第8話 病めるときも、健やかなるときも
屋敷を出るまでの間、二人は祝福の言葉と嫌悪の視線とを浴び続けることになった。フレデリックはどちらも気に留めた様子無く、淀みなく歩いて行く。対してグリューネは、彼に突き刺さる視線が代わりに刺さったように、身を強ばらせていた。彼女は人一倍、悪感情に敏感だった。足が竦んで、手を繋いでいなければ、置いていかれてしまいそうだ。
悪意が満ちている。自分に向けられていた、化け物を忌避する視線によく似ていた。今すぐ、そんな目で見るなと叫びたかった。彼はそんな人ではないと叫びたかった。けれど繋いだ手は言外に、そんなものに構うなと前へ前へと手を引き続ける。ずきずきと、額に咲いた花の根が痛むような気がした。
屋敷を出て、敷地を一歩出た瞬間に――耐えかねて、グリューネは繋いでいた手を振り払って叫んだ。
「どうして何も言わないの!」
「何もとは?」
「好き放題言われて、どうして何も、言い返さないの! あんなの、本当のことじゃないのに……!」
怒髪天を衝く勢いの少女に対して、あまりにもその男は冷静だった。
「言い返す必要が無いからだ。彼らとはこの先、ほとんど関わり合いが無いし、生活圏も異なる。あの屋敷の中で噂されようと貴族街で噂されようと、俺たちの生活にはなんら影響を及ぼさない。いちいち付き合うのは無駄な労力を使うだけだろう」
彼の言うことは、全く正しい。正しすぎるくらいの正論だ。
だが、グリューネは許せなかった。フレデリックという男に許しがたい感情はある。けれどそれ以上に、彼に感謝がある。あの日助けてもらったこと。化け物めいた姿を抱き上げてもらったこと。他の誰も、そんなことをしてくれはしなかった。手を伸ばしても掴んではくれなかった。彼らの言う悪辣な魔法使いだけが、化け物を助けてくれたのだ。それはこの先どんなことがあっても揺らぐことのない、彼への信頼だ。
食いしばった歯が音を立てて軋むようだ。視界がぐしゃぐしゃに歪んでいる。
一番、腹立たしいのは。これほどの怒りを以てしても、あの場で彼の手を振りほどいて叫べなかった、自身の弱さだった。守るべき名誉を守れない、弱い自分だった。
グリューネが泣き出したことに気付いて、男は少し驚いたようだった。
「……不快な思いをさせてしまったことは謝る。とにかく、君は気に病まなくていいんだ。当事者の俺が気にしていないのに、君が気にする道理はない」
道理。彼の好きな言葉らしかった。彼らしい言葉だ。彼は常に、正しい道理に従っている。敬虔な信徒のように、その道理を守っている。だから化け物だって助けてくれたし、伯爵の企みを詳らかにしてくれた。目的のために利用した小娘に、不自由にはさせないと約束してくれた。
けれど、彼に譲れないものがあるように。少女にも、譲れないものは、ある。
「……いいえ、いいえ。それは、できないわ。無理な相談よ。自分にとって大切な恩人が、ありもしないことで罵られているのを聞いて、黙っていろというの? 知らぬ存ぜぬをしろって? 冗談じゃない」
一度発し始めたら、堰を切ったように後から後から言葉が出てきた。それと一緒に、ぼろぼろと涙が零れてくる。
「わたくしは、嫌なの! わたくしが嫌なの! あなたの言葉で言うと、それはわたくしの道理では許せないことなの!」
子供の我が儘のようなグリューネの叫びを、呆気にとられて男は聞いていた。言いたいことを言い切ると、いよいよ彼女は躊躇わなくなり、声をあげて泣き始めた。それもしばし呆然と見ていた男であったが、やがて躊躇いがちに手を伸ばして、少女のぐしゃぐしゃな顔を拭ってやった。彼女がその手を拒むことはなかった。泣き声が大人しくなってきた頃、男は思案するような素振りで、ゆっくりと口を開いた。
「……難しいな……早速躓いた心地だ」
「っ……なにがよぉ……」
「いや、こちらの話だ。そうだな……とにかく、君は気にしないでくれ、としか……」
「わたくしの言ったこと聞いていた!?」
堂々巡りの回答をする男に、噛みつくように少女は怒った。怒りを宥めるように彼女の頭を撫でながら、男は続けた。
「ちゃんと聞いていた。君は、俺のために怒ってくれたんだろう」
グリューネは数秒、時間が止まったように表情も動作も硬直させたが、ややあってからそっぽを向いて小声で呟いた。
「そ――そういうわけじゃ……いえ、そう……そうなんだけど……」
いざ彼のためなどと口にすると、どうしても否定したい気持ちが一緒に湧いてくる。こんなに天邪鬼だった覚えはないのだが、フレデリックのことになると、どうにも口と思考とが同じ方針をとってくれない。彼女の様子を微笑ましく思ったのか、フレデリックは可笑しそうに笑った。
「君がそのように思っているとは思わなかったんだ。むしろ、俺などいくらでも罵られろと思っているくらいかと思っていた。君は性格が悪いらしいからな」
「う……」
その言い方の方が、よほど性格が悪い――男は意地の悪い笑みを浮かべ、少女が言い淀んで沈黙してしまってから、再度言った。
「気にかけてくれてありがとう。――だが、その上でやはり、気にしないでくれ。君の思いやりを無下にするようで心苦しいが、本当に俺は気にしていないんだ」
その回答に、グリューネは不服そうに膨れる。男はさらに付け加えた。
「俺が何を思って行動したのか、君が分かっていてくれさえすれば、それでいい」
膨れっ面の少女はしばしそのまま黙っていたが、そのうちに大きく息をついた。全身から空気が抜けたような脱力感がある。
「……今回は、そういうことにしてあげる。でも、わたくしがそれを許せないのだということは、よーく覚えておいて」
「分かった」
「あなたのことをボロボロに罵っていいのは、このような仕打ちを受けたわたくしだけなんだから」
「……そうだな、違いない」
「笑わないで! 真面目に言っているのよ」
顔を背けて肩を震わせている男を、少女は咎めた。しかしそのうちに自分もおかしくなってきて、少女も一緒になって笑ってしまった。
おかしかった。おかしくて、腹の底から笑った。
おかしかった。幸せとは程遠い結婚のはずなのに、不思議とうまくやれるような、そんな気がしている。
ひとしきり笑ったあと、どちらからともなく手を差し出して歩き出した。ご機嫌に、グリューネは鼻歌すら歌っていた。街路の階段を下へ下へ、貴族の邸宅が並ぶ『貴族街』を抜けて『平民街』へ向かう。途中、フレデリックが声をかけた。
「そうだ、グリューネ」
「!」
「君を連れて行きたい場所がある。こちらから行こう」
急に名前を呼ばれて、グリューネは頭が真っ白になった。もう令嬢では無い――どころか妻になったのだから、名前になんの敬称も付属語も必要ではないだろう。これからいくらでもそう呼ばれるのだろうに、名前を呼ばれたことを反芻しながら、フレデリックの案内に従った。
着いたところは、首都ファウゼンの東端。中心部と違い人家も商店も少なく、高地の貴族街から低地の平民街へ真っ直ぐ繋がる、長い長い石畳の階段がある。その途中のひらけた踊り場で、フレデリックは立ち止まった。
「ここだ。ここからだと、平民街が一望できる」
バルコニーから見下ろしていた、平民街。住宅と商店が入り交じって、いろんな色や形の屋根が連なっている。貴族街とは違う賑やかな印象だ。この街のどこかにあの人がいるのだと思いながら、遠くてとても触れられないその場所に、思いを馳せていた。
それが、今はこんなに近くにある。
「屋敷の部屋から見るより、ずっと近いわ。……なんだか変な感じ」
「平民街は貴族街と違って階段は多いし、綺麗に舗装された道ばかりじゃないが、住み心地はなかなかだ。首都だけあって、人、物品、あらゆるものの流れが多い。市場はいつ訪れても賑やかだし、月末に開かれる蚤の市ではなかなかお目にかかれない古書なんかが並ぶこともある」
街を見下ろして、そのように説明している男の横顔を眺める。
変な感じだ。きっともう、関わることは無いと思っていた。あの日の恋は、一生じわじわと燻ったまま終わるのだと思っていたのに。
――こんなに近くに、あなたがいる。
男が言葉を言い切ると、沈黙が流れた。珍しく、男はその先の言葉を丁寧に選ぶように、再度口を開いた。
「……君が紙切れと呼んだものは、俺にとって他のあらゆるものに替え難い、とても意味のあるものだ。君がいなければ、手にすることは無かっただろうと思っている。だから俺の方こそ、君に感謝しているんだ」
フレデリックが向き直り、手を差し出す。これまでの流れから、グリューネが自分の手をそれに重ねると、彼は懐から小さな指輪を取り出して、少女の薬指に嵌めた。
「誤解しているかもしれないから、言っておく――病めるときも、健やかなるときも、君が思っているよりも、俺は君の味方のつもりだ。ここには神も、列席した証人もいないが、他ならぬ君にそれ誓おう」
さすがに、このような準備があるとは思っていなかった。だって、形だけの結婚のはずだ。グリューネは手を中空に翳して、指に嵌められた銀色の輪をまじまじと眺める。
じわじわと、結婚というものの実感が訪れていた。過程には本当に許し難い出来事があったが、結果としては憎からぬ――むしろ好ましいくらいだが認めたくは無い――男と、夫婦として一緒に暮らすのだ。急に、様々な不安が去来してくる。これまで、身の回りのことはほとんど使用人がやっていたのだ。元令嬢の自活能力は、無いに等しい。妻としての役割のほとんどを、満足にこなせる気はまるでしていなかった。
「……わたくし、家事とか、できないわよ」
「できないことは無理にやらなくていい。俺は身の回りのことはひとりでできる。こだわりが無いなら、君の分も一緒に食事を用意するし、立ち入って構わないなら部屋の掃除もやろう」
彼の方針としては、共同生活は適材適所、やれるほうがやれることをやればいいとのことだ。世間一般のように、妻だから、夫だからという理由で役割を押しつけるつもりは無いらしい。しかしフレデリックはひとつだけ、手を顎に当てて思案し、あることを勧めてきた。
「ああ、洗濯は覚えた方がいいかもしれない。脱いだ服や下着を俺に触られたくないのなら。俺の方は別に、それでも構わないが……」
「そ、それはさすがに構いなさいよ! わたくしのこと、何だと思ってるの……!」
「娘というには歳が近いが、妹というには歳の離れている妻、かな」
顔を赤くして怒っていたグリューネだが、それを聞いて、そういえば彼の歳を知らないのだと思い出した。結構離れている、というのはそれとなく感じているが――
「……フレデリック、そういえばあなた、
「今年で三十になった」
「……じゃあつまりあなた……十五も年下の小娘に一目惚れして求婚したことになってるの……?」
グリューネは、十五歳だ。つまり、今だと彼は倍の歳ということである。その事実だけを並べて見るとなかなか衝撃的だった。貴族同士の結婚ではかなり歳の差がある例もあるが、近年は歳の近いもの同士で引き合わせるようになってきているらしい。これが平民の場合はその傾向はより顕著だ。平民は見合いをして結婚するよりも、恋愛から結婚に繋がることが多いので、自然、歳が近い夫婦が多くなる。今の二人の状況はなかなか特殊だといえた。
「そうなるな。三年ほどもすれば君も成人するし、そのくらいの年齢差は些事になるだろう」
男は相変わらず、大した問題じゃないという風に淡々と答えた。なんだか様々な謂れのない風評が立ってしまいそうだが、たとえそうなったとしても、グリューネはともかくこの男は気にしないだろう。それだけが、救いと言えば救いだろうか。
今度はグリューネが、手を差し出した。意図をはかりかねた男はきょとんとしている。グリューネは、途切れ途切れに言葉を紡いだ。
「……指輪、あなたの分も、あるのでしょう? 嵌めてあげるから、貸して」
想定外の言葉に、男は少し目を瞠って、それからもうひとつの指輪を懐から取り出した。それを手のひらの上に乗せて、ひとつ大きく息をついてから、男の指にそれを嵌める。
「……病めるときも、健やかなるときも。わたくしはあなたを夫として頼りにし、信じ、愛することを誓います。……あくまで形式上、なんですからね」
そのあとすぐにそっぽを向いて俯いた少女の横顔を見て、男が優しい笑顔を浮かべていたことを、彼女は知らない。
「ああ。より良い生活のために、上手くやっていこう、ふたりで」
口付けの代わりにかたい握手を交わして、こうして『妖精』と『魔人』は、夫婦となった。
彼らの波乱万丈な結婚生活を、様々な思惑の果ての結果を、知るものはまだ、ひとりもいない。
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