第4話 取引
首都・ファウゼンに存在する、レーヴライン王国最大の魔法研究機関であり、最高学府。
その王立天文台・薬学科に籍を置くフレデリック・ロバーツはその日、珍しく少々苛立っていた。
彼が何かに苛立つことは、滅多に無い。待ち合わせの約束に一時間遅れてくる者がいようが、食堂で長蛇の列に並ぶことになろうが、彼は常に涼しい顔でいる。それは特別気が長いからだとか、寛容だからということではない。世の中のほとんどの物事に、期待をしていないからだ。大抵の物事は、どれだけ綿密に、どれだけ完璧な計画を立てたとしても、不確定な外的要因によってあっさりと崩れてしまうものだと、彼はそう理解している。
しかし、そんな彼でも看過できかねることはある。己の知的欲求が満たされるのを、他人に阻害されることだ。
「――遅い。あまりにも遅すぎる」
こつこつと机を指で叩いて、その苛立ちを僅かに滲ませながら、彼は言った。半ば独り言のようなその呟きに、応える声がある。フレデリックと同じ薬学科に所属している同輩のアルブレヒトである。
「ま、評議会の
「たった二週間の貸出許可が降りるのに、毎度二ヶ月超も時間がかかるのは何故なんだ」
フレデリックは落胆したように椅子に凭れかかり、目を伏せて息をついた。
彼の苛立ちの原因、それは『禁書』という、魔法研究資料の貸出許可が降りるのが毎度毎度遅いためだった。禁書という名の通り、それらは普段、この天文台に併設された王立図書館の貸出禁止棚に収まっている。そうなっている理由としては、内容が非常に専門的で、取扱を誤ると危険であるという以上に、それらが非常な年代物であり文化的価値が高いということが挙げられる。この、文化的価値が、曲者なのである。
本来、魔法に関わるものの全ては、国から認可を受けた魔法研究機関が管理している。しかし禁書に関しては、文化的価値が付与された『稀覯本』として、国の文化の担い手たる王侯貴族の管理下に置かれているのである。
貴族は、魔法使いを恐れている。そのため禁書は閲覧するにも一定の資格が必要となり、さらに貸出ともなると、複数の名のある貴族から構成された評議会で、承認を得る必要がある。評議の結果、貸出許可が降りないということはほぼ例が無いのだが、兎にも角にもその許可が降りるのが遅いのである。
この事態を、フレデリックは非常に嫌っていた。自分の必要とする知識がそこにあることは分かっているのに、それを手にすることを他人――この場合貴族――に、まさしく阻害されている状態なのだ。天文台で『
瞑目しているフレデリックの横で、書類をまとめながらアルブレヒトが言う。
「それこそ貴族様とのコネさえあれば、どうとでもなりそうなもんだけど。――そういえば、行ってきたんだろ? 例の晩餐会。収穫は無かったのかい?」
例の晩餐会――つい先日、貴族のお遊戯の為に、天文台の魔法使いが招待された晩餐会があった。見返りがありそうな出資先を見繕うために、ある貴族が気紛れに寄こした招待であった。先方から人数の指定があったので、天文台では学科ごとに代表を選出し、その晩餐会に出席した。そうして薬学科の代表に選ばれていたのが、フレデリックであった。
「あの会か。まるで意義を見出せなかったので、途中から庭で論文の続きを進めていた」
「そんなことだろうと思ったよ……さようなら、
「そう言うならお前が行けば良かったんだ、アルブレヒト」
「俺だって絶対に俺が行く方がいいと思ったさ。でも仕方ないだろ、天文科が君を指名してきたんだから……思えば、これも天文科の策略だったんだな……」
アルブレヒトは大きなため息をついて、机に突っ伏した。悲しいかな、魔法使い同士でも、上下の格差は存在する。天文科――星や天体と魔法についての研究を行っている――は、この天文台において最も権威を持つ学科であり、天文科が決めたことには基本的に逆らえない。ましてこの薬学科はというと、近頃めっきり在籍希望者の増えない、廃れた学科である。力関係はなおのこと明白というわけだ。代表にフレデリックを指名してきたのは、言うまでもなく彼がこうしたことにまるで興味が無く、資金獲得の競争相手を減らせると踏んだからであろう。
そんな他愛ない話に興じていると、ばたばたと慌ただしい足音が研究室に近づいてきた。特徴的なこの足音は、薬学科の教授のものだ。こうして慌ただしくやってくるときは、大抵碌なことが起こらない。ほどなく、騒々しく部屋のドアが開け放たれて、ふくよかな教授が声を張り上げた。
「フレーッド! フレデリック・ロバーツ! いるかね!」
その大音声に少しの動揺も表さず、フレデリックは立ち上がって己の存在を示した。
「ハインツェル教授。痩せたいのであれば、まず薬に頼らず生活習慣を見直してはどうかと、先日助言したはずですが」
「ええい
「超大物? 誰ですか?」
「シェーンヴァルト伯爵だ」
その名を聞いてから、フレデリックは首を捻って傍らにいるアルブレヒトに視線を送った。聡い友人は、呆れた様子で口を挟んだ。
「貴族院評議会の現副議長だよ。本当に君は、魔法以外のことはからっきしだな……」
「わざわざ覚えておく必要を感じない。それにしても、特に訪ねられるようなことには身に覚えがないな」
「本当かね!? お得意のその傍若無人で粗相をしたんじゃないだろうな!? ……とにかく、伯爵が貴賓室でお待ちである! 急いで向かいなさいッ」
ハインツェル教授に急かされて、フレデリックは渋々――滅多に使わない儀礼式典用のマントまで背負わされて――貴賓室へ向かった。身形を整えている間、教授は隙あらば援助を引き出すために薬学科のアピールをするようにと言っていたが、フレデリックはシェーンヴァルト伯爵が何者で、何のために自分と接触しに来たのかということを、静かに考えていた。
本棟へと移動し、ほどなく貴賓室へ到着した。入室するとそこには身形の良い、穏やかな顔付きの男が座しており、傍らにはその侍従と思しき男が控えている。フレデリックが入室すると、身形の良い男は立ち上がり、腕を広げて歓迎の意を示してくる。
「やあ、君がフレデリック・ロバーツか! 突然訪問してすまないね。私がドミニク・シェーンヴァルトだ」
「こちらこそ、遅参をお許し下さい。……閣下におかれましては、ご機嫌麗しく」
「ああ、そう堅苦しくしなくて良い。気楽に話そうじゃないか」
フレデリックが恭しく頭を垂れると、シェーンヴァルト伯爵は気さくな笑みを浮かべ肩をぽんぽんと軽く叩いてくる。この様子に、ひっそりとフレデリックは眉を顰めた。不自然なほど、友好的な態度だ。いかに他人に対する物覚えが悪くとも、このように接されるようなことをした覚えはない。ひとまず、促されるまま椅子に掛け、伯爵の言葉を待った。
「さて――今日は、晩餐会の礼に来たんだよ」
「晩餐会の礼?」
「君の活躍のほどは聞いている。私の娘、グリューネを助けてくれたそうじゃないか」
そう言いながら、伯爵は傍らに控えていた侍従に視線を投げる。それに倣うと、その人の顔に――見覚えがあった。晩餐会、侍従、貴族の娘。ようやくフレデリックは思い至った。
――『化け物だ』と、言わないの?
震える声で、彼女はそう言った。晩餐会で出会った、緑に覆われた令嬢。誰にも目につかない場所で苦痛に耐えていて、消え入るように助けてと呟いた、あの少女。彼女を助けたのは、それがあの時の己のすべきことと思ったからで、それに対する礼というものが、なかなか頭の中で結びつかなかったのである。
そういえば、彼女には名前も聞かなかったが――この男が、あの令嬢の父親なのか。
「改めて、感謝するよ。この侍従の不手際も窘めてくれたとか。私が至らぬばかりに、すまなかったね。ありがとう」
「……いえ。世俗への貢献は、
「さすが我が国最高の魔法機関、天文台の魔法使い。能力だけでなく、精神性も一流のようだ」
頷きながら両手を組んで、穏やかに伯爵は微笑んでいる。しかし次の瞬間、穏やかならざる言葉が、そのまま伯爵の口から滑り出してきた。
「では、フレデリック。取引をしよう」
すっと、伯爵の目から笑みが消えた。社交辞令はここまで、ということらしい。来たか。フレデリックは身構えた。晩餐会の礼などと、そんなものは建前に過ぎない。ここから先が、この男がやってきた真の目的だ。シェーンヴァルト伯爵は、一拍おいてから、徐に切り出した。
「娘を――グリューネを、君の妻に迎えて欲しい」
「――……は?」
意表を突かれた様子のフレデリックを見て、伯爵は満足げに笑った。先程までの微笑みとは違う、謀略家を思わせる、他者を食い物にするものの笑みだ。貴族の生活は表側こそ華やかだが、その裏側は権謀術数に満ちている。それを掻い潜っていけるものだけが、富と名誉、そして特権を維持することができる。
間違いなくこの伯爵が、今日までその世界を生きてきたひとりであろうことは、
「君も知っての通り、あの娘は、普通ではない。どうにかどこかの家に嫁がせられないかと手を尽くしたが、上手く事が運ばなくてね。そこに、先の晩餐会があった」
伯爵は紅茶を一口飲んで、続けた。
「草と花に覆われた奇怪な姿の娘を、懸命に治療し救った魔法使い。娘がその魔法使いに想いを寄せ、自らの身分を捨ててその魔法使いと結ばれる――なかなかロマンティックだと思わないかね?」
フレデリックが伯爵の娘・グリューネを助けた姿は、あの晩餐会に参加していた多くの人間が目撃している。伯爵が語るその作り話は、紛れもない事実として人々に受け入れられるだろう。政略結婚のカードとして使えない娘を厄介払いすることができ、かつその事実を美しい虚構で覆い隠すことができる。伯爵にとって実に都合の良い話だ。よくもまあ、そのように頭が回るものだと感心しながら、言葉を返す。
「なるほど。仰りたいことは分かりました。それで、取引というからには閣下は何を与えてくださると?」
「私で用意できるものならなんでも、手配しよう。ファウゼンの一等地に邸宅を用意してやることもできるし、望むだけの研究資金を投資してやることもできる。あるいは、君好みの女をもうひとりふたり、連れてくることもできる」
伯爵の言葉に、フレデリックは僅かに顔を顰めた。
ある程度分かっていたことではあるが、伯爵は、娘のことを微塵も思いやっていないようだ。口先だけでも、娘の身体を治療してくれた親切な魔法使いの元に嫁がせたい、とでも言っておけば、多少の情も動いただろう。そう言うこともできたはずなのに、それをせずに自分に都合の良い展望を嬉々として語り、それに賛同が得られる――あるいは内心まで賛同せずとも自分に阿るだろう――と考えているのだ。
つくづく、貴族という生き物は理解に苦しむ――目の前の男を、違う生き物を見ているような感覚で、フレデリックは見ていた。とはいえ、それ以上の感情は無い。実際、彼は自分と違う生き物なのである。彼は貴族として正しい在り方をしていて、それが自分と相容れないという、ただそれだけの話なのだ。それにいちいち腹を立てたりするほど、潔癖には生きていない。
――助けて。
そう呟いた少女のことを思い出していた。
哀れな娘だと思う。可哀想だとも思う。頭の中では、彼女を今の状況から助け出す方法すら考え始めている自分がいることも否定はしない。
けれど、ここから先まで助けてやるだけの義理は、無いのだ。感情で人助けをするほど、お人好しではない。感情で誰かを助ければ、同じように感情で誰かを見捨てることになる。それは己の中の、道理に悖る。
だから、もし助けるつもりなら、理由が要るのだ。
感情に依らず、正しい道理として、彼女を助けると誓うだけの理由が。
今、この状況だけが、おそらくたった一度だけ、その理由をこちらから作ることができる。
フレデリックは暫し瞑目し、意思を固めたように息をつく。それから、静かに告げた。
「では、閣下。国内にある『禁書』全て、俺が要求したら即座に閲覧と貸出ができるよう、評議会から許可を頂きたい。それを用意してくださるなら、取引に応じグリューネ嬢を妻としよう」
伯爵はにやりと笑みを浮かべて言葉を返した。
「なんだ、そんなことでいいのかね? よろしい、取引は成立だ。……君はなかなか、面白い男だな」
「……それはどうも」
これからも上手くやっていこう――そう言って差し出された手を、形式的に握り返す。
やはり、完璧な計画とは上手くいかない。常に埒外の第三者が目の前に現れ、計画を台無しにしていく。
俺の人生の前に現れた君。君の人生の前に現れた俺。
――今回に限っては、お互い様と、言えるだろうか。
取引を終え、伯爵は足早に天文台を去っていった。
貴賓室から薬学科の研究室に戻ると、そわそわと落ち着かない様子の学長と、そんな学長を落ち着かせようとしているアルブレヒトがおり、伯爵との会談の内容について、二人が詰め寄ってきて問い質してくる。過程を省いて、フレデリックは結論のみを述べた。
伯爵の令嬢と結婚することになった――その一言により、薬学科研究室には、かつてない大きさの、驚嘆の声が響くことになるのであった。
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