十一話

 五十三日目――


 今日も王都にはたくさんの人々が行き交っている。そんな人の動きを眺めながら、ファリアは円形広場の片隅に置かれたベンチに座っていた。足下には様々な色のタイルが敷き詰められ、広場の全面に無数の花を形作っていたが、その美しさに目を留めるほど、ファリアにもセラにも気持ちにゆとりはなかった。


 アガードと会ってから四日が経っていた。その間、ファリア達はあの草原には一度も行っていなかった。セラの今の力量では、正直勝てる見込みがないのだ。それは誰よりもセラ自身がわかっていることで、ファリアも安易に勝負に行こうとは言えず、不安を抱えながら街中をふらつく日々が続いていた。


 しかしセラには、それ以外にもアガードに会いに行けない理由があった。


(あいつ、ファリアに惚れてる)


「……え?」


 突然の言葉に、ファリアは思わず聞き返す。


(闘ったあの時、あいつの目を見たんだ。完全にファリアを女として見てるよ)


「女性だから、礼儀としてなんじゃ――」


(あれは違う。同じ男だからわかるんだよ。……よりによって、何でファリアを……)


 おそらくセラは頭を抱えているに違いない。それほど困惑した口調だった。


 ファリアは怪訝な気持ちだったが、もし本当にアガードが惚れているというのなら、それはそれで一つの作戦を作れるのではと思った。


「間違いないって、言える?」


(言えるね)


 セラの言葉は揺るがない。


「……それじゃあ、私があの男の気を引く」


(気を引いて、何するんだ?)


「油断させるから、その時に――」


(ちょっと待った。……騙し打ちをするっていうことか?)


 セラの口調が険しくなった。


「勝負に勝ちたいっていうセラの気持ちもわかるけど、もう残り日数も少ないし、あまり長引かせるわけにもいかないわ。仕留める機会があるうちにやるべきだと思うの」


(俺は……正面からあいつに勝ちたい。あいつを負かして、息の根を止めて、すべてを見下してやる……)


 憎しみを込めて言うセラに、ファリアはうつむきながら言う。


「傷付くことを言うようだけど……もうそれだけの時間はないわ。あの男の強さに追い付く時間は……」


 セラの闘いを間近で見続けてきたファリアだからわかっていた。アガードとセラの力量は、短期間で埋められるような差ではなかった。このまま勝負にこだわり続ければ、期限などすぐに過ぎてしまうだろう。それはセラも認識しているはずだった。


「ごめんね、セラ……」


 ファリアは弱々しく謝った。


(……いいんだ。悔しいけど、それが事実だから。俺も、自分の腕にうぬぼれたりはしたくない。でも――)


 セラの声が暗く低くなる。


(騙し打ちなんて、卑怯なことはできればやりたくない……)


 騎士を目指していたセラにとって、それは受け入れがたい行為なのかもしれない。自分を殺した犯人に対して、人が好すぎると思う反面、その正義感こそがセラなのだともファリアは感じた。


「……セラ、あの日を思い出して。犯人は何をしたの? 抵抗もできないハイメを殺して、武器を持たないあなたも殺したのよ。そんな男に躊躇する必要なんてあると思う?」


 感情を込めた言葉を、セラは黙って聞いていた。


「卑怯なことをしたのは向こうなのよ。そんな人間に正義を見せたところで意味はないわ。そうでしょ?」


 元より、殺していないなどと嘘をつく人間に、正義など通用するはずがないのだ。悪には悪の報いを受けさせるべきだ――ファリアは懸命に説得をした。すると、ためらいがちなセラの声が聞こえた。


(……わかったよ。あいつはどうしたって仕留めなきゃならない。気が済むように、この手で……やろう)


 ファリアは胸を撫で下ろした。


「でも、まだあの草原に来てるかどうか……四日も経ってるから」


(ファリアに気がある限り、あいつは絶対に来てると思うよ。でも、あの場で仕留めるのは難しいかもしれない)


「どうして? 私が油断させれば――」


(そうできたとしても、あいつは剣を持ってる。あいつなら反射的に反撃してくる可能性は十分にあり得るよ。そうなったらファリアの身が危なくなる)


「親衛隊なんだから、剣は常に持っているものじゃない? そんなこと言ったら、こっちは何もできないわ」


(俺は、あいつにファリアまで殺されたくない。だから確実な機会を狙いたいんだ。親衛隊だって、剣から離れる時くらいあるはずだ。それがいつなのかわかれば……)


 国王と王妃を護衛する兵士だ。剣を置く時間はほぼないように思われた。あったとしても、せいぜい風呂へ行く時くらいだろうか。だがそんなところに忍び込むわけにもいかない。二人は街並みを眺めながら、思考を巡らせていた。


(家に行けばいい)


 セラではなく、数日ぶりに聞こえた謎の声だった。


「……天使はこう言ってるけど、どう思う?」


 まだ考えているのか、セラは何も言わない。


「城の兵士は、兵舎で寝泊まりしてるんじゃないの? 家なんて――」


(いや……上級兵士は家を与えられることもあるんだ。親衛隊のあいつなら、あってもおかしくはないな……)


「どうやって調べるの?」


(……尾行してみるか)


 ファリアは深くうなずくと、早速ベンチから立ち上がり、草原へ出るクルス門へと向かった。


 日はまだ高く、アガードの来る午後三時まではしばらく待たなければならず、ファリアは城壁のへこみに身を隠し、その時を待った。


「もう諦めて来てないかも……」


(あいつは絶対に来るよ)


 疑うファリアとは逆に、セラは自信満々に言い切る。その予想通り、午後三時になると、群青色の制服を着たアガードが通りから現れた。立ち止まることなく、真っすぐ草原へ向かう門をくぐっていく。


(……ほらね。諦めてなんかない)


 思った通りと得意げながら、どこか苛立ちも感じているようにセラは言った。


 その後も身をひそめながら、今度はアガードが草原から戻ってくるのを待った。およそ一時間後、青空の端が赤く染まりかけた頃、門の奥から再びアガードの姿が現れた。来た時と何も変わらない様子で、すたすたと帰っていく。


(……行こう)


 セラに促され、ファリアは距離を保ちながらアガードの背中を追う。買い物客でにぎわう通りをすり抜け、アガードは広場を横切る。馬車が走る大通りを歩き、そのままクレスカ城のある方向へと向かっていく。長い坂を上り、巨大な城門の前までやってきて、ファリアは足を止めた。


「……この先は無理ね」


 前を歩いていたアガードは、門番に挨拶をされながら城の敷地内へと入っていった。それを見届け、ファリアは踵を返す。


「ねえ、城の中に部屋を与えられてるってことはないの?」


(それも考えられるけど……何とも言えない。もう少しあいつの行動を見てみないと)


 焦りを抱えながら、この日は宿へ戻るしかなかった。


 翌日の午後三時も、ファリア達は同じようにアガードをつけた。しかし、アガードの行動は前日のものとまったく変わらず、徒労に終わった。その翌日も変化はなく、これで駄目ならさすがに他の方法を考えなければならない四日目の夕方だった。


 誰も来ない草原から戻ってきたアガードが、いつものように門をくぐり、通りを歩いていく。見計らったファリアは、その見慣れてしまった背中を静かに追っていく。いつもと違ったのは、広場を横切った直後だった。


(……ん? 道が違うな)


 セラが呟いた。広場を横切ると、いつもは大通りに出るはずなのだが、今日はそちらへは行かず、民家の集まる通りへ進んでいた。


(あるかもしれないな)


 期待を込めるセラに、ファリアもうなずく。


 住宅街の中の大きな道をアガードは歩いていく。人影はまばらで、あまり距離を詰められないファリアは、民家の壁に沿ってゆっくり後を追っていく。しばらく行くと、アガードは道をそれ、脇道へ入っていった。見失ってはいけないと、ファリアは小走りでその脇道に近付く。


「……あれ?」


 顔だけをのぞかせてみると、真っすぐに伸びる脇道の先には誰の姿も見えなかった。すでに先へ行ってしまったのだろうかと、ファリアは慌てて進む。すると、民家の壁に突き当たった道は左右に分かれていた。どちらを見ても、やはりアガードの姿は見えない。


「どうしよう……」


 あたふたと足踏みしながら、ファリアが行く道を決めかねていた時だった。


「どうしましたか?」


 突然背後から声をかけられ、ファリアは跳びはねるように振り向く。そこにいたのは、追っていたはずのアガードだった。先に行ったとばかり思っていたのに、どうして背後から現れたのか、ファリアは気を動転させながら丸くなった目をアガードに向ける。その様子に、アガードは目を細めて微笑んだ。


「人の後をつけるなんて、あまりよくないことだ」


 ファリアはぎくっと肩を揺らす。


(こいつ、気付いてたか……)


 セラが悔しそうに言った。


「民家の間の隙間に隠れていたのですが、あなたが通り過ぎるのを見て驚きましたよ。……なぜ私の後を? 約束の場所に来れば会えるというのに」


 もっともな疑問に、ファリアはどう答えていいのかわからず、気まずくなりながら口をつぐむ。そんなファリアをアガードはじっと見つめていた。


「今は優しい目をしている……何か話したいことでもあるのですか?」


 何か言わなければ、どうにも進まない。ファリアはおずおずと口を開いた。


「……クレスカ城へは、戻らないんですか?」


「明日は久しぶりの休暇なので、自分の家に帰ろうと思いまして」


 自分の家と聞いて、ファリアは目を見張る。


「やっぱり……」


「……やっぱり、とは?」


 アガードは首をかしげて聞く。思わず出てしまった心の声を、ファリアは慌てて取り繕う。


「あっ、だから……そうなんじゃないかと、思ってたもので……」


 目を泳がせるファリアを、アガードは微笑ましそうに見ていた。


「可愛らしい方だ。……私をつけてきたのには、何か事情があるようですね。よろしければ、私の家で聞かせていただけませんか。その他にも聞きたいことがありますし」


 家の場所を知る絶好の機会に、ファリアは間髪をいれずにうなずいていた。


「少し歩きますが、この先です。行きましょう」


 アガードは先導しながら住宅街を進んでいく。その後ろをファリアは付いていった。前を行くアガードの左の腰には、黒い鞘に収められた剣が揺れている。あれを手放した時、男は仕留められ、復讐は果たされる――緊張でこわばってくる体を、ファリアはゆっくりした呼吸でほぐすと、群青色の背中を睨みながら黙々と歩き続けた。


 歩くこと十五分。民家が密集した地区から少し離れたところにアガードの家はあった。庭のある一階建ての、ごく普通の家のようだった。周囲には数えるほどしか家はなく、その代わりに木々や植木が多く見られる。空はすでに日が暮れて、地面には冷たい風に揺れる枝葉の影が踊っていた。


「さあ、どうぞ」


 玄関の扉を開けて、アガードは入るように促す。短い階段を上って、ファリアは招かれるままに中へ入った。


「そちらの椅子でお待ちください」


 示されたのは、入って右に見えた椅子だった。食事用の大きな机に、四脚の椅子が向かい合わせに並んでいる。見るとアガードは玄関の左にある台所でお茶の用意をしていた。ファリアはとりあえず言われた通りに椅子に座る。思ったより広く感じる部屋の中をぐるりと見回してみる。戸棚やタンスはあるが、花や置物など、装飾品の類は一つも見当たらない。そのせいか、殺風景に見える部屋に生活感はあまり感じられなかった。


「この家は、亡くなった両親のものでね――」


 やかんの水が沸騰するのを待ちながら、アガードが言った。


「その時には、すでに私は兵舎にいたので、この家に私の私物はほとんど置かれていません。親衛隊に入ってからは、ここに帰ってくることも少なくなりました。今はこうして休みのたびに、掃除をしに戻るくらいです。売ってしまえばいいのですが、思い出を売るのはなかなか難しいことで……結局今に至っています」


 アガードは肩をすくめて苦笑する。


「貸したら、どうですか?」


 玄関の正面奥には二つの扉が見えた。部屋もちゃんとあるようだし、ファリアは貸せばそれなりの値段になるだろうと思った。これにアガードは、ああ、と言うように口を開けた。


「それはいい考えですね」


 にこりとアガードが笑った時、やかんから白い蒸気が立ち上った。すぐに火から離すと、そのお湯をティーポットに入れ、ティーポットから二つのティーカップに注ぎ入れる。紅葉のような赤いお茶からは、かぐわしい香りが漂ってきた。


「男が入れたものですから、味は期待しないでください」


 ファリアの前にティーカップを置きながら、アガードは自信なさげに言った。湯気の立つカップに手を添え、ファリアは香りを吸い込みながら一口飲んでみる。舌に残る苦みが強すぎて、いまいちな味だった。その表情で察したのか、アガードは手を制するように前に出す。


「感想は言わないで。何となくわかりました」


 アガードは諦めたように笑うと、自分も一口飲む。微妙な表情からすると、自身でもおいしいとは感じなかったようだ。何回か口を付けると、暑くなったのか、アガードは制服の上着のボタンを外して脱ぎ、白いシャツ姿になった。それを椅子の背もたれにかけると、次に腰の剣に手をやる。ベルトにつないでいる留め金を外し、剣を持ち上げると、背後の壁に無造作に立てかける。その光景をファリアは息を詰めて見ていた。


「……さて、どちらの話からしましょうか」


 机に両肘を立てて組むと、その上に顎を乗せてアガードは聞いた。


「そちらから、どうぞ」


 まだ切りかかる時ではない。ファリアはより意識をこちらへ向けさせるため、先にアガードに話をさせることにした。


「そうですか……ではまずは――」


 アガードの切れ長の目がファリアを見据える。


「私をつけた理由を、教えてもらいたい」


「それは……」


 ファリアは必死に言葉を探す。尾行した理由はまだ用意していなかった。


「……言いにくいことですか?」


 聞かれても、ファリアは黙り込むしかなかった。この様子にアガードは小さく息を吐く。


「わかりました。質問を変えましょう。……あの場所に来なかったのはなぜですか?」


 ファリアの緊張を解こうと、アガードは笑みを見せる。この質問のほうが理由は作りやすかった。


「行かなかったのは、ただ都合が合わなくて……」


「どこか他に行くところが?」


「……いえ」


 言葉少なに答えるファリアに、アガードは不安そうな視線を向けた。


「もしかして、私以外に剣術を教える者がいるのですか?」


「そんな人はいません」


 きっぱりとした答えに、アガードは安堵の表情を浮かべる。


「そうですか。よかった……」


 そんなに自分の剣術を教えたいのだろうかと、ファリアが不思議そうに見ていると、微笑むアガードの目と合った。


「できれば、私の手で教えたいのです。他の人間には関わらせたくない」


 ファリアは首をかしげる。


「どうしてそこまで……?」


 これにアガードは、ふふっと笑う。


「あなたは自分の腕をわかっていないようだ。まだ直すべき部分はあるが、その潜在能力は素晴らしいものだと私は確信しています。試合であなたと初めて会った時、女性だからと正直甘く見ていたのですが、闘ってみて、洗練された剣術には驚かされました。女性でも、ここまで闘える者がいたのかと。私は……魅了されたのです」


 すると急に立ち上がったアガードは、きょとんと座るファリアの横までやってくる。


「剣術と、開花するであろう能力。そして……ファリア、あなた自身に」


 アガードの灰色の目が、熱を帯びているように見えた。それに戸惑いながらも、ファリアは聞いてみる。


「剣術を教えたところで、そちらには何の得もないと思うけど」


「私は、そんな浅はかな気持ちは持っていません」


 膝に乗せていたファリアの手が、突然アガードに握られた。はっとしてすぐに手を引こうとするが、アガードの握力がそれを阻む。


(こいつ……!)


 セラの怒る声が響く。焦って視線を泳がせるファリアとは対照的に、アガードは落ち着いた動作で、そのまま床に膝を付くと、優しげな笑顔を浮かべて言った。


「あなたを、お慕いしているのです」


 握る手に力が込められる。アガードの目は優しい眼差しを向けているはずなのに、ファリアにはその目が途方もなく恐ろしく感じられた。人殺しの目が、自分を慕っていると見つめてくる――逃げたい衝動は余計な緊張を生み、ファリアの全身を固くさせていた。


「私に、ファリアの夢を共に叶えさせてほしい」


 アガードの手がファリアの両肩に添えられる。今にも迫ってきそうな目の前の笑顔に、ファリアの鼓動は恐怖に速まった。


「ファリア……」


 アガードがささやくように呼んだ。ファリアの表情は怯えを見せる。そんな様子には構わず、アガードは徐々に距離を縮めてくる。


(……ファリア、交代だ!)


 セラが声を張り上げていた。だがファリアの手足はがくがくと震え、呼びかけに応えられない。


(ファリア、目を瞑るんだ!)


 アガードの顔は、もう鼻の先にあった。


(ファリア!)


「……セラっ!」


 ようやく反応したファリアは、夫の名を口に出しながらすぐに目を瞑った。


「セラ……?」


 動きを止めたアガードは、目を瞑ったファリアを怪訝そうに見つめる。その直後、再び目を開けたのを見て、アガードは口にした名をたずねようとしたが、先ほどとは明らかに違う目付きに、思わず言い淀んでしまう。その隙をセラは見逃さなかった。


「ファリアに、触るな!」


 マントの下に手を入れると、剣をつかみ、そのまま引き抜きざまにアガードを切り付けた。だが異変を感じたアガードは、それよりも一瞬早く後ろへ飛びすさっていた。剣先はわずかにアガードの袖を切ったが、ただそれだけだった。


「……ファリア? どういうつもりですか」


 難を逃れたアガードは身構えつつも、困惑を隠せないでいた。セラは剣を握り直すと、怒りに満ちた表情で睨み付ける。


「お前に、俺の夢を叶える資格なんかないんだよ!」


 獣なら牙をむいているだろうセラの強すぎる口調に、アガードはうろたえながら言う。


「落ち着いて……気に障ることを言ったのなら謝ります。ですから、ひとまずその剣を収めてください」


 興奮しているセラをどうにか落ち着かせようと、アガードは努めて穏やかに言った。だが今のセラには通用しない。


「今からお前をやるんだ。収めるわけにはいかない……」


 剣を構え、セラは距離を詰め始める。その様子にアガードは、これは本気でかからねばならない事態なのだと判断した。前から迫ってくる殺気は尋常ではなかった。背を向ければ途端に切りかかってくるだろう。この場を切り抜けるには剣が必要に思えた。アガードはセラとの距離を一定に保ちながら、壁に立てかけた自分の剣に目をやった。


(……剣を取ろうとしてるわ)


 ファリアがすぐに気付き言った。セラは足を止めると、横目でアガードの剣の位置を確かめる。机を挟んだほぼ真横に見えた。取りに行くなら左右どちらかを回り込むか、机を乗り越えて行くしかない。


 次の瞬間、アガードが走り出した。壁際の剣に向かっていく。それにすぐ反応したセラは机に飛び乗り、お茶の入ったカップを蹴散らしながら滑るように乗り越えると、立てかけられた剣を足で思い切り蹴り飛ばした。剣は壁や椅子にぶつかりながら、部屋の隅へと転がっていく。


「あれは、使わせない」


 一歩遅れて来たアガードの前に立ち塞がり、セラは剣を向ける。そのセラの背後に転がる自分の剣を悔しそうに見つめるアガードは、探るような目で聞いた。


「……私をつけたのは、これが理由ですか?」


「……そうだ」


 アガードの顔が悲しみに歪む。


「なぜ……どうしてですか? あなたとは数えるほどしか会っていない。その間に私は、何をしてしまったというのですか。教えてください」


 心当たりはないと訴えるアガードを、セラは憎しみの目で睨んだ。


「二ヶ月前だ。お前は、何をした」


「二ヶ月前……?」


 アガードの眉間にしわが寄る。


「草原でお前は、一般市民を殺したことはないと言った。……もう一度聞く。殺したことはあるか?」


 意図のわからない質問に、アガードは困惑して答えられないようだった。その様子に、セラは鼻を鳴らす。


「忘れたとは言わせないぞ……メーナス村で、お前がしたことを」


 この言葉で思い出したのか、アガードの目が徐々に見開かれていく。


「俺とハイメ、二人を殺した罪……その命で償ってもらう!」


 セラは踏み出し、切りかかる。それをアガードはぎりぎりで避けると、すぐに距離を取り、セラの顔を凝視する。


「まさか……ファリア、あなたは……」


「その名を呼ぶな! ファリアは俺の、セラ・トランスの妻だ」


「セラ・トランス……」


 かつて自分がしたことを思い出し、アガードの驚く表情がわずかに曇る。だがそこには疑問も浮かんでいた。


「あなたはファリアなのでしょう? セラ・トランスはもうこの世にはいないはず……」


「お前が俺を殺したからな」


「俺? どういうことですか? あなたはどう見ても女性だ。セラ・トランスでは――」


「今話してる俺は、間違いなくセラ・トランスだ」


 アガードの頭は半ば混乱していた。まったく話が理解できず、首をかしげることしかできなかった。


「そりゃ意味はわかんないだろうな。でもわかれば単純なことさ。俺はファリアの体を借りて、お前を殺しに来た。ただそれだけのことだよ」


「死者が体を借りて……? 信じられません……」


「お前が信じようと信じまいと、どうだっていい。俺は復讐を果たすだけだ」


 セラは剣を構え直す。


「口がきけなくなる前に聞いておきたい。……どうして俺とハイメを殺したんだ」


 刺さるようなセラの視線を、アガードは正面から受け止めていた。歯を噛み締めながら、じっとセラの様子をうかがっている。


「早く答えろ!」


 怒鳴るセラに身じろぎもせず、アガードは黙り続けていた。だがしばらくすると、おもむろに口を開き、言った。


「……答えられない」


 セラは思わず歯ぎしりをする。


「言え! 何で殺した!」


 強く迫るセラに、アガードは視線をそらさず繰り返す。


「答えることはできない」


 セラの中の怒りは、瞬時に頂点に達した。


「……それなら、消えろ!」


 セラは切りかかる。剣を振り回し、アガードを壁際まで追い込もうとした。だがアガードは攻撃を素早くかわしながら、壁際を避けて台所のほうへと逃げ込んでいく。なかなか当たらないことに苛立ちながら、セラは胸に目がけて剣を突き出した。しかしアガードは身をよじり、あっさりと避けてしまう。突き出した剣は台所の壁にひびを入れ、突き刺さった。


「……くっ」


 深く刺さったのか、セラが引き抜くのに手間取っていると、アガードは棚にあったタオルを手にして、セラの背後へと回り込む。そしてそのタオルをセラの首に巻き付けた。強い力で圧迫され、呼吸がだんだん苦しくなる。


「許してください。今はこうするしかない……」


 アガードはセラの耳元でささやく。その時、突き刺さった剣がようやく抜け、セラは剣を振りかぶるように背後へ振り下ろした。すると首を圧迫していたタオルから力が抜け、アガードの気配も遠のく。空気を思い切り吸い込みながら振り返ると、アガードは見計らったように襲いかかってきた。その右手には食事用のナイフが握られていた。


「できれば、こんなことはしたくない」


 ナイフを振りながら、アガードは低い声で言った。


「じゃあ、休んでろっ」


 ナイフの動きを読みながら、セラはここぞという間で剣を振った。キンッと高い音が響くと、銀色のナイフはアガードの手から離れ、天井近くまで弾き飛ばされていく。隙を見せたアガードに、セラはすぐさま切りかかった。


「終わりだ……!」


 刃は首に向かって振り下ろされるはずだった。だがそれはアガードの手で防がれた。金属の重い刀身を、アガードは両手で握り、押さえているのだ。しかしそこに血は流れていない。両手と刀身の間には、先ほど首を絞めたタオルが挟まれていた。


「な、にを……」


 セラは力を入れる。だが男の体であるアガードの力にはどうしても勝てない。切りつけようとする剣を、アガードはじりじりと押し返していく。そうするにつれ二人の距離も近付いていく。


「くっ、そう……」


 歯を食いしばって懸命に耐えたセラだったが、ついに剣は押し返され、セラの肩口に押し付けられた。この状態ではもう力を入れることも難しい。刀身を握りながら、アガードが上から見下ろしてくる。


「先に、謝っておきます」


 細められた灰色の目を、セラがじっと睨んだ直後だった。


「うぐっ……!」


 腹に重い衝撃を感じて、セラは体をくの字に曲げた。アガードの拳が腹に食い込んだのだ。呼吸ができない苦しさに、思わず床に手を付いていた。このままでは危ないとわかっていても、腹に感じる痛みと苦しみが立ち上がろうとする意識を邪魔してくる。


(セラ! 頑張って!)


 ファリアが必死に呼びかけてくる。揺れる視界を見ながら、立ち上がろうと足に力を入れた時だった。右手に持つ剣が、すっと引き抜かれていった。しまったと思った時には、すでに剣はアガードの手の中に握られていた。


「返せ……」


 まだ苦しい呼吸で、セラはかすれた声で言う。そんなセラを見下ろしながら、アガードは口の端を上げた。また、殺される――そんな言葉が頭をよぎった。


(セラ、セラ!)


 ファリアが悲鳴のように呼んでいた。ファリアも殺されてしまう。しかし、どうしようもなかった。剣は相手に握られているのだ。見下ろしてくるアガードの顔を、セラは睨むことしかできなかった。


 アガードの足が動く。終わってしまう――そう感じた時、その動いた足は、なぜかセラの横を通り過ぎて行ってしまった。予想と違う行動に驚いて呆然とするセラは、通り過ぎたアガードを目で追う。するとアガードは玄関の前に立ち、その扉を開けた。冷たい風が静かに吹き込んでくる。次の瞬間、セラは目を見張った。アガードは奪った剣を、勢いよく外へ放り投げたのだ。


「……何を、してるんだ?」


 セラは思わず聞いていた。あまりに突飛な行動に、聞かずにはいられなかった。


「今日は、お帰りください」


 アガードは開いた扉を押さえながら、微笑んで言った。


「何を言ってる? 俺はお前を殺すんだ!」


 普通の呼吸が戻り始め、セラは感情もあらわに声を上げた。これにアガードは微笑み続けている。


「あなたなら、いつでも歓迎します」


「……何?」


 セラは不快な表情を浮かべる。馬鹿にしているのか、真面目に言っているのか、アガードの表情からは読み取れない。


「私を殺したいと言うのなら、また殺しに来てください。その時は、全力でお相手しましょう」


 セラは言葉を失った。殺すと言われ、実際に襲われてもいるのに、アガードはまるで相手にしていないような態度だった。セラは本気だ。それが伝わっていないわけではないだろう。それなのに、そんな人間を捕まえもせず、帰そうとするなんて、セラを明らかに下に見ているとしか思えなかった。自分に勝てるわけがない。殺すなど不可能だ――そう無言で言われているようで、セラはぎりぎりと歯噛みする。


「……立てますか?」


 膝を付いているセラに、アガードは手を差し伸べるが、それをセラは鋭い視線で威嚇した。


「来るな」


 うなるような低い声で言うと、アガードはゆっくりと手を引く。


「……では、お帰りください」


 何事もなかったかのように、アガードは涼しい顔で言う。だがセラも、言われるままに帰るわけにはいかなかった。怒りに歪んだ顔で立ち上がると、セラはアガードに詰め寄り、シャツの胸ぐらをつかんだ。


「殺されないとでも思ってるのか! 俺はお前に――」


 シャツをつかむ手を握られたかと思うと、それは力ずくで引きはがされてしまった。


「放せ!」


 暴れようとするセラを、アガードは力で押さえる。


「私は今、あなたを殺すことができます。逆に、あなたは今、私を殺すことができますか?」


 アガードは無表情で聞く。その顔を睨みながらセラは言った。


「出来るさ! 見せてやろうか?」


「こうして腕をつかまれていても? 武器もなく、素手でですか? 私には到底殺せるとは思えない」


「何を――」


 セラが食ってかかろうとした時、アガードはつかむ手を急に引っ張ると、玄関から外へ強引に放り出した。セラの体は半分浮きながら、前のめりに転びそうになるが、どうにか踏ん張って地面で顔面を打つことを避けた。


「……お前……」


 振り向き、セラは玄関に立つアガードを睨み付ける。


「お待ちしています」


 それだけ言うと、アガードは家に入り、扉を閉めてしまった。カチリと鍵を閉める音が続く。閉まった入り口を、セラは呆然と眺めていた。


(……セラ)


 ファリアが心配そうに呼んだ。


「あいつから剣を取っても、俺は……勝てないのか……?」


 卑怯な手を使ってでも仕留めるつもりだったのに、それも通用せず、力量の差ばかりを思い知らされる。セラはそんな自分が情けなく、惨めに思えて仕方がなかった。


「もう時間はそんなにないっていうのに……あいつを仕留めるだけのことを、俺は何でできない……?」


 苛立ちは焦りと共に、セラの頭の中を熱くさせていく。


(……宿に戻りましょう。どうするか、一緒に考えましょう。ね?)


 柔らかく、優しい声が、熱くなった頭の中を包み込む。セラはできることなら、ファリアを今すぐ抱き締めたかった。不甲斐ない自分を面と向かって詫びたかった。ファリアの望みを叶えるのが自分の役割で、それは自分がここにいる理由でもあるのだ。信じてくれているファリアの気持ちに応えるため、そして、ハイメと自身の無念を晴らすために、もう失敗はできない。


「次で終わらせる……絶対にだ」


 そう意気込み、セラは自分を追い込む。アガードはこちらの殺意を知ってしまった。それを長引かせれば長引かせるほど、ファリアの体には負担を負わせることになってしまうだろう。こういう状況になった以上、ファリアの身を考え、セラは次の機会に賭けるしかなかった。自信を失ったわけではないが、セラはアガードと何度も剣を交え、その先で自分が勝つ姿をまだ想像できずにいた。闘いを挑むたびに、自分のせいでファリアの体が傷付けられるのは耐えられない。さらに言えば、無事に生き残れるとも限らないのだ。次に会った時、アガードは必ず待ち構えているだろう。そんな危険を最小限にするには、やはり次の機会を最後と思うしかなかった。


 アガードに放り投げられた剣を拾うと、セラは閉まった扉をいちべつし、その場を立ち去っていく。その姿を、アガードは窓の隅から眺めていた。


「トランスという名で、気付くべきだった……」


 沈んだ表情でそう呟くと、アガードはゆっくりと窓から離れていった。

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