塔上の黒トカゲ
その翌日、約束の午後五時少し前、岩瀬庄兵衛氏は、文字通り敵の条件を守って、明智以外のなにびとにも告げず、ただ一人、T公園の入口、天空高くそびえる鉄塔の下にたどりついた。
T公園といえば、その地域の広さ、日々
ああ、なんという大胆不敵、なんという傍若無人、女賊「黒トカゲ」は、
岩瀬氏は神経の太い商人ではあったけれど、いよいよ賊と対面するかと思うと、胸騒ぎを禁じ得なかった。彼は少しばかり固くなって塔上へのエレベーターにはいった。
エレベーターの上昇とともに、大阪の街がグングン下の方へ沈んで行く。冬の太陽はもう地平線に近く、屋根という屋根の片側は黒い影になって、美しい碁盤模様をえがいていた。
やっと頂上に達して、四方見晴らしの展望台に出ると、下界ではそれほどでもなかった冬の風が、ヒューヒューと烈しく頰を打った。冬の通天閣は不人気だ。それに夕方のせいもあって、展望台には一人の遊覧客も見えなかった。
風よけの帆布を張りめぐらした、菓子や果物や絵葉書などの売店に、店番の夫婦者が寒そうに
欄干にもたれて、下界をのぞくと、ここのさびしさと打って変った雑沓の、数千匹の蟻の行列のような人通りが、足もとにくすぐったく眺められた。
そうして寒風に吹きさらされながら、しばらく待っていると、やがて次のエレベーターが到着して、ガラガラと鉄の扉のひらく音とともに、一人の奥様らしいよそおいの、金縁の目がねをかけた和服の夫人が、展望台に現われ、ニコニコ笑いながら、岩瀬氏の方へ近づいて来た。
今時分、このさびしい塔上へ、こんなしとやかな婦人が、たった一人でのぼってくるなんて、なんとなくそぐわぬ感じであった。
「物ずきな奥さんもあるものだ」
と、ボンヤリ眺めていると、驚いたことには、その婦人がいきなり岩瀬氏に話しかけたのである。
「ホホホホホ、岩瀬さん、お見忘れでございますか。わたくし東京のホテルでご懇意願いました緑川でございますわ」
ああ、ではこの女が緑川夫人、すなわち「黒トカゲ」であったのか。なんという化物だ。和服を着て、目がねをかけて、
「…………」
岩瀬氏は、相手の人を
「このたびはどうも飛んだお騒がせをいたしまして」
彼女はそういって、まるで貴婦人のように、上品なお辞儀をした。
「何もいうことはない。わしは君の条件を少しもたがえず履行した。娘は間違いなく返してくれるのだろうね」
岩瀬氏は相手のお芝居に取り合わず、用件だけをぶっきらぼうに言った。
「ええ。それはもう間違いなく……お嬢さん大へんお元気でいらっしゃいます。どうかご安心あそばして……そして、あの、お約束のものはお持ちくださいましたでしょうか」
「ウム、持ってきました。さあ、これです。しらべて見るがいい」
岩瀬氏は懐中から、銀製の
「まあ、ありがとうございました。では、ちょっと拝見を……」
「黒トカゲ」は落ちつきはらって、小函を受け取り、
「ああ、なんてすばらしい……」
みるみる、彼女の顔に歓喜の血がのぼった。
「五色の
そしてまた、彼女はうやうやしく一礼をするのであった。
相手が喜べば喜ぶだけ、岩瀬氏の方では、命から二番目とまで大切にしていた宝物を、むざむざこの女に奪われてしまうのかと思うと、覚悟はしながらも、言い知れぬ憎しみが感じられて、眼の前にとりすましている女が、一そう憎々しく見えてくる。すると、例の庄兵衛老人のくせで、こんな場合にも、つい憎まれ口がききたくなるのだ。
「さあ、これで代金の支払いはすんだ。あとは君の方から品物がとどくのを待つばかりだが、わしは君をこんなに信用していいのかしらん。相手は泥棒なんだからね。泥棒と前金取引をするなんて、実に危険千万な話だ」
「ホホホホホ、それはもう間違いなく……では、お先にお引き取りを、わたくし、
女は相手の毒口にとりあわず、この奇妙な会見を打ち切ろうとした。
「フフン、品物を受け取ってしまえば、御用はないとおっしゃるのだね……だが、君もいっしょに帰ったらいいじゃないか。わしといっしょにエレベーターに乗るのはいやかね」
「ええ、わたくしもごいっしょしたいのは山々なんですけれど、何を申すにも、お尋ね者のからだでございますから、あなたが無事にお帰りなさるのを、よく見届けました上でなくては……」
「危険だというのだね。わしが尾行でもすると思っていなさるのか。ハハハハハ、これはおかしい。君はわしが怖いのかね。それでよく、こんなさびしい場所で、わしと二人きりで会見しなすったね。わしは男だよ。もし、もしだね、わしが娘の一命を犠牲にして、天下に害毒を流す女賊を捕えようと思えば、なんのわけもないことだぜ」
岩瀬氏は女の小面憎さに、ついいやがらせをいってみたくなった。
「ええ、ですから、わたくし、ちゃんと用意がしてございますの」
ピストルでも取り出すのかと思うと、そうではなくて、彼女はツカツカと売店の方へ歩いて行って、そこに並べてあった賃貸しの双眼鏡を持ってきた。
「あすこにお湯屋の煙突がございますわね。あの煙突のすぐうしろの屋根の上をごらんなすってくださいまし」
彼女はその方を指し示して、双眼鏡を岩瀬氏に手渡すのであった。
「ホウ、屋根の上に何かあるのかね」
岩瀬氏はふと好奇心にかられて、双眼鏡を眼に当てた。塔から三町ほどへだたった、長屋の大屋根である。湯屋の煙突のすぐうしろに物干台が見え、その物干台の上に、一人の労働者みたいな男が、うずくまっているのがハッキリ眺められる。
「物干台に洋服を着た男がおりますでしょう」
「ウン、いるいる。あれがどうかしたのかね」
「よくごらんくださいまし。その男が何をしていますか」
「や、これは不思議じゃ。先方でも双眼鏡を持って、こちらを眺めているわい」
「それから、片方の手に何か持っておりませんですか」
「ウンウン、持っている。赤い布のようなものじゃ。あの男はわしたちを見ているようだね」
「ええ、そうですの。あれはわたくしの部下でございますのよ。ああしてわたくしたちの一挙一動を見張っていて、もしわたくしに危険なことでも起こりました場合には、赤い布を振って、別の場所からあの大屋根を見つめているもう一人の部下に通信します。すると、その部下が、お嬢さんのいらっしゃる遠方の家へ電話で知らせます。その電話と一しょに早苗さんのお命がなくなるという仕かけなのでございます。ホホホホホ、賊などと申すものは、ちょっとした仕事にも、これだけの用意をしてかからなければならないのでございますわ」
なるほど実にうまい思いつきである。女賊が不便な塔の上を、会見の場所に選んだ一つの意味はここにあったのだ。まったく安全な遠方から見張りをさせておくなんて、平地では不可能なことなのだから。
「フン、ご苦労千万なことじゃ」
岩瀬氏はへらず口をたたいたものの、内心では、寸分も抜け目のない女賊の用心を
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