第6話 恋と地獄は落ちるもの
――。
声が、聞こえる。遠くから、呼ぶ声が。
夕食を終えたグリューネは自室に戻り、ベッドの上に横たわっていた。すると、いつもの空耳が聞こえた。誰かに名前を呼ばれているように感じるのだ。たぶん、愛情に飢えてるせいなんだろう――そう自虐気味に、この現象は結論づけていた。
それでもその声が気になって、バルコニーに出て辺りを見回してみた。ひんやりとした夜風が頬を撫で、額に咲いた花が揺れる。その声の主などは見つからない。特にそれを残念に思うでもなく、夜の街を見下ろした。
シェーンヴァルト家の屋敷は『貴族街』と呼ばれる、城下の比較的標高の高い場所に建っている。このファウゼンという街は、王の住む城を最も高い所へ、そこから次いで貴族、平民と、身分の高い順に高い場所へ住まうようにできていた。これは物理的に身分の違いを表すためであり、王侯貴族は自分たちの生活を支える労働力であるものたち見下ろしながら、平民は政を司り国を運営するものたちを見上げながら暮らしている。グリューネにとって、眼下に広がる『平民街』は見慣れたもので、特段なんの感情も抱くことは無いものだった。つい、この間までは。
今は、少し違っている。度々こうして街を見下ろしては、平民街と貴族街の境にそびえ立つ、背の高い建物――天文台を眺めている。
あの人が、あそこにいる。
あの日からグリューネの心の中には、あのフレデリックという魔法使いのことばかりがあった。あのように他人に助けてもらったことが初めてだったから。だからこのように、過剰に好感を抱いてしまっているのだと、令嬢は頭では理解していた。しかし傾いた感情を制御できるほど、大人ではなかった。
彼女はあの魔法使いに恋をしていた。あるいは、恋という現象に恋をしていた。周囲から疎まれ続けているうちに、鏡のようにその感情を返していた令嬢は、誰も彼も好きになることができなかった。そんなところに、彼は現れた。拒絶したにも拘らず手を差し伸べてくれて、他の普通の姿をした人と同じように自分を扱い、助けてくれた人。彼女にとって、得難い存在であった。
もう一度、会えないだろうか。
助けてもらった礼はあの場で言ってしまった。改めて再び言いに行くのはかえって迷惑になってしまいそうだ。貴族がどこかしらを訪れるとなると、もてなしやら何やらと、平民は何かと気を揉むだろう。別に、会ったからといってどうなりたいでもない。いや、どうにもならない。なることはない。この気持ちは美しい恋のまま、心にしまっておくほかない。令嬢は理解していた。
溜息をついて彼女が部屋に戻ろうと踵を返したとき、不意に声がした。
「――こんばんは、グリューネ嬢」
いつもの空耳――ではない。降ってきた声に振り返って空を仰ぐと、カーテンが開くように、夜空が揺れた。
その向こうから現れたのは、箒に跨って宙に浮いている、見覚えのある人だ。銀灰の髪、夜空色の瞳。あの日からずっと、瞼の裏に住み続けている人の姿。グリューネは驚いて、目を瞠った。
「……フレデリック……?」
「憶えていて頂けて光栄だ」
「どうしてここへ? というか、どうしてその……空から……」
「端的に説明すると、君のお父上に内緒で、君に会う必要があった。なのでこうして来たわけだが、君がたまたま外へ出ていてくれて良かった」
内緒で、会いに。どういうわけなのか聞かなくてはならないが、顔が熱くなるのを止められなかった。一方的に会いたいと思っていたら、その相手が自分に会いに来たのだ。令嬢の心臓が早鐘を打っていることなど露知らず、その男は淡々とした口調で語りかけてくる。
「実は、この行為は少しばかり法に抵触する可能性がある。この国の法では、土地の所有権が空中のどこまで有効になるのか厳密な定めは無いが、住民に無断で降り立つとなると、それは不法侵入に当たってしまう。なので、君に許可を貰いたいのだが」
「法に触れないよう空から来たということ? ……めちゃくちゃな人ね」
令嬢は、彼が降り立つことを許した。フレデリックはバルコニーに降り立って、箒を手すりに立てかける。令嬢はその箒に近寄ってまじまじと眺めた。どう見ても、ただの箒だった。
「実を言うと、飛行魔法を使うのに箒は必須じゃない。絨毯でも荷車でもなんでもいいんだが、操縦性の良さと調達の容易さから、箒は適当だといえる」
「ふうん……おとぎ話の魔女みたい」
夜風が少し肌寒く、グリューネが無意識に身体を抱くように縮こまらせていると、男は羽織っていた外套を彼女にかけてやった。令嬢は目を丸くして、それから視線を少し外すようにしながら彼に問いかけた。
「……それで、わたくしに何の用なの?」
グリューネはいざ口を開くと、どうにも可愛げのないつっけんどんな様子になった。そのことを一番悔やんでいるのはもちろん彼女自身なのだが、幸いなことに男はまるで気にはしてないようだった。
「とても重要な話をしにきた。俺と、それから君にとって」
それからの彼の話は――彼の訪問を内心とても嬉しく思っていた彼女の気分を、最悪にさせるのには十分であった。
シェーンヴァルト伯爵が、先の晩餐会の出来事をこれ幸いにと、彼に縁談を持ち込んで娘を厄介払いするための出しにしたこと。まずグリューネが憤ったのは、自分を救ってくれた恩人であるこの魔法使いに対して、あまりに父が無礼だと感じたからだった。見返りをやるから化け物のような娘と結婚しろなどと持ち掛けること自体、礼節を重んじることを美徳とする貴族として、下品で最悪な行為だと思ったのだ。
「っ……もちろん、断ったのでしょうね!?」
「いや、受けた」
「……は?」
この後に続く話こそ、さらに最悪だった。それに対してフレデリックの方から条件を付けて、この縁談を成立させた、ということらしいのだ。グリューネは頭が真っ白になった。この恋焦がれていた恩人は、あの最悪な父と、自分と紙切れ一枚分の許可証とを、交換する取引を交わしていた。湧き上がるこの感情を、なんと形容すればいいだろう。憤り、落胆、嫌悪感――それらがないまぜになって、身体を震わせた。
「君の怒りは尤もだと思う。俺も俺の都合があって、あの場ですぐに返事をしてしまった。だからこうして、順番が逆転して申し訳ないとは思うが、改めて君に話をしに来た。――俺と結婚してほしい、と」
己の感情と反比例するように落ち着き払った男の声が、癪に障る。目の奥が熱くて、がんがんと痛い。腹立たしい、腹立たしい。
「――そのなんだかって紙切れの為に、わたくしにあなたと結婚しろって言うの」
「否定はしないよ。それを伯爵に申し出たのは俺だからな」
「そう、そんなに、わたくしを怒らせたかったの? 嘘でもなんでも、愛の言葉くらい言えたでしょう」
嘘も、偽りも、嫌いだ。内心で『妖精令嬢』を化け物だと、気味が悪いと疎んでいるくせに、にこやかに挨拶してくる貴族たちが大嫌いだった。そう思っていたのに、恋しい人を目の前にした途端、嘘でもいいから愛していると言われたかったと思う自分がいた。もしそのように求婚されていたら、哀れなほど自分は喜んで、この話を受け入れただろうと、そう思う。――なんて愚かで情けないんだろう。俯いて唇を噛む令嬢に追い打ちをかけるように、男は返した。
「嘘で囁かれる愛に、一体何の意味がある? 俺が君にそんなことをするのは、限りなく不誠実だ。俺がここへ来たのは、君のご機嫌取りをするためじゃない。ただ、君の正当な怒りを受け止めるためだ。そのうえで、君を幸福にするという覚悟を、その責任を負うことを決めてきた」
男の声は変わらず淡白で、癪に障った。けれど、何故か痛いくらい心に突き刺さった。
「確かに俺は君に女性としての魅力を感じて結婚を申し込んだわけじゃない。だが決めた以上は、可能な限り君に不自由はさせないと約束する。だから――俺と結婚してくれないか」
心を偽らないことを、誠実だと言うのなら。この人は間違いなく、誠実だ。
好き好んで結婚をするわけではない。まして恋しても、愛してもいない。だから、そんな言葉は、嘘は言わないのだ。
これほど人として正しくて――残酷な人が、いるだろうか。
初めて助けてくれた赤の他人。少しの躊躇も無く化け物を抱き上げて、助けてくれたひと。煩わしく思っていた花を、綺麗だと言ってくれたひと。この人のことを、好きになった。それ以上何も望まなかったけれど、ただ、恋しい貴方がそこにいる、そう思えばそれだけで、眼下に広がる街並みは美しかった。吹き抜ける風さえ愛しかった。鏡に映る、花を咲かせた奇怪な姿の自分さえ、好きになれるような、気がしていた。
あとからあとから、瞳からは雫が溢れてきた。
悲しさや、苦しさ、情けなさ、様々な感情が坩堝のように渦巻いている。
「グリューネ嬢」
「……触らないで」
おそらくは全くの善意で涙を拭おうと延べられた手を、拒んだ。彼は手を引っ込めたが、それは依然として、こちらに向けられている。答えを、待っているのだ。
人生とは、嫌なことばかりが起きる。もう何も考えたくはない、そう叫んで、耳を塞いでしまいたい。目を瞑ってしまいたい。けれど、そんなことをしても時間は待ってはくれない。思考を止めている間にも、現実は押し寄せてくる。目の前にいるこの男のように最悪な知らせを携えて、最低な道を示してくる。
――だったらいっそ。そんな覚悟をしてきたことを、後悔させてやろう。
「……そこへ跪きなさい。見下ろされるの、嫌いだわ」
「これでいいか」
鼻を啜りながら発されたグリューネの言葉に、フレデリックは躊躇いもせず、バルコニーに片膝をついた。今度は彼が、見下ろされる側だ。あまりにも躊躇いがないので、令嬢は少し呆れさえした。
「あなた……プライドとか、ないの?」
「とんでもない。俺はどちらかといえば意固地でプライドの高い方だ。しかし、ここで君に結婚の了承を得られないようなら、それこそ俺は自分に失望する。君に頷いて貰うためなら、なんでもしよう」
「……そ。じゃあ靴でも舐めて貰おうかしら。……――って、ちょっと、本気にしないでったら!」
言うが早いが、彼が靴に手を添えたので、慌てて足を引っ込めてグリューネは制止した。
この男は本気だ。愛情の欠片もないくせに、本気で、ただ自分の目的と正しいと思う道理を貫くそれだけのために、結婚しようとしている。化け物と呼ばれる、『妖精令嬢』と。――その信念の、たった何分の一かだけでも、想ってもらえたら、どんなにか良かったのに。
「……いいわ。あなたと結婚、してあげる」
十二分にこの男に愛想を尽かしたはずなのに、心臓はそれでもばくばくと鳴って、声が震えそうになる。平静を取り繕って、グリューネは続ける。
「分かったでしょうけど、わたくし、性格悪いわよ。一生いびり倒してあげるから、覚悟するのね。泣いて叫んだって許さないわ」
「望むところだ。――ありがとう、受け入れてくれて」
彷徨っていた手に彼の手が触れ、優しく握られた。ここから街を見下ろしているときにはあんなにも、もう一度触れたいと思っていた手だったはずなのに、今は剥き出しの傷に触れられるようにひりひりと痛んだ。
恋は叶わなかった。どれだけ求めたとしてもこの人は恋をしないだろう。
恋なんてしなくたってこの人は、正しい道理さえあれば、他人を受け入れることができるのだから。
「では、今日のところはこれで。くれぐれも――」
「お父様には内緒に、でしょう。ちゃんと分ってるわ」
「そうだ。俺の意図に理解を示してくれたことにも、感謝するよ。君は、思っていたよりもずっと賢いな」
そう言ってフレデリックは、僅かに笑った。そしてやってきたときと同じように、箒に跨ってふわふわと上空に舞い上がり、そのうちに彼の姿は景色に紛れて見えなくなる。彼が飛び去った空を眺めながら、令嬢は呟いた。
「……やっぱり好きだわ。あなたの、笑った顔」
どれほど腹を立ててみても、愛想を尽かしてみても――彼の微笑んだ顔は、今でも世界で一番素敵に思える。
あの時は、状況がそうさせたのかもしれなかった。今は、惚れた弱みがそうさせたのかもしれない。恋と地獄は落ちるもの、先に落ちたほうが負けなのだ――いつか読んだ物語に書いてあった言葉が思い出された。
今は、できなくても。いつか、この憤りを、失望を、恋心を、全てひっくるめて、愛と呼べる日が来るだろうか。
少女の心のうちの問いかけに答えは無いまま。時は過ぎ、その日は訪れようとしていた。
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