(下) 推理

 さて、殺人事件から十日ほどたった或る日、私は明智小五郎の宿を訪ねた。その十日のあいだに、明智と私とが、この事件に関して、何をなし、何を考え、そして何を結論したか。読者は、それらを、この日、彼と私とのあいだに取りかわされた会話によって、充分察することができるであろう。

 それまで、明智とは喫茶店で顔を合わしていたばかりで、宿を訪ねるのは、その時がはじめてだったけれど、かねて所を聞いていたので、探すのに骨は折れなかった。私は、それらしい煙草屋の店先に立って、おかみさんに明智がいるかどうかを尋ねた。

「ええ、いらっしゃいます。ちょっとお待ちください、今お呼びしますから」

 彼女はそういって、店先から見えている階段の上がり口まで行って、大声に明智を呼んだ。彼はこの家の二階に間借りしていたのだ。すると、「オー」と変な返事をして、明智はミシミシと階段を下りてきたが、私を発見すると、驚いた顔をして「やあ、お上がりなさい」といった。私は彼の後に従って二階へ上がった。ところが、なにげなく、彼の部屋へ一歩足を踏み込んだ時、私はアッとたまげてしまった。部屋の様子があまりにも異様だったからだ。明智が変り者だということは知らぬではなかったけれど、これはまた変り過ぎていた。

 なんのことはない、四畳半の座敷が書物で埋まっているのだ。まん中のところに少し畳が見えるだけで、あとは本の山だ、四方の壁やふすまにそって、下の方はほとんど部屋いっぱいに、上の方ほど幅が狭くなって天井の近くまで、四方から書物の土手がせまっている。ほかの道具などは何もない。一体彼はこの部屋でどうして寝るのだろうと疑われるほどだ。第一、主客二人のすわるところもない。うっかり身動きしようものなら、たちまち本の土手くずれで、おしつぶされてしまうかもしれない。

「どうも狭くっていけませんが、それに、とんがないのです。すみませんが、やわらかそうな本の上へでもすわってください」

 私は書物の山に分け入って、やっとすわる場所を見つけたが、あまりのことに、しばらく、ぼんやりとその辺を見まわしていた。

 私はかくも風変りな部屋のぬしである明智小五郎の人物について、ここで一応説明しておかねばなるまい。しかし、彼とは昨今のつき合いだから、彼がどういう経歴の男で、何によって衣食し、何を目的にこの人生を送っているのか、というようなことは一切わからぬけれど、彼がこれという職業を持たぬ一種の遊民であることは確かだ。しいていえば学究であろうか。だが、学究にしてもよほど風変りな学究だ。いつか彼が「僕は人間を研究しているんですよ」と言ったことがあるが、そのとき私には、それが何を意味するのかわからなかった。ただ、わかっているのは、彼が犯罪や探偵について、なみなみならぬ興味と、おそるべき豊富な知識を持っていることだ。

 年は私と同じくらいで、二十五歳を越してはいまい。どちらかといえばせた方で、先にも言った通り、歩く時に変に肩を振る癖がある。といっても、決して豪傑流のそれではなく、妙な男を引合いに出すが、あの片腕の不自由な講釈師の神田伯竜を思い出させるような歩き方なのだ。伯竜といえば、明智は顔つきから声音まで、彼にそっくりだ──伯竜を見たことのない読者は、諸君の知っているところの、いわゆる好男子ではないが、どことなくあいきようのある、そしてもっとも天才的な顔を想像するがよい──ただ明智の方は、髪の毛がもっと長く延びていて、モジャモジャともつれ合っている。そして彼は人と話しているあいだにも、指でそのモジャモジャになっている髪の毛を、さらにモジャモジャにするためのように引っき廻すのが癖だ。服装などは一向構わぬ方らしく、いつも木綿の着物によれよれのおびを締めている。

「よく訪ねてくれましたね。その後しばらく会いませんが、例のD坂の事件はどうです。警察の方ではまだ犯人の見込みがつかぬようではありませんか」

 明智は例の、頭を搔き廻しながら、ジロジロ私の顔をながめる。

「実は僕、きょうはそのことで少し話があって来たんですがね」そこで私はどういうふうに切り出したものかと迷いながらはじめた。「僕はあれから、いろいろ考えてみたんですよ。考えたばかりでなく、探偵のように実地の取調べもやったのですよ。そして、実はひとつの結論に達したのです。それを君にご報告しようと思って……」

「ホウ。そいつはすてきですね。くわしく聞きたいものですね」

 私は、そういう彼の眼つきに、何がわかるものかというような、けいべつと安心の色が浮かんでいるのを見のがさなかった。そして、それが私のしゆんじゆんしている心を激励した。私は勢いこんで話しはじめた。

「僕の友だちに一人の新聞記者がありましてね、それが、例の事件の小林刑事というのと懇意なのです。で、僕はその新聞記者を通じて、警察の模様をくわしく知ることができましたが、警察ではどうも捜査方針が立たないらしいのです。むろん、いろいろやってはいるのですが、これはという見込みがつかぬのです。あの例のでんとうのスイッチですね。あれもだめなんです。あすこには、君の指紋だけしかついていないことがわかりました。警察の考えでは、多分君の指紋が犯人の指紋を隠してしまったのだろうというのですよ。そういうわけで、警察が困っていることを知ったものですから、僕はいっそう熱心に調べてみる気になりました。そこで、僕が到達した結論というのは、どんなものだと思います。そして、それを警察へ訴える前に、君のところへ話しにきたのはなんのためだと思います。

 それはともかく、僕はあの事件のあった日から、ることに気づいていたのですよ。君は覚えているでしょう。二人の学生が犯人らしい男の着物の色については、まるで違った申立てをしたことをね。一人は黒だと言い、一人は白だと言うのです。いくら人間の眼が不確かだと言って、正反対の黒と白とを間違えるのは変じゃないですか。警察ではあれをどんなふうに解釈したか知りませんが、僕は二人の陳述は両方とも間違いでないと思うのですよ。君、わかりますか。あれはね、犯人が白と黒とのだんだらの着物を着ていたんですよ──つまり、太い黒の棒じまの浴衣かなんかですね。よく宿屋の貸し浴衣にあるような──では、なぜそれが一人にはまっ白に見え、もう一人にはまっ黒に見えたかといいますと、彼らは障子の格子のすき間から見たのですから、ちょうどその瞬間、一人の眼が格子のすき間と着物の白地の部分と一致して見える位置にあり、もう一人の眼が黒地の部分と一致して見える位置にあったんです。これは珍らしい偶然かもしれませんが、決して不可能ではない。そして、この場合こう考えるよりほかに方法がないのです。

 さて、犯人の着物の縞柄はわかりましたが、これでは単に捜査範囲が縮小されたというまでで、まだ確定的のものではありません。第二の論拠は、あの電燈のスイッチの指紋なんです。僕はさっき話した新聞記者の友だちの伝手つてで小林刑事に頼んでその指紋を──君の指紋ですよ──よくしらべさせてもらったのです。その結果、いよいよ僕の考えていることが間違っていないのを確かめました。ところで君、すずりがあったら、ちょっと貸してくれませんか」

 そこで、私はひとつの実験をやって見せた。まず硯を借りると、私は右手のおやゆびに薄く墨をつけて懐中から取り出した半紙の上にひとつの指紋をした。それから、その指紋の乾くのを待って、もう一度同じ指に墨をつけ、前の指紋の上から、今度は指の方向をかえて念入りにおさえつけた。すると、そこには互に交錯した二重の指紋がハッキリあらわれた。

「警察では、君の指紋が犯人の指紋の上に重なってそれを消してしまったのだと解釈しているのですが、しかしそれは今の実験でもわかる通り不可能なんですよ。いくら強く押したところで、指紋というものが線でできている以上、線と線とのあいだに、前の指紋の跡が残るはずです。もし前後の指紋がまったく同じもので、捺し方まで寸分違わなかったとすれば、指紋の各線が一致しますから、あるいは後の指紋が先の指紋を隠してしまうこともできるでしょうが、そういうことはまずあり得ませんし、たとえそうだとしても、この場合結論は変らないのです。

 しかし、あの電燈を消したのが犯人だとすれば、スイッチにその指紋が残っていなければなりません。僕はもしや警察では君の指紋の線と線とのあいだに残っている犯人の指紋を見おとしているのではないかと思って、自分で調べてみたのですが、少しもそんなこんせきがないのです。つまり、あのスイッチには、後にも先にも、君の指紋が捺されているだけなのです──どうして古本屋の人たちの指紋が残っていなかったのか、それはよくわかりませんが、多分、あの部屋の電燈はつけっぱなしで、一度も消したことがないのでしょう。〔文末の注(*1)を見よ〕

 君、以上の事柄はいったい何を語っているでしょう。僕は、こういうふうに考えるのですよ。一人の太い棒縞の着物を着た男が──その男はたぶん死んだ女のおさなじみで、失恋の恨みという動機なんかも考えられるわけですね──古本屋の主人が夜店を出すことを知っていて、その留守のあいだに女を襲ったのです。声を立てたり抵抗したりした形跡がないのですから、女はその男をよく知っていたに違いありません。で、まんまと目的をはたした男は、がいの発見をおくらすために、電燈を消して立ち去ったのです。しかし、この男はひとつの大きな手ぬかりをやっています。それはあの障子の格子のあいているのを知らなかったこと、そして、驚いてそれを閉めた時に、偶然店先にいた二人の学生に姿を見られたことでした。それから、男はいったんそとへ出ましたが、ふと気がついたのは、電燈を消した時、スイッチに指紋が残ったに違いないということです。これはどうしても消してしまわねばなりません。しかし、もう一度同じ方法で部屋の中へ忍び込むのは危険です、そこで、男は一つの妙案を思いつきました。というのは、自分が殺人事件の発見者になることです。そうすれば、少しの不自然もなく、自分の手で電燈をつけて、以前の指紋に対する疑いをなくしてしまうことができるばかりでなく、まさか、発見者が犯人だろうとは誰しも考えませんからね、二重の利益があるのです。こうして、彼は何食わぬ顔で警察のやり方を見ていたのです。大胆にも証言さえしました。しかも、その結果は彼の思うつぼだったのですよ。五日たっても十日たっても、誰も彼をとらえに来るものはなかったのですからね」

 この私の話を、明智小五郎はどんな表情で聴いていたか。私は、おそらく話の中途で、何か変った表情をするか、言葉をはさむだろうと予期していた。ところが、驚いたことには、彼の顔にはなんの表情もあらわれぬのだ。日頃から心を色にあらわさぬたちではあったけれど、あまり平気すぎる。彼は始終例の髪の毛をモジャモジャやりながら、だまりこんでいるのだ。私は、どこまでずうずうしい男だろうと思いながら、最後の点に話を進めた。

「君はきっと、それじゃ、その犯人はどこからはいって、どこから逃げたかと反問するでしょう。確かにそれが明らかにならなければ、他のすべてのことがわかってもなんのかいもないのですからね。だが、遺憾ながら、それも僕が探り出したのですよ。あの晩の捜査の結果では、全然犯人が出て行った形跡がないように見えました。しかし、殺人があった以上、犯人が出入りしなかったはずはないのですから、刑事の捜索にどこか抜け目があったと考えるほかはありません。警察でもそれにはずいぶん苦心した様子ですが、不幸にして、彼らは、僕という一人の青年の推理力に及ばなかったのですよ。

 なあに、実に下らないことですが、僕はこう思ったのです。これほど警察が取調べているのだから、近所の人たちに疑うべき点はまずあるまい。もしそうだとすれば、犯人は何か、人の眼にふれても、それが犯人だとは気づかれぬような方法で逃げたのじゃないだろうか。そして、それを目撃した人はあっても、まるで問題にしなかったのではなかろうかとね。つまり、人間の注意力の盲点──われわれの眼に盲点があると同じように、注意力にもそれがありますよ──を利用して、手品使いが見物の眼の前で、大きな品物をわけもなく隠すように、自分自身を隠したのかもしれませんからね。そこで、僕が眼をつけたのはあの古本屋の一軒おいて隣の旭屋というソバ屋です」

 古本屋の右へ時計屋、菓子屋と並び、左へ足袋屋、ソバ屋と並んでいるのだ。

「僕はあすこへ行って、事件の夜八時頃に、手洗いを借りにきた男はないかと聞いてみたのです。あの旭屋は、君も知っているでしょうが、店から土間つづきで、裏木戸まで行けるようになっていて、その裏木戸のすぐそばに便所があるのですから、それを借りるように見せかけて、裏口から出て行って、また裏口から戻ってくるのはわけはありませんからね──例のアイスクリーム屋は路地を出た角に店を出していたのですから、見つかるはずはありません──それに相手がソバ屋ですから、手洗いを借りるということがきわめて自然なんです。聞けば、あの晩はおかみさんは不在で、主人だけが店の間にいたのだそうですから、おあつらえ向きなんです。君、なんとすてきな思いつきではありませんか。

 調べてみると、果たして、ちょうどその時分に手洗いを借りた客があったのです。ただ、残念なことには、旭屋の主人は、その男の顔とか着物の縞柄なぞを少しも覚えていないのですがね──僕は早速このことを例の友だちを通じて、小林刑事に知らせてやりましたよ。刑事は自分でもソバ屋を調べたようでしたが、それ以上には何もわからなかったのです……」

 私は少し言葉を切って、明智に発言の余裕を与えた。彼の立場は、この際なんとか一こといわないではいられぬはずだ。ところが、彼は相変らず頭をまわしながら、すましこんでいるではないか。私はこれまで、敬意を表する意味で間接法を用いていたのを、直接法に改めねばならなかった。

「君、明智君、僕のいう意味がわかるでしょう。動かぬ証拠が君を指さしているのですよ。白状すると、僕はまだ心の底では、どうしても君を疑う気にはなれないのですが、こういうふうに証拠がそろっていては、どうも仕方がありません……僕は、もしやあの長屋の住人のうちに、太い棒縞の浴衣ゆかたを持っている人がないかと思って、ずいぶん骨折って調べてみましたが、一人もありません。それももっともですよ。同じ棒縞の浴衣でも、あの格子に一致するような派手なのを着る人は珍らしいのですからね。それに、指紋のトリックにしても、手洗いを借りるというトリックにしても、実に巧妙で、君のような犯罪学者ででもなければ、ちょっとまねのできない芸当ですよ。それから、第一おかしいのは、君はあの死人の細君と幼馴染だといっていながら、あの晩、細君の身元調べなんかあった時に、そばで聞いていて、少しもそれを申し立てなかったではありませんか。

 さて、そうなると、唯一の頼みはアリバイの有無です。ところが、それもだめなんです。君は覚えてますか、あの晩帰りみちで、白梅軒へ来るまで君がどこにいたかということを、僕が聞きましたね。君は、一時間ほど、その辺を散歩していたと答えたでしょう。たとえ君の散歩姿を見た人があったとしても、散歩の途中で、ソバ屋の手洗いを借りるなどはありがちのことですからね。明智君、僕のいうことが間違っていますか。どうです、もしできるなら君の弁明を聞きたいものですね」

 読者諸君、私がこういって詰めよった時、奇人明智小五郎は何をしたと思います。面目なさにうつぶ伏してしまったとでも思いますか。どうしてどうして、彼はまるで意表外のやり方で、私の度胆をひしいだ。というのは、彼はいきなりゲラゲラと笑い出したのである。

「いや失敬失敬、決して笑うつもりはなかったのですが、君があまりにまじめだもんだから」明智は弁解するように言った。「君の考えはなかなか面白いですよ。僕は君のような友だちを見つけたことをうれしく思いますよ。しかし惜しいことには、君の推理はあまりに外面的で、そして物質的ですよ。たとえばですね。僕とあの女との関係についても、君は僕たちがどんなふうな幼馴染だったかということを、内面的に心理的に調べてみましたか。僕が以前あの女と恋愛関係があったかどうか。また現に彼女を恨んでいるかどうか。君にはそれくらいのことが推察できなかったのですか。あの晩、なぜ彼女を知っていることをいわなかったか、そのわけは簡単ですよ。僕は何も参考になるような事柄を知らなかったのです……僕はまだ小学校へもはいらぬ時分に、彼女と別れたきりなのですからね」

「では、たとえば指紋のことはどういうふうに考えたらいいのですか?」

「君は、僕があれから何もしないでいたと思うのですか。僕もこれでなかなかやったのですよ。D坂は毎日のようにうろついていましたよ。ことに古本屋へはよく行きました。そして、主人をつかまえて、いろいろ探ったのです──細君を知っていたことはその時打ち明けたのですが、それがかえって話を聞き出す便宜になりましたよ──君が新聞記者をつうじて警察の模様を知ったように、僕はあの古本屋の主人から、それを聞き出していたんです。今の指紋のことも、じきわかりましたから、僕も妙だと思って調べてみたのですが、ハハハハ、笑い話ですよ。電球の線が切れていたのです。誰も消しやしなかったのですよ。僕がスイッチをひねったために光が出たと思ったのは間違いで、あの時、あわてて電球を動かしたので、一度切れたタングステンがつながったのですよ。〔文末の注(*2)を見よ〕スイッチに僕の指紋しかなかったのはあたりまえなのです。あの晩、君は障子のすき間からでんとうのついているのを見たといいましたね。とすれば、電球の切れたのは、そのあとですよ。古い電球は、どうもしないでも、ひとりでに切れることがありますからね。それから、犯人の着物の色のことですが、これは僕が説明するよりも……」

 彼はそういって、彼の身辺の書物の山を、あちらこちら発掘していたが、やがて、一冊の古ぼけた洋書を掘りだしてきた。

「君、これを読んだことがありますか、ミュンスターベルヒの『心理学と犯罪』という本ですが、この『錯覚』という章の冒頭を十行ばかり読んでごらんなさい」

 私は、彼の自信ありげな議論を聞いているうちに、だんだん私自身の失敗を意識しはじめていた。で、言われるままにその書物を受け取って、読んでみた。そこには大体次のようなことが書いてあった。


 かつて一つの自動車犯罪事件があった。法廷において、真実を申し立てると宣誓した証人の一人は、問題の道路は全然乾燥してほこり立っていたと主張し、今一人の証人は、雨降りあげくで、道路はぬかるんでいたと証言した。一人は、問題の自動車は徐行していたと言い、他の一人は、あのように早く走っている自動車を見たことがないと述べた。また、前者は、その村道には人が二、三人しかいなかったと言い、後者は、男や女や子供の通行人がたくさんあったと陳述した。この二人の証人は共に尊敬すべき紳士で、事実を曲弁したとて、なんの利益があるはずもない人々であった。


 私がそれを読み終るのを待って明智はさらに本のページをくりながらいった。

「これは実際あったことですが、今度は、この『証人の記憶』という章があるでしょう。その中ほどのところに、あらかじめ計画して実験した話があるのですよ。ちょうど着物の色のことが出てますから、面倒でしょうが、まあちょっと読んでごらんなさい」

 それは左のような記事であった。


 (前略) 一例をあげるならば、一昨年(この書物の出版は一九一一年)ゲッティンゲンにおいて、法律家、心理学者及び物理学者よりなる、或る学術上の集会が催されたことがある。したがって、そこに集まったのはみな綿密な観察に熟練した人たちばかりであった。その町には、あたかもカーニヴァルのお祭り騒ぎが演じられていたが、この学究的な会合の最中に、突然戸がひらかれて、けばけばしい衣裳をつけた一人の道化が狂気のように飛び込んできた。見ると、その後から一人の黒人がピストルを持って追っかけてくるのだ。ホールのまん中で、彼らはかたみがわりに、おそろしい言葉をどなり合ったが、やがて、道化の方がバッタリ床に倒れると、黒人はその上におどりかかった、そしてポンとピストルの音がした。と、たちまち彼らは二人とも、かき消すように室を出て行ってしまった。全体の出来事が二十秒とはかからなかった。人々はむろん非常に驚かされた。座長のほかには、誰一人、それらの言葉や動作が、あらかじめ予習されていたこと、その光景が写真にられたことなどを悟ったものはなかった。で、座長が、これはいずれ法廷に持ち出される問題だからというので、会員各自に正確な記録を書くことを頼んだのは、ごく自然に見えた(中略、このあいだに、彼らの記録がいかに間違いにみちていたかを、パーセンテイジを示してしるしてある)。黒人が頭に何もかぶっていなかったことを言いあてたのは四十人のうちでたった四人きりで、ほかの人たちは、中折帽子をかぶっていたと書いたものもあれば、シルクハットだったと書くものもあるという有様だった。着物についても、ある者は赤だと言い、あるものは茶色だと言い、あるものは縞だと言い、あるものはコーヒー色だと言い、その他さまざまの色合いが彼のために発明せられた。ところが、黒人は実際は、白ズボンに黒の上衣を着て、大きな赤のネクタイを結んでいたのである。(後略)


「ミュンスターベルヒが賢くも説破した通り」と明智ははじめた。「人間の観察や人間の記憶なんて、実にたよりないものですよ。この例にあるような学者たちでさえ、服の色の見分けがつかなかったのです。私が、あの晩の学生たちも着物の色を思い違えたと考えるのが無理でしょうか。彼らは何物かを見たかもしれません。しかしその者は棒じまの着物なんか着ていなかったのです。むろん僕ではなかったのです。格子のすき間から棒縞の浴衣を思いついた君の着眼は、なかなか面白いには面白いですが、あまりおあつらえ向きすぎるじゃありませんか。少なくとも、そんな偶然の符合を信ずるよりは、君は、僕の潔白を信じてくれるわけにはいかないでしょうか。さて最後に、ソバ屋の手洗いを借りた男のことですがね。この点は僕も君と同じ考えだったのです。どうも、あの旭屋のほかに犯人の通路はないと思ったのです。で、僕もあすこへ行って調べてみましたが、その結果は、残念ながら君とは正反対の結論に達したのです。実際は手洗いを借りた男なんてなかったのですよ」

 読者もすでに気づかれたであろうように、明智はこうして、証人の申立てを否定し、犯人の指紋を否定し、犯人の通路をさえ否定して、自分の無罪を証拠だてようとしているが、しかしそれは同時に、犯罪そのものをも否定することになりはしないか。私は彼が何を考えているのか少しもわからなかった。

「で、君には犯人の見当がついているのですか」

「ついてますよ」彼は頭をモジャモジャやりながら答えた。「僕のやり方は、君とは少し違うのです。物質的な証拠なんてものは、解釈の仕方でどうにでもなるものですよ。いちばんいい探偵法は、心理的に人の心の奥底を見抜くことです。だが、これは探偵自身の能力の問題ですがね。ともかく、僕は今度はそういう方面に重きをおいてやってみましたよ。

 最初僕の注意をひいたのは、古本屋の細君のからだじゅうに生傷のあったことです。それから間もなく、僕はソバ屋の細君のからだにも同じような生傷があるということを聞き込みました。これは君も知っているでしょう。しかし、彼女らの夫たちはそんな乱暴者でもなさそうです。古本屋にしても、ソバ屋にしても、おとなしそうな物分りのいい男なんですからね。僕はなんとなく、そこにる秘密が伏在しているのではないかと疑わないではいられなかったのです。で、僕はまず古本屋の主人をとらえて、彼の口からその秘密を探り出そうとしました。僕が死んだ細君の知合いだというので、彼もいくらか気を許していましたから、それは比較的らくにいきました。そして、ある変な事実を聞き出すことができたのです。ところが、今度はソバ屋の主人ですが、彼はああ見えてもなかなかしっかりした男ですから、探り出すのにかなり骨が折れましたよ。でも、僕はある方法によって、うまく成功したのです。

 君は、心理学上の連想診断法が、犯罪捜査の方面にも利用されはじめたのを知っているでしょう。たくさんの簡単なげき語を与えて、それに対する嫌疑者の観念連合の遅速をはかる、あの方法です。しかし、あれは心理学者のいうように、犬だとか家だとか川だとか、簡単な刺戟語には限らないし、そしてまた、常にクロノスコープの助けを借りる必要もないと、僕は思いますよ。連想診断のコツを悟ったものにとっては、そのような形式はたいして必要ではないのです。それが証拠に、昔の名判官とか名探偵とかいわれた人は、心理学が今のように発達しない以前から、ただ彼らのてんぴんによって、知らずしらずのあいだにこの心理学的方法を実行していたではありませんか。おおおかえちぜんのかみなども確かにその一人ですよ。小説でいえば、ポーの『ル・モルグ』のはじめに、デュパンが友だちのからだの動き方ひとつによって、その心に思っていることを言い当てるところがありますね。ドイルもそれをまねて、『レジデント・ペーシェント』の中で、ホームズに同じような推理をやらせてますが、これらはみな、或る意味の連想診断ですからね。心理学者の色々な機械的方法は、ただこうした天稟の洞察力を持たぬ凡人のために作られたものにすぎませんよ。話がわき道にはいりましたが、僕はソバ屋の主人にいろいろの話をしかけてみました。それもごくつまらない世間話をね。そして、彼の心理的反応を研究したのです。しかし、これは非常にデリケートな心理の問題で、それに可なり複雑してますから、くわしいことはいずれゆっくり話すとして、ともかくその結果、僕はひとつの確信に到達しました。つまり、犯人を見つけたのです。

 しかし、物質的な証拠というものがひとつもないのです。だから、警察に訴えるわけにもいきません。よし訴えてもおそらく取り上げてくれないでしょう。それに、僕が犯人を知りながら、手をつかねて見ているもう一つの理由は、この犯罪には少しも悪意がなかったという点です。変な言い方ですが、この殺人事件は、犯人と被害者と同意の上で行なわれたのです。いや、ひょっとしたら被害者自身の希望によって行なわれたのかもしれません」

 私はいろいろ想像をめぐらしてみたけれど、どうにも彼の考えていることがわかりかねた。私は自分の失敗を恥じることも忘れて、彼のこの奇怪な推理に耳を傾けた。

「で、僕の考えをいいますとね。殺人者は旭屋の主人なのです。彼は罪跡をくらますために、あんな手洗いを借りた男のことを言ったのですよ。いや、しかし、それは何も彼の創案でもなんでもない。われわれが悪いのです。君にしろ僕にしろ、そういう男がなかったかと、こちらから問いを構えて彼を教唆したようなものですからね。それに、彼は僕たちを刑事かなんかと思い違えていたのです。では、彼はなぜに殺人罪をおかしたか……僕はこの事件によって、うわべはきわめて何気なさそうなこの人生の裏面に、どんなに意外な陰惨な秘密が隠されているかということを、まざまざと見せつけられたような気がします。それは実にあの悪夢の世界でしかみいすことのできないような種類のものだったのです。

 旭屋の主人というのは、マルキ・ド・サドの流れをくんだ、ひどい残虐色情者で、なんという運命のいたずらでしょう。一軒おいて隣に、女のマゾッホを発見したのです。古本屋の細君は彼におとらぬ被虐色情者だったのです。そして、彼らは、そういう病者に特有の巧みさをもって、誰にも見つけられずに、かんつうしていたのです──君、僕が合意の殺人だといった意味がわかるでしょう──彼らは、最近まではおのおの、そういう趣味を解しない夫や妻によって、その病的な欲望を、かろうじてみたしていました。古本屋の細君にも、旭屋の細君にも、同じような生傷のあったのはその証拠です。しかし、彼らがそれに満足しなかったのはいうまでもありません。ですから眼と鼻の近所に、お互の探し求めている人間を発見した時、彼らのあいだに非常に敏速な了解の成立したことは想像にかたくないではありませんか。ところがその結果は、運命のいたずらが過ぎたのです。彼らの、パッシヴとアクティヴの力の合成によって、狂態が漸次倍加されて行きました。そして、ついにあの夜、この、彼らとても決して願わなかった事件をひき起こしてしまったわけなのです……」

 私は、明智の異様な結論を聞いて、思わず身震いした。これはまあ、なんという事件だ!

 そこへ、下の煙草屋のおかみさんが、夕刊を持ってきた。明智はそれを受け取って、社会面を見ていたが、やがて、そっとためいきをついていった。

「ああ、とうとう耐えきれなくなったと見えて、自首しましたよ。妙な偶然ですね。ちょうどそのことを話している時に、こんな報道に接するとは」

 私は彼の指さすところを見た。そこには小さい見出しで、十行ばかりソバ屋の主人が自首したことがしるされてあった。




 〔注、*1〕 この小説の書かれた大正時代には、メーターを取りつけない小さな家のでんとうは、昼間は、電燈会社の方で、変電所のスイッチを切って消燈したものである。

 〔注、*2〕 当時の電球はタングステンの細い線を鼓のひものように張ったもので、一度切れても、また偶然つながることがよくあった。

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D坂の殺人事件 江戸川乱歩/カクヨム近代文学館 @Kotenbu_official

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