第2話 秘密

 街で古くから開けているのは駅の東口の方で、西口側は昭和の時代、高度成長期以降に開発された場所だ。平成になってマンションも増えたが、商業施設があって賑やかなのは、いまだに東側だった。


 朱音は改札口の前で長袖シャツの彼の姿を見つめていた。彼は振り返ることもなく、眩い日差しの下に向かっている。その背中が駅を出た時、一瞬、彼は透明になる。


 消えた?……そう感じた瞬間、朱音は拳を強く握りしめていた。片手には空っぽになった紙袋があって、反対の手は借りたハンカチを握りしめていた。


 朱音は急ぎ足で歩き始めた。ゴミ箱に紙袋を捨てると向きを変え、西口に向かう。


 彼はすぐに見つかった。ふわふわと歩いている。まるで地に足がついていないみたいだ。朱音はその背中を尾行した。


 駅前の小さな公園をぬけると、建物の日陰を選びながら進んでいく。ふわふわと……。


 朱音は彼の背中を追いながら考えていた。……彼のアパートに着いたら、もう一度腕のことを聞こう。話してもらえなかったら、せめて見せてもらおう。嫌だと言われたら?……お風呂に誘って、……いや、それはムリ。一緒は無理でも背中を流すとしたどうだろう?……やっぱり風呂はハードルが高い。湯を入れているうちに気持ちが変わってしまうかもしれない。シャワーなら?……シャワーで背中を流してやるなん

て、聞いたことがない。そうだ。アパートでゴキブリを取ってもらおう。そうしたらびっしょり汗をかいてシャワーを浴びるに違いない。


 ふと気づいた。ゴキブリを獲るまでもなく、長袖シャツの下は汗で濡れているに違いない。……朱音は自分のTシャツの胸元を広げて空気を入れた。首筋を汗が流れ落ちた。


 彼が足を止めたのはT字路だった。突然、後ろを振り返った。


 あちゃ!……隠れる余裕がなく、朱音は見つかってしまった。


「君もこっちなの?」


「いいえ」


 首を横に振った。


「なら、どうして?」


「住まいがわからないと、ハンカチを返しにいけません」


 屁理屈だとわかっていたけれど、そんなことしか言えなかった。


「それなら、今返してもらうよ。君の涙がついているだけだから、わざわざ洗ってもらうこともない」


 彼が手を出す。


 朱音はハンカチを両手で握りしめ、首を左右に振った。


 彼の顔に困惑が浮かぶ。


「君を連れて歩いたら、僕は不審者にされかねない」


「私が後ろを歩いているから大丈夫です。それより、どうしてわかったの。私が尾行していること?」


「あれだよ」


 彼が、T字路のカーブミラーを指した。


「あぁ、あれ……」


 カーブミラーに目をやっていると、彼が歩き出す。朱音は慌てて後を追った。


 彼は道を横切ると、目の前にあるマンションに入っていく。まだ新しい清潔そうなマンションで、そこでゴキブリ取りを頼むのは無理そうだった。


「……立派なマンションですね」


 最上階を見上げ、借りたハンカチで額の汗を拭いた。


「賃貸だよ」


 彼は無表情で言うと袖で汗を拭く。賃貸だからどうだとか、持ち家だからどうだとかいうことは朱音にはわからない。


 エントランスに入り、彼がポストを開けて中からチラシを取り出す。


「ここに入れておいてくれたらいいよ。ハンカチ」


 朱音はポストに目をやる。402号室〝CHISAKA〟とローマ字で書いてある。


「名前を、教えてください。私は吾妻、……吾妻朱音です」


「書いてあるだろう。千坂だよ」


「苗字はわかりました。教えてほしいのは名前です」


「名前?」


「それから、その腕、見せてください」


「どうして?」


 彼の顔が曇った。嫌悪感がにじみ出ている。


「そんなに気になるのか。……それなら僕の部屋で見てみる?」


 彼が試すように言った。そうすれば、怯えて逃げて行くだろうとでも考えているようだ。


「ハイ!」


 朱音が喜ぶと、彼が困惑した。それを見るのは、何度目だろう?


「そうか……」


 観念したように千坂がエレベーターに向かって歩き出す。その後に朱音が続いた。


 エレベーターのボタンを押した後に彼が言った。


「やっぱり君は帰った方がいい」


「え?」


 朱音は聞こえないふりをした。


 エレベーターのドアが開くと、先に乗り込んだ。


「何階ですか?」


 階数ボタンの前に細い人差指を出す。


「402号だよ。4階、……怖くないの?」


「どうしてですか?」


 4のボタンを押す。


「僕は男だよ」


「私は女子中学生。あっ、もしかしたらロリコンですか?」


 朱音が見上げた彼の顔は普通に驚いていた。どうやらロリコンではなさそうだ。


 彼が返事をするより早くエレベーターのドアが開いた。


「お先にどうぞ」


 朱音はドアを開けるボタンを押して待つ。


「君こそ先に」


 千坂がドアを押さえた。


「私は後がいいです」


「君が下りた後に、僕がドアを閉めると思っている?」


 彼は正直で親切な人だ。……朱音は確信していた。


「……いいえ。それはないと思います」


「ふむ……」


 千坂が通路に出て、後から降りる朱音を見守った。


 402号室はエレベーターの近くだった。


 彼がドアを開け、「本当に入るの?」と訊いた。


「ハイ」


 朱音は応えて玄関ドアをくぐった。


 彼の部屋は病院のような臭いがした。あるいは、理科室の臭いだ。


 これは普通じゃない!……背中を電気が走った。


 彼がドアを閉める。朱音は彼の手元を見ていた。彼は鍵もドアチェーンもしなかった。少しホッとして靴を脱いだ。


 胸が高鳴る。自分は間違っているのかもしれない、という不安を初めて抱いた。――リスクを取らなければチャンスは得られない。チャンスを得なければ秘密は暴けない。……何で読んだのか忘れたけれど、そんな文章が脳裏を過った。


 通されたリビングにはソファーと小さな机、ノートパソコンと膨大な本の数々……。


 病院の臭いは何処からするのだろう?……立ったまま、ぐるりと部屋を見回す。


「どうかした?」


 千坂はキッチンにいた。冷蔵庫を開けてオレンジジュースをグラスに注ぐ。


「やっぱり、ゴキブリは出そうにないですね」


「ゴキブリ?……ここに越してから、見た事はないね」


 彼は、ソファーの前の小さなテーブルにグラスを置いて「どうぞ」と勧めた。


 エアコンの冷気が下りてくる。いつのまにスイッチを入れたのだろう、と彼の白い指に眼を止めた。視線は黒い長袖シャツを肩まで移動する。


「そうか。僕の家でゴキブリを捕まえたかった?」


 彼は机の前の椅子に座り、ぐいっとグラスを傾けた。


「い、いいえ……」


 朱音はひと口だけ飲んだ。甘酸っぱい物が胃の中に落ちて汗が引く。


「夏休みの研究に必要だものね」


「ゴキブリは止めました」


「なあんだ」


 それは失望の色を帯びた声だった。


「私が、ゴキブリの研究をしないと変ですか?」


 決めつけられたように感じて少しだけ唇を尖らせた。


「君は決めたことを最後までやり通す人だと思ったからね」


「私は、臨機応変な人間です」


「なるほど。それは良いことだね」


 朱音は立ちあがる。


「洗面所、貸してください」


「あぁ、トイレなら廊下の右側のドアだよ」


「トイレじゃなくて、洗面所です」


「それなら2番目のドア」


「すみません」


 頭を下げてからリビングを出た。


 洗面所のドアを開けると、あの臭いがズンと鼻を襲った。その原因は洗面所の壁と壁の間に渡されたポールに干してある沢山の白い包帯だった。全部使ったらミイラ男が完成するのではないかと思うほどの量があった。


 何に使うのだろう?……首をひねりながら、洗面ボールに水をためた。そこには洗濯機もあったけれど、ハンカチ1枚のためにそれを使うのはまずいと思った。


 水が溜まってから液体洗剤を一滴だけ垂らしてハンカチを洗った。


 ――ジャブジャブ……、ハンカチを両手で揉み洗いしながら顔を上げる。鏡に映る大量の包帯。……もしや、彼はミイラ男? それとも透明人間?……シャツを脱いだら、その下は透明なのかもしれない。想像するとワクワクする。


「なんだ。洗っていたんだ」


 突然、背後で彼の声がした。


 彼が入ってくると、ミイラ男に追い込まれた感じがあって、神経がハリネズミのように尖った。


「あ、あの、まさかですよね……」


 振り向き、両手を胸元にあげて彼の接近を拒む。


「ごめん。何もしないよ……」彼も両手を挙げた。「……なかなか戻ってこないから……。まさか、ここで洗っているとは思わなかった」


 彼の視線が絡みつくように感じた。


「すみません。もう、終わりました」


 洗面台に向きを変え、ハンカチを絞る。それから彼の胸元をするりとすり抜ける。その時、抱きとめられたらどうしよう、とひどくドキドキした。が、彼は何もしなかった。


 リビングに戻ると日の当たる窓ガラスを探し、ハンカチをそこに張り付けるようにして伸ばして干した。


「何をしているの?」背後から彼の声。


「こうすると、皺がなく乾くんです」


「へー、それは驚いたな」


 彼が椅子に掛ける。その声はとても優しかったが、朱音を見る目は相変わらずねちっこい。


「あのう、私の顔に何かついていますか?」


「いや、似ているんだ……」


 彼が、3年前に会ったことを思い出したのではないかと思った。が、それはないだろう。あのころは小学生で、自分はもっと、もっと幼かった。


「誰に似ているんですか?」


「いや、君の知らない人だ」


 彼は話を切り、グラスのジュースを飲み干した。


「あのう、聞いてもいいですか?」


 机に近づき、彼の瞳を覗き込む。そうすると、優位に立った気分になった。目の隅に机の上の絵に目が留まった。浜辺を走る美しい少女、その視線の先に〝時を超えて〟という大きな文字がある。


「うん。プライベートなこと以外ならね」


 先に釘を刺されて言葉に詰まったが、すぐに口を開いた。プライベートなことかどうか、訊いてみなければわからない。


「洗面所の包帯は、何に使うのですか?」


 千坂が応えるまで、少しの間があった。


「君は好奇心が旺盛だね」


「良いことなんですよね?」


 彼が前に言ったことを引用する。ちょっと嫌味かな?


「僕はミイラ男なんだ。そのための予備だよ」


 彼が真顔で答えた。


 予想が当たっていたことに一瞬驚いた。が、そんなはずがあるか、とすぐに否定した。


「私、嘘は嫌いです」


「嘘じゃないよ。僕はミイラ男だった」


「やっぱり嘘です。私、3年前に千坂さんに会っているんです。ミイラ男じゃありませんでした」


「3年前?」


 彼が顔をしかめた。


「三浦半島の病院です」


「あぁ……」


 彼の唇からホッと息が漏れる。その知的な唇に自分の唇を重ねたら……。想像すると頭がカッと熱くなった。


「……だから、ミイラ男じゃありません」


「君は記憶力が良いんだね。まいったなぁ」


 千坂がシャツのボタンに手をかけて一つ二つとはずす。


「キャッ」


 朱音は声を上げ、自分の顔を両手で覆った。……出会ったばかりなのに、セックスには早すぎる!


「襲ったりしないよ。……ほら」


 ほらと言われて指の隙間から覗くと、シャツをはだけた千坂が下着をまくり上げているのが見えた。その腹には包帯がぐるぐると巻かれていた。そこに鮮やかな赤い点がある。血だ。


「今は、ここだけだけれど、昔は頭から腹まで包帯をまかれていた時期があった。あの病院で会ったのは手術を終えて療養していた時だよ」


「そうしたら、その腕も?」


 長袖に隠された腕に目を向けた。


「もう包帯は巻いていない。笑わないでよ」


 彼がボタンを外し、左の袖をまくって見せた。腕にはゴキブリのようなギザギザはなかった。代わりに沢山の直線と縫い目があった。様々な大きさの皮膚がモザイクタイルのように並び、縫い合わされている。


「皮膚移植の痕だよ」


「パッチワークみたい」


「笑うなと言っただろ」


 千坂に頭をコツンと叩かれ、自分が笑っていたのだと気づいた。


「何の病気なの?」


「強い放射線で遺伝子が壊れたんだ。それで様々な病気になる。これからもずっとそうだろう」


「いつ、治るのですか?」


 腹部の包帯に目をやり、恐る恐る訊いた。


「さぁ。医者もわからないと言っている」


 千坂がシャツのボタンをかけ始める。


「あっ、血が出てます」


「あぁ、動いたから……。平気だよ。すぐに出血するんだ。そしてすぐに止まる。医者には出歩くなと言われているんだけどね」


「今日は病院に行ったのではないんですね?」


「鋭いな。ちょっと仕事でね」


 彼が椅子に座ったままクルリと向きを変え、机から〝時を超えて〟と書かれたあの絵を手にした。その左下に〝千坂亮治〟と彼の名前があった。


「彼女に、君が似ているんだ」


「私が?」


「この絵じゃわからないけど、素敵な人だった」


 千坂が微笑んだ。心配するなと言っているようだった。


「本の表紙ですか?」


「あぁ、これの打ち合わせで出版社に行ったんだ」


「その人もそこに?」


「いや、彼女は僕の手の届かないところに行った。もう会うことはないだろう……」


 彼の顔を暗い影が過る。


「……ハンカチ。洗ってくれてありがとう。夏休みの研究、頑張って」


 彼が立ち上がる。帰れと言っているのだ。


「ハイ……」


 そう答えるのが精いっぱいだった。後ろ髪をひかれるような思いで402号室を後にする。


 ドアが閉まってから振り返った。そのドアの向こう側で、彼が泣いているような気がする。


 マンションを出て真夏の太陽に目をやる。赤味を帯びたそれが、白い包帯に着いた血痕の赤と重なった。夏休みの研究をする気持ちも昆虫学者になる目標も失せていた。医者になって、千坂の黒いシャツを脱がせてやろうと決意した。


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黒と白と赤の彼 ――2014―― 明日乃たまご @tamago-asuno

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