第13話 イカロス、ファエトン、あるいは
その人とは、日頃それほど頻繁に関わりが無い。特別に用事が無ければ、移動中に廊下ですれ違うとか、そういうことでしか顔を合わせることが無いくらいだ。
ただ――思い返せば。すれ違ったとき、見かけたとき、いつも彼のことを、目で追っていたような、そんな気がしている。
***
「この論文、誰が書いたものでしょうか?」
マイヤ・ニッコラは、雑に束ねられた論文を手に持って、同じ天文科の先輩にそう訊ねた。通常、論文には記名があるものだ。しかし、この論文の体裁をした文章には、どこにも名前が書かれていなかった。先輩はどれどれと寄ってきてその論文を数頁読んで、苦笑いを浮かべた。
「ああ、これはあれだ、『識欲魔人』の」
「識欲……それは薬学科の、フレデリック・ロバーツ氏のことですか?」
何故、薬学科に籍を置く彼の論文がここにあるのか――訝しげに眉を顰めたマイヤの言わんとすることを察して、先輩は説明してくれた。
曰く、あるとき薬学科のフレデリックが、天文科のある研究員に些細な指摘をした。彼には当然悪気は無く、まして自分の知識をひけらかすつもりもなかったのだが、指摘された研究員はそれが大層気に入らなかったらしい。
薬学科といえば、この
そこまでを聞いて、マイヤは大きく溜息をついた。
「……くだらない言いがかりですね」
「全く、その通りだ」
そのような理不尽な言いがかりに、『識欲魔人』は応じないだろうと思い静観していた天文科の面々だったのだが、なんと数日後、フレデリックがこの論文を携えて天文科の研究室を訪れた。無論、因縁をつけてきた研究員にそれを読ませるためだ。それに目を通し、まだ俺に謝罪をする必要があるのなら薬学科まで来るようにと言って、彼はさっさと退室していった。
研究員は怒髪天を衝く勢いで、その論文に目を通した。しかし、読み終わる頃にはすっかり大人しくなってしまい、そののち薬学科を訪ねることも無かった――
「……ということが、以前あったのさ。あのときはこの騒ぎのおかげで、天文科全員恥をかいた気分になったもんだよ。無論、フレデリックにはそんなつもりなかったろうがね」
「そうだったんですね。……それにしても、興味深い内容でした」
マイヤは手にした論文をぱらぱらと捲る。この論文には、この星から観測できる他の星に、仮に生命体が存在していた場合どのような生命であると考えられるか、ということが天体の観測結果を基に詳細に考察されていた。彼はいくつかの、この星と条件――太陽からの距離や直径など――の似た天体を定期的に観測し、その天体の様子から、生命が存在しうるかどうか、その痕跡を調査していたらしい。
今の魔法技術では、人はまだ、宇宙に出ることは叶わない。そのため、彼のこの仮定を確かめる術は無いのだが、あの無表情で無愛想なフレデリック・ロバーツが書いた論文にしては、夢と浪漫があると思った。それが彼に興味を持ったきっかけだ。
この星の外に生命がいるかどうか。それはマイヤがそのとき進めていた論文のテーマのひとつでもあった。だから、彼に直接意見を聞きたいと思って、会いに行ったのだ。まだ天文台に籍を置いて間もない頃だったから、他の学科の研究室を訪れるのは緊張した。しかし薬学科は人が少ないせいか、あるいはそういう特色なのか、天文科のようなぴりぴりした雰囲気はしておらず、他科からやってきたマイヤを快く迎えてくれた。
「フレデリックなら、あそこだよ。遠くからでも、すぐ分かるだろ?」
そう言って苦笑いする研究員が指差した先には、本の山。割り当てられた机からはみ出し、丁寧に積み上げられた本に囲まれた中心に、彼はいた。
「あ、あの、すみません、ロバーツ氏。この論文のことで、お聞きしたいことがあって」
すぐ傍まで近づいてもまるでこちらに興味を示さなかった男は、声をかけると顔を上げて、マイヤが持っていた論文を一瞥した。
「ああ――懐かしいな。まだ取っておいてあったのか」
マイヤは自分が今書いている論文のことを話し、この論文から引用させて欲しい箇所があることや、質問したい箇所があることを簡潔に伝えた。フレデリックはマイヤよりもかなり先輩であるし、本人の雰囲気も相まって、怖い人だと思っていた。まして学科も違うし、嫌な顔をされるかもしれない。そう思っていたのだが、意外にも彼はあっさりとそれを承知してくれたのだ。
「構わないよ。ただ、今日はこちらのことを優先させてもらいたい。引用したい箇所と説明が欲しい箇所に、印をつけておいてくれるか。明後日までに目を通して回答を書き出しておくので、そのときに補足説明もしよう。これで何か問題は?」
「問題ありません。お忙しいのに、すみません」
「気にしなくて良い。――君、名前は?」
不思議と、そのとき自分がどう名乗ったのかをよく憶えていない。当たり障り無く、ごく普通に名乗ったのだろう。思い出されるのは、そのとき初めて彼の目がこちらを見たということだ。
「では――マイヤ、また明後日に」
早く、明後日にならないかなと思っていた。どうしてか、その日がひどく待ち遠しくて、落ち着かなかった。きっと、有意義で貴重な意見を得られるから、それが楽しみで気分が昂揚しているんだ。そう思っていた。そんなに落ち着きがなかったせいか、当日は妙に心臓が早鐘を打っていて、うまく喋れなかった。
「調子があまり良くなさそうに見えるが、大丈夫か?」
「だ、大丈夫です。ちょっと、緊張していて」
「そうか。それなら、少し休憩しよう。今の状態で頭に詰め込んでも、効率が良くなさそうだ」
そう言って、フレデリックはミルクティーとクッキーを用意してくれた。甘い飲み物が胃に染み渡る。自分もそれを一口飲んでから、彼はこう言った。
「緊張しているというのは、俺が君よりも長いこと天文台に在籍している、所謂先輩に当たるからか?」
それだけではない気がする――と胸の内のそんな予感を押し込めて、彼の言葉に賢明に頷いた。
「そう――そうです、はい。ロバーツ氏は、大先輩ですから」
「では、もっと気楽にいこう。天文科がどうかは知らないが、
「ええ……!?」
それはむしろ、もっとハードルが上がってしまう、とも言えず。結局敬語も使わず、名前に敬称もつけずで話すことになった。最初こそ何か心苦しさや恥ずかしさがあったものの、その日を終える頃には、どうにか少し慣れてきていた。
「今日は本当に、ありがとうござ……ありがとう、フレデリック」
マイヤは咳払いして言い直す。その様子が可笑しかったのか、どういたしまして、と言った彼はほんの少し、ほんの少しだけ――笑っていたのだ。
***
――あれから、三年か。
真夜中に自室の天井を眺めながら、マイヤはぼんやりと思った。
フレデリックの結婚は、嘘でも間違いでもなかった。彼は、結婚した。出会ってから幾何も経っていない、十五歳の貴族の令嬢を妻に迎えた。言葉にすれば、ただそれだけ。しかし、ただそれだけの事実が、こんなに重くのし掛かるものだとも思っていなかった。
正直なところ、彼が結婚するだなんて、思ってもいなかったのだ。マイヤも何人かの女性が彼に交際――結婚を前提としたものも、そうでないものも――を申し込んだのを知っているが、彼は皆断った。あの素っ気なさは、完全にその気がないもののそれだった。
彼がそういった話を断る度、マイヤは内心ほっとしていた。女性との交際に興味が無いフレデリックの様子は、自分が彼に抱いている心象と相違無いものだったからだ。彼はそんなものに興味が無いということを、きちんと理解している。だから、絶対に胸の内は彼に明かさない。慕う気持ちはただ、彼を追う視線にだけ込めようと。
そう、思っていたのに。
――どうして。
彼は、結婚した。しかも、祝福の言葉に対して、ありがとう、とさえ言った。
彼の性格を考えれば、その結婚が意に沿わないことであれば、感謝など述べたりしないはずだ。あまりにも唐突で例の無い彼と令嬢の結婚について、当人たちの意思以外の何かが働いているのだろうという噂や憶測はある。しかし、そのうちのいくつかが的を射ているとしても、最終的に納得し結婚を決めたのはフレデリックだ。だからこそ、彼は感謝を述べている。理由はどうあれ、彼はその令嬢と夫婦となって、今はひとつ屋根の下で暮らしている。
――どうして。
口からは我知らず、そんな呟きが漏れ続ける。それは自分の中の心象を裏切って結婚した彼に対しての言葉であったし、彼を理解した気になって想いを伝えようとしなかった自分に対しての言葉でもあって――突然現れて彼にそんな決定をさせるに至った『妖精令嬢』に対する言葉だったかもしれない。
彼が結婚したことによって、可能性が生まれてしまったのだ。フレデリックにとって結婚とは、絶対に忌避するようなものではなくて、何かしらの条件が満たされるのならばしても良いことだったと証明されてしまった。それは、何かが違っていれば彼と結ばれていたのは自分だったかもしれない、という可能性を生んでしまったのだ。
自分がその条件を満たせるのかどうか、そんなことを考える冷静な理性は、今のマイヤにはない。彼女の思考を占めるのは、想いを伝えていればあるいは、ということと、自分が何もできないうちに、彼には妻と呼び傍に置く唯一の人ができたということだけである。止せば良いのに、一度転がり出した思考は止まるところを知らない。
彼は妻となった人に、どんな言葉をかけているのだろう。どんな顔を見せているのだろう。どんな声で名前を呼んで、どんな風に、触れるのだろう。これまでそれは、誰も知り得ないことだった。なのに急に現れた人が、彼の全てを手に入れてしまった。
彼は誰のものにもならないと盲信していた。しかしそのくせ、もしかしたらを、想像した。
もしかしたら、もしかしたら。いつか気付いてもらえるかもしれないと。微笑んで手を差し伸べてくれるかもしれないと、名前を呼んで抱きしめてくれるかもしれないと。自分だけを、見てくれるかもしれないと。澄ました顔を引き剥がして、どうしようもなく浅ましい女の顔を、暴いて欲しいと――そんなことを考えては、押し殺すように彼の名を呼んで、眠れない夜を何度も過ごした。
全く矛盾していた。
誰のものにもならないことを望みながら、自分だけの人になってくれることを、心の内では愚かにも願い続けていた。結局のところ最初から、彼が欲しかったのだ。そう想うことが、望むことそのものが彼に相応しくない気がして、押し込めてなかったことにしようとしていただけで。
いつだったか、誰かが言っていた。人は届かないから、星に手を伸ばすのだと。結ばれることのない人を星に見立てた言葉だった。
もしも星に手を触れればどうなるか。天文台の研究員なら皆知っている。そんなことは、不可能だ。触れた瞬間に、人間の脆弱な身体はばらばらに分解されて、漂う小さな原子になってしまうということは、当然に周知されている初歩的な知識だ。
ひとつ大きな息をついて、マイヤは再び横になる。天井に向かって延べた手は、虚空を掴んだ。
――それでも、いいの。
その星に、その人に、手を伸ばしてばらばらになるのなら、それでもいい。
たとえそれで、後戻りが、できなくなっても。
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