第5話 クピドの受難
『妖精令嬢』が疎まれているのは、その特異な体質のためだ。それに輪をかけて、彼女の性格がまた人々を遠ざけていた。
常に機嫌が悪く、神経質。共にいると、彼女が発作を起こさないかどうか、癇癪を起こさないかどうか気が気でない。シェーンヴァルト家に仕えるものの多くは、喜んで彼女を助けようなどと思えないのだった。晩餐会での侍従の行動は、この実情を知るものにとっては当然ものといえた。
彼女を疎んじる伯爵の方針をこれ幸いに、彼らは揃って見て見ぬふりをしたのだ。
目の前で苦しんでいる、少女のことを。
――招かれた晩餐会で発作を起こし、一晩出先の屋敷で休んでから戻ってきたグリューネに対して、あの日供をしていた侍従は謝罪をした。逆鱗に触れたように叱責されると思っていたが、意外なことに、彼女は少しも声を荒げなかった。
「そのことはもういいわ。ついてくるなと言ったのはわたくしだったし――まさか、あんなにひどい発作が起きるなんて、思ってなかったの。……ごめんなさい」
唇を尖らせてぶっきらぼうに、彼女はそう言った。侍従は、呆気に取られた。令嬢から謝罪の言葉を聞くなんて、何かの間違いだろうかとさえ思った。いや、間違いなく、彼女は以前と違っていた。
令嬢は魔法使いの男の助言の通り、額に咲いた花をひとつ、そのままにしている。その効果があったのか、彼女が朝から草まみれ蔓まみれになったりする回数は目に見えて減った。令嬢は機嫌良く穏やかな面持ちで過ごしていて、口数は多くないが時々は使用人たちに労いの言葉さえかけるようになっていた。
「最近、グリューネお嬢様は機嫌が良さそうだな」
「分かります。なんだかお顔が優しくなった気がする」
「昨日なんか、お茶をお持ちしたらありがとうって言われたわよ」
使用人たちは口々に、彼女の変化について語り合った。物語で定番の、『嫌な奴が時々ちょっと良いことをすると人気が出る』という、あの状況に近かった。実際その効果は覿面で、彼女の些細な優しさは深く使用人たちの心に響いた。まったく、人間とは現金なものだが、そのおかげで使用人たちは、彼女がまだたった十五年しか生きていない少女であることを思い出し始めたらしい。屋敷の中ですれ違う彼女に挨拶をし、暇を持て余しているようなら茶や菓子を用意して世話をしたり、体調を気遣ったり、以前ならばあり得ない光景が、屋敷の中で見受けられるようになった。
当の令嬢は、自分のそうした些細な変化が周りに影響を与えていることも露知らず、以前の通り、自室で小説や学術書を読んで過ごす日々が続いていた。少し違うところがあるとすれば。
――時折、バルコニーから街を眺めていることくらいだ。
「近頃、屋敷の中に何やら浮ついた雰囲気があるようだが。何故か分かるかね?」
仕事の補佐の為に伯爵の執務室を訪れていた侍従は、そう訊ねられて答えた。
「ああ、それはおそらくお嬢様が……グリューネお嬢様は最近、すこぶるお身体の調子が良いようです。そのおかげか振る舞いがお優しくなられて、皆も喜んでおります。進んで令嬢のお世話をする者もおりまして」
シェーンヴァルト伯爵は机の上に置いた書面から視線を動かさず、言った。
「そうなのか。それは――良くないな」
「……」
一瞬――聞き間違いかと思った。しかしそうでないことは、この後に続く伯爵の言葉が示していた。
「あの娘が屋敷のものたちの同情を買うと、私のやり方を非難する者が出てくるだろう。役に立たないばかりか、邪魔までしてくるとは――本当に、我が娘ながらなんと目障りなことか」
こめかみを指で押しながら、伯爵はひどく大儀そうに息をついている。侍従は上の空のような様子で伯爵に相槌を打っていた。
「遊学に出したヴィルヘルムも、考えを改めていると良いが。あれの母も、的外れな正義を振りかざすきらいがあった。血とはまこと侮れんことよ」
ヴィルヘルムとはグリューネの異母兄、シェーンヴァルト家の後継者である。彼は今、外国に遊学に出ている。本人たっての希望で、と聞いていたが、今の口ぶりでは――まるで伯爵が彼を、外国へ追いやったようではなかったか? 思わず口をついて出そうになる疑問の言葉を必死で飲み込んだ。
伯爵はグリューネ嬢に冷たいが――冷たいのは何も、令嬢だけにではない。嫡子に対しても、この言いようなのだ。伯爵にとって、自分以外のものは全て自分に益があるかどうかで、価値を判断するだけの存在なのだ。
「とにかく、あの娘……早くどうにかしなくてはな。このまま置いていても百害あって一利なし――ああ、そうだ」
不意に伯爵がにこりと微笑んで、侍従に向き直る。心の内で考えていたことを見透かされたのかと侍従は一瞬びくりとした。
「娘を助けたとかいう魔法使い、何と言ったかな?」
「は……フレデリック・ロバーツと……
あの日、魔法使いが書き残していった名前と在籍番号を手渡す。それを受け取り、伯爵は首を捻る。
「魔法使いのことはよく分からん。どのような人物だ?」
「薬学科の在籍で、平民街で薬局も営んでおります。いくつかの学会で受賞歴があるようです」
「それだけか。飼い慣らすには少々凡庸そうな男だな……攻性魔法の使い手などであれば私兵として歓迎したかったのだが。……まあいい。厄介払いのついでに、お遊びで投資をするには適当な人物だろう」
そう結論を出し、シェーンヴァルト伯爵はフレデリック・ロバーツとの取引を行うことを決めたのである。
――というのが、つい二日前の話。伯爵と魔法使いの取引は昨日、恙なく成立することになり、全ては伯爵の計画通りに進んでいる、はずであった。
***
「奇遇だな。君が見つかって良かった。俺が今最も必要としてる人材と言っても過言じゃない」
「ひえ……な……何か御用でしょうか……」
侍従は私用で外出してきたところで、ある人物に呼び止められていた。フレデリック・ロバーツである。晩餐会以来、侍従はすっかりこの男に苦手意識がある。だというのに、呼び止められただけでは飽き足らず、路地裏に連れ込まれ、至近距離から見下ろされている。対する相手が全身を恐怖で震わせている様子に気付いているのかいないのか、フレデリックは淡々とした調子で問いかけてくる。
「グリューネ嬢は、あれから元気か?」
「は、はい……貴方様の言われた通り……花を残すようにされて……お元気です……」
「そうか、それは良かった。時に、ひとつ相談なんだが」
相談したい人間の態度じゃないだろう――そんな言葉は間違っても口に出さないようにしなければならない。一言い返せば、百言い返してくるような男であることは、何となく理解していた。しかし、彼の口から出てきたのは意外な言葉だった。
「グリューネ嬢と話がしたい。伯爵には内緒でだ。良い方法は何かあるだろうか」
「……!」
――伯爵には内緒で。それは言葉通り、伯爵の意に沿わないことをするつもりだ、という意味であろう。侍従は恐怖心を押さえ込んで、懸命に男を睨み返した。
「それを――それをよりによって私に訊ねるのですか」
「君にだから、聞いている。伯爵のことは、側仕えの君が一番詳しいだろう」
「伯爵に内緒で、などと言われてはいはいと了承できるはずがないでしょう……! 一体、何をするつもりですか」
問い返すと、魔法使いは至極真面目な顔で言った。
「プロポーズだが」
「は?」
「伯爵は籍を入れる当日まで、俺と令嬢を会わせたくないらしい。というよりも、結婚そのものを直前まで伝えないつもりだ。おおかた令嬢に反抗の余地も与えず追い出すためだろう」
侍従はぎくりと身体を強張らせた。その通りだ。伯爵は、必ず反抗してくるだろう令嬢の為に、無駄な時間を費やしたくないと言った。だからこそ内密にフレデリックと接触して取引を済ませ、あとは籍を入れる当日に、何も知らない令嬢を放り出せば良いと考えていた。顔色が悪くなっている侍従をよそに、彼は続ける。
「それはあまりに公平じゃない。なので、事前に彼女に伝えておきたい。結婚の相手が俺であり、これが取引で成立した結婚であると」
「そ……そんなこと言ったらお嬢様は怒るに決まってますよ! お嬢様を怒らせて、結婚の話を有耶無耶にする魂胆ですか!?」
「有耶無耶になんてしないし、させない」
珍しく――男は感情のこもった様子であった。
「伯爵がこの結婚を絶好の機会だと考えているように、俺もこの結婚によって望外の権利を得ることが約束されている。これを逃す手はない。グリューネ嬢には、全てを理解してもらったうえで、このプロポーズを受けてもらう」
何を無茶苦茶なことを言っているんだろうか、この男は。いくら近頃穏やかになってきている令嬢とはいえ、親しみのかけらもない父親が勝手に決めた――恩人とはいえ堂々と利害の一致で結婚を決めたなどと言ってくる――相手に、はいそうですかと己の身柄を委ねるはずがない。
これまで疎まれてきたとしても、グリューネ・シェーンヴァルトは伯爵家の令嬢だ。首都ファウゼンの貴族街から、当然のように平民街を見下ろせる権利を持って生きてきた、生粋の貴族なのだ。取引のついでに結婚を決められたなどと、きっと彼女の矜持が許さないはずだ。
しかし、無茶苦茶だとしても、男の話も一理ある。確かに令嬢には、怒っていい権利があるはずだ。貴族の婚姻は、当人の与り知らないところで話が進むことも少なくはない。たとえ意にそぐわなくても、受け入れなければならないことも。それに対して何か言うことすら許さない、伯爵のやり方が酷であることは――決して口には出せないが――事実である。
「君の立場も理解している。だがこれは、俺と令嬢が結婚するという結果の途中に、過程をひとつ挟むだけのことだ。君の主の目的が果たされることには変わりがないし、令嬢が納得してくれさえすれば、禍根の残らない完璧な結果になるだろう」
一体どこからそんな自信が出てくるのか、男は、フレデリックはそのように言い切った。
――根負けし、半ばやけになって侍従は溜息をついた。やれるというなら、やってみせてもらおう。
「……伯爵は基本的にお嬢様には無関心です。しかし普段と違うことをしていれば私や使用人に調べさせるかもしれません。そのため下手な誘導などはできません。内緒で会いたいとなると、お嬢様が普段からいらっしゃるところに、来て頂くしかないでしょうね……」
「なるほど。具体的には?」
そう言われて、侍従は頭を捻った。グリューネ嬢は、人目を嫌って外出をほとんどしない。大体屋敷の自室にいて、していることと言えば読書くらい――そこまで考えて思い当る。
「……お嬢様の部屋の、バルコニー……」
口に出してから、それは実現困難であると思い直す。何しろ屋敷の周りはぐるりと背の高い柵で囲われていて、正面の門扉からしか中には入れない。柵の内側に入れたとして、屋敷の中を通らずに三階にあるバルコニーに、誰にも気付かず行くことなど――
「分かった。ではそこに伺うとしよう」
「待ってください、三階のバルコニーですよ?」
「問題ない。成層圏より上だと言われたら、さすがに無理と言うところだが」
なんてことないように――男はその作戦を実行に移すことを決定した。どのように三階へ行くつもりなのかと訊ねれば、これはまた当然のことのように、空からと返ってきて、侍従は少し眩暈がした。
これが、魔法使いという生き物。普通の人間ではあり得ないような選択肢を、いくつも所有しているものたち。正直なことを言えば――彼らの方が、令嬢などより余程『化け物』だろう。彼らは剣や銃よりもはるかに恐ろしい
「これで大体、事前に解決しておくべき課題は無くなったと言える。ありがとう。君のおかげで、計画はより精度を高めることができた」
「はあ……どうも……あの、どうしてこんなことをしようと? お嬢様がどう思おうと、結婚さえできれば貴方の目的は達成されるでしょう」
帰路につこうとするフレデリックを呼び止めて、訊ねた。純粋に疑問だった。この魔法使いにとっても、令嬢との結婚は稀覯本を自由にする権利を得るために行う、形式的なことのはずだ。令嬢がどう思うかとか、納得するかとか、そんなことはどうでもいいことのはずだ。
男は足を止めて振り返り、少し視線を宙に彷徨わせてから、答えた。
「どうして、と言われると説明に困るな。結婚というのは、原則として無期限に、共同で生活を営む契約を交わす行為だと認識している。そしてその契約とは、当事者間の合意があって初めて成立する。この結婚によって圧倒的な見返りがある俺が、令嬢に『結婚してほしい』と申し出ることはそんなに不思議なことか?」
「……それは」
「伯爵との取引には応じるし、それを反故にするつもりもないが、伯爵にとって都合が良いことより、令嬢が納得して俺の妻になると選んでくれることの方が、遥かに大切だ。これから一緒に、上手くやっていかなくてはならない人なのだから」
他に質問が無ければ失礼する、そう言って男は踵を返し、平民街の大通りに消えていった。男の去った後を、侍従は呆然と見つめている。
化け物だと思ったことは、訂正しなくてはいけないかもしれない。ただ、正しいと思う道理のために人事を尽くす。その様は真摯と言って良く――全てをひた隠している伯爵よりも、誠実だ。法と倫理観を守る限り、魔法使いは良き隣人だろう。
果たして、男はあの令嬢を説き伏せて、完璧な結果を導き出せるだろうか?
自分が言えることではないと思いつつ、侍従は少しだけ、期待してしまっていた。
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