第47話 矢の如し

 それから約三年の月日が流れた。俺は十歳になり、背もぐっと伸びて村の大人たちからは会うたびに「御言様は大人びて更にしっかりしたお方になられたわねぇ」と言われ、今までは村の人から茂平へ任されていた仕事も少しだけこちらに回してもらえるようになった。

 村の人たちに頼られるようになった俺はより一層、勉学や修行、仕事に励んだ。

 「よし、今日はこんなところかな」

 傾きかけた太陽を背に草むらから立ち上がり、わずかに茜色に染まった空を見上げる。

 「もうこんなに時間が経ってたなんて…。早く帰らないと」

 去年くらいからだろうか。今までは黒い影のような形であった物の怪たちの輪郭がやけにはっきりと見えるようになった。頭が異様に大きい人間のような姿や人の顔をした四足歩行の動物など、影のような姿のままの方が良かったと思ってしまうほど悍ましい姿をした物の怪たちが村のあちこちを行き来している。

 村の人の中にも物の怪の姿が一瞬見えた気がしたと言う者や誰もいないはずなのに視線を感じる、飼っている犬が何もないのに吠え続けると言い出す者が出始めた。再び災厄がやって来るのではないかと不安がる村の人たちに頼まれ、俺は週に一度、今までの壱の巫女と弐の巫女がその身を使い作った結界を管理する役目を受けることになった。

 「あっちはどうしているかな」

 毎度のように結界の綻びがないか確認し終えた俺は木々の並ぶ隙間から村の方を見つめる。その時

 「んー」

 少し高い人の声のようなものがどこからか聞こえて来た。

 驚いた俺は慌てそうになるのを堪えて静かに、ゆっくり声のした方へ視線を向ける。

 「んー んー」

 五本ほど離れた木の向こうに誰かが立っている。

 「んー」

 裂けているのではないかと思うほど口を釣り上げた笑顔をした全身肌色の背の高い人間。

 最悪だ。やはりもう少し早く切り上げておくべきだった。夕暮れ時からは物の怪たちの領域だと茂さんに散々聞かされていたのに。

 人の形をしてはいるものの人間ではないそいつと見つめ合うように対峙した俺は、そのまま一歩、二歩と後ずさり、そして

 ピィーーーッ

 指笛を鳴らしてその場から全力で走り出した。

 「んーーーー」

 それと同時に後ろから先ほどの物の怪が声を発しながら追いかけて来る。

 だいぶ足も早くなった俺だが、やはり相手の図体の方が大きいため徐々に背後の声に距離を縮められる。走りながら肩越しに後ろを振り返ると、物の怪は手足をぐにゃぐにゃと動かしながら先ほどの笑顔のまま気持ちの悪い走り方をして俺を追いかけてきていた。

 「は はっ くそっ なんであんな走り方なのに速いんだよ!」

 悪態を吐きながら全力で走り続ける。それよりあいつはまだ来ないのか?

 正直これ以上逃げ続けるのはきつい。他の手を打とうか、と考えながら村の方へ走っていると視界の端の方から何かがぴょんと出てきて、俺とすれ違うようにして物の怪の方へ走っていった。

 「グルルル ワン!」

 「小豆、遅い!」

 足を止めて後ろを振り返ると「んー」と相変わらずの笑顔を浮かべる物の怪の足に小豆が噛み付いていた。

 小豆に噛みつかれた物の怪は体に力が入らなくなったのかその場にぐにゃりと倒れ込む。好機と言わんばかりに小豆が物の怪の首元に噛み付くと物の怪は「んー」と言いながら噛まれた場所から黒い煙を出し始めた。

 「小豆!よし!」

 俺の声と同時に小豆が噛むのをやめてこちらに走ってくる。

 「逃げるよ!」 

 そう言って再び俺は走り出す。小豆の力ではあの物の怪は祓えない。せいぜい足止めするくらいだ。

 物の怪が起き上がらぬうちに俺たちは村の方へ逃げ帰った。



 「お市さん」

 走って汗だくになった俺の呼びかけに、子供達と遊んでいた泥人形のお市さんがくるりと振り向く。泥人形だから人間の成長に合わせて体の大きさを作り変えられるのか心配だったが、お市さんは村の子供と遊んで交流する間に人間の成長の速さまで覚えたらしく、毎晩あの川に行っては自分の体を人間のように成長させていった。今ではすっかり七歳の少女の姿形で村の人からも茂平の一人娘だと認知されている。

 「帰るよ」

 そう言うとお市さんは一緒に遊んでいた少女たちの方に顔を向け、手を振り、俺の元まで駆け寄って来た。

 一緒に遊んでいた少女たちが「もうちょっとだけ、いいでしょ?御言様」と不満げに訴えてくる。

 「だめだよ。ほら、鴉もお家へ帰ってる」

 茜色の空を指さすと少女たちはムーっと頬を膨らませながらも家の方へ帰っていった。そんな中、三人の少女だけが帰ろうとせずにそのまま残っていた。

 三郎太さんのところの三女である梅子と俺の妹の八千代と…村長の一人娘のお雪だ。

 「御言様、今日もお仕事だったの?明日は一緒に遊んでくれる?」

 梅子が子犬のような瞳で俺を見上げると、今度は八千代が俺にぴたりと抱きついて

 「お兄様はお仕事ばっかり。八千代もお兄様と遊びたい!」

 と駄々をこね始めた。

 「はいはい、今度ね」と軽くあしらうと「今度っていつ?明日?明後日?」と訊かれ俺は「うーん。今度は今度だよ」と曖昧に返すことしかできなかった。

 ついこの間まで赤ん坊だった妹がもうこんなに自分の意見をはっきり口にすることができるようになったのか…とじーんと胸の奥が熱くなるのを感じていると

 「ほら、二人とも!御言様が困ってるでしょ。もう帰るわよ!」

 お雪が小梅と八千代の首根っこを掴んで俺から引き剥がした。

 村長の娘であるこの子と妹の仲が良いのは俺としては少し―いや、かなり複雑な心境だが、今のところは害もなさそうだし、村長の方もこうして娘と仲の良い子供に手を出して溺愛しているお雪を泣かせるような真似は簡単にできないだろうと考えた俺は、彼女らの交友関係には口出ししないようにしている。

 「ほら、日が暮れる前に皆帰りなさい」

 笑顔でそう言うと三人は少し名残惜しそうにしながらお市さんと俺に手を振って、明日は何する、あれするなどと話しながら帰路についた。

 「…時間はあっという間だね」

 自分の足でしっかりと歩く妹の後ろ姿を見て心に風が吹く。俺一人だけがずっと過去に取り残されたままの気がして足がすくむような心地になったが、大きく息を吸い込んで雑念を振り払う。

 「さ、俺たちも帰ろうか」 

 表情一つ動かさないお市さんが俺の言葉にこくりと無言で頷き、小豆の手綱を手から奪い取って家に向かって駆け出した。

 言葉は話せずとも、表情は変わらずとも、お市さんは人間の子供のように全身で感情を表現するかのように動く。

 なんだか自分の方が人間じゃないみたいだ。

 自分の心の奥にある固まった黒い影を見ながら俺はそう思った。

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