追跡
どんよりと曇った冬の日、夕暮れの薄闇、大阪市を南北につらぬくSという幹線道路を、烈しいタクシーの流れにまじって、絶えず一定の距離を保ちながら、不思議な追っ駈けっこをしている二台の自動車があった。
先の車には、和服にエプロン姿の下級商人のおかみさんといった、若くて美しい女が、一人ぼっちで、クッションの隅っこの方に隠れるようにして乗っていた。
ちょっと見たのでは、タクシーなんかに乗りそうもないみすぼらしいおかみさん。だが、その実は、この女こそ、
さすがの女賊も、彼女のすぐうしろから、もう一台の自動車が、送り狼のように、執念深く尾行していることを、少しも気づかなかったけれども、その尾行車の中には、顔半面に繃帯を巻きつけた、やっぱり下級商人ていの異様な男が乗っていて、恐ろしい形相で前の車を見つめながら、運転手に「もっと早く」「もう少しゆっくり」などと横柄な命令を下していた。
この男、そもそも何者であったのか。
彼は前方をにらみつけたまま、着ていた
職工風になりますと、彼は今度は、半面の繃帯を、大急ぎで、引きちぎるようにしながら、解きはじめた。みるみる隠れていた顔の半分が現われてくる。耳の病気でもなんでもなかったのだ。
ただそう見せかけて、たくみに顔をかくしていたのだ。
たちまち、らんらんとかがやく両眼が、一文字の濃い
彼は女賊のはかりごとの裏をかいて、塔上の売店の主人と化けおおせ、きょうこそは「黒トカゲ」の秘密をつきとめ、その本拠をあばかんと、手ぐすね引いて待ち構えていたのだ。
女賊はそれとも知らず、明智の術中におちいって、彼に逃走の手助けをさえ
もうそとはまっ暗になっていた。うしろへうしろへと飛び去る街灯の中を、二台の車は、大阪の町から町をグルグルと曲がりながら、不思議なレースをつづけた。
女賊の車の車内灯は消えているので、ただ飛び去る街灯の光線で、背後のガラス窓から、彼女の頭部がほのかに眺められるばかりだ。自然、明智は両車の距離を危険のない程度で、できるだけ接近させなければならなかった。
車がとある町角を曲がると、そこに大阪名物の運河の一つが流れていた。片側は大戸をおろした問屋町、片側は直接河に面して、荷役をするため、河岸がダラダラ坂に傾斜していた。市内にこんなさびしい場所がと思うほど、夜はまっ暗な町筋である。
先の車は、なぜかその暗闇の中をノロノロと運転して行ったが、少し先の橋の
「アッ、いけない、とめてくれたまえ」
明智が運転手に命じて、ブレーキをかけさせているうちに、相手の車は、グルッと方向転換をしたかと思うと、こちらに向かって引き返してくる。
見ると、その風よけガラスに「空車」という赤い標示が出ている。いつのまにか、後部の客席はからっぽになっていた。
何を考えるひまもなく、怪自動車はもう眼の前にいた。のんきらしく警笛を鳴らしながら、ゆっくりとすれちがって行く。
明智は一尺の近さで、相手の車の内部を、くまなく見て取ることができた。確かに空車だ。ついさっきまで見えていた女の姿は、影も形もなかった。
運転手は明らかに賊の手下、車も賊のものにちがいないのに、その筋の疑いを防ぐためにか、何
この運転手を引っ捕えてみようか。いや、そいつは事こわしだ。「黒トカゲ」を探し出さなければならない。そして、あくまであいつの本拠をつきとめなければならない。
だが、それにしても、女賊は一体全体どこへ隠れてしまったのであろう。あの車が橋の袂で停車した時には、だれも降りたものはなかった。そこは明かるい街灯の下なのだから、見のがすはずはない。また、ついさいぜんまで、
すると、賊はその角から橋の袂までのわずか半町ほどの暗闇を利用して、車を徐行させたまま飛び降り、どこかへ姿を隠したものであろうか。どこかへとて、片側はビッシリ立ち並んだ商家が、大戸をしめて静まり返っているのだし、片側は黒い水の流れる運河なのだ。明智は車を降りて、その疑わしい半町ほどを一往復して入念にしらべてみたけれど、どこの隅っこにも、人間はおろか犬の子さえも見当たらなかった。
「へんですね。まさかこの河の中へ飛びこんだのじゃありますまいね」
元の場所に帰ってくると、運転手がとんきょうなことをいった。
「ウン、河へね。そうかもしれない」
明智は言いながら、そこの荷揚場の下の闇にもやってある、一
船上には人影もないけれど、
実に途方もない想像であった。だが、そのほかに女賊の逃げ道は全くなかったのだ。それに「黒トカゲ」の場合にかぎっては、常識は禁物だ。できるだけ突拍子もないことを考えると、それがちゃんと当たっているのだ。
「君ね、少し頼まれてくれないか」
明智は一枚の紙幣をにぎらせながら、ソッと運転手の耳元にささやいた。
「あの船の明かりがついている障子があるだろう。一度ヘッド・ライトを消してね、今度スイッチを入れた時には、ちょうどあの障子のあたりを照らすように、自動車の向きをかえてくれたまえ。それから、こいつは少しむずかしい注文だが、君に悲鳴をあげてもらいたいんだ。助けてくれっといってね。できるだけ大きな声を出すんだ。そして、ヘッド・ライトをパッとつけてほしいんだがね。できるかい」
「へえ、妙な芸当を演じるんですね……ああ、そうですかい。わかりました。よござんす。やってみましょう」
お札が物をいって、運転手はたちまち承諾した。ヘッド・ライトが消えた。車は静かに向きをかえた。
職工姿の明智は、その辺に落ちていた大きな石ころを両手に拾い上げると、ダラダラ坂の荷揚場を、河岸へと降りていく。
「助けてくれえっ、ワーッ、助けてくれえっ!」
突如として起こる運転手の金切声。今にも殺されそうな、真にせまった叫喚。
と、同時に、ドブンという恐ろしい水音。明智が石ころを水中に落としたのだ。音だけを聞けば、だれかが川へ飛びこんだとしか思えない。
予想した通り、この騒ぎに船の油障子がひらいた。そしてそこからヒョイとのぞいた顔。たちまちヘッド・ライトの直射にあって、びっくりして引っこんだ顔。明智は見のがさなかった。「黒トカゲ」だ。おかみさんに化けた「黒トカゲ」だ。
むろん先方からは、明智の姿は見えない。さいぜんからの尾行を気づいていないこともたしかだ。そうと知ったら、あの女が窓から顔を出したりするはずがないからだ。
物音に驚いた商家の雇人たちが、ガラガラと大戸をひらいて往来へ飛び出してきた。
「なんだ、なんだ」
「
「へんな水の音がしたぜ」
だが、その時分には、素早い運転手は、車の方向をかえて、もう半町も先を走っていた。
明智は明智で、闇の河岸縁を走って、橋の袂の公衆電話へ
敵は水を利用しようとしている。追跡はどこまでつづくかわかったものではない。味方の者に、あとのことを指図しておかなければならなかった。
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