聞いている。そのためアルブレヒトは、妖精令嬢にやや同情的だった。この親友が、取引のために結婚した女性に対し、心を砕いたりすることはあり得ないだろうと思っていたからだ。しかし、ややあってからフレデリックは本のページを捲りながらこのように口にした。


「確かに、彼女は多少怒りっぽい。だが別に癇癪を起こしているわけじゃない。ただ、人より遙かに神経質なんだろう」


 フレデリックが言うには、彼女は身体から植物が生えたとき、その植物のひとつひとつにまで、のだそうだ。だから麻酔を打たずに切れば痛みを伴うし、生えてきた植物が伸びれば伸びるほど、自分の身体そのものと離れたところにまで自身の五感が及ぶ羽目になる。


「性格的なものじゃなく、物理的にってことか。でもその状態がいつもじゃないんだろう?」

「知覚する範囲の爆発的な拡張と収縮を繰り返すうちに、彼女自身も過敏になったんだろう。幻肢痛のようなものかもしれない」


 四肢を切断した患者が、無いはずの腕や足の痛みを訴える、という症状が幻肢痛である。妖精令嬢が、本来ならば切断したはずの花や蔓が知覚するような範囲にまで、過敏に神経を尖らせているのだとすれば、なるほど当てはまりそうな話ではある。


「彼女自身は、植物が生えてくるのを制御できない。いつそれが生えてきて激痛が起きるか、拡張された感覚から不快な刺激を受け取るか、分からないまま生活している。そんな状態が、物心ついたときからだ。苛立ちもするだろう。つまり逆を言えば、その症状さえ抑えられれば、彼女は至ってごく普通の、気難しい年頃の少女でしかないということだ」


 淀みなくそう話す間にも、フレデリックは本から視線を動かすことなくそれを読み進めていた。アルブレヒトは、意外に思った。自分の伴侶にさえ興味が無いと思っていた男は、想像していたよりかは遙かに彼女の体質や性質について、一度の知見から様々な考察をしていたらしい。化け物と呼ばれるような体質を持って生まれて、そのために人から距離を置かれ、歪な育ち方をしてきただろう妖精令嬢を、普通の少女だなんて、世間の人はなかなか言えないだろう。


 これには親友として、嬉しいという気持ちがあった。彼の、他人に興味がなさ過ぎるところも個性だと割り切ってはいるが、あまりにも孤高なあり方を、内心では心配もしていたからだ。フレデリックは他人に興味が無いし、必要以上に共にいることもしない。けれど別に、人付き合いそのものを忌避しているわけではない。誤解されているが、彼は声をかけられれば、本を読んでいたってきちんと応じるのだ。決して他人や世俗を、疎んでいるわけではない。


 そのうえで――ひとりでいようとしている。それが彼の道理だとでも言うように。だから、お節介だとは思いつつも、なおのこと気がかりだった。

 自称親友の内心の安堵は知らず、フレデリックはああ、と呟いて、読んでいた本を閉じてから付け加えた。


「ただ、彼女の思考回路自体はよく分からない。怒っていたかと思えば、急に泣きそうになるときもあるし、はきはきと捲し立てていたかと思えば、とても些細なことで口籠もったりする。俺と彼女に、共通項などあるはずもないから、理解するのにある程度困難が伴うとは思っていたが、想像以上だ」


 堪らず、アルブレヒトは吹き出した。まさか、あのフレデリックが、知識の探求にしか興味が無いと思われているような男が、十五歳の女の子に振り回されていると思ったら、面白くて仕方が無い。しかも大真面目にそれを悩んでいる風なのだ。面白いので、もう少し突っ込んでみようという気になった。


「怒られてるのか、旦那様は」

「今朝、いちいち過保護だと怒られた。だがそれは、ある程度仕方の無いことだ。彼女は結婚したとはいえまだ子供で、俺は夫であると同時に年長者なのだから、同居している彼女を保護する義務がある。そう思うだろう?」

「うん……うん……そうだね」


 曰く、発作とそれに伴う植物の繁茂が起きる条件がまだ分からないので、自分のいないときに外を出歩かないようにと、彼女に言ったらしい。

 彼が年少者――それも身の振り方も自身で決められないような歳――と一緒に生活をしたらどうなるか。あり得なさすぎて、その仮定はこれまで誰もしなかったであろうが、仮に、もしも、そうなったとしたら、彼が彼の考える道理に則って行動する場合、確かに過保護と思われるような行動をとりかねないのだ。


 これはまるで、緻密に組み上げた高度な仕組みプログラムが、一周回って想定外のおかしな挙動をしているのを見るときのようだ。彼は十五も歳の離れた妻に少しも女性的な、異性としての魅力を感じてはいないのだろうが、そのくせ過保護だと怒られるくらいには、彼女を保護して、大切に扱おうとしているらしい。


「家にいても退屈しないように、彼女でも読めそうなものを厳選して、部屋に運んでおいたのだが」

「君以外の生き物は、何日も何日も本を読むだけの日常を送るっていうことはしないと思うな……」


 その言葉に信じられないというような顔をするフレデリックに、笑いが収まってきたアルブレヒトは言う。


「そうだ。結婚のお祝いに、お嬢様も呼んでぱーっとやらないかい? 俺が奢るからさ」

「お前の口から『奢る』なんて言葉が出てきたのは実に二年九ヶ月ぶりだが、大丈夫なのか?」

「門出のときに、遠慮するなよ。君が一緒にいるんなら、彼女も外に出たっていいだろ?」


 なるほど、とフレデリックは頷いた。どのみち、よく顔を合わせるような面々には、妻のことを紹介する必要があると彼も考えていたらしく、三人で食事に行こうということになった。勝手に決めてしまって大丈夫だったかとアルブレヒトは思ったが、フレデリックが問題ないというので、そこは彼を信じることにした。お嬢様は平民街に興味津々だから、外で食事をすると言ったら喜ぶだろうとのことだ。

 それならなおさら、気軽に外出できないのは気の毒だと思うが、彼女の身体のことを考えると、無責任に外出させられないというのも理解できるので、難しいところだ。


「……でも実際、お嬢様のその体質ってなんなんだろうな? 少なくとも俺は、同じような事例は聞いたことがないよ」

「……さあな。非常に特殊な体質だ、ということは確かだが」


 そんな話をしていると、不意に研究室の扉が開いた。扉から入ってきたのは長い黒髪の女性で、知性を宿した涼やかな目が、眼鏡の奥から覗いている。天文科のマイヤ・ニッコラだ。


「失礼します。ハインツェル教授はいらっしゃる?」

「やあ、マイヤ。残念ながら、ここにはおられないよ。喫茶室じゃないかな?」

「そう。ありがとう、アルブレヒト」


 マイヤはそう礼を言ってから、ややぎこちない動きでフレデリックの方へ向き直った。


「フレデリック……あなた、結婚したと聞いたけど」

「ああ。縁あってこの度、ありがたくも妻を迎えることになった」

「……本当、なんだ……」


 このやりとりを見ていたアルブレヒトは、おや、と思った。マイヤは丁寧な振る舞いの善人ではあるが、あまり他人の動向を気にしないという点では、この識欲魔人と似ていると言えた。その彼女が、こんなにも歯切れ悪くフレデリックの結婚について触れ、落胆したように声を落としている。極めつけに、彼女は固い笑顔でこう続けた。


「……おめでとう。今度、奥様にも、挨拶をさせてね」

「ありがとう。少しばかり気難しい子だが、よろしく頼む」


 会話を終えて、マイヤは逃げるように、足早に研究室を出て行った。彼女の足音が完全に聞こえなくなってから、さらに小声でアルブレヒトは隣の親友に問いかけた。


「……なあ。君、マイヤとはどういう関わりがあったんだっけ?」

「三年くらい前か、少しだけ彼女の論文の手伝いをした。俺が書いた天文学の論文から参照したい箇所があると言われて、その部分についての解説と補足をした程度だが。それから何度か、意見を聞きたいと言われて話をしたことがある」

「ふ、ふーん……そうか……」


 もしかして、いやもしかしなくても、マイヤはこの男に惚れているんじゃないだろうか。しかも、結構な長い期間、それを心にしまい込んでいたのではないか。そう、アルブレヒトは思ったのだ。親友の様子を見るに、彼はそんな可能性を砂粒ひとつほども考えていなさそうである。

 仮にそうだとしたら、マイヤには気の毒だと言わざるを得ない話ではある。密かに想い続けていた相手が、突然現れた女と結婚、それも身分が遙かに自分よりも上の、いわく付きの令嬢ときている。果たして、マイヤはどんな気持ちで、先刻彼に祝福の言葉を述べたのだろう。


「アルブレヒト」

「んっ? ごめん、ちょっとぼっとしてた」

「先程の食事の話だが、『白やぎ亭』でいいだろうか」

「ああ、あそこか。構わないけど、君の家から遠くないか?」

「問題無い。……少し、散歩がてら向かおうと思う」


 どうやら、外出を禁止してお嬢様の不興を買ったことを気にしているらしい。珍しく神妙な面持ちで言うので、やはりちょっと面白くて、同時に、意外と健気な男だなと思った。


 ――彼女は俺が一番必要としているものを与えてくれた。だから、俺も彼女に必要なものを可能な限り与えたいと思っている。


 結婚を決めたという話を聞いたとき、フレデリックはそのように言っていた。一番必要としているもの。それは『禁書』を自由に読み漁ることができる権利。彼にとって、確かにこれほど価値があり、魅力的なものは存在しないと言っても過言ではない。彼の妻となった令嬢が、たまたまその権利を持つ貴族の娘であったという偶然が、孤高の識欲魔人を健気な夫にした。


 偶然、だとしてもだ。

 きっとこんな偶然でもなければ、彼が誰かの夫になど、誰かを妻になどしなかったと思うのだ。

 はじめは彼のその言葉を、言葉通りに捉えていた。例えば快適な住居。例えば毎日の食事。そんな当たり前の、生きるために必要なものを与えるだけのことなのだと思っていた。けれど思った以上にフレデリックは、妻となったその人が、満たされることを考えているらしかった。


 思いのほか、この結婚は上手くいっているのかもしれない。


 親友と名乗る以上、アルブレヒトは願っているのだ。

 この孤高の男が、誰かと幸せになることを。

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