第10話 咲いては散る花
微かに水の流れる音がして、俺は目を覚ました。
辺りは薄暗く、横たわっていた地面は湿っていて冷たい。
「……あれ?」
見覚えのある…ここは……
「どうくつ…?」
そう分かった瞬間、一気に目が覚めた。
しかしあの時とは何か違う。
あの生暖かく、嫌な空気が全くないのだ。
小さく息を吐いて奥へと歩みを進める。
ぽちょん
ぽちゃ
ぴちょん
水の滴る音を聞きながら歩いていると
「御言くん」
小さな声が後ろから響いた。
振り返ってみるとそこにはいつもと何ら変わりない姿のおねねが立っていた。
おねねは柔らかな頬を少し赤く染めながらニッと笑うと俺の手を握り、歩き始めた。
「お、おねね?おねね…だよね?」
先を進むおねねにそう尋ねると、以前と何も変わらない笑顔が返ってきた。
思わず泣きそうになる。
これが現実であればどれだけよかったか。
おねねに手を引かれるがまま歩いていると、目の前に光が見えてきた。
乳白色の柔らかな光と共に香る花の匂い。おねねは握っていた俺の手を離すとタタタと駆け出した。
俺もその小さな背中を追いかけて光に向かって走り出す。
「わぁ~」
洞窟を抜けた俺は柔らかな温かい日差しに包まれながらあたりをぐるりと見まわした。
満開になった桜の木に青い空。地面にはシロツメクサが咲いている。そして
『やあ、御言』
真正面にある祠の屋根の上にいた山の神様がふわりと地面に降りてきた。
『無事に来ることができたようで良かったよ』
そう言うと神様は顔の横から布のようなものをこちらに伸ばすと、俺の体をひょいと持ち上げ自分のそばへゆっくりと降ろした。
俺は神様の顔を見上げて尋ねる。
「あの…ここ…」
『ここは私に領域。つまり神域だよ。そして山のそばに住む生き物たちの魂が最期に帰る場所へと繋がる地。普通は来ることができないんだけどね。御言はトクベツだよ』
そう言った朱い顔が少し微笑んだように見えた。
『さて』
佇まいを正した神様がスッと視線をずらした。
『あの子のこと、決心はついた?』
神様の問いに、シロツメクサで楽しそうに花冠を作っているおねねの方を見る。
穏やかでニコニコとしたその表情を見た俺はおねねの傍にしゃがみ込んで
「おねね」
静かにその名前を呼んだ。
朝露のようにきらきらと輝く黒い瞳が俺の赤い瞳を捉える。
「おねねは…どうしたい?ここにいたい?」
俺の問いにおねねは一度、山の神様の方を見て、それから桜の雨が降る青い空を見上げて
「うんっ!」
ニッと笑って大きく頷いた。
「……そっかぁ」
そう言って下を向いていると
ぽすっ
頭の上に何かを乗せられた。
壊れてしまわないようにそっとそれを手に取り、見てみる。
輪っかの形に編まれたシロツメクサの花冠。
「どう?よくできてるでしょ?千弦さんに教えてもらったんだ~」
楽しそうに笑うおねねに俺は小さく尋ねた。
「ねえ。帰りたいって……みんなの所に戻りたいって…思わないの?」
「う~ん…。分かんない!でもほら、御言くんのこと助けてもらったお礼になれるなら山の神様の所にいてもいいかな~って。それにさ、」
立ち上がったおねねが続ける。
「村で生まれた人たちは死んだらみ~んな、山の神様がお迎えに来てくれて帰るべきところに帰るんだよ。だからね」
おねねは山の神様の傍に行くと、神様に向かってペコリと頭を下げた。
「私は助けてもらったお礼として…神様の所に残ります。御言君のことも…私のことも助けてくださってありがとうございます」
山の神様は顔の横から伸びた布でおねねの頭を撫でると、ゆっくりとこちらへ顔を向けた。
『どうやらこの子の心は決まったみたいだね、御言』
俺は一度花冠へ視線を落としてから立ちあがり、それからもう一度おねねを見てから山の神様に頭を下げた。
「…おねねのこと…お願いします。……おねねも…元気でね。…ありがとう。ごめんね…」
「うん。御言くん、私のこと…最期までよろしくね。お兄ちゃんにも………」
そこまで言って優しい笑顔を浮かべたおねねの肩を山の神様がそっと撫でた。
『そろそろ時間だ。じゃあね御言。その子の体、祠の所に持ってきてね』
山の神様がそう言った瞬間、桜の木からたくさんの花びらが降ってきた。
「御言くん!御言くんはゆっくり、ゆ〜っくりこっちに来てね!その時私っ、絶対に山の神様と御言くんのこと迎えにいくから!」
くしゃっと笑うおねねの顔が桜吹雪の隙間から見える。
俺は再び訪れた急激な睡魔の波に耐えられず、そのまま目をつぶった。
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