「エジプトの星」

 宝石商令嬢誘拐事件は、その翌日の新聞記事によって、全国に知れわたった。土地の警察はもちろん、大阪府の全警察力をあげて早苗さんの行方捜索が行なわれた。デパートの陳列所でも、家具商のショウ・ウインドウでも、駅々の貨物倉庫でも、長椅子という長椅子が無気味な嫌疑を受けた。神経質な人たちは、自宅の応接間のソファにさえも、一応底のぐあいをあらためないでは、腰かける気になれなかった。

 そうして、事件からまる一昼夜が経過したけれど、人間詰め長椅子の行方は少しも知れなかった。生きているのか死んでしまったのか、美しい早苗さんの姿は、全くこの世からかき消されてしまったように感じられた。

 岩瀬氏や、夫人などの嘆きはいうまでもなかった。早苗さんを危地にみちびいたのも、賊を見のがしたのも、全く岩瀬氏夫妻の手落ちであって、誰を恨むこともなかったが、悲しみのあまり、憤りのあまり、つい度を失って、明智探偵の不用意な外出を、責めたい気持にもなるのであった。

 明智はむろんその気持を察しないではなかった。また彼自身としても、名探偵の名にかけて、この誘拐事件に責任を感じ、取りかえしのつかぬ油断をくやまないわけではなかった。それにもかかわらず、さすがは百戦練磨の勇将、彼は深く心に期するところあるもののごとく、少しもろうばいはしなかった。

「岩瀬さん、僕を信じてください。お嬢さんは安全です。必ず取り返してお眼にかけます。それに、賊の手中にあっても、お嬢さんは決して危害を加えられることはありません。あいつらはきっと、早苗さんを大切な宝物のように扱っているでしょう。そうしなければならない理由があるのです。少しもご心配なさることはありません」

 明智は岩瀬氏夫妻に、くり返しくり返しこういう意味のことを言ってなぐさめた。

「だが、明智さん。取り返すといっても、娘は今どこにいるのですかね。あれのありかが、あんたにわかっているとでもおっしゃるのかね」

 岩瀬氏は、またしても例の毒口をきいた。

「そうです。わかっているといってもいいかもしれません」

 明智は動じない。

「フン、じゃ、なぜそこへ取り戻しに行ってはくださらんのかね。見ていると、あんたは、きのうからまるで警察まかせで、何もしないで手をつかねていなさるようじゃが、そんなにわかっていれば、早く適当な処置を講じてほしいものですね」

「僕は待っているのですよ」

「え、待っているとは?」

「『黒トカゲ』からの通知をです」

「通知を? それはおかしい。賊が通知をよこすとでもおっしゃるのかね。どうかお嬢さんを受け取りにきてくださいといって」

 岩瀬氏は、憎まれ口をきいて、フフンと鼻さきで笑って見せた。

「ええ、そうですよ」名探偵は子供のように無邪気である。「あいつはお嬢さんを受け取りにこいという通知をよこすかもしれませんよ」

「え、え、あんた、それは正気でいっていなさるのか。なんぼなんでも、賊がそんなことを……明智さん、この場合、冗談はごめんこうむりますよ」

 宝石王がにがにがしく言い放った。

「冗談ではありません。今にきっとおわかりになりますよ……ああ、ひょっとしたら、そのなかに通知状がまじっているかもしれません」

 彼らはその時、例の早苗さんの誘拐された応接間にたいしていたのだが、ちょうどそこへ、書生の一人が、その日の第三便のらいかんをまとめて持ってきたのであった。

「このなかにですか? 賊の通知状がですか?」

 岩瀬氏は書生から数通の手紙を受け取って、何をばかばかしいといわぬばかりに、うわの空の返事をしながら、一つ一つ差出人をしらべていたが、たちまちハッとしてとんきような声を立てた。

「やあ、こりゃなんじゃ。この模様はいったいなんじゃ」

 それは上等の洋封筒に包まれた一通の手紙であったが、見ると、その裏面には、差出人の名はなくて、封筒の左下の隅に、一匹のまっ黒なトカゲの模様が、たくみにえがかれてあった。

「『黒トカゲ』ですね」

 明智は少しも驚かない。それごらんなさいといわぬばかりだ。

「『黒トカゲ』じゃ。大阪市内の消印がある」岩瀬氏はさすがに商人らしい眼早さで、それを見て取った。「ああ、明智さん、あんたには、これがどうしてあらかじめわかっていたのです。確かに賊の通知じゃ。フーン、これはどうも……」

 彼は感にたえたように、名探偵の顔をみつめている。怒りっぽいかわりには、機嫌のなおるのも早い老人であった。

「ひらいてごらんなさい。『黒トカゲ』はなにかを要求してきたのですよ」

 明智の言葉に、岩瀬氏は注意深く封を切って、中の書翰せんをひろげて見た。なんの印もない純白の用紙である。そこに下手な書体で──なんとなくわざと下手に書いたような書体で──次の文句がしたためてあった。


 昨日はお騒がせして恐縮。お嬢さんはたしかにお預かりしました。警察の捜索からは絶対に安全な場所におかくまいしてあります。

 お嬢さんを私からお買い戻しになるお気持はありませんか。もしそのお気持があるのでしたら、左の条件によって商談に応じてもよいと考えます。

(代金)ご所蔵「エジプトの星」一個。(支払期日)明七日午後五時。(支払場所)T公園通天閣頂上の展望台。(支払方法)岩瀬庄兵衛氏単身にて右時間までに通天閣上に現品を持参すること。

 右の条件に少しでも違背したる場合、またはこのことを警察に告げ知らせたる場合、または現品授受ののち私を捕縛させようとしたる場合は、令嬢の死をもつてこれにむくいること。

 右の条件が正確に履行された上は、その夜のうちにお嬢さんをお宅まで送り届けます。右貴意を得ます。御返事には及びません。明日所定の時間、所定の場所へ御いでなき限りは、この商談不成立と認め、ただちに予定の行動に移ります。以上

黒蜥蜴

岩瀬庄兵衛様


 これを読み終ると、岩瀬氏は当惑の色を浮かべて考えこんでしまった。

「『エジプトの星』ですか」

 明智がそれと察してたずねる。

「そうです。困ったことになりました。あれはわしの私有にはなっているが、国宝ともいうべき品物で、いまわしい賊の手などに渡したくはないのです」

「非常に高価なものと聞いていますが」

「時価二十万円です。だが、二十万円には替えられない宝です。あんたは、あの宝石の歴史をご存じですか」

「ええ、聞き及んでいます」

 この国最大最貴のダイヤモンド「エジプトの星」は、南アフリカ産、ブリリアント型、三十幾カラットの宝石であって、その名の示すごとく、かつてはエジプト王族の宝庫に納まっていたものだが、それが欧州諸国の高貴の方々の手を渡り渡って、第一次大戦当時、る事情から宝石商人の手に移り、それがまた転々して、つい数年前のこと、岩瀬商会パリ支店の買収するところとなり、現在は大阪本店の所有となっている。

「由緒の深い宝石じゃ。わしはあれを命から二番目ぐらいに大切に思っております。盗難についても用心に用心をかさね、その宝石を納めてある場所は、わし自身のほかに、店員はもちろん家内さえ知らないのです」

「すると、つまり、賊にしては、一個の宝石を盗むよりも、生きた人間を盗み出す方が、たやすかったというわけですね」

 明智はしきりにうなずいている。

「そうです、『エジプトの星』はたびたび盗難に狙われた。そのたびごとにわしはかしこくなったのです。そして、とうとう、そのかくし場所をわしだけの秘密にしてしまった。どんなにえらい盗賊でも、わしの頭の中の秘密を盗むことはできませんからね……しかし、その苦心も今はむだじゃ。さすがのわしも、娘の身代金として宝石をゆするという手には、少しも気がつかなんだ……明智さん、いかな宝物でも、人間の命にはかえられませんわい。残念じゃが、わしはあきらめました。宝石を手ばなすことにしましょう」

 岩瀬氏は青ざめた顔で決意のほどを示した。

「それほどのものを手ばなすことはありませんよ。なあに、こんな脅迫状なんか黙殺してもかまわないのです。お嬢さんの命にかかわるようなことは断じてありません」

 明智が頼もしくなぐさめても、一徹の岩瀬氏は彼の言葉を信用しない。

「いやいや、あの恐ろしい悪党は、何を仕でかすか知れたものではない。いくら高価とはいえ、たかが鉱物です。鉱物などを惜しんで、娘に万一のことがあっては取り返しがつきません。わしはやっぱり賊の申し出に応ずることにしましょう」

「それほどの御決心なれば、僕はお止めしません。一応敵のたくらみにかかったと見せかけて、宝石を手渡すのも一策でしょう。僕の探偵技術からいえば、むしろその方が便宜なのです。しかし岩瀬さん、決してご心配なさることはありません。僕はハッキリお約束しておきます。お嬢さんもその宝石も、必ず僕の手で取り戻してお眼にかけますよ。ただちょっとのあいだ、あいつにぬか喜びをさせてやるだけです」

 明智はなんの頼むところあってか、自信に満ちた力強い口調で、こともなげに言い切るのであった。

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