第7話 誰が為に恋をする
グリューネはその日、自室で落ち着かなくその時を待っていた。今日は、フレデリック・ロバーツと籍を入れる日である。
父からこの結婚の知らせがあったのは昨日の夜のことであった。フレデリックがあの日会いにこなければ、グリューネは明日突然自分が結婚することになったという話を聞き、とても一晩のうちに心を落ち着けられはしなかったと思う。結果としては、フレデリックのおかげで粛々と沙汰を受け止めることができたと言える。――とても、感謝する気にはならないが。
彼に嫁ぐということは自然、このシェーンヴァルトの屋敷を出ていくということでもあった。それについて、悲しいことに特にどうとも思ってはないグリューネだが、数人の使用人が部屋へ挨拶に訪れて口々に結婚の祝福を述べにきたので、いよいよここを出ていくのだなという、自覚だけは強まった。なお、この結婚の表向きの筋書きはこうである。
シェーンヴァルト家の令嬢に、晩餐会で縁のあった魔法使いが一目惚れし、求婚してきた。彼の熱心さ、その真心に胸を打たれたシェーンヴァルト伯爵は特別にふたりの結婚を許可し、愛娘の門出を静かに見守るため、式も挙げず内々に送り出すこととした――
なんだってそんな話になってるのだろうか。グリューネは頭が痛いやら身体がむず痒いやらだった。フレデリックがそうした、惚れた腫れたで求婚してきたわけで無いことは、グリューネが一番よく知っている。仮に彼がそのようなことを口に出したらと考えると、今となっては可笑しさが込みあげるばかりだ。
しかし部屋を訪れて、結婚の話で盛り上がり始めた使用人たち――何故か最近よく話しかけてくる――に水は差せないでいた。
「フレデリック様は、晩餐会で偶然お嬢様と出会われたんでしたよね!」
「倒れたお嬢様を抱き上げて、颯爽とお部屋までお連れして介抱されたとか……」
「天文台でも指折りの、優秀な魔法使いだそうですよ。貴族とはまた違った意味で、別の世界の人って感じで、憧れちゃうなあ〜♡」
「お嬢様、どうかお幸せに!」
グリューネは愛想笑いで、使用人たちの話を聞いていた。多少の脚色や脳内補完があるが、確かに切り取って語ればなかなかにロマンティックな恋物語のように思えなくもない。問題はあの男の中には恋という概念が存在しなかったということなのだが。
そのうちに、部屋のドアがノックされて、部屋できゃあきゃあと騒いでいた使用人たちは一斉に居住まいを正した。噂の人物の到来を察知したのである。
「グリューネ嬢、失礼する」
いつも通りの淡々とした調子の声で、部屋にやってきたのはフレデリック・ロバーツだ。彼は早めに屋敷を訪れて、先んじてシェーンヴァルト伯爵と二人で話をしていたようだ。彼は今日、見るからに上等そうなスーツを着ていた。
「待たせてすまない。込み入った話はこちらで片付けてきた。あとは婚姻届書にサインするだけだ。行こうか」
そう言って彼は、実にさりげなく、ごく自然に手を差し伸べた。この魔法使いの男は身分の上では平民であるが、物怖じしない堂々とした立ち居振る舞いには、どこか貫禄と気品が感じられる。傍らでその様子を見ていた使用人たちは顔を見合せて、ひそひそと色めき立っていた。
伯爵家を訪問できるなど、普通の平民にはありえないことである。貴族の娘が平民に嫁ぐことは、過去にまったく例がないわけではない。しかし今回の取引のように、平民の側も貴族の側に条件を出して成立する婚姻は、ほとんど例が無いだろう。多くの場合、平民の男に嫁ぐような娘は、ひっそりとひとりで屋敷を出て、その瞬間に身分を失うものだ。夫となる平民の男が、貴族の屋敷の門をくぐることはない。
フレデリックがこうして屋敷に招かれたのは、ひとえに伯爵との間で交わされた件の取引と、伯爵が彼を一定の投資対象として認めたからだろう。娘のグリューネは屋敷の中から追い出すが、娘が嫁いだ先の男が何かしらの功績をあげようものなら、それとなく姻戚関係を持ち出してそれに相乗りしようという魂胆なのだ。つくづく欲深い男だと、グリューネはうんざり思う。
――それにしても。
グリューネは、スーツを着たフレデリックをじっと眺めた。
まったく愚かな話なのだが、本当に愚かで嫌になるのだが、その姿がまた一段と格好良く見えるのである。そして彼に対してそうした好意的な感情を抱くたびに、のたうち回りたくなるような羞恥があった。
ようやく気付き始めたが、恋とは恐ろしい病だ。己の中の信念さえ捻じ曲げ、許し難い相手を許してしまう。一挙手一投足に見蕩れてしまう。そういう、病なのである。
「どうした。体調が良くないのか」
あまりに微動だにせず眺めていたので、男が気遣うように声をかけてきた。見蕩れていたなどと口が裂けても言いたくないので、軽く咳払いをして、グリューネは差し出されていた手を取った。あくまで、エスコートされているからそうしているまでだと言い聞かせて。
「……なんでもないわ。行きましょ」
使用人たちは頭を下げて、部屋を後にする――そしてもう帰ることは無いであろう――令嬢を見送った。
伯爵の待つ部屋へ向かうまでの廊下はさほど長くもないはずだが、今日ばかりはとてつもなく長く感じる。勢いで結婚を了承したものの、この先どうなるのだろうかという不安は当然ある。それを紛らわせるように、グリューネは隣を歩く男に小さな声で訊ねた。
「……目当てのものは手に入ったの?」
伯爵がフレデリックに用意すると約束した、『禁書』と呼ばれる稀覯本の閲覧と貸出を無条件で許可する、という許可証のことだ。男は少し――しかし分かりやすく嬉しそうに――笑って、懐にしまい込んでいた小さな証書を取り出した。間違いなく、そこにはシェーンヴァルト伯爵家の
「この通りだ。携帯しやすいように、大きさも考慮して頂いた。君のお父上は存外気が利く」
「……そ。良かったわね」
この証書のために彼は結婚を決めたのだから、それは嬉しいだろう。いっそ喜んでもらわないと腹が立つ。フレデリックはそれを再びスーツの内側に大事にしまい込む。
「それに、他にもお願いを聞いてくれた。取引相手としては十分に親切で信用が置ける」
「まだ何か頼んだの? ……あとから何か対価を要求されてしまっても知らないわよ」
「そちらに関しては心配ない。伯爵にとってはどちらでもいいことを、俺の都合の良い方にしてもらっただけだ」
本当に、どこまでも肝が座った男らしい。立場が上のものに要求など、平民であれば畏れ多くて尻込みするものも少なくないだろうに。
廊下で行き合う使用人たちは、端に寄って立ち止まり、一様に頭を深く下げてくる。これで最後となるからか、これほど伯爵家の令嬢として真っ当に扱われた日も無いだろう。しかし不意に、声が耳に届いた。
「――卑しい魔法使いめ」
どきりとして肩越しに少しだけ振り返れば、すれ違った数名の使用人が寄り集まって、忌々しげな視線を向けてきていた。それが、自分に向いたものでないことはすぐに分かった。隣を歩いている男に――フレデリックに、向けられていた。
「まさか、娘の方に取り入るとは。上手くやったものだ」
「伯爵が令嬢の縁談に苦慮されていることにつけ込んだのだろうな」
「こうなると、さすがにご令嬢も哀れに思えるな。あのような悪辣で得体の知れない男に……」
グリューネは絶句した。それは、事実ではない。フレデリックの善意を利用して先に取引を持ちかけたのは伯爵の方だし、この男に取り入る気なんて少しも無かったことは言うまでもない。全員が全員、部屋を訪れたものたちのように好意的なはずはないと思ってはいたけれど――隠す気もないその悪態に腹が立って、食ってかかろうとして、しかしそれは、腕をしめやかに掴まれた感触によって阻まれた。フレデリックは視線を動かさず、顔色ひとつ変えず、歩き続けた。
「いい。行こう」
「……なんで……!」
「俺は気にしていない。だから君も気にするな」
静かで穏やかな言葉は、かえって有無を言わせない雰囲気がある。返す言葉に詰まった令嬢は、男に腕を掴まれたまま歩みを進めた。
ほどなく、伯爵の待つ部屋へ到着した。
部屋に入ると、伯爵が既に卓についていて、その卓の上には婚姻届書が用意されている。伯爵はにこやかに二人を迎え、自分の正面に置かれた椅子にかけるよう促した。二人が席につくと、伯爵は大きく頷いた。
「ふむ、なかなか――似合いではないか。我が娘と、その夫は」
「ありがとうございます。一介の魔法使いには勿体ないご令嬢です」
「……社交辞令はもう結構よ」
グリューネは大きく溜息をついて、用意されていたペンを手に取る。そして用意された紙に、自身の名前を書いた。ペンを机に戻そうとしてから思い直し、それをフレデリックの方へ差し出す。彼はそれを頷いて受け取り、既に書かれた名前の横に自分の名前を記し、伯爵の方へと向きを直して差し出した。
「では――フレデリック・ロバーツと我が娘、グリューネ・シェーンヴァルトが夫婦となることを、ここに認めるものとする」
伯爵が婚姻届に、印章を押した。これで正式に、夫婦となった。驚くほど過程は呆気なく、実感も無かった。フレデリックは恭しく頭を下げた。
「色々と、こちらの我儘を聞いてくださり感謝します、閣下」
「なに、構わんよ。娘の荷物は、あとから君の家に運ばせる」
「分かりました。では、我々はこれで失礼します」
フレデリックが立ち上がり、先程と同じようにグリューネに手を差し伸べる。今度はすぐに、その手を取る。ここに長居をする、理由は無い。
「お世話になりました、お父様」
「うむ。壮健にな」
あまりに簡素な、別れの言葉。だけど、これでいい。実際この人との間に、これ以上の言葉を交わせるようなものは、何もないのだから。
夫婦は揃って伯爵に一礼して、部屋を出る。
彼らが立ち去った後、伯爵は部屋でひとり、物思いに耽っていた。あの魔法使いの男を訊ねた日のことを、思い出していたのだ。
あの日、帰り際にあの男は呼び止めてきた。面会が終了した報告を天文台にするため、侍従を向かわせていたときのことだ。そのとき部屋には他に誰もいなかった。このことは伯爵と、あの魔法使いフレデリックしか知らないことだ。
「閣下。もうひとつだけ、お願いが」
「ほう。聞こう」
「先程お話しされていた
「……ほう?」
その意図を、伯爵はそれとなく察した。察して、同時に疑問に思った。
「構わないが、何故かね? 人に後ろ指を差されるようなことを、わざわざするような君には思えないが」
伯爵があのとき考えていた
十代半ばの令嬢が、年上の男性に救われて恋をしたという物語は、多くの人は違和感なく受け取ることができるものだ。しかし、逆であればどうだろう。歳の離れた少女、それも貴族の令嬢に、熱心に求婚する男。しかも男は天文台の魔法使いで、出資者を求めてあの晩餐会にやってきていた。こうであれば魔法使いの男が、伯爵からの援助や、あるいは資産を狙って令嬢に近づいたのではないかと思われても、全くおかしくない――むしろその方が納得できる――話なのである。
伯爵からすれば、自分が取引を持ちかけてこの結婚が成立した、という事実を隠蔽できればそれでいい。どちらであっても、構わない話だ。しかし、そういったことをこの男が申し出るのは、全くもって想定外だったのである。そのため理由が気になった。問われて、フレデリックは答えた。
「俺は世間に何を言われても気にならないが、彼女は気にします。この結婚によって、彼女が謂われのない誹謗や中傷を受ける可能性を、出来うる限り下げておきたい」
「自分に不名誉な噂が立つとしても、かね?」
「構いません。年端もいかない少女を盾にしてまで守りたい名誉など、持っていませんので」
伯爵は思わず口の端をつり上げる。今の皮肉が故意なのかそうでないのか、男の態度からは判断できなかった。どちらにしても、大した胆力だと言わざるを得ない。面白い、男だ。
人々は、思い思いにこの結婚を解釈するだろう。
あるものは身分違いのふたりの恋物語と見るだろう。またあるものは魔法使いの謀略として。あるいは伯爵の仕掛けた政略だと、勘付くものもいるのかもしれない。この物語の真実は、一体どんなものとなるだろうか。
「……なるほど。投資した価値は、あったかもしれんな」
その言葉は誰にも受け取られることなく虚空に消えた。
この日を最後に――シェーンヴァルト伯爵家の家系図からは『妖精令嬢』こと、グリューネ・シェーンヴァルトの名が消えたのであった。
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