第37話 犬張子

 みや姉が巫女になって二週間ほど経っただろうか。俺は毎日、誰にも見られぬようこっそりと笑顔を作る練習をしていた。

 今日も…だめだった

 縁側に座り暖かな日差しを受けながら俺はため息をつく。

 いや、そもそも今まではどんな風に笑っていたっけ

 そんな考えが頭をよぎってはじめて俺はここ最近、自分が全く笑っていないことに気が付いた。

 「えがお えがお」

 自分に言い聞かせるように小さく呟きながら口の端をにーっと手で押し上げていると

 「ワン ワン」

 遠くで犬の鳴き声と茂さんが何やら叫ぶ声がした。

 野良犬でも出たのかな?

 そう思って立ち上がったその時、どこからか現れた茶色の毛玉がものすごい速さでぶつかってきた。

 あまりの衝撃に尻餅をついた俺の周りをぐるぐると回るその犬を捕まえて抱きかかえてみる。噛んだり暴れたりしないどころか鳴きもしない。誰かに飼われていたのだろうか。

 じっと腕の中の犬を観察しているとベロンと顔を舐められた。

 尻尾を振りながらペロペロと俺を舐め回す犬が可愛らしくて自然と笑みが溢れる。

 「こらこら。ははっ、くすぐったいよ」

 俺がよいしょ、と犬を抱えて立ち上がるのとほぼ同時に茂平が息を切らしながら走ってきた。右手にはこの犬が繋がれていたであろう縄が握られている。

 「ねえ茂さん、この犬飼いたい!」

 目を輝かせながらそう言った俺を見て茂平は安心したように目を細めると

 「もちろん、いいですよ」

 と俺の頭を撫でた。


 犬の名前は小豆こまめになった。

 「小豆、行くよ!」

 「ワン!」

 草履を履く俺を追い越して小豆がぴょんと外に出る。

 「あはは、待ってよ~」

 小豆が来てから俺は再びよく笑うようになった。毎日、朝から晩まで一緒に遊んだり勉強したり忙しくしていると嫌なことや悲しいことを思い出さずにいることができる。

 今日もいつものように俺たちは遊びに出かけた。

 夏の匂いがし始めた空の向こう側に雨が降りそうな雲が浮かんでいる。

 「夕方には雨が降りそうだから今日は早めに帰ろうね」

 俺がそう言うと小豆は「ワン」と一つ、返事をするように鳴いて走り出した。

 鳥居をくぐり石階段を駆け下り、そして遊び場に着いた俺たちはいつものように小さな物の怪を探して歩く。地面の匂いを嗅ぎながら先導する小豆の後ろを俺は周囲を警戒しながら着いて歩いた。

 茂平が言うには小豆には少しだけ物の怪を祓う力があるらしい。だから俺を狙う物の怪や呪術を代わりに引き受けても少しであれば問題ないと。だが小豆の力は弱いため訓練して力をつけさせないと何か起こった時にすぐに死んでしまうかもしれない。

 それを聞いて以降俺はこうして毎日、小豆に力をつけさせるために小さな物の怪を狩らせているのだ。

 突然、小豆が顔を上げ走り出した。どうやら獲物を見つけたらしい。

 小豆を見失わないように俺も走って追いかける。

 背の高い草をかき分けると少し開けた所に出た。草の陰に隠れるように伏せている小豆のそばまで姿勢を低くして近寄り、目線の先を追いかけるとそこには黒くて小さな影がノロノロと地面を這うように動いていた。

 「小豆」

 俺の囁き声に小豆が臨戦態勢になる。

 「まだ……まだだよ」

 よし!という合図と共に小豆が草むらから飛び出し黒い影に噛みついた。捕えられた物の怪は「ギギギ」と鳴きながらもがいていたが、やがてジュゥウという音をさせながら黒い煙になって消えていった。

 「ワン!」と嬉しそうに鳴いて駆け寄ってきた小豆を抱きしめてわしゃわしゃとその頭を撫で回す。

 「よしよし!よくできました!」

 「ワンワン!」

 「はいはい、ご褒美ね。それ食べたら次のやつ探すよ」

 美味しそうにおやつを食べる小豆を撫でて立ち上がった。

 そういえばあの物の怪はどこに行くつもりだったのだろう?

 奴らが何か意思を持って行動しているとは到底考えられないがこの時の俺はどうしてか、その疑問の答えを絶対に知らなくてはという謎の使命感に駆られて歩き出した。

 物の怪が向かおうとしていた先には伸び放題になった草が茂っていたが構わず進んでいく。何度も雑草に足をとられかけながらも進み続けると、だんだんと地面がぬかるんできた。

 引き返そうか、と思ったがせっかくここまで来たのだから何か見つけて帰りたいという気持ちが勝り俺はなおも進み続ける。

 自分の影が少し伸びた頃、やっと開けた場所に出た。目の前には大きな池が広がっており、凪いだ水面には曇ってきた空が映っている。

 「こんな場所あったんだ…」

 池に近づいて中を覗き込んでみるが魚や水草がある様子もない。不思議な池だな、と思いながら少し身を乗り出していると「ワン!」と小豆が呼ぶ声がした。

 ハッと我にかえって後ろを振り返ると少し離れたところで小豆がこちらを見ながら唸り声を上げている。置いていってしまったことに対して怒っていると思った俺は走って小豆の元まで戻った。不機嫌そうにフンスと鼻を鳴らした友の後ろを謝りながらついて行く。

 「―――」

 去り際に池の方から生暖かい風と共にどこかで聞いたことのあるような声がずるりと俺の背を撫でたような気がした。

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