十二話

 六十三日目――


 朝から小雨が降る中、ファリアは山道の脇の茂みに身を潜ませていた。遠くに見える高い山の頂上には、粉砂糖を振りかけたような白い雪が積もっている。ここ数日で一気に冬らしくなった気温は、ファリアの白い手をさらに白くさせ、凍えさせていた。寒さで固まらないよう、ファリアはこすり合わせ、温かい息を吹きかけ続ける。


(……本当に、いいのか?)


 セラがためらうように聞いた。


「もう決めたことよ。だから平気」


 ファリアは微笑む。


(どうなるかわからないぞ? 最悪の場合――)


「何度目の説明をする気? 私はちゃんと理解してるから。決心もしてるから」


 これにセラは黙り込んでしまった。


 アガードの元から戻った後、二人は宿で数日間、仕留める方法を話し合っていた。正面から向かっても勝てず、相手を不利にしても勝てず、この状況に二人は長く思い悩んでいた。第三者の手を借りるということも考えられたが、復讐は二人の手で成し遂げなければ意味がないと感じ、この案は早々に消された。この他にもいくつか案は考えられたが、どれも仕留めるには難しそうなものばかりで、方法はいつまで経っても決められなかった。


 そんな時にファリアが言ったのは、それなら仕留めなくてもいいというものだった。もちろん仕留めることが最善だと前置きしながらも、それが無理ならば、アガードの罪を訴えることはできないかということだった。司法に訴えるには、犯人と示す証拠がなく、できるとは思えなかった。それが駄目なら、アガードの所属する親衛隊を指揮する人間に直接訴えるしかない。だが、仲間同士では問題をもみ消される心配があった。そうなると、さらに上の人間ということになる。親衛隊の主、国王と王妃だ。一般市民の前には滅多に姿を見せない存在であり、まして声をかけることなど常識的にできることではなかった。国王と王妃の進路を妨げただけでも罪になるのだ。そんな難しいところへ訴えることなど、命懸けと言っても過言ではなかった。だがファリアは、もうこの方法しかないと決心していた。自分の身がどうなろうと復讐さえ果たせれば、それで自分は納得できるのだと……。


 セラは当然反対した。せっかく助かった命を、復讐のために無駄にしてほしくなかった。愛する妻の体が冷たくなる感触など、感じたくもなかった。しかし、ファリアの意志は変わらなかった。復讐を終えたところで、自分はまた一人になる。女一人が消えたところで、誰も気にはしないだろう。それなら私は命をかけて望みを叶えたい――真剣に話すファリアに、セラは説得されるしかなかった。


 それから二人は街を駆け回って、国王と王妃の情報を探し続けた。噂好きの人間や裏情報に精通した人間、時には兵士に金を渡して話を聞き込んだ。その甲斐もあり、二人は一つの情報を手に入れる。それは、王妃がここ最近、週末になると必ず別荘へ出かけるというものだった。クレスカ城の北西に新しく建てられた別荘を、王妃は大層気に入っているということらしい。そこへ向かう時、親衛隊は必ず王妃の護衛をするはずで、その中にアガードがいる可能性も高い。接触するなら、この機会の他には考えられなかった。


 こうして二人は週末の日を狙い、別荘へ続く山道の脇に身を潜ませていた。道の先を見つめながら、今か今かと待ち構える。


「……セラ、私はどんな結果になっても、後悔しないから。だから、思いっきりやって。あなたも後悔しないように」


 返事は返ってこない。ファリアは首をかしげる。


「聞いてる?」


(……うん。わかった。できるすべてを出すよ)


 ファリアは笑みを浮かべ、小さくうなずいた。すると、耳元をかすめる風の音に混じって、遠くから馬のひづめの音がわずかに聞こえてきた。


「……来たわ」


 ファリアの顔が緊張に引き締まる。


(行こう)


 セラに促され、ファリアは茂みから出ると、山道の中央に立って、やってくるだろう姿を待つ。徐々にひづめの音は近付き、数も増えていく。そんなに急いではいないらしい。のんびりとした足音は、ファリアの存在にまだ気付いていない証拠でもある。


 やがて道の角を曲がってきた先頭の馬が見えてきた。栗毛の馬の上には、群青色の制服を着た兵士が見える。その後ろから二列になって、同じ騎兵が続いて現れる。すべて親衛隊のようだ。


 まだ大分距離は空いていたが、先頭を行く兵士はファリアの姿を見つけたらしく、ゆっくりと馬を止めた。道の真ん中で立ち尽くす不自然さに警戒したらしい。


(……仕方ない。近付こう)


 ファリアは親衛隊のほうへ静かに歩き出す。ぼんやりと見えていた兵士の表情が次第にはっきりと見えてきた。ファリアを明らかに不審な目で見ている。


「邪魔だ。道からどけ」


 先頭の兵士が叫んだ。だがファリアは止まらず、そのまま歩き続ける。距離が縮まり、親衛隊の列の背後が見えた。そこには装飾の施されたきらびやかな馬車が止まっていた。王妃が乗っているに違いないと確信したファリアは、歩く足を速める。


「何事か」


 その時、馬車の後ろから一頭の馬が駆けてきた。いつか見た黒毛の馬に、黒髪をなびかせる切れ長の目の男――紛れもなくアガードだった。


(やっぱり、いたか……)


 セラが張り詰めた声で言った。


「止まれ。何者だ」


 先頭の兵士はどんどん近付いてくるファリアに叫ぶ。その間にアガードは兵士の横に馬を付け、道の先に視線を送る。


「副長、あの女、何か怪しいですよ」


 いぶかしむ部下の声はアガードには届いていなかった。その意識はただ一点、迫ってくるファリアの姿だけに注がれていた。


「ここで、来るか……」


「……副長?」


 部下を無視し、アガードは馬を操りながら指示を始める。


「引き返し、迂回する。速やかに妃殿下を――」


(……あいつ、王妃を引き返させる気か)


「どうする?」


 わずかに間を置き、セラは言った。


(……俺が行く)


 それを聞いて、ファリアは足を止めると、目を強く瞑った。


「一体どうしたの?」


 窓に青いカーテンのかかる馬車の中から、若い女性の声が不安そうに聞いた。アガードはその傍らに寄ると、穏やかな口調で言う。


「大きな問題ではありません。少し戻り、道を変えさせていただきたいのですが、よろしいでしょうか」


「本当に、問題はないの?」


「はい。我々で――」


「き、貴様、何のつもりだ!」


 部下の慌てた声に、アガードはすぐに首を巡らす。見えたのは、ファリアが静かに剣を抜いている姿だった。顔をしかめたアガードは手綱を振って、急いで先頭の部下の元へ駆け寄った。


「ここは私に任せろ。妃殿下を頼む」


 戸惑いながら後ろへ下がった部下を見送り、アガードは改めてファリアを見る。鋭い眼差しは、すでにアガードをとらえている。剣を片手に歩みを速め、止まる気配は微塵もない。気迫をまとった様子から、何か強い決意のようなものが感じられる。ここで、終わらせるつもりなのだ――アガードはそう察した。


 他の親衛隊は、馬車を取り囲みながら道を引き返そうと動き始める。せっかく見えた馬車は、セラの視界から少しずつ消えようとしていた。


(行っちゃうわ。急いで!)


 急かすファリアの声に、セラは猛然と走り出した。小雨が顔に打ち付けても、まばたき一つせず、ただ真っすぐに馬車だけを見据える。


 だがその前に、いななきを上げながら一頭の黒い馬が道を塞いだ。セラは思わず足を止め、馬を操る男を見上げる。


「妃殿下に用はないはずだ」


 高い位置からセラを見下ろし、アガードは静かな声で言った。その背後に見える馬車は、もう向きを変えて引き返そうとしている。セラは息を吸い込むと、そちらへ向けて大声で言った。


「王妃様、お待ちください! お話したいことが――」


「構うな、早く行け!」


 セラの言葉をさえぎるように、アガードは部下達に叫んだ。親衛隊と馬車は止まることなく戻っていく。その後ろ姿に、セラは続けて言った。


「王妃様に危害を加えるつもりは毛頭ありません。ただ、ここにいるアガード・ヴァンダイクの犯した罪を、お知らせしたいのです!」


 これにアガードの表情は険しくなる。背を向けて進んでいた親衛隊の数人は、ちらちらとセラに振り返り、言葉をどう受け止めるべきかと困惑した様子を見せた。しかし、馬車は止まらず、がたがたと音を立てて進んでいく。


「……くっ」


 遠ざかっていく馬車にセラは追い付こうと、立ちはだかるアガードを避けて駆け出す。そんなセラをアガードはすぐさま追った。あっという間に追い越し、再び前に立つと、馬から下りてセラを待ち構える。その右手は腰の剣に添えられた。


「どけえっ!」


 セラは大きく剣を振る。その瞬間にアガードは剣を引き抜き、セラの剣にぶつけた。ガキンと重い音と共に、セラの腕に衝撃が響く。剣を落としてしまいそうなしびれが走ったが、どうにか耐え、アガードと対峙する。


「副長!」


 闘う二人を見て、四人の部下が引き返してきた。だがアガードは振り向かず、背中越しに言った。


「手は出すな。絶対に……」


 どこか鬼気迫るものを感じた四人は、それ以上近付けず、遠巻きに見守るしかなかった。


「……何を言っても無駄だ」


 セラを見て、アガードは小さな声で言った。


「言ってみなきゃ、わからないさ」


 視界の奥の馬車に目を移すと、セラはまた息を吸い込む。


「アガード・ヴァンダイクは、罪のない者を殺したのです――」


 大声で叫ぶセラを止めようと、アガードは切りかかる。その攻撃を防ぎながら、セラは言葉を続けた。


「メーナス村で、父と子の二人を――」


 アガードの剣が二の腕をかすめていく。


「人殺しが親衛隊にいることを、王妃様は――」


 二人の剣が激しくぶつかり、お互いの顔が近付く。


「お許しになるのですか!」


 叫びは山道中に響き渡っていた。剣で攻撃を受け止めながら、セラは肩で息をする。一方のアガードも、珍しく呼吸を乱していた。


「……焦ってるな」


 セラは口の端を上げる。


「本当に、無駄なのです」


 冷静に言うアガードの後ろを見て、セラは言った。


「じゃあ、どうして馬車は止まった?」


「何……?」


 目を見開いたアガードは、セラから離れるとすぐに背後へ目を向けた。道の先には、確かに親衛隊に囲まれた馬車が動かず止まっていた。驚きを隠さずアガードは部下に聞く。


「なぜ止まった。早く道を――」


「妃殿下の、ご指示なので……」


 馬車の横にいた兵士の一人が答えた。この兵士に限らず、他の親衛隊の者は、皆どこか困惑しているようだった。その原因は間違いなく、セラの発した言葉にある。自分達を率いる上官が、まさか本当に人殺しなのだろうかと疑いを抱き、動揺しているのだ。


「妃殿下……なぜ……」


 アガードが呆然としながら呟く。


「王妃様にお願いしたいことがあります」


 セラは馬車に向かって言う。


「突然命を奪われた父と子の無念を、私が代わってこの場で晴らすことを、お許ししていただきたい!」


 見守る親衛隊がわずかにざわつく。遠くの空では低い雷鳴がとどろいていた。しかし、この場だけは時間が止まったようだった。皆動かず、王妃の反応を待つ。


 すると、馬車の窓の青いカーテンの隙間から、わずかに白い指がのぞく。側にいた兵士が近寄り、そこへ耳を傾ける。カーテンが閉じられると、兵士はセラのほうへ向き直って言った。


「……お許しに、なるそうだ」


 セラは小さく笑う。


「ありがとうございます」


 許したということは、王妃もアガードのことを、少なくとも疑っているということになる。これだけでも復讐の半分は成し遂げられたと言えた。残るは本人の命だけ――


 部下達の視線を浴びながら、アガードはゆっくりとセラに振り向いた。その顔は驚きでも怒りでもなく、苦笑いを浮かべていた。そして、右手の剣を静かに構える。


「……わかりました。受けて立ちましょう」


 セラを見つめると、アガードの目は一転して真剣な光をたたえた。それを見てセラも剣を構える。


「一対一の闘いだ。終わるまでは誰も邪魔しないでくれ」


 視線だけを動かし、セラは見守る親衛隊に念を押す。しかし、まだ迷う表情を見せる兵士に、アガードが続けて言う。


「言う通りにしろ。私の身に何が起ころうと、手出しは無用だ」


 これに親衛隊は従い、二、三歩後ろへ下がって二人から距離を取る。山道の中央で、セラとアガードは剣を構え、向き合っていた。


「何度目の正直だろうな……でも、これが最後だ」


 力強く言うセラに、アガードは灰色の目を細める。


「最後にしてもらいましょう……」


 じゃり、と音を立てて、アガードが地面をすり、間合いを測る。二人は睨み合ったまま、対峙を続けた。いつしか小雨は大粒の雨に変わり、冷たい空気をさらに冷やしていった。手を濡らす雨で滑らないよう、セラは剣を強く握り直す。雨は体の熱を奪い、こうして立っているだけでも体力を削られている感覚だった。先に出るか、それとも待つか――そう考えていた時、アガードの足が素早く動いた。


 一気に間合いを詰めてきたアガードは、足の動きと同様に剣も素早く振り下ろす。キンッと音が鳴り、セラは剣で弾く。だがアガードの攻撃は途切れない。連続で容赦なく切り付けてくる剣は、セラをじりじりと後ずさりさせる。一瞬の隙も与えない攻撃は、敵ながら見事と思うしかなかった。やはりアガードに勝てないのだろうか――心の中で弱音を吐いた時だった。


「はっ……」


 後ずさるセラの足がわずかにもつれた。上半身が傾き、剣を振る腕が乱れる。こんな隙を見逃すはずがないアガードは、両手で握り直した剣を一直線にセラの首へ突き出す。どこにも逃げ場はないと思われた。だが、その剣先は大きく外れ、セラの肩にかかるマントの端を切っていった。慌てて距離を取り、セラはアガードから離れる。


「……運がよかったですね」


 小さく息を吐きながら、アガードは言った。セラは体勢を立て直し、目の前のアガードを睨む。


(今、何かおかしくなかった?)


 ファリアも同じように感じたのだとセラは知る。何がと言われてもわからなかったが、とにかく妙な感覚をセラも覚えていた。


 しかし、それを探る暇を与えず、アガードは再び攻撃を仕掛けてくる。ここでまた後ずさるわけにはいかないと、セラは強引に反撃に打って出た。剣同士がぶつかり、お互いの攻撃が体をかすめる。一見すれば互角のように見える闘いだが、セラはアガードの強さを嫌というほど知っている。隙を見せたら最後、アガードはそこへ、いともたやすく剣を刺すことができる腕を持っているのだ。どんな状況だろうと、一時も油断はできなかった。


 動き回る二人の足下は、冷たい雨でぬかるみへと変わっていた。靴に泥がこびり付き、セラの動きを鈍らせる。


「くっ……」


 アガードの振った剣が、セラの腕を袖の上から切った。ピリッとした痛みに、思わず表情が歪むが、傷は浅い。焦りそうな自分を抑え、セラは剣を振り続ける。


(……やっぱり、おかしいわ)


 お互いの剣がぶつかる中、ファリアが言った。


(何か、力を抜いてる感じ……)


 泥に足を取られ、セラの動きが鈍っている今こそ、アガードは攻撃をするいい機会のはずなのだが、まるでその攻撃に鋭さが感じられない。おかげでセラの攻撃回数は増えるのだが、それにしても理由がわからなかった。疲れている様子も見られない。傷を負っているわけでもない。何か意図的なものだろうか――セラはアガードの剣を受け止めると、近付いた距離で言った。


「どうして、本気を出さない」


 二本の剣が金属のこすれる音を出す向こうで、アガードは険しい表情のまま黙っている。


「お前がそれでいいなら、俺は殺すだけだ」


「……そうしてください」


「何?」


 思わず聞き返したセラを、アガードは思い切り突き飛ばした。後ろによろけながら、セラはどうにか剣を構え直す。雨音が混じって聞き間違えたのだろうか――セラは怪訝な顔でアガードを見据えた。が、それもつかの間、休むことなくアガードは剣を振り上げてくる。ふたたび剣同士は音を立てて激しくぶつかった。


「お前、本当に……」


 鍔迫り合いをしながら、セラはアガードを見つめる。雨の雫がしたたる前髪の奥には、力強くも不安定に揺れる灰色の瞳が見えた。それは剣からも伝わってきて、以前なら力負けしてしまう状況のはずが、アガードは受け止めるだけの力しか入れていなかった。聞き間違えなどではない。アガードは闘いに負けようとしている……。


 セラが何かを察したと感じたのか、灰色の目は諦めの表情を見せた。そしてアガードは口を開く。


「ご命令とは言え、私は二人の命を奪ってしまった」


「……命令?」


 セラの疑問には構わず、アガードは続ける。


「一兵士の立場で、拒否などできようもなかったのです。ですが、やはり後悔することになってしまった……あなたが現れてしまったから」


「待て。お前は誰かに言われて、俺を殺したって言うのか」


 目を見開いて聞くセラに、アガードは寂しげに笑いかけた。


「許しを請うつもりはありません。私は、私自身で、罪を償うことにします」


 言い終えた直後、笑顔が突然、鋭い目付きに変わったかと思うと、アガードは剣を弾いて襲いかかってきた。セラは咄嗟にかわし、話を聞こうとするが、アガードの連続する攻撃が間を作らせない。力を抜き、本気でないはずのアガードが、今はなぜか、その一撃一撃が重く激しい。豹変した動きに戸惑う暇もなく、セラは懸命に応戦するしかなかった。


 雨は全身を濡らし、剣を振るたびに雫を飛び散らせる。遠巻きに見守る親衛隊も、雨に打たれながら微動だにせず、闘いの行方を見つめていた。アガードの動きに淀みはない。そんな相手にセラは、ぎりぎりのところで闘っていた。集中力が少しでも欠ければ、剣は容赦なく体を貫いていく勢いだった。闘いに負けようとしているなんて、ただの思い過ごしだと思えてくる。これは真剣勝負だ。やらなければ、こちらがやられる――セラは神経を最大まで研ぎ澄ませると、最後の一撃を決めるため、間合いを取った。


 それを見たアガードは、一瞬動きを止めたが、剣を握り直すと険しい眼差しで突っ込んできた。待ち構えるセラは呼吸を整え、灰色の目を睨む。そして、間合いにアガードの足が入った――


 息を止めたセラは、剣の握りを変えると同時に、左へ一歩ずれる。その横をアガードの剣がかすめていった。脇の下に隙ができたのを見て、セラはそこを目がけて押し込むように剣を突き出した。その時、アガードの目がセラを見下ろしていた。まるでわかっていたかのように、細められた目は無表情に見つめる。セラの最後の一撃は、あっさりかわされるものと思われた。


 だが次の瞬間、アガードの片足が突然がくりと傾いた。


「……!」


 見守っていた親衛隊は、全員息を呑んでいた。目の前の光景に、誰も声が出なかった。それはセラも同様で、握る剣から伝わる感触に、体の中を震える感覚が走り、それを呆然と感じていた。


 アガードは自分の右脇腹を探る。そこにはセラの握る剣が深々と突き刺さっている。雨と混ざって、指先に生温かいものが付いたのを感じたアガードは、自虐的な笑みを浮かべ、セラを見た。


「剣を、抜いてくれ……」


 かすれたその声で我に返ったセラは、歯を噛み締めると、両手に力を入れて一気に剣を引き抜いた。それと共に鮮血が舞い、小さな粒となって濡れた地面に落ちていく。


「ぐ、うう……」


 アガードの右手から剣が落ちる。その直後、大きな体はゆらりと揺れ、ゆっくりと前に傾いていく。セラは咄嗟にアガードの肩を支え、その体を受け止めた。


「……副長!」


 一番近くにいた兵士が駆け寄ろうとしたのを、アガードは鋭い眼光を向けて止める。兵士は二の足を踏み、その場に止まった。


「……支えてもらう必要は、ありません……」


 早くなった呼吸でアガードは言う。苦しいはずなのに、その表情はなぜか穏やかだった。


「わざと、足を滑らせたな」


 セラの真剣な問いに、アガードは何も答えない。


「お前は俺の攻撃を見切ってた。それなのに足が滑ったふりをして……なぜそんなことをした」


 アガードは短い呼吸を繰り返すと、力のない声で返した。


「罪を……償いたいのです……この命、で……」


 揺れる体から力が抜けたかと思うと、アガードはぬかるむ地面に倒れ込んでしまった。その勢いで泥が跳ね、服や顔に点々と染みが付く。仰向けで雨に打たれるアガードは、まだ何か言いたそうに右手を宙にさまよわせていた。それを見てセラは傍らにかがみ、血の気を失っていく顔をのぞき込む。


「楽にしてほしいか」


 感情のないこの言葉に、アガードは苦痛の混じった微笑を浮かべた。すると突然、さまよっていた右手がセラの首筋をとらえると、ぐいと強引に引き寄せた。慌てたセラは抵抗するが、アガードは力を抜かない。そして、近付いたセラの耳元に自分の口を寄せる。


「私が、セラ・トランスを殺したのは……彼が、陛下のお子、だったから――」


 ささやくような声とその言葉に、セラの表情が固まる。


(今、何て……?)


 ファリアも呆然とした口調で呟く。


「妃殿下は、彼の存在を憂い、私に……極秘のご命令を……」


 セラは目を見張り、アガードを凝視する。


「何を、言ってる? この期に及んで嘘を――」


「あなたを、二度も悲しませることは、できない……最後に、真実を教え、たかった……」


 セラの首筋を押さえる右手がずり落ちる。


「……おい!」


 呼びかけるも、アガードの視線はどこか遠くを見つめたまま、ゆっくりと瞼を閉じていった。濡れた黒髪が張り付く青白い顔は、横たわった人形のように動かなくなった。それを見下ろしながら立ち上がったセラは唇を噛んだ。最後に押し付けられた真実という告白は、あまりに現実離れしすぎていて、セラもファリアも素直に信じることはできなかった。だが、もしもとセラは考える。アガードの言葉が真実だとしたら――


 セラの視線は、自然と馬車へ向けられていた。この闘いを許したのは、王妃の思惑だったら……? 仮に、アガードがセラを殺せば、自身が命令したことはごまかし通せる。逆にアガードが殺されても、彼一人に罪を背負わせてしまえば、王妃には何の害も及ばない。それらすべてが計算ずくで、だから一庶民の訴えを聞いて馬車を止めたとしたら――


「捕らえろ!」


 兵士の声でセラは思考の世界から引き戻された。途端に雨の騒音が耳に流れ込んでくる。気付いた時には、すでにセラの両腕は二人の兵士につかまれ、剣は取り上げられていた。足下に倒れていたアガードは、数人の親衛隊で抱え上げ、運ばれていった。その後ろには雨で滲んだ赤い点が続いていく。それをぼんやりと眺めながら、セラは自分の手首が縄で縛られるのを感じていた。


「……牢に入れておきなさい……」


 雨音の合間を縫って、かすかに女性の声が聞こえた。若く、高い声。この声が命令をしたのだろうか――乱暴に馬に乗せられながら、セラは思った。

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