第17話 岐路に立つ

 1人部屋に残された俺はどれだけもがいても這い上がれぬ暗く深い、光の届かぬ谷底へ落ちたような絶望感にその身を震わせて泣いた。

 そして泣き疲れて少し冷静になってから考えた。

 誰かに助けを求めたいがそんなことをすれば自分の大切なものをあいつに全て奪われてしまう。ましてや相手はこの村で一番偉く、神をも狂わせる術を使う男。奴から全てを守るためにはどうすればいいのか。幼い俺の答えはすぐに出た。

 そうだ。奴をこの世から消して仕舞えばいい。家族にも、村の誰にも気が付かれないように。山奥の雪が誰にも知られることなく溶けるように。

 だが今のままでは確実に狩られるのはこちら側だ。奴の寝首を掻くには足りないもの、知らないことが多すぎる。

 心の奥の方、光も届かぬ闇の中で何かがはっきりとした輪郭を得た気がした。

 ここから先は何が起ころうと、地獄への道をただ一人で歩いていかなくてはならない。

 そうして辿り着いた先のことを考えると正直恐ろしかった。だがもう決心はついた。俺は自分で、自分自身の手であの穏やかな光を守る。

 拳を握り、立ち上がる。

 そして戸口に手をかけ目を閉じた。

 目の前に広がる深い闇。今ならまだ引き返せるが


 俺は光に背を向け、その底も見えぬ泥中へ足を踏み出した。




 「茂さん」

 日課の掃き掃除中、薄闇の中から小さな声に呼びかけられた茂平が驚いた顔をして振り返った。

 「あ、あぁ、御言くん」

 そう言って笑った顔は薄い夕日のせいか、かなりやつれているように見えた。

 「茂さん、そこ、落ち葉ないよ」

 俺がそう言うと茂平は少し目を見開いて自分の足元を見て、それから力なく笑い

 「はは、本当ですね。少し疲れが溜まっているのかもしれませんね…」

 顔に影を落とした。

 ここ数日、色々なことが起こり過ぎて流石に疲れているようだ。

 そんな茂平に更なる重圧を加えるような話は今するべきではないのかもしれないが、こちらも一刻も早く行動しなくてはならない。

 俺は残照に照らされた茂平の着物の袖をぎゅっと握り、そして半ば強引に引っ張るようにして彼の家の方へと歩いていく。

 茂平は俺の行動に少しだけ驚いた顔をしたが、されるがままについて来た。


 ここであれば誰にも聞かれまい。


 茂平の家の裏手、首をもたげた柳の側で立ち止まり真っ直ぐ彼の目を見つめた。

 そして

 「茂さん、僕の…俺のことをここに置いてください」

 地面に手をついた。

 突然の俺の行動に今度こそ茂平は驚いた顔をした。

 「と、突然どうしたんですか?ここにって…御言くんの家はここから近いではないですか」

 おろおろとしながら茂平が俺を起こそうとする。

 が、俺はそれに抵抗して無言で地面に額をつける。

 普段と違う俺の様子に気がついたのか、茂平は俺を起こすことを諦めゆっくりと立ち上がった。

 「御言くん…。なぜ突然そのようなことを?何かあったのですか?……まさかおねねや村の男たちの失踪について」「理由は言えませんっ」

 俺の答えに茂平は口を閉じ、じっとこちらを見下ろした。

 背中に妙な緊張感が走る。

 「俺は…俺はみんなのことを守りたいのに知らないことが、分からないことが沢山あって!このままじゃ全然っ!ぜんぜんっ!だから僕、ぼくはぁっ」

 きちんと言わないと。そう思って口を開くが出てくるのは涙ばかり。

 べそべそと泣き始めた俺の頭にそっと大きく温かい手が乗せられた。

 茂平は困ったように小さく息を吐き、我儘な子供をあやすような優しい口調で

 「御言くん。君もいろいろ思うことがあったんですね。でも、ほら。もう日が暮れてしまいます。今日はお家にお帰りなさい。家まで送りま――」「ダメなんです!」

 引き下がろうとしない俺に茂平がスッと眉を寄せた。

 「なぜ…?」

 冷たく突き放すような声色に俺は少しだけ怖気付く。

 「それは……」

 そんな自分を鼓舞するように茂平を見つめる目に力を入れ、

 「それは一刻も、一刻でさえ時間が惜しいのです!俺には絶対に成し遂げなくてはいけないことができたんです。でもそのためには知らないことが多すぎて…。でも茂さんの、あなた様の側にいれば色々なことを学べる!起きてすぐから眠る瞬間まで、全ての時間を使って!だからどうか!―――どうか…」

 俺は再び深く頭を下げた。

 膝の前で揃えた手のひらが小さく震える。

 「もう一度聞きますが……何が起こってそのような考えに辿り着いたのかは…言えないんですね?」

 風に攫われてしまいそうなほど静かな、しかし確かな不満、怒り、悲しみを孕んだ声が俺の髪を撫でた。

 「…はい」

 喉から搾り出すようにしてなんとかその二文字を発する。

 その答えを聞いた茂平の表情が悲しげに歪んだ。

 「そん――私は―――ないですか?」

 茂平の曇った声は木々のざわめきに攫われ、俺には何と言ったのか分からなかった。

 ただ、そう言った彼の瞳が微かに揺れていたのがやけに鮮明に見えた。

 静かな空白が、向かい合う瞳の間に立ちはだかる。

 「…分かりました。」

 茂平が大きく息を吸ったのと同時に再び時間が動き出した。

 「御言くん、私が教えられることは全て教えます。しかし全てを言葉で説明することは難しい。私のことをよく観察して自分でも学んでください。もちろん、朝起きてから夜眠るまでね」

 「え?」

 俺はガバッと体を起こして

 「ほ、本当に…?」

 茂平の顔を見つめた。

 断られると思っていたので思わず声が上擦った。

 そんな俺を見て茂平は少し困ったように笑い

 「ええ」

 確かに頷いた。

 俺は嬉しさのあまり再び地に額をつけ

 「っ!ありがとうございますっ!ありがとうございます!」

 ぽたぽたと目から涙が溢れ出した。

 底も見えぬ泥中に一筋の淡い光が降り注ぐ。 そんな気がした。

 「でもこれだけは約束してください」

 茂平が土の付いた俺の手を優しく包み込む。

 「君がその『成し遂げなくてはならないこと』に必要な材料が全て揃ったその時には…」

 そこまで言って再び悲しそうな顔をして

 「その時には君の知っていること、全てを私にも教えてください。もちろん、それを成す前にね」

 俺の手を包む茂平の大きな掌に力がこもる。

 その言葉に俺は大きく頷いて答えた。

 茂平は優しく微笑むと手を握ったまま俺を掬い上げるようにして立ち上がらせる。

 「さて、一刻も無駄にはしたくないのでしたよね?ならば今この時からあなたを私の弟子にします。とはいえ私の専門は呪術の類。使い方によっては毒にも薬にもなります。そこは必ず忘れずに覚えておいてください」

 「はい!」

 俺の返事を聞いた茂平はにこりと笑って

 「うん、いい返事ですね。ではさっそく前回教えたことの復習から始めましょう」

 そう言うと茂平は家の敷地の外でもぞもぞと動いている小さな黒い影を指差した。

 どうやらその黒い影は敷地内に入ろうとしているが、張ってある結界に阻まれているようだ。

 「あそこに小さい物の怪が見えますね?あれを祓ってみてください」

 「…はいっ」

 俺は少しだけその黒い影に近づく。

 そいつは小さく不快な音を発しながら見えない壁に何度も体当たりをしている。

 悍ましい。

 俺は前に茂平から教えてもらった通りの言葉を口にしながら清められた塩をそいつに向かって投げつけた。

 じゅぅうう

 黒い影は音をたてながら小さくなり、そして跡形もなく消え去った。

 よかった。上手くできた

 そいつが完全に消えたのを確認して茂平の方を振り返る。

 茂平は満足げに頷きながら

 「うん、よくできました。合格です」

 俺の頭を撫でた。



 


 こうして白い鳥は月明かりを目指して暗く恐ろしい闇の中を飛び始めたのだ。

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