奇妙な駈落者

 だが、岩瀬氏がいわれるままに、一と足先に塔を降りて、少しはなれた場所に待たせてあった自動車に乗って立ち去ってしまっても「黒トカゲ」はまだ安心ができなかった。

 相手には明智小五郎といういやなやつがついているのだ。あいつが、どんな知恵をしぼり、どんな恐ろしいことをたくらんでいるか、知れたものではない。

 彼女は双眼鏡を眼に当てて、欄干から塔の下のおびただしい群衆を入念に眺めまわした。挙動の不審なやつはいないかと、熱心に調査した。そうして眼まぐるしく動く群衆を眺めているうちに、われとわが心の弱味に負けて、彼女は言い知れぬ不安になやまされはじめた。

 あすこに塔を見上げてたたずんでいる洋服の男が刑事かもしれない。こちらに、さいぜんからじっとうずくまっているルンペンが、なんだか怪しい。明智の部下が変装しているのかもしれない。

 いやいや、このおびただしい群衆の中には、明智小五郎その人が、何かに姿を変えて、まぎれこんでいまいものでもない。

 彼女はイライラしながら、双眼鏡を眼に当てたまま、展望台の周辺を、何度となく歩き廻った。

 捕縛を恐れることは少しもない。そんなことをすれば、大切な早苗さんの命がなくなることは、敵の方でも知り抜いているはずだ。恐ろしいのは尾行であった。尾行の名人にかかっては、いくら機敏に立ち廻っても、まき切れるものではない。明智小五郎がその尾行の名人なのだ。もしも明智があの群衆の中にまじって、人知れず彼女を尾行し、かくれがをつきとめられるようなことがあったら……それを考えると、さすがの女賊もゾッとしないではいられなかった。

「やっぱりあの手を用いてやろう。用心にこしたことはありゃしない」

 彼女はツカツカと売店の前に近づいて、店番のおかみさんに声をかけた。

「お願いがあるのですが、聞いてくださらないでしょうか」

 売店の台のうしろに、火鉢をかこんで丸くなっていた夫婦の者が、びっくりして顔を上げた。

「何かさし上げますか」

 可愛らしい顔のおかみさんが、愛想笑いを浮かべて答えた。

「いえ、そんなことじゃありません。折りいってお願いがあるのですが。さっきあすこで話していた男の人があったでしょう。あれは恐ろしい悪人なのです。あたしあいつに脅迫されて、ひどい目に遭いそうなんです。助けてくださいませんでしょうか。さっきはうまく言って先へ帰しましたけれど、あいつはまだ塔の下に待ち伏せしています。どうかお願いです。しばらくのあいだ、あなたあたしの替玉になって、あちらの欄干のところに立っていてくださらないでしょうか。その幕のかげで、着物を取りかえっこして、おかみさんがあたしに、あたしがおかみさんに化けるのです。幸い年頃も同じだし、髪の形もそっくりなんですから、きっとうまくいきます。そして、御亭主さん、ほんとうにすみませんけど、おかみさんに化けたあたしを、そのへんまで送ってくださらないでしょうか。お礼は充分します。ここに持ち合わせているだけ、すっかり差し上げます。ねえ、お願いです」

 彼女はさもまことしやかに嘆願しながら、札入れを取り出し、七枚の十円紙幣を、辞退するおかみさんの手に無理ににぎらせた。

 夫婦者はボソボソと相談していたが、思わぬ金もうけに仰天して、別に疑うこともなく、この突飛千万な申し出を承諾してしまった。

 売店は風よけの帆布でグルッと取りかこまれているのでその中にかくれて、そとからは少しもわからぬように着がえをすることができた。

 色白のおかみさんが、「黒トカゲ」のやわらかものを着こんで、みだれた髪をととのえ、金縁目がねをかけて、シャンとすると、見違えるばかり上品な奥様姿になった。

「黒トカゲ」の方は、変装ときてはお手のものである。髪の形をくずし、そのへんのほこりを手の平になすりつけて、ぐるぐると顔をなで廻すと、もう立派な下級商人のおかみさんになりすましてしまった。それにしまの和服に、そでつきの薄よごれたエプロン、継ぎのあたった紺足袋たびというしようだ。

「ホホホホホ、うまいわね。どう? 似合って?」

「飛んだことになったもんだね。かかあのやつ、貴婦人みたいにすましこんでいやあがる。奥さんの方はきたなくなっちまいましたね。上出来ですよ。それならだん様にだって、わかりっこはありゃあしない」

 売店の亭主は両人を見比べて、あっけに取られている。

「ああ、そうそう、あんたマスクをはめていたわね。ちょうどいいわ。それを貸してちょうだい」

「黒トカゲ」の口辺は、白布のマスクに覆いかくされてしまった。

「じゃあね、おかみさん、その欄干に立って、双眼鏡をのぞいてくださいね。お願いしますわ」

 そして、売店の女房になりすました女賊は、その御亭主といっしょにエレベーターに乗って、ざつとうの地上に降りた。

「さあ、急いでくださいね。見つかっては大へんなんだから」

 二人は群衆をかき分けるようにして映画街を通り抜け、公園の木立ちのあいだを、さびしい方へさびしい方へと歩いて行った。

「ありがとう。もう大丈夫ですわ……まあおかしいわね。あたしたち、まるでかけおちものみたいじゃありませんか」

 いかにも彼らは奇妙な駈落者の姿であった。男は耳がわるいのか、頭からあごにかけて、グルグルとほうたいを巻き、その上からきたならしい鳥打帽をかぶり、木綿縞の着物の上に黒らしゃの上っ張りを着て、革のバンドを締め、素足に板裏草履といういでたち。女は前にしるした通りの女房姿。両人とも、不意気なマスクをかけている。その男が女の手を引いて、人眼を忍ぶように、木立ちから木立ちをぬって、チョコチョコと小走りに道を急いでいたのだ。

「へへへへへ、どうもすみません」

 男は気がついて、にぎっていた女の手をはなすと、少しはにかみながら笑った。

「そんなこと、よござんすわ……あなた、どうかなさいましたの、その繃帯?」

「黒トカゲ」は危地を脱し得たお礼心に、そんなことをたずねてみた。

「ええ、中耳炎をやってしまいましてね。もう大分いいのですけれど」

「まあ、中耳炎なの。大切にしなければいけませんわ。でも、あなたいいおかみさんを持ってお仕合わせですわね。ああして二人で商売をしていたら、さぞ楽しみなことでしょうね」

「へへへへへ、なあにね、あんなやつ、しようがありませんや」

 この男少し甘いんだなと、おかしくなった。

「じゃあ、これでお別れしますわ。おかみさんによろしく、ほんとうにこの御恩は忘れませんことよ……ああ、それから、あの着物は、着古したんですけど、おかみさんにさし上げますから……」

 木立を出はずれた公園を縦貫する大通りに、一台の自動車がとまっていた。「黒トカゲ」は男に別れると、その自動車へと走って行った。

 自動車の運転手は、彼女を待ち構えてでもいたように、急いでドアをひらく。女賊はいきなりそのドアの中へ姿を消しながら、何か一こと合図のような声をかけると、車はたちまち走り出した。その車の運転手は「黒トカゲ」の部下であって、あらかじめ打ち合わせておいて首領を待ち受けていたのにちがいなかった。

 売店の亭主は、女賊の車が動き出すのを見ると、何をとまどいしたのであろう。塔の方へは帰らないで、やにわに大通りに飛び出して、キョロキョロとあたりを見廻していたが、ちょうどそこへ通りかかった一台のから自動車に、彼はサッと手をあげて、その車を呼びとめ、飛び乗るが早いか、さいぜんとは打って変った歯切れのよい口調で叫んだ。

「あの車のあとを追跡するんだ。僕はその筋のものだ。チップは充分に出すから、うまくやってくれたまえ」

 車は前の自動車を追いつつ、適当な間隔を取って走り出した。

「先方に気づかれないように注意して」

 彼はときどき指図を与えながら、中腰になって、勇ましい騎手のように、前方をにらみつづけていた。

 彼は「その筋の者だ」といった。だが、はたして警察官なのであろうか。どうもそうでもないように思われる。彼の声には、何かしらわれわれに親しい響きがこもっていた。いや声だけではない。グルグルとまきつけた繃帯の下から、じっと前方を見つめているあの鋭い両眼には、どこかしら見覚えがあるように感じられるではないか。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る