十話

 四十九日目――


 城壁の外、雑木林に囲まれた広い草原で、セラはアガードに剣術を披露していた。見えない敵を相手に剣を振り、動き回る。午後の温かな日差しがセラの握る練習用の剣に反射し、眩しく光らせていた。


「……基礎は完璧だ。次は私を相手に剣を振ってみて。こちらは何もしませんので」


 セラは言われた通り、アガードに向け剣を振る。その表情は険しい。これが自分の剣だったら、今すぐに仕留められるところだが、アガードの持ってきた練習用の剣には刃がなく、切り付けたところであざになるくらいだろう。この状況に苛立つ気持ちを必死に抑えているセラだが、表情にはどうしても出てしまっていた。しかしアガードには、その表情は真剣さの表れと受け止められたようで、セラに対して特に怪訝に思われることはなく、剣術指南は続いていた。


 素早く身を動かしながらセラはアガードに切りかかる。もちろん本気ではないので、距離も空き、剣は体に触れることはない。だが時々、セラは力量を確かめようと、体すれすれに切り付けてみた。少しでもずれれば服に引っ掛かる攻撃だったが、剣から目をそらさないアガードは、そんな試す攻撃も簡単に避けていく。


(……セラ、その剣じゃ仕留められないわよ)


 妙な動きを混ぜるセラに、ファリアは注意する。そんなことはわかっているが、セラは攻撃が避けられるたびに、どんどん意地になっていた。目を細めてこちらを見つめる顔に、セラは奥歯を噛み締めながら、勢いを付けた剣で突いた。突然目の前に迫ってきた剣に、アガードは一瞬目を見開いたが、慌てる素振りもなく、落ち着いて頭をそらせた。そして伸びたセラの腕をつかむと、剣の動きを止める。


「危うく失明するところでした。が、やはり筋はいい。本当に騎士も夢ではないですね」


 攻撃をすべて避けられては、どう褒められてもセラに実感はなく、ただのお世辞にしか聞こえなかった。


「悪いところはないのですが、しいて言うのなら、力を入れて剣を振る直前、動きの流れが若干止まってしまっている。それでは相手に攻撃を読まれてしまうから、無駄な力は極力抜いたほうがいい。少しやってみましょう」


 アガードは手本を見せながら、セラの動きから攻撃までの流れを細かに確認していく。そんな熱心な指導は四十分ほど続いた。


「これは意識して身に付けるしかない。何度も繰り返すことが大事です。……休憩にしましょう。少し集中しすぎましたね」


 そう言うとアガードは雑木林の木陰に腰を下ろした。セラも乱れた呼吸を整えると、剣とマントを置いた横に座り込む。その表情は苦虫を噛み潰したようだった。アガードの指摘はセラにも納得できる部分が多くあった。それだから余計にセラは不愉快だった。なぜ恨む相手に直されなければいけないのか。それが的を射ているものだから、セラの苛立ちはなおさら高まるのだが、それをどこにもぶつけることができず、一人胸の中に閉じ込めることしかできずにいた。


 横を見ると、両手を後ろに付き、足を伸ばして青空を眺めるアガードがいる。服装は親衛隊の制服の上に茶色の外套を着ているだけで、一見すると仕事から抜け出してきたようにも見える。だが実際そうなのかもしれない。親しくもない人間の剣術指南のためだけに、わざわざ休暇を取るわけもなく、親衛隊の任務だってそれほど暇ではないはずだ。この男はなぜ時間を作ってまで剣術を教えたがるのだろうか。セラにはその理由がまだわからなかった。


 気付くと、いつの間にかアガードもセラのほうを見ていた。その目は少し笑っているようにも見える。


「……何だ」


 セラは不機嫌な声で聞く。


「試合の時から思っていたのですが、いつもそんな感じなのですか?」


 何のことを言われているのかわからず、セラはアガードの視線をたどり、自分の足を見下ろした。そこにはあぐらをかく二本の足があるだけだ。


(……セラ、今だけ交代しましょう)


 ファリアの溜息混じりの声が言った。そこでセラもはっとした。この体はファリアで、女性なのだ。幸い動きやすいようズボンをはいてはいるが、女性が人前であぐらをかくなど、違和感がありすぎる上に非常識でもある姿だった。セラは慌てて目を瞑ると、呆れるファリアとすぐに入れ替わった。自分の体を見下ろしたファリアは、急いであぐらを崩すと、足を揃えて右側に折り曲げ、女性らしい座り方に直した。


「無理に直すことはない。楽ならそのままで」


 言いながらアガードは面白そうに笑う。ファリアはまた溜息を吐くしかなかった。


「話し方や動作が男っぽいのも新鮮でしたが、やはり女性らしい姿のほうが落ち着く。それに不思議だ。つい先ほどまでは、とても強い目をしていたのに、剣を置くとまったく違う、穏やかで慎ましいというか……まるで別人のように感じられる」


(……鋭いやつめ)


 セラが腹立たしそうに言った。するとアガードは姿勢を正して、ファリアに向き直って言った。


「よければ、ファリア、とお呼びしてもいいでしょうか」


「……え?」


 ファリアは怪訝な顔で小首をかしげる。


(どういうつもりだ……)


 セラは警戒感たっぷりに呟く。


「私のことも、アガードと呼んでもらって構いません。あまり他人行儀だと、教えにくいと思ったもので……よろしいでしょうか」


 家族を奪った犯人に自分の名を気軽に呼ばれるなど、ファリアも当然嫌なことではあった。だがここで変に拒むと怪しまれるのではと感じたファリアは、嫌々ながら小さくうなずいてしまった。


(ファリア! 何でうなずくんだよ。こいつにファリアなんて呼ばせたくない! 俺は絶対に嫌だ!)


 頭の中で叫び続けるセラに、うなずいた理由を説明したいファリアだが、アガードの目の前で独り言を言うわけにもいかず、視線を泳がせながらセラの怒りが収まるのを待った。


「……どうかしましたか?」


 アガードがファリアの顔をのぞき込む。


「何でも……お構いなく」


 ファリアはすぐに顔をそむける。その目線の先に、アガードの剣が置かれていた。セラの剣と同じくらいの長さで、黒い鞘に収まっている。使い込まれているのか、銀色の柄の部分はすり減って磨かれたように光っていた。この剣でセラは殺されたのだろうか――ファリアの目の奥に、黒い憎しみの火がともっていた。


「……聞いても、いいですか?」


「何でもどうぞ」


 アガードは微笑む。その灰色の瞳を見据え、ファリアは聞いた。


「人を殺したことは、ありますか?」


(ファリア……)


 セラは息を呑む。アガードも思ってもいなかった質問に、すぐには言葉が出てこない。


「……人、ですか。……陛下に仕える身ですから、もちろんあります」


 戦いを経験した兵士なら、人の命を奪う行為など当たり前に行ってきただろう。だが、ファリアが聞きたいのは戦いでのことではない。


「じゃあ、兵士じゃなくて、一般市民を殺したことは?」


 ファリアは鋭い目を向ける。アガードの視線をとらえ、逃がさないように凝視する。アガードもファリアの茶色の瞳を、探るように見つめていた。お互いがお互いを見据え、長い沈黙が続く。雑木林から鳥の鳴き声が聞こえた直後、アガードはおもむろに口を開いた。


「それは……ない」


 ファリアは膝に置いていた手に、無意識に力を入れていた。頭の中では、セラがふっと笑う声が聞こえた。怒りを通り越しての笑いなのだろう。アガードは嘘を知られているとも知らず、話を続けた。


「ただ、陛下のご命令ならば、たとえ一般市民でも、私は迷うことなく殺します。それが兵士というものであり、仕えるということなのです」


「どんなに理不尽なことでも、命令なら殺すというの?」


 冷めた視線を送るファリアに、アガードは寂しげな表情で、しかし口の端を上げながら言った。


「ファリアも、一兵士になればわかります。騎士にでもなればなおさらに……。夢を叶えたいのなら、そういう心構えをしておいたほうがいい」


 ファリアはうつむき、顔をしかめた。二人も殺したのは、命令だからとでも理由付けしたいのだろうか。殺人を犯した罪を消したいから、こんなことを言ったのだろうか。どちらにせよ、ファリアにはどんな理由があろうと聞くことはできない。この男は大事な命を奪ったのだ。殺していないなどと嘘を言い、罪から逃れようとするずるい人間なのだ。報いは必ず受けてもらわなければならない……。


「そろそろ稽古を再開しましょう。疲れは大丈夫ですか?」


 重い空気を吹き飛ばすように大きな声で言うと、アガードは立ち上がってファリアに手を差し出す。つかまれということらしいが、ファリアはそれを無視して一人で立ち上がった。


「気遣いは結構です」


 ぴしゃりと言うと、アガードは笑顔を浮かべる。


「そのようですね。……やはりあなたは、どこか特別な女性のようだ」


 嬉しそうに言うアガードに、ファリアは眉間にしわを寄せながら静かに目を瞑り、セラと再び入れ替わる。その途端、セラはアガードに詰め寄った。


「おい! 二度とファリアと呼ぶな」


 胸ぐらでもつかまれそうな勢いに、アガードは目を丸くしてセラを見る。


「……また、強い目に戻ったようですね」


「約束しろ。いいな」


「なぜ、いけないのでしょうか?」


「なぜって……ファリアはお――」


 俺の愛する人の名だと言いかけて、セラは言いとどまった。これを言うと、ややこしくなりそうな展開が浮かび、思わず言葉に詰まる。


(……セラ、呼ばれて嫌なのは私も同じよ。でもそんなところで怪しまれたくないわ。それよりも、早くこの犯人を仕留めて。お願い……)


 怒りと憎しみのこもったファリアの声がセラを急かした。


「……やっぱり、いい」


 急に引き下がったセラに、アガードは不思議そうに首をかしげた。セラはまだ納得していなかったが、ファリアが復讐のために耐えると言うのなら、自分も耐えるしかなかった。そして今すべきことは、この男を仕留めること――冷静さを取り戻したセラは、足下の自分の剣を拾い上げる。


「次の稽古は、この剣でやる。そっちも自分の剣を使ってくれ」


 セラは握った剣をアガードに見せながら言った。


「稽古ですから、練習用のもので――」


「駄目だ。次は本気で闘え」


 真っすぐに言うセラに、アガードは困惑した表情を浮かべる。


「しかし、万が一怪我でもしたら……」


「あーもう、つべこべうるさい! 早く来い」


 セラはさっさと広い草原の中へ歩いていくと、剣を抜き、両手で構える。その姿をしばらく眺めていたアガードだが、じっと構えを崩さないセラに苦笑を浮かべた。


「……仕方ない。お相手しましょう」


 練習用の剣を自身の剣と持ち替え、アガードも草原の中へ向かう。鞘から剣を引き抜き、体を斜めに構える。


「これは、真剣勝負だ」


 セラはアガードを睨み据える。


「わかりました」


 そう言ったアガードだったが、その顔にあまり真剣みは感じられない。まだ稽古の意識があるようだった。


「……すぐ本気にさせてやるさ!」


 呟くとセラは走り出し、攻撃を仕掛けた。剣を振り上げ、切り付ける。だがアガードも剣を振り、その攻撃を弾く。キンッと高音が響き渡った。セラはしつこく何度も攻撃を繰り返す。しかし、そのたびにアガードはセラの剣を弾いていった。剣同士がぶつかる金属音が、セラの攻撃と共に繰り返される。


 傍観しているファリアは、アガードの闘い方が試合の時と、どこか変わっているような気がした。試合の時は、セラの攻撃を簡単に避けていた場面があったのだが、今は避ける動きは一度も見られなかった。すべて剣を使って弾いているのだ。これは稽古のおかげで、セラの腕が上がった証拠なのだろうか。それとも、アガードはわざと避けずに攻撃を受けているだけなのだろうか。ファリアとしては前者と思いたいところだったが、この男の強さは侮れない。女が相手だからと、セラが闘いやすいように動いているのかもしれない。そうなると、やはりアガードは手を抜いて、真剣勝負などしていないのか――


「何で、攻撃をしてこない!」


 セラは剣を振り上げながら聞いた。しかし、アガードは無言のまま、セラの剣を弾くだけだった。その態度にセラは歯ぎしりする。


「真剣勝負だと、言っただろう」


 アガードは何も言わない。キンッという音だけが聞こえ続けた。一向に本気を出さないアガードに、セラの剣士としての誇りは傷付けられる一方だった。なぜ真剣に闘わない? まだ勝てないとでも言いたいのか――セラの中の怒りと焦りが増幅していく。


「……このっ!」


 真剣勝負を拒むのなら、セラはアガードを殺すまでだった。その瞬間に後悔しても、それはこの男の自業自得――神経を集中させた剣を、セラは腹目がけて横に払った。アガードは距離を取らず、やはり剣で防ごうとしてきた。


「かかった……!」


 払うと見せかけた剣の軌道を、セラはふわりと浮かせると、アガードの首に向かって勢いよく振り上げる。復讐を果たす瞬間が訪れる――


「はっ……」


 セラの剣を握る手が動かなかった。気付くとその手首はアガードにつかまれていた。セラはアガードを見上げる。切れ長の目は優しく笑っていた。その直後、つかまれた手首を思い切り引かれたかと思うと、セラは体ごとアガードの胸の中に抱き込まれていた。あまりに一瞬の出来事に、セラの頭は真っ白になる。


「あなたとは真剣勝負はできない。そんなことをしたら、殺してしまいそうだ……」


 内緒話をするようなささやき声が聞こえた。見れば息がかかる距離にアガードの顔はあった。細められた目が恍惚としたようにセラを見つめてくる。


(セラ!)


 ファリアに呼ばれ、セラは我に返る。


「……は、なせっ!」


 アガードの胸を乱暴に押し離すと、セラは距離を取り、剣を構える。


「ふざけた真似、しやがって……」


 まるで猛獣のように、殺意むき出しに睨むセラに、アガードは申し訳なさそうに言う。


「あなたを引き寄せないと、切られると思ったもので、つい……」


「剣を構えろ! 今度こそ――」


「今日はここまでにしましょう。日も暮れ始めました」


 アガードは雑木林の上の空を見上げる。青空はまだ見えたが、遠くの空は紫色に染まっていた。


「勝負から逃げるのか」


 これにアガードは笑みを見せた。


「この時間に、私は毎日ここへ来ます。ファリアが剣術を磨きたいのなら、また明日、ここで会いましょう。勝負もまた後日に……」


 剣をしまい、木陰にあった練習用の剣を持つと、アガードはセラに振り向く。


「門までお送りします」


 セラは、構えた剣を下ろせずにいた。いろいろな感情が渦巻き、体を動かすことができなかった。


(……今日のところは帰りましょう、セラ)


 なだめるようにファリアが言った。悔しいがそうするしかなかった。今はどうしたってアガードには勝てそうになかった。セラが全力を出しても、相手は軽くあしらってしまう。このままでは復讐を果たせない可能性のほうが大きい。三ヶ月が経つ前に、本当に仕留めることができるのか、セラは自身の腕も疑い始めていた。


「……行ってくれ。一人で帰れる」


 セラは待っているアガードにぶっきらぼうに言った。


「遠慮はいり――」


「帰れるって言ってんだ。早く行け!」


 不機嫌に怒鳴るセラに、アガードは諦め顔で笑う。


「……わかりました。ではお先に……気を付けてお帰りください」


 踵を返し、アガードは長く伸びた影と共に遠ざかっていく。剣を鞘に収めたセラは、その憎い姿が消えるまで、一人草原に立ち尽くしていた。

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