第54話 渇きを満たす

 次の日になっても頬の痛みは残っていた。それほどまでにお市が怒っていたということだろう。

 冷たい水で顔を洗い、井桁に手をついて大きくため息をついていると、たすき掛けした腰紐を後ろからくいっと引っ張られた。

 振り返るとそこにはこれから日課の散歩に行くのであろう小豆とお市がいた。

 「……なに?」

 俺が口を開くとお市は無表情のまま家の中を指差し、それから何かを叩くように手を動かすとくるりと方向転換をして小豆を連れて走り去っていった。

 「…」

 二人の背中を見送った俺は再び大きなため息をついて家の中に入る。

 流石にもう一度お市に叩かれるわけにはいかないので気乗りしないが仕方がない。俺は小梅のいる部屋の襖を軽く叩いた。

 しばらくするとほんの少しだけ襖が開いて中から「え?わっ!」と驚いた声がした。

 小梅が既に目覚めていたことに心ではがっかりしながらも俺は笑顔で尋ねる。

 「小梅さん、ちょっとだけお話ししませんか?」

 「え!あ、ちょっとだけ待ってください!」

 中からドタドタと駆け回る音がして、ようやく襖が開いた。

 「お、おはようございます御言様」

 寝癖のついた髪を撫で付けながら少し気まずそうに視線を泳がせて「どうぞ」と小梅は俺を部屋へ招き入れた。

 脱がれたままの浴衣がちらりと視界に入る。

 「あ!あわわ」

 小梅は顔を赤くしながら浴衣を部屋の隅へ押しやると、猫のようにその上に丸くなって

 「き、着るのはお市ちゃんが手伝ってくれたんですけど、その、脱いだ物を畳むのは苦手で」

 涙目で弁明する小梅が昔の自分に重なって、少しだけ微笑ましくなった俺は腰を下ろしてその浴衣を持ってくるように言った。

 湯気でも出るのではないかというほど顔を赤くした小梅が浴衣を持って俺の側へ座る。

 「それじゃあまずは浴衣を広げましょう、小梅さん」

 俺の言う通りに小梅が浴衣を綺麗に広げた。

 「次はここをこう畳んで、それでここを折り返す」

 「ここを…こうっ!ですか?」

 「そうそう、上手です!」

 言われた通りに浴衣を畳んでいく小梅の隣で俺はにこにこと微笑む。仲良くすればするほど別れ難くなることは分かっているのだが、心の隅に彼女へ気をつかってしまう自分がいるせいか冷たく突き放すことすらできない。

 「御言様!できました!」

 昨日のことなど忘れたかのような純粋できらきらとした瞳で畳み終わった浴衣を無邪気に見せてくる小梅に、俺はつい妹である八千代にするように「よくできました!」と言って頭を撫でてしまった。

 火がついたように顔を赤くする小梅に気がついた俺は急いでその手を離す。

 何をやっているんだと心の中で自分を叱責しながら小梅の顔色を伺っていると「あのっ!」と彼女が俺の瞳をとらえた。

 昨日のようなことになるのではと俺は身構えたが、小梅の口から出た言葉は予想にもしないものであった。

 「御言様!わ、私も妹にしてください!」

 「…え?」

 言っていることがよく分からず目を点にしていると、小梅がわたわたしながら言葉を続ける。

 「そ、その、山の神様の所へ行くまでの間、八千代ちゃんにするみたいに接して欲しいんです!わがまま…だめですか?」 

 子犬のようにこちらを見上げる小梅を見て俺はぎゅっと胸が締め付けられた。

 小梅を巫女にすると自分の身勝手な理由で決めたのは俺。小梅の母親を殺したのも、これから小梅を殺すのも俺。

 それなのに何も知らない彼女は俺を慕ってくれているという事実に罪悪感が膨れ上がる。だが、もう後戻りもできない。今、俺にできることは

 「うん。分かった。いいよ、小梅ちゃん」

 全てを隠したまま彼女の最期の願いを叶えてあげることだけだ。

 八千代にするように、にこりと笑って頭を撫でると小梅は目を細めて幸せそうに、しかし少しだけ悲しそうに笑った。




 本当は恋人にして欲しかった。

 しかし目の前で優しく微笑む彼を見て、あぁ、これでよかった、と小梅は思った。

 昨晩、内に秘め続けたこの思いを告げようとしたが彼はそれを拒んだ。理由は幼い自分でも分かる。

 だから今日、小梅はこう言った。「妹にして」と。

 そうすれば次の満月、巫女として山の神様とお母様のいる所へ行くまでの間、彼を独り占めできる。たくさん甘えたり、たくさんお話ししたりできる。

 だから今はまだ、妹としてそばにいることを選んだのだ。

 大丈夫。御言様は優しいからきっと許してくれるはず。

 「御言お兄ちゃん」

 そう言って八千代ちゃんがするように彼に抱きついてみると、とても温かかった。

 妹であるというだけで優しい匂いのする彼に毎度抱きついていた八千代ちゃんが少しだけ羨ましくなったが、これからは自分だけの特権になるのだと思うとその嫉妬心もいくらか和らいだ。

 彼の手がわしゃわしゃと頭を撫でる。

 それが心地よくて小梅は瞳を閉じた。

 お母様の手とも、お父様の手とも違う手。

 目を開けて彼の顔を見上げてみると優しく細められた美しい、しかしどこか寂しげな赤い瞳がこちらを見ていた。

 ああ、やっぱり好きだなぁ、と思いながら小梅はゆっくりと彼から離れた。

 「ねえ、お兄ちゃん。あやとりして遊ぼ!お母様がいないから一人じゃ退屈で…」

 そう言ってお母様からもらった赤い紐を取り出すと彼は「いいよ」と言って笑った。

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