十四話

 兵士の馬で送られ、ファリアはメーナス村に帰ってきた。三ヶ月ぶりの村は雪が積もった跡がある以外は、以前とまったく変化はなく、のどかで静かな様子を見せていた。突然姿を消したファリアが戻ってきたのを、数人の村人が驚きながらも温かい声をかけてくる。それに笑顔で返しながら、ファリアは我が家へと帰った。


 家具や床にうっすらと埃が積もる中を見て回る。復讐心に燃えていたあの日から、この家の中の時間は止まっているようだった。家族との思い出も、忌まわしい光景さえも、そこにとどまっているかのように、まざまざと思い起こされていく。だがファリアが次に思ったことは、掃除が大変そうだなというのん気なものだった。そんなことを考える自分を笑うと同時に、ファリアは家族の死に対する、自身の心の整理ができ始めていることにも気付いた。意外に私はたくましいのかもしれない――ファリアはふと感じた。


 机の上にある空の花瓶を端によけると、ファリアは抱えていた木箱をそこへ置いた。これは送ってもらった兵士に渡されたもので、国王からのものだと言う。金具で補強された小ぶりの木箱だが、その重さや音で、開けなくてもファリアは中身が何なのかわかっていた。どういうつもりで国王はこれを渡したのかわからなかったが、庶民が持つには多すぎるもので、ファリアはこの先も、この中身に手を付けるつもりはなかった。


 一休みする間もなく、セラに強く促されたファリアは家を出ると、早速魔術師の老婆の元へ向かった。現れた老婆は驚き顔で、そしてこっぴどくファリアを叱った。戻る気があったのなら、期限通りに戻れと怒鳴られ、まったくファリア側の事情を聞いてはくれなかった。それでも心配はしてくれていたようで、体に異変はないかと丁寧に聞くと、老婆は魔術の本を開き、そこに書かれた文字を読んでいく。これが、セラとの二度目の別れとなる。すでに十分言葉は交わしていた。名残惜しくはあるが、ファリアはとっくに覚悟ができていた。聞き慣れた声を耳に残し、セラはあっさりとファリアの中から消えていった。その直後、何かが抜け落ちたような、妙な感覚を覚えたファリアだったが、これですべてが終わったのだと自分を納得させ、一人我が家へと帰り着いた。復讐は終わり、これから一人の生活が始まることに一抹の不安はあったが、それでもどうにかやっていけるだろうと、ファリアは前向きに考えることにした。


 それから、一年が経っていた――


「…………はっ」


 ファリアは意識を取り戻し、上半身を起こす。気付くと家の床に倒れ込んでいた。右手にはほうきを握っている――そうだ。掃き掃除をしていた途中だったとファリアは思い出した。ゆっくり立ち上がり、スカートに付いた埃を手で払う。


「またか……」


 深い溜息を吐いてファリアは呟いた。こうして意識を失うのは、今日はこれで二度目だった。一度目は朝起きて、顔を洗おうとした時だった。何の前触れもなく、それは突然襲ってくる。まるで操り人形の糸が切られたように、ファリアの意識は消され、その場に倒れるしかないのだ。


 ほうきを壁に立てかけると、ファリアは椅子に座り、机に突っ伏した。こんなことが毎日続いてしまうのだろうかと、不安でたまらなかった。


 ファリアが初めて意識を失ったのは、セラと二度目の別れを終えた数日後のことだった。家事の最中、突然意識を失って、一分ほど倒れていた。その時は貧血で倒れたものと思い、さほど気にしなかったのだが、それからたびたび意識がなくなることが起きて、さすがに心配になったファリアは村の医者に診てもらった。だが、体のどこにも異常はなく、原因不明と診断されるだけだった。痛みや症状があれば、原因を見つけるきっかけにもなるが、ファリアが意識を失う時、体は普段と何も変わらない状態だった。ただ意識だけがなくなるのだ。


 不可解な状態に不安を募らせたファリアは、そこでふと老婆を思い出した。期限を守れなかった影響が、今現れ始めているのでは――そう思ったファリアは、すぐさま老婆の元へ向かった。家に招き入れられると、もう何度も意識をなくすことを伝え、これは魔術のせいではないかと聞く。老婆は難しい顔で、そうかもしれないと認めるも、自分では治しようがないことだとつれなかった。言い付けを守らなかった結果の影響だとして、その責任はあくまでファリア自身だと言われてしまい、この正論に返す言葉はなかった。


 症状は日に日に悪くなり、一週間に一度程度のものだったのが、一年が経った現在では一日に二度、三度と回数を増していた。そうなると日常生活にも支障をきたすようになり、近所で働き始めても、日に何度も倒れてしまうファリアは休むことを勧められ、結局そのまま働き口を失うこととなった。こんなこともあり、村の店に買い物に行くことさえも、ファリアは躊躇してしまうようになっていた。


 だが、深刻な症状はこれだけではなかった。


「……あ、洗濯物」


 机から顔を上げたファリアは、外に干している洗濯物を思い出し、椅子から立ち上がった。玄関に向かおうとした途中、壁際のたんすの上に置かれたものに目が留まる。薄汚れた、大きく長い剣。女性には到底扱えそうにないものが、なぜここにあるのか、ファリアはこの剣を見るたびにいつも疑問に思っていた。


 そもそも、いつからここに置かれていたのかもファリアは憶えていなかった。ファリアの記憶はある時期だけ、霞がかかったように不鮮明な状態だった。思い出そうとしても、何かがぼんやりと浮かぶだけで、それが何なのかもわからない。だが、この薄汚れた剣を見ると、ファリアは瞬間的に思い出せそうな時があった。ほんの一瞬だが、何かの光景が見える気がしたのだ。それを見たいがために、ファリアはこの剣を処分せずに置いていた。


 何気なく手を伸ばし、ファリアは剣を持ち上げてみる。ずっしりとした重みが手に伝わる。鞘と柄の部分は泥なのか、触るとざらついた汚れが付いていた。剣を引き抜こうと引っ張ってみるが、刀身が錆びてしまっているのか、剣はわずかに動くだけで抜くことはできなかった。諦めてファリアは剣をたんすの上に戻す。眺めているだけで不思議な気持ちにさせてくれる剣だった。だがファリアには、その不思議な気持ちの正体がわからない。抜け落ちた記憶が戻るまでは、きっと永遠にわからないままなのだろう――ファリアはそう感じていた。


 玄関の扉を開け、外に出る。冬の乾いた空気がファリアの頬を撫でていく。暮れかけた日の光が、吐き出される白い息を照らす。


「寒い……」


 肩を縮ませ、両腕を組みながら、ファリアは枯れた芝の上を歩いていく。この寒さならいつ雪が降ってもおかしくはなかった。こんなところで意識を失ったらひとたまりもないと想像し、ファリアは洗濯物が干された庭の隅へ小走りに向かう。


 ふと視界の端で何かが動いたのが見えて、ファリアは足を止めた。玄関の正面にある道の先に人影が見える。それはどんどんこちらへ近付いてくる。やがてファリアの前まで来ると、その男性はかぶっていたフードを脱ぎ、口を開いた。


「お久しぶりです……変わりがないようで、安心しました」


 体格のいい男性は、長く伸びた黒髪の奥から、穏やかな眼差しを向けてくる。低い声はどこか疲れたようで、無精ひげがさらにそんな印象を与える。全身を覆うこげ茶色のマントの裾はほつれ、いくつも汚れが染み付いている。まるで長い旅でもしてきたような格好に見えた。


 ぽかんと見つめるファリアに、男性は苦笑して言う。


「……これでは、誰だかわかりませんか」


 わからないも何も、ファリアはこの男性の顔に見覚えがなかった。それとも、思い出せない記憶の中で、すでに会っている人なのだろうか。ファリアは穴が開くほど男性の顔を見るが、やはり首をかしげるだけだった。その様子に、男性は少し残念そうな笑みを浮かべた。


「一年前、王都であなたと闘いました」


「闘った……?」


 自分に武術の心得などないと思いながら、ファリアは思い出せないことをからかわれているのだと思い、眉間にしわを寄せ、不快感を見せる。これに男性も、さすがにおかしいと感じたのか、表情を真剣なものに変えた。


「一年前のことです。憶えているでしょう……?」


「あの、どなたかと間違えているんじゃ……私は闘いなんてしたことありませんし、あなたのことも知りません。なので――」


 すると突然、男性はファリアの両肩を強くつかんだ。驚いたファリアは怯えた目で男性を見上げる。


「それは、私のことを憎み、関わりたくないということですか? それとも、本当に忘れてしまったのですか?」


 真剣な勢いにたじろぎながらも、ファリアは答えた。


「憎むって……よくわかりませんけど、とにかく私はあなたを知らないんです。ごめんなさい……」


 うつむき、謝るファリアを見て、男性は驚いた表情でゆっくり手を離した。


「……記憶を、いつ無くしたのですか?」


「さあ、はっきりとは……でも、随分前からだとは思います。……私は、あなたと会ったことがあるんですね」


 申し訳なさそうに言うファリアを、男性は細めた目で見つめる。


「私は、アガード・ヴァンダイクです。あなたはファリア・トランス……」


 名前を呼ばれて、ファリアは顔を上げる。


「……私達は、どういう関係なんですか?」


 聞かれたアガードの表情が一瞬歪む。嘘をつくこともできる。だがアガードはそのためにファリアの元へ来たわけではなかった。話せば彼女を苦しめてしまうかもしれないとわかっていても、アガードには話す選択肢しかなかった。


 どこか不安そうなファリアの目を見つめながら、アガードは口を開く。


「私は……あなたの夫と子供を、殺した男です」


 物騒な言葉を聞いても、ファリアの表情は変わらなかった。夫と子供――確かに昔の記憶にそんな存在がいたような気はしたが、その容姿はぼんやりとして一向に見えなかった。


「家族を奪われた復讐のために、あなたは王都で、私と闘いました。あなたの剣で私は重傷を負いましたが……見ての通り、生き長らえてしまいました」


「私が、剣であなたを?」


 目を丸くするファリアに、アガードは軽くうなずく。


「あの後、三ヶ月間ベッドの上で過ごし、こうして普通に歩けるようになったのは、二ヶ月前のことです。一度は親衛隊に復帰したのですが、傷を負った後遺症なのか、足に上手く力が入らず、剣を振っても踏ん張れないことがあって……これでは陛下をお守りすることはできないと思い、除隊をしました。周りの者からは引き止められましたが、私はこれも、何かの思し召しだと思ったのです。罪を犯し、あなたを悲しませてしまった私への……」


 アガードはファリアを見据える。


「家族を奪ってしまった罪を、償わせてください。目障りだというのなら無理にとは言いません。ですが、私はあなたのために、できることなら何でもするつもりです。死ねと言うのなら、いさぎよく心臓を貫きます。私は、そのために来ました」


 覚悟を決めた眼差しがファリアをじっと見ていた。その視線にファリアは困惑する。


「あの……そんなことする必要はありませんから。私はあなたに対して、恨みも憎しみも、何の感情も抱いていません。殺されたっていう夫と子供のことも、今は思い出せない――」


(お母さん)


「え……?」


 急に頭に響いた声に、ファリアの動きが止まる。


(お母さんは、お父さんのことも忘れちゃったの?)


 男か女か判別できない、だが、とても優しく悲しげな声だった。


「……天使の……」


「どうしたのですか?」


 アガードに聞かれ、ファリアは我に返った。放心したような表情をのぞき込みながら、アガードは首をかしげて聞く。


「天使が、何ですか?」


 これにファリアはまばたきを繰り返す。


「……私、そんなこと、言ってましたか?」


 自分が発した言葉の意味もわからない様子に、アガードは哀れみの目を向ける。ファリアも、なぜ天使などという単語が出て来たのか、よくわからなかった。自然と口からこぼれ、無意識に発していたのだ。不思議な声はもう聞こえてこない。一体誰だったのだろうか――そんな疑問は目の前の相手に意識を移すと、すぐに忘れ去られていった。


「記憶が混乱しているのかもしれません。私も、過去のことを一度に話し過ぎました。記憶を整理して、考える時間が必要なようですね。……また明日、出直して来ます。その時にご希望を聞かせてください。それでは……」


 小さく会釈をすると、アガードは背を向け、歩き出す。


「あの、今夜はどこに泊まるんですか?」


 マントを羽織った背に聞くと、アガードは静かに振り向く。


「まだ決まってはいませんが、村の宿が空いていれば、そこに」


「それなら、私の家に泊まってください」


 思いがけない申し出に、アガードは驚き、すぐに首を横に振る。


「それはできません。私はあなたに償うために――」


「空いてる部屋がありますから、使ってください。そうすれば宿代も浮きますし」


「そんなこと……気にしないでください。私は私でどうにか――」


「あなたの体をそうしてしまったのは、私なんでしょう? 私にも、償わせてください」


 真剣に言っているファリアを見て、アガードは呆然としながら歩み寄った。


「何を言っているのですか……私は、あなたの家族を殺した男なんです。償うのは、私だけでいいのです。あなたは何も悪くない」


 これにファリアは困った表情でうつむく。


「償いたいと言ってますけど、私はそうされる理由がわからないんです。夫と子供を殺されたと聞いても、まったく記憶にはないことですし、実感もありません。それなのに一方的に償わせるというのは、何か、腑に落ちないというか……」


「ファリア……」


 復讐に燃える目で睨み付けていたあの時とは真逆だった。ファリアは今、敵であるはずのアガードの身を案じていた。記憶を失ってしまったばかりに……。こうなってしまったのは自分のせいかもしれないとアガードは思った。家族を亡くし、復讐に駆り立てた感情が、ファリアの記憶を壊したのでは――そうに違いないとアガードは確信した。


 手を伸ばしたアガードは、うつむくファリアの細い体を力強く抱き締めた。


「なっ、何ですか、急に……」


 突然のことに目を白黒させるファリアは、抜け出せない腕の中で身を固まらせる。


「申し訳ありません……すべて私のせいだ。私があなたを、こんな目に遭わせてしまった……」


 ゆっくり身を離すと、アガードはファリアの驚いたままの目を見つめた。


「償わせてください。あなたが言うことに、私は従います」


 灰色の瞳が悲哀を帯びてファリアに懇願していた。その表情にファリアは眉根を寄せ、答えに苦しみながらも、おずおずと口を開いた。


「償うなんて、そんなこと、私は……でも、それじゃあなたの気が済まないと言うなら、その、償いじゃなくて、こちらからのお願いという形でも、いいですか?」


「あなたが望むのなら」


 返事を聞き、ファリアは安心した表情で、だがためらいがちに言った。


「私のことを、見ててくれませんか」


 その意味がわからず、アガードは無言で聞き返す。


「あなたがここにいられる間だけでいいので。……私、日に何度か意識をなくすんです。そのせいであまり外に出ることもできなくて……もし私が長い時間見えなかったら、捜してほしいんです。どうでしょうか……?」


 これにアガードは心配そうにたずねる。


「意識を? 何か病を患っているのですか?」


「いえ、病気とかそういうものじゃなく……」


 そこまで言って、ファリアの言葉が止まる。自分はどうして意識を失うのだったか。最近までその理由を憶えていたはずだった。現に病気の類ではないと知っている。それなのに理由だけが思い出せなかった。私は、なぜ意識を失うようになった……?


 答えに詰まっているファリアに気を遣い、アガードが続ける。


「そうしてほしいと言うのなら、私はあなたの言う通りにします。ですが……」


 アガードの表情が怪訝なものに変わる。


「私はあなたの家族を奪った人間だ。大げさな言い方ですが、そんな男に、あなたはご自身の命を預けるような役目をさせて、不安にはならないのですか?」


 この問いに、ファリアは少し間を置くと、アガードを真っすぐに見ながら言った。


「あなたが過去にどういう人だったかは知りません。でも、少なくとも今のあなたは、残忍という言葉からかけ離れた人のように感じます。本当の悪人は、そんな優しい表情なんてできないと思うんです」


 言い終わり、にこりと微笑んだファリアに、アガードの胸は締め付けられた。これは決して許されたわけではない。こう言わせてしまったのは、自分の罪なのだ――アガードは目を伏せ、悲しげな笑みをこぼすと、低く弱い声で言った。


「……わかりました。あなたが望む限り、私はいつまでもあなたのことを見ています。どこにいようとも、捜しに行きます。あなたが安心できるために……」


 アガードの目は潤んでいた。これは辛い涙なのか、それとも嬉しい涙なのか、自分でもわからなかった。だが、その心は満たされているように感じた。ようやくファリアに償うことができる。そして、残りの人生も――


「……あの?」


 ファリアは心配そうにアガードの顔をのぞく。


「何でもありません。風で砂が目に入っただけです」


 咄嗟に笑顔を作り、アガードは平静を装う。


「そう、ですか……目が痛いなら、中で洗ってください。その間に部屋の用意もしておきますから」


 そう言うとファリアは玄関へ行き、扉を開けて入るよう促す。


「本当に、いいのですか?」


 聞くアガードに、ファリアは腰に手を置き、笑顔で返す。


「お互い様でしょう? 遠慮はいりませんから」


 気さくな言葉に、ためらっていたアガードの足が動く。二人で家の中へ入ると、ファリアは扉を静かに閉めた。


 空を覆う夕焼けの赤色が、周囲の木立を染めていた。その陰に、新雪のように白い鳥が止まっている。ろうそくの明かりがともった窓をしばらく見つめていたが、風で梢が揺れると、翼を広げ、天高く羽ばたいて行ってしまった。冷たい風は、庭の隅に干されたままの洗濯物を、いつまでも揺らしていた。

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復讐のトランス 柏木椎菜 @shiina_kswg

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