十三話

 九十四日目――


 暗く、寒く、カビ臭い牢の片隅で、ファリアはマントを毛布代わりにしてうずくまっていた。ここに放り込まれてから、すでに一ヶ月が経っていた。期限の九十日は過ぎていたが、それを心配したのは最初だけで、今はそんな余裕すら残っている状態ではなかった。


 石造りの牢はとにかく寒かった。一ヶ月も経てば、外はもう本格的な冬となり、その気温は床と壁を作る石にも伝わる。座っているだけでも辛いのに、どこからか吹いてくる隙間風はファリアの手足を凍えさせ、眠ることさえ許さなかった。食事は一日に一度だけで、日が経って硬くなったパンと、生ごみを入れたような冷たいスープだけだった。それでもないよりはましと食べてはいたが、もうファリアには硬いパンを噛む力もなくなり、残す日が徐々に増えていた。


 そんな極限状態でも、ファリアが意識を保っていられたのは、やはりセラがいてくれたからだった。控えている時は体の感覚を持たないので、セラは何の影響もなく話すことができる。寒さを紛らわせようと思い出話をしたり、村に戻れたら何をしたいかと聞いたり、とにかく今の苦痛を少しで和らげようと話しかけ続けていた。セラとしては、当然すぐにでも入れ替わり、心身の苦痛を代わってあげたい気持ちだった。だがファリアはそれをかたくなに拒んでいた。代われば、今度はセラが入れ替わることを拒むのが目に見えていたからだ。自分の体なのに、苦痛だけをセラに任せるわけにはいかないと、ファリアは力の入らない手で凍える膝を抱き抱え、必死に寒さや空腹に耐え続けていた。


 ふと頭上を見上げる。この牢は煙突のように縦に細長く、その天井付近には小さな長方形の穴が開いていた。おそらく通気口と思われるが、そこからは晴れた日には陽光が差し込み、雨の日には雨粒が飛び込んでくる。そして今日はというと、小さな塵のような白い雪が舞い落ちてきていた。緩い風と共に、ファリアの前に次々と落ちては消えていく。暗い空間を舞う雪が、まるで花の綿毛のように見えて、思わずファリアは見惚れていた。


(……あ、鳥だ)


 セラが気付いて言った。ファリアは視線を動かすと、長方形の穴の縁に、確かに小さな鳥が止まっているのが見えた。全身雪のように真っ白だった。


(綺麗だな……いつからいたんだろう)


 不思議そうに言うセラの声を聞きながら、ファリアは見入るようにその鳥を眺めていた。鳥も休んでいるのか、そこからじっと動かなかった。時々首を振り、ファリアのほうの様子をうかがっているようにも見える。もしかしたら、残したパンの匂いを嗅ぎ付けて来たのかもしれない。だがパンはすでに看守が片付けてしまっていた。また明日来なさいと言ってあげたかったが、そんな短い言葉を発することも、今のファリアには疲れることで、ただ無言で鳥を見上げることしかできなかった。


(誰か来る)


 かなり久しぶりに聞く声に、ファリアは驚きつつ視線を鉄格子の向こうへ向けた。


(天使の声か……お前、今まで何してたんだ?)


 セラが聞くも、答えはない。するとそのうち、薄明かりに照らされた廊下の奥から、小さな足音が聞こえてきた。いつも聞く看守の足音だけではない。他にも誰かがいるようだった。


(嫌な客じゃなきゃいいけど……)


 緊張を含んだ声でセラが言う。嫌な客とは、つまり刑の執行の言い渡しだ。具体的にどういう罪で捕まっているのか、ファリア達は教えられていない。だが、許されたとは言え、王妃を引き止めて、その前で親衛隊の一人を刺したことは間違いなく、罪は決して軽いものではないと二人は思っていた。


 やがて、ランプを提げた看守が鉄格子の前に姿を現した。


「……この女です」


 そう言って看守は後ろへ数歩下がり、付いてきた二人の人物に場所を譲る。ゆっくりした足取りで鉄格子の前に立った男性は、もう一人が持つランプの明かりを頼りに、うずくまるファリアの姿を見つけ、口を開いた。


「そなたが、セラ・トランスの妻か」


 ファリアは目を丸くして男性を見つめた。六十代くらいの男性は、年の割にがっしりとした体格で、高価そうな分厚い外套を着ていた。後退した頭髪と短い顎ひげは白く、凛々しくも優しげな目は、警戒感を見せるファリアを穏やかに見下ろしている。


(この人、前にどこかで……)


 セラの呟きにファリアも同じ思いがよぎる。この男性とは以前どこかで出会っているような気がしたのだ。それがどこだったのか、思い出そうとファリアは男性の顔をじっと見つめる。


「おい、陛下に失礼な態度は取るな」


 はっとしたファリアは男性の顔を見たまま固まった。


「今はよい。怯えさせてしまうだろう」


 国王に言われ、その横に立つ側近は申し訳なさそうに小さく頭を下げた。


(……そうだ。パレードで見た国王様だ)


 ファリアの脳裏にあの日の光景がよみがえる。馬車に乗って笑顔を見せていた国王と王妃――あの顔と目の前にいる顔は、まったく同じだった。まさか二度も姿を見られるなんて、しかも国王自ら会いに来るなど、ファリア達は想像すらしていない出来事だった。しかし、なぜ王族には似つかわしくないこんな場所に国王はやってきたのか――それを聞く前に、先に国王が口を開いた。


「深夜だというのに、起こしてすまない」


 そう言われて、ファリアは初めて、今は夜中なのだと知る。一日中ほぼ暗い牢の中では、昼夜を感じることができず、時間の感覚は失われていた。寒さのせいで睡眠も不規則になり、体内時計は直しようがないほどに狂っていた。


「そなたに、話したいことがあるのだ……」


 思い詰めた口調で言うと、国王は振り返り、看守に目配せをする。それを見た看守は会釈をすると、静かに牢の前から立ち去っていった。


「お主も、外してくれ」


 国王は横にいる側近にも言う。


「しかし、陛下お一人では――」


「心配はない。入り口で待っていろ」


「……では、何かありましたら、すぐにお呼びください」


 持っていたランプを足下に置くと、側近は不安そうな表情のまま廊下を戻っていった。その姿が消えるのを待って、国王は再びファリアを見下ろす。


「……体は、辛くないか」


 国王がなぜ自分を気遣うのか、よくわからない状況にファリアは無言の返事を返す。これに国王は悲しげに目を細めた。


「私が悪いのだ……申し訳、なかった」


 急に膝を折り、謝り出した国王に、ファリアは思わず鉄格子に近付く。


「国王、様……」


 何日ぶりかに出した声は、ひどくかすれて弱々しく、自分の声ではないかのようだった。


「なぜ、謝るのですか?」


 たずねるファリアを、国王は真っすぐに見る。


「そなたの夫……セラ・トランスを殺すよう指示したのは……私の妻、マトゥーテなのだ」


 うなだれる国王にさらに近付こうと、ファリアは錆びた鉄格子をつかむ。


「お待ちください。……それは、本当のことなんでしょうか」


「すべてを調べさせた。マトゥーテも問い詰め、白状させた。……残念ながら、本当のことだ」


 ファリアは唖然としながら聞いた。


「では、セラが……夫が、国王様のお子だというのは……?」


 これに国王の表情が驚きを見せる。


「……なぜ、それを……」


 ファリアの両手から一気に力が抜けた。アガードの最後の言葉は、真実だった――


(何だよ、それ……俺は何も知らないぞ……)


 セラは動揺していた。夫が知らないのなら、ファリアも知るわけはなかった。養子だと聞かされてはいたが、実の親がまさか一国の王だったなど、それが本当とわかった今も、ファリアは信じることができなかった。


「一体、どこで聞いたのだ?」


 眉間にしわを寄せ、国王が聞く。


「親衛隊の、アガード・ヴァンダイクという男に……」


「ヴァンダイクに……そうか……」


 目を伏せた国王は、納得したように小さくうなずいた。


「あれは忠義に厚い男だ。私利私欲で動くことはない。だが、心は持っているのだ。……そなたに、償いたかったのだろう」


 この言葉だけでも、国王がアガードの事を信頼していることが伝わってくる。忠義と自身の心との狭間で、もしかしたらアガードは葛藤していたのかもしれない。だが、アガードは結局、国王の子を殺すことを選んでしまった――


「……なぜ、なんですか?」


 ファリアは悔しさの混ざった口調で聞いた。


「夫が国王様のお子だというのなら、なぜ手放されたのですか? なぜ養子に出してしまったのですか? 国王様のお側にいられれば、夫は今も、生きて……いられたかも……」


 声が詰まり、ファリアの顔が歪む。その様子を国王は辛そうに見つめる。


「……私が、弱かったのだ……若い時分に王位を継ぎ、周囲から侮られないよう気を張る毎日だった。そんな私を支え、理解してくれていたのは、前妃であるセシリアだけだった。だが、彼女を病で亡くし、私の心には大きな穴が空いてしまった。自分では埋めようもない、孤独感と寂しさ――それを埋めたのは、セシリアの面影に似た、侍女だった」


 ふう、と息を吐き、国王は続ける。


「最初は話すだけで十分だった。だが日が経つにつれ、それだけでは満足できなくなっていた。二人だけで密かに会い、気付けば親密な関係になっていた。でも私には後悔の念は微塵もなかった。子ができたと言われた時も、心から喜んだのだ。しかし、その事実は王家にとっては不都合極まりないものでしかない。庶子の子が王位を継ぐなど、あってはならないことだと、周囲の者達が一斉に、母と子を処刑すると言い始めたのだ。私は怒り、さすがにその処置は取りやめさせたが、このまま城に置いておくこともできなかった。そう思ってしまったことが、今思えば私の弱さだったのだろう……」


 国王は目を細め、遠くを見るような眼差しを向ける。


「男児が生まれると、その赤子はすぐに養子に出された。母親である彼女も、城を追い出されてしまった。私はそれを、黙って見ていたのだ。無理矢理に引き離された親子を、守ってやった気でいたのだ。……まったく、愚かなことだ」


 国王の瞳が薄明かりの中で揺らぐ。ファリアは間近に見えたその瞳の色が、セラと同じコハク色だと気付いた。本当に、父親なのだ――目を見ただけで、ファリアは妙に納得できていた。


「マトゥーテと婚姻を結び、世継ぎも産まれた。平穏な日々に、それまでのことなど誰もが忘れていると思っていた。だが、想像力に乏しい者というのは、どこにでもいて手に負えない。マトゥーテに近い者達が、面白半分に話を聞かせたらしいのだ。世継ぎを産んだばかりで神経質になっていた王妃が、国王にもう一人子がいたなど聞かされたら、不安に思うのは当たり前だろう。私はそんな様子に気付いてやるべきだったが、マトゥーテは本心を隠し続け、一人で先走ってしまった。何の障害にもなるはずがない者を、あおられた不安に押され、こんな悲劇を起こしてしまうとは……結局、私は自分の子の命を、守るどころか、もてあそんだのだ。弱い心のために、犠牲にしてしまったのだ!」


 国王は音がするほど歯を噛み締め、苦しそうに顔を歪める。


「誰も責めないでやってほしい。マトゥーテも、ヴァンダイクも……。すべて私から始まったことだ。恨むのは、私だけにしてくれ。国を統治する者として、命をやることはできないが、そなたが望むのなら、私は何度でも謝罪して、亡くなった子のために毎日祈り続けよう。もちろん、ここからもすぐに出させるつもりだ」


 今はただ、痛々しいだけの老人にしか見えない国王を、ファリアは当惑顔で見つめていた。国王を恨めというのなら、これまでの復讐は一体何だったのだろうか。ファリアが望んでいたのは、夫と息子を奪った犯人の命だけだった。だがその犯人は王妃に命令され、そう命令させたのは国王が原因であり――復讐する対象は、もはやわからなくなっていた。ファリアもセラも、国王の謝罪など望んではいない。確かに無責任だったかもしれないが、ただそれだけだと思っていた。憎いのはあくまで二人を殺した犯人であるアガードだけなのだが、一か月前にその命は奪っている。それなら、復讐はあの時に終わったと言っていいのだろうか……?


 ファリアは、もやもやとわだかまる胸の中を感じていた。命を奪ったアガードは悪だ。しかし、それは本人の意思ではなかった。それでも、アガードは今も悪なのだろうか。殺されるほどの悪人だったのか……? なら彼を殺したファリア達は、もっと悪なのかもしれない。真実も知らずに殺し、国王のはからいで牢から出ようとしているのだ。復讐を果たしたつもりで……。世間的に見れば、ファリア達のしたことは殺人だ。極刑もあり得る罪で、それを償うこともせず社会へ戻ろうとしている。捕まった場合の覚悟はしていたはずなのに、それが必要ないとわかると、ファリアは安心するどころか、逆に心が締め付けられる気がした。


「……私は、アガード・ヴァンダイクを手にかけた罪人です。国王様といえども、殺人犯に甘い対応をしては、周りの方々にきっと――」


「そうか……まだ知らなかったのだな」


 国王の優しげな目がわずかに見開く。ファリアはそれを怪訝そうに見つめる。


「何が、でしょうか?」


 すると国王は落ち着いた笑みを浮かべて言った。


「そなたは殺人犯ではない。……ヴァンダイクは命を取り留めている」


「え……」


 ファリアは口を開けたまま国王を見ていた。


「重傷を負って現在も療養中のようだが、命に関わるようなものではないと聞いている」


(あいつ……生きてるのか……)


 セラは呆然としながらも、半分笑うような声色で呟いた。セラとしてはあの時、手応えがあったのだろう。声だけではうかがうことはできないが、ファリアはその胸中を察し、複雑な思いを抱いた。


「そなたの恩赦を望んだのは私だけではない。ヴァンダイクも望んだことなのだ」


 ファリアは思わず眉根を寄せる。


「そんなはず……殺そうとした相手なのに……」


「ヴァンダイクも深く悔いているのだ。私の子であり、そなたの家族を奪ったことを……。言葉を届けられない代わりに、私が謝ろう。そして、あの者の誠意を受け取ってほしい」


「国王様……」


 柔らかな微笑みを浮かべると、国王は足下のランプを手に持ち、ゆっくりと立ち上がった。


「すべてを許してほしいとは言わない。そなたの消えない思いは、私に全部向けてほしい。馬鹿な、この老人に……。ここから出られるよう、すぐに手続きを始めさせる。今しばらくの辛抱をさせてしまうが、心配せずに待っていてほしい」


 ランプの明かりが国王の微笑みを照らす。見上げるファリアをいちべつすると、踵を返した足は静かに歩き始めた。


「……お待ちください」


 呼ばれた国王は、ゆるりと振り向く。それを見ながらファリアは鉄格子をつかむと、弱り切った両足に力を入れ、よろめきながらも立ち上がった。


「無理をするな」


 気遣うように国王はファリアに近付く。


「……国王様、セラと……夫と、話したいですか?」


 これに国王は短いまばたきをした。


(ファリア、そんなこと、俺は……)


 戸惑うセラの声が聞こえる。


「……手放したとはいえ、我が子だ。話せるものなら話したい」


「わかりました……」


 そう言うと、ファリアは強く目を瞑った。その様子を国王は不思議そうに見つめる。


(……俺は、いい。話すことなんて……)


 突然のことにうろたえるセラを無視し、ファリアは暗闇の中で動かずに待った。深夜の静寂は、体から響く鼓動だけを浮かび上がらせる。それを長く聞かされるのかと思った時、ファリアの体の感覚はぷつりと途切れた――目を開くと、鉄格子を挟んだセラの前には、深いしわの刻まれた国王の顔があった。


「……どうしたのだ? 気分が悪いのなら、医師を呼んでこよう」


「待って、ください」


 行こうとする国王を、セラは咄嗟に呼び止めた。そして、その顔をじっと見つめる。ほぼ初対面の、見慣れぬ老人の顔――セラにはこの人物が、自分の父親だとは到底思えなかった。それでも、この世に自分を生んだ父親だということは、変えようもない事実だった。セラは正直、国王に対しては何の感情も抱いていなかった。だが、しいて話すことがあるとすれば、それはたった一つだけだった。


「お……私は、決して不幸だったとは思っていません。養子に出されたおかげで、ファリアという大事な人と巡り合うことができたんです」


 首をかしげて聞く国王を見て、セラは慌てて付け足した。


「――と、前に夫が言っていました」


 国王はコハク色の目を細める。


「だから、国王様のしたことは、一概に間違ったこととは言えない……と、私は思っています。本人が、そう言ってるわけですから……」


 これに国王は、どこか安堵したように笑った。


「そう思ってくれていたら嬉しい。我が子は、よき伴侶と巡り合ったのだな……本当に済まないことをしてしまった。そして……感謝する」


 悲しげな、しかし明るい光をたたえた目が、真摯にセラを見ていた。その姿を目に焼き付けるかのように国王はしばらく見ていたが、ふとうつむくと、静かに鉄格子から離れ、暗い廊下を戻っていった。見えない先から扉が閉められる音が聞こえると、孤独な空間は再び静けさを取り戻した。


 セラは弱った体を、慎重に壁際に座らせる。そしてマントにくるまり、冷えた両手を組み合わせる。


「ファリア」


(……何?)


 苦痛のない、普段通りのファリアの声に、セラは一安心して続けた。


「ちゃんと、聞いてた?」


(それが、セラの本当の気持ちなの?)


「うん。今さら文句言って恨む相手を増やしたって意味ないだろ? 俺はもう悔いなんて残したくない。まあ、あいつを仕留められなかったっていうのは、少し心残りではあるけど――」


(それでよかったんだと思う。仕留めなくてよかったんだと……)


 殺してしまっていたら、もっと後悔したのでは――ファリアはそんな気がした。


「……そうか。ファリアがそう思うなら、それでよかったんだな。でも、俺としては、やっぱり剣では勝ちたかったな」


 宙を見上げながら、セラは苦笑いをこぼす。


(セラはもう十分強いわ。私にとっては)


 穏やかな笑顔で視線を足下に移すと、セラはおもむろに話し始めた。


「九十日が過ぎて、この後どうなるかわからないから、一応言っておくよ。俺は、ファリアと一緒になれて、本当に幸せだった。ハイメが産まれてからはもっと幸せだった。あんな幸せは他にはないと思うくらい、俺は幸せだった」


(何回幸せって言うつもり? ちょっと大げさよ)


 照れるファリアに、セラはふふっと笑う。


「そう思ってるんだ。仕方ないだろ? ……死んでからも、まさか一緒にいられたのは予想外だったけど、嬉しい驚きだった。初めて見る場所にも行けて、剣をまた握ることができて……。ファリア、これまでありがとう」


(まだ……早いわ)


 セラとの別れが迫っている現実に、ファリアの声は無意識に沈む。


「一応だよ。言えなくなるのは嫌だから。……離れても、俺はファリアをずっと愛してる。何があっても」


(セラ……たとえば、離れないで一緒にいることも――)


「気持ちはわかるけど……駄目だよ。ファリアの体に何か起こったら、それこそ後悔する。俺は魂だけの存在だ。ここにとどまってはいけないんだよ」


 苦しげなセラの口調は、その胸の心情をそのまま表していた。離れたくないのはセラも同じだった。だが死んだ者はこの世と決別しなければならないのが理――小さく息を吐き、セラは努めて明るく言う。


「ファリアと出会えて、一緒に暮らせて、家族を作れて、俺は幸せ者だった。本当に、いい人生だった……ありがとう、ファリア。永遠に愛してる……」


(……うん。私も、ありがとう。セラ……)


 視界が滲むのを感じたセラは、立てた両膝の上に顔を沈めた。そうしていないと嗚咽が漏れてしまいそうだった。セラもファリアも望まない別れへの感情を押し殺し、残り少ない二人だけの時間を惜しみながら、冷たい暗闇の中で言葉を交わし続けた。


 牢から出されたのは、その翌日のことだった。

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