第3話 恋する少女、故意ではない男
晩餐会に参加していた人々の視線は、一点に注がれていた。庭園から戻ってきた一人の男。彼は草花の絡みついたような何かを抱きかかえていた。その場にいた人々の多くは、それがシェーンヴァルト家の妖精令嬢だと気が付いただろう。もしかしたら、妖精令嬢のことを知らないのは令嬢を抱きかかえている男くらいかもしれなかった。
ざわめきと、奇異の視線。目を閉じていても、グリューネはそれが自分に向いているのが分かる。その居心地の悪さときたら、それを遮るために思わず男に身を寄せてしまうほどだった。
男はいずれにも構わず、人々の間を縫って、広間を通り抜けて客室のある方へ向かっていく。
「お、お嬢様!?」
その道中、駆け寄ってくるものがあった。シェーンヴァルト家の侍従である。駆け寄ってきて、二の句を継ごうとした侍従を制して、男が先に口を開いた。
「この令嬢は、お前が仕えている方か?」
「え……あ、はい……左様で……ございます」
「令嬢はこの状態で庭園で苦しんでいた。察するに、今日だけのことではないのだろう。何故、彼女をひとりにしたんだ?」
男の言葉に、侍従は何も返すことができない。晩餐会の会場を離れ、ついてこなくていいと言ったのはグリューネだった。しかし常識で考れば、日常的に発作を起こすような懸念のある令嬢を、たとえ命じられたからと言って本当にひとりにしてしまうなんてことを、真っ当な倫理観のある大人――ましてその人に仕える立場の者――であるならば、まずしないだろう。
男のあまりに率直なその指摘は、大勢の視線が集まる場で、吊るし上げるように侍従の行いを責めていた。シェーンヴァルト伯爵家は、公の場で実の娘をそのように遇しているなどと、体裁にこだわる家の者たちは思われたくないはずである。侍従は苦虫を噛み潰したような顔で、絞り出すように言った。
「お……仰る……通りでございます。……私めの失態です……申し訳ございません……」
「謝罪は俺でなく、令嬢が快復してから改めてすることだ。――それはさておき、客室をひとつ借りたいのだが」
「……あ、あの……失礼ですが、貴方様は……?」
侍従は非常に言いづらそうに――己の不始末を指摘され責められたばかりであるから殊更――男に問いかけた。男は、手短に答えた。
「フレデリック・ロバーツ。
男――フレデリックの視線が、腕の中に落とされる。草花の爆発的な繁茂は落ち着いているものの、緑に覆われた少女の呼吸は不規則で浅い。侍従は慌てて、この屋敷の使用人と話をつけ、空いている客室のひとつに彼を案内した。
フレデリックと名乗った魔法使いの男は、グリューネをベッドの上に横たえると、ごく基本的な診察を行った。脈を測ったり、熱を測ったり、瞼の裏を見たり、舌を見られたり――平時であれば嫌がるだろうが、苦痛が勝っているからか、あるいはこの魔法使いの男を信用したのか、令嬢は苦痛で大義そうにしながらも、男に指示される通りにした。一通りを終えて、男はふむ、とひとつ頷いた。
「根本的に風邪などとは異なる症状だな。となると、この発熱は――身体から植物が発芽するのに起因して、何か余剰なエネルギーが発生しているということなのか」
男は誰に言うでもなくぶつぶつと、様々な推論を呟いている。侍従はすっかりこの男に逆らえなくなり、あれを用意しろこれを用意しろと小間使いのようにこき使われ、ばたばたと動き回っていた。
グリューネがそれらの物音を意識の遠くで聞いていると、不意に、ひんやりとして骨張った手が、頬に触れた。身体が熱いせいで、それが心地良く感じられる。その手は頬を撫でると、唇に指をかけ、口を押し開けてきた。
「解熱薬だ。少し苦いが、我慢してくれ」
淡々とした男の声とともに、とろみのある液体が口の中に滑り込んでくる。言われた通り、苦い液体だ。しかしなんと言おうか、表現し難い爽快感と鼻に抜けていく香りがあり、飲んだことの無い味の薬だった。それを一口、またもう一口と飲み下すと、燃えるような身体の熱さが、確かに和らいだ。それと共に思考は明瞭さを取り戻し、グリューネはようやく、茂った草花越しにこちらを覗き込む男の顔に意識がいった。
物語に出てくる優しい王子様には程遠い、冷淡で無表情で、愛想の欠片も無い顔だが――今ばかりは、抜群にそれが魅力的に見えたとしても誰も少女を責められないだろう。思いのほか距離が近いことに気まずさを感じ、身動ぎして顔を逸らした。
「少しは楽になったか?」
その問いには、頷いて答えた。男はよし、と短く答えてから、好き放題に伸びている蔓に今度は注意深く振れた。
「これは、普段どうしているんだ」
「……切るのよ、ナイフで、こう……」
男の眉が、怪訝そうに寄せられる。
「……正気か? ……神経が通っているらしいが」
「仕方ないでしょ……こんな姿でいられない……いたくないもの……」
おぞましい姿を人々に周知されていたとしても、そのために人目を避けて生活していたとしても、少女は自分の納得する姿でいたいと思っていた。他人の為に着飾ることに意味は無くても、誰に愛されることを諦めたとしても。自分だけは自分を愛していたいと思うから、目障りな草花はひとつ残らず、削ぎ落していた。たとえどんな苦痛を伴うとしてもだ。
男はひとつ息をついて、どこかから運んできたらしい荷物から小さな瓶を取り出した。
「女性の方が痛みに耐性がある、という説は比較的信じられているらしいが。わざわざ受けなくていい苦痛を受ける必要は無いだろう。……これを」
「……なあに、これ」
「鎮痛用の麻酔薬だ。通常は患部に針で打って使うが、今の君では患部が広すぎて、飲んでしまった方が早い。何時間かは動けなくなるだろうが、それ以上の副作用は出ない」
「何時間も……動けなくなるの……?」
「指を何本も切り落とすような痛みを感じるよりましだろう。どうせもう夜なのだから、そのまま寝てしまえば朝には問題なく動ける」
さあ、と促され、渋々グリューネはその小瓶を口元に近づけて一息に煽った。――不味い。先程の薬と違い、明確にそう感じた。通常飲むものでないということは、味や飲み口など度外視されているのだろう。飲み切って、顔を文字通り苦渋に満たしていると、身体の末端――今であれば伸びてきた蔓のひとつひとつも含まれる――の感覚が鈍くなり、身体が重くなってきた。そのまま四肢を放り出していると、男がナイフを取り出してきて、末端に近い方の草花から順に切り落とし始めた。
その切り口は植物の断面のようになっているのだが、そこだけ時間の流れが速まるかのように、見る間に元の綺麗な皮膚が形成される。男は一瞬驚いたように手を止めたが、すぐに作業を再開した。
「これは、いつから?」
「……生まれつきよ」
質問に答えると、男はそうか、とだけ返してきた。ナイフが柔らかい植物を切り落とす軽い音だけが、部屋の中に響いている。麻酔が上手く効いているのか、花や蔓を切り落とされてもほとんど痛みは無い。身体が動かせないので、このついさっき会ったばかりの魔法使いだとかいう男に、完全にされるがままになっている。
元々見えている場所は良いのだが、そういうところを切り終えると、後は服の下で生えてきている分を切り落とさなければならなくなり、さすがに男は一度手を止めた。
「令嬢。失礼は承知しているが、今から君の服を少し脱がす。――誤解のないように言っておくと、君の裸体にはケシの実の一粒ほども興味は無いから安心してくれ」
それはそれでなんだか腹立たしいと思うグリューネだったが、口の周りも感覚が鈍く喋るのが億劫だったので、一睨みするに留めた。男は涼しい顔で受け流してドレスを脱がせると、背や腹から生えてきていたものを手早く切り落とし、すぐにドレスを着せ付け直した。それくらいの気は遣えるのか、と思うのと同時に、手慣れたその様子に、ああ、大人だな、と漠然と感じた。
治療――というよりは作業――は順調に進み、奇怪な姿はほぼ元の少女のものになってきていた。最後に顔回りの蔓を切り落としているが、顔をじっと見られたり触られたりしまうことになって妙に緊張する。途中で、男が手を止めた。
「ここに、ひとつ開ききってない蕾があるんだが。これを残しておくと生活に支障が出そうか?」
どうやらこめかみの少し上、額の右側に、蕾が生えているらしい。視線を上方向へ向けると、その存在は確認できるが特別視界を塞いだりということはなさそうだった。
「有るか無いかで言えば無さそうだけれど……どうして?」
「既に生えている花を維持するためにエネルギーを消費させることで、先程の発作のような、爆発的に繁茂する現象の回数や程度を抑えられる可能性がある。推測だが」
グリューネはこの男――フレデリックの言葉を信用して良いと思っていた。妙な人物であることは確かだが、躊躇わず自分を助けてくれた。たったそれだけのことと思われるかもしれないが、たったそれだけの真心さえ、日頃の彼女には与えられないものだったからだ。
「……分かったわ。そうしてみる。人目に付くのは嫌だけど、今更ですもの」
「では、このようにしたらどうだろう」
苦々しくグリューネがそう口にすると、その蕾を見つめながら、何事かを思いついた様子で男は返した。
失礼、と言って手を伸ばして、男が髪に触れた。前髪を右側に寄せ、花が生えている根元を髪で覆い隠すようにする。彼は、満足そうにうんと頷く。
「――これなら髪飾りのように見えて、綺麗だろう。我ながら名案だ」
僅かに、本当に僅かに、男が目元を和ませて微笑んだ。男はただ己の意外な閃きに対して満悦しただけであって、自分に向けて微笑んだのではない。褒めたわけではない。そんな意図は決してない。分かっている。そんなことは分かっているのだが、グリューネは顔が熱くなるのを止められなかった。
今の令嬢の目には、この男のことが世界で一番魅力的に映るようになってしまっているのだから。
グリューネはその日、その屋敷で一晩を過ごすことになった。侍従が屋敷の主に申し出てくれたらしく、快く承諾してくれたそうだ。
「これで処置は完了だ。俺は失礼する」
そう言いながら、男は帰り支度を始めた。晩餐会の方もお開きとなったようで、人々がぱらぱらと帰路についているらしい気配が感じられる。麻酔はまだ当分、完全に抜けはしないだろう。グリューネはどうにかベッドの上で半身を起こし、男に声をかけた。
「あの……フレデリック?」
呼ばれて男は肩越しに振り返り、それからベッドの傍にやってきて腰を下ろした。
「何か?」
「ありがとう。……わたくしを、助けてくれて」
男は無表情に、首を横に振る。先程の微笑は嘘か幻だったのではと思う程度には、淡々と言葉を紡いだ。
「感謝されるほどのことはしていない。研究とその成果による世俗への貢献は、魔法使いの義務だ。君の侍従に薬をいくつか渡しておいたから、辛い時には使うといい。用法用量はきちんと守るように」
では、お大事に、と最後にそう付け加えて、ここへやってきたときと何ら変わりない淀みのない足取りで、彼は部屋を後にした。その扉が閉まり切ってしまうまでグリューネはその背中を目で追っていた。
それは、令嬢の初めての恋だった。しかし、彼女はまだ知らない。
この淡い恋心がすぐさま冷めてしまうことも――その後、彼と夫婦となることも。
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