第38話 今来むと

 突如降ってきた雨の中、俺たちは家へ続く石階段を駆け上がった。

 空から降り注ぐ数多の雫が草木に当たり、パタパラと気持ちのいい音を立てながら緑を一層深く染め上げていく。

 「小豆、急げー!」

 後ろをついてきている小豆にそう呼びかけるといつもの「ワン」という元気な返事の代わりに「クーン」という声が聞こえた。

 「小豆?」

 階段を上る足を止め振り返ると十段ほど下の階段でへたり込んでいる小豆がいた。

 「小豆、ほら、もうちょっとだから」

 そう言って呼んでみるが小豆は立ちあがろうとしない。

 「もうっ」

 いつものように甘えているだけだと思った俺は仕方なく階段を下り小豆を抱えようと手を伸ばした。

 小豆に触れたその瞬間、ピリッと電流が走った気がした俺は咄嗟に小豆から手を離す。

 この感覚、俺が呪術を受けた時と同じ…

 それがわかった瞬間、全身からサッと血の気が引いた。

 再び大切なものを失うかもしれないという恐怖ですくむ足をバシッと叩いて小豆を抱え階段を駆け上がる。

 「だいじょうぶ、大丈夫だからね」

 か細い声で鳴く小豆を抱いて家に駆け込んだ俺は滴る雨水で床が濡れるのも構わず茂平の部屋へ一目散に走り、その襖を勢いよく開いた。

 茂平は雨に濡れたまま青い顔をして小豆を抱いている俺を見て驚いた顔をした後、「どうかしましたか?」と心配そうに俺と小豆を撫で、さらに目を見開いた。

 「大丈夫だから落ち着いて、私の言う通りに」

 まずは着替えて、それから小豆の体を拭いてあげてください、と言われた俺は着物を着替えて小豆の体を拭き始める。

 不安そうな瞳をしてこちらを見る小豆の頭を撫でて「大丈夫だよ」と震える声で語りかけていると、茂平がいろいろな道具を持って戻ってきた。そしてお札が縫い付けられた座布団に小豆を寝かせ、部屋の四隅に火を灯し、酒とお札を置いてから俺のそばに腰を下ろした。

 「御言くん、大丈夫ですよ。まだ目印をつけられただけです。大丈夫」

 それでも小さく震えている俺の背を撫でながら茂平が続ける。

 「今晩を乗り切れば大丈夫です。この部屋には簡単なものではありますが結界を張ったので、小豆に目印をつけたナニカは入れないはずです」

 ――今日は御言くんもこの部屋から出ないでください。

 「いいですね?」

 力強い瞳でそう言われた俺は大きく頷いた。

 

 それから日が暮れて夜になるまでの間、俺たちは今日あったことを話したり、茂平が結界を張る前に部屋に持ってきていたおにぎりを食べて過ごした。

 そうこうしているとあっという間に日が暮れて夜がやってきた。

 俺は小豆の横に敷かれた寝具に横になる。俺と小豆を囲むように張られたもう一つの結界の外で、正装をして刀を持った茂平がこちらを見て頷く。

 その合図を確認した俺は自分と小豆に不思議な模様の描かれた面布をつけた。これをつけていればあちら側はつけた目印がどこにあるのか分かりにくくなるらしい。

 普通の物の怪であればそもそもこの家を守るように張られた結界に阻まれてここまで来ることはできないと茂平は言っていたが…

 不安でいっぱいになった目を茂平の背中に向ける。

 大丈夫…大丈夫……だよね?

 「っ!来た」

 茂平の声の後、空気が大きく震えた。

 「超えられた!?」

 驚きと焦りの混じった茂平の声に俺は身構える。隣でブルブルと震えながら不安そうに辺りを見回す小豆と自分自身を安心させるために俺は柔らかな茶色の毛並みを優しく撫でた。

 大丈夫大丈夫。茂さんもいる――


 とん とん


 突然、茂平の目の前の障子が叩かれた。

 俺はびくりと大きく肩を震わせる。音に驚いたわけではない。

 うそだ…!

 障子を一枚挟んだの向こう側にいるであろう者の気配に俺は覚えがあった。障子の隙間から入ってきた、あの洞窟と同じ生暖かい風がゆらゆらと部屋の灯された火を揺らす。


 「――――」


 何と言っているのかわからない女の声のような音を発しながら奴は とん とん と障子を叩き続ける。


 とん とん 「――――」


    とん とん 「――――――――」


 気圧されたように息を飲み込んだ茂平がキッと目つきを鋭くして障子の向こうにいる奴に対して口を開いた。

 「貴様は―――何者だ!?」

 「……貴様は―――何者だ!?」

 そっくりそのまま返ってきた言葉に茂平の顔が険しくなる。

 「ア アアア ガ キ キ貴様は―――何者だ!?」

 再びその言葉を繰り返した奴の声は茂平の声と全く同じだった。真似をしているのか?

 これはまずい、と思ったのか茂平が歌を口にしながらゆっくりと腰に差した刀を抜き、空を切った。

 刀が風を切る音と共に障子の向こう側から甲高い叫び声が響いた。とたんにバチン!と大きな音をたてて茂平が身につけていた緑色の数珠が弾け飛んだ。

 弾け飛んだ数珠を見た茂平の表情に明確な恐怖の色が混ざる。

 奴がこの部屋に入ってくるのではないかという恐怖で俺は目をギュッと閉じたが、何か起こるどころか障子を叩く音さえしない。

 コロコロと玉の転がる音が全て止んだ時には奴はどこかへ逃げたのか、障子の向こうにあった気配はすっかり無くなっていた。

 再び戻ってきた静寂の中、茂平が大きく息を吐く。

 「嘘…だろ……」

 散らばった数珠を見下ろす茂平の声は魂を抜かれたかのように空虚だった。

 

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