黒と白と赤の彼 ――2014――
明日乃たまご
第1話 再会
午後3時、空がにわかに黒く変わり、ゲリラ豪雨が関内駅周辺を襲った。
――フゥー……、長く息を吐き、おもむろに外を振り返る。ガラスの向こう側は車軸のような雨……。まともに打たれていたら下着まで濡れただろう。アッ、と思い慌てて手にした小さな紙袋に目を移す。
それには夏休みの自由研究に使う大切なものが入っている。中華料理店を経営する伯父から譲り受けた貴重品だ。袋の表面にはいくつか雨粒の跡があったが、どこも破れていなかった。中からはカサカサとこするような音がする。中身が無事な証拠だ。
「間に合った……」
喜びを言葉にして、改札口に向かった。
ホームに上がるとすぐに電車がやって来た。隣駅の横浜駅の空は真っ青で、関内で雨に降られたのが嘘のようだ。
乗り換えた下りの横須賀線の車内は空いていて、ドア付近の席に座ることが出来た。隣に座ったのがOL風の女性なのも窮屈にならず助かった。ちょっと化粧の匂いはきついけど、我慢できる範囲だ。
通路向かい、正面の席には黒い長袖シャツの男性が座っていた。全身に肉の少ない、引き締まった、……というよりどこか病的な薄っぺらい胸をしている。髪は短いが櫛を入れていないようで、土手の雑草のように、髪の一本一本が好き勝手な方向に向いていた。
大学生? どうして?……真夏だというのに、真っ黒な長袖シャツが気になった。まるでカラスのようだと思った。
普段ならスマホをいじりだしそうな状況だけれど、彼に関心が向いてそうしなかった。不躾だと知りながら、彼の腕を見つめていた。その手がスマホを握っていないのも興味を引いた原因かもしれない。
彼のシャツは真っ黒だが汚れてはいない。パンツも清潔そうだ。ストレートのジーンズ……。靴は紺色のスニーカー。ブランドは全て不明。それらは、ぼさぼさの髪の印象とはずいぶんと違っていた。
入れ墨でも入っているのだろうか?……観察していると、その男性に会ったことがあるような気がし出した。
どこだ?
いつだ?
朱音の記憶力はいい方だ。同級生には天才と呼ばれるほどだ。陰では、変わり者とか変人、変態と呼ばれているけれど、気にしたことはなかった。……変態はともかく、おかげで中学3年の夏休みだというのに高校受験の心配をする必要がなく、気ままに自由研究などをしようと考えて伯父から黒い虫を10匹ほど譲り受けてきたのだ。
「こんなもの、何に使うんだ?……まさか、食べるとかいうなよ」
伯父は冗談を言いながら虫の入った袋をくれた。覗いてみると、黒いのと茶色のが、逃げ出す隙間を探して走り回っていた。
「伯父さん、Gを馬鹿にしちゃだめよ。恐竜が生きていた時代から、ずっと生きているんだから」
朱音は教えたつもりだった。
「散々苦しめられているから、馬鹿にするつもりはないけどなぁ」
伯父が、ゴキブリを見るような目つきで朱音を見ていた。
自分は変わり者なのだ。同級生にささやかれるだけでなく、そういう自覚が朱音にもあった。普通に見られたいとも思ってはいない。だからといって伯父の視線が気にならないわけではなかった。伯父が馬鹿にしているのは、ゴキブリではなく朱音なのだと心に刻み、礼をいって伯父の店を出た。
――ゴー……モーターの音と車両の揺れが心地よい。
どこだ?
いつだ?
記憶力には自信があった。それなのに、彼とどこで会ったのか思い出せない。それが悔しい。
伯父の侮蔑的な態度を思い出しながら、目の前の男性のシャツを見つめて記憶をまさぐった。そうしているうちに彼が、カラスではなくゴキブリに見えてくる。
身の回りのことに無頓着な人間なのだろう。やっぱり大学生だろうか?……そんな人と関わったことは一度もなかった。
あぁ、シャツの下の腕が見てみたい。ゴキブリのように、ギザギザがあるのかもしれない。……想像するとワクワクした。
「あっ」
男性と視線が合う。
彼は、何故か困ったように視線を落とし、表情をくずした。
彼の視線がスカートの中をのぞいたような気がした。朱音は両膝をあわせて足に力を入れ、スカートを両手で押さえた。イチゴ模様のパンツを履いて来るんじゃなかった、と後悔が頭を過る。……いや、問題はそこじゃない! 変質者に負けてなるものか!……彼を睨んだ。
「あっ……」
男性は笑ったのではなく泣いたのだと感じた。それで思い出した。……あれは三浦半島の病院に祖父の見舞いに行った時だ。時間を持て余して庭を歩いていたら、ベンチで新聞を読みながら泣く男性がいた。東日本大震災の翌年だから、2012年のことに間違いない。12歳の時だ。今の男性の顔は、あの時の泣き顔のままだった。
私のパンツを見て、どうして泣くの?
突然、男性が立ち上がった。その顔に涙はない。
あれ?……朱音の思考が混乱した。
電車が減速する。
泣いてなかったのかぁ。……あのくすんだ表情の意味を、彼の黒いシャツに求めたが、答えにたどり着けるはずがなかった。
窓の向こうにはホームが見えていたが、朱音は気づかない。
プシュ、……空気が抜ける音がしてドアが開いた。その先に見慣れた景色がある。
あっ!……朱音が降りる駅だった。慌てて立ち上がると、後ろになった左足が隣の乗客の足に引っかかった。運悪く降りようとする別の乗客に背中を押された。
ヤバッ、……と思った刹那、デーンっと勢いよく転んだ。
――パン!……紙袋が割れた音……。
乗客の視線が朱音に集まる。降りようとしていた人たちまで足を止めて振り返った。
「大丈夫……」朱音を助けようとして絶句する隣の席の女性。
紙袋の中から黒いものが10匹、……飛び出したかと思うと、さわさわっと四方へ走り出していた。
――ギャー……、キャー……車内に交錯する黄色い悲鳴。
「ヤメテー」足元をゴキブリが走り、救いを求める隣の女性。
「テェィ」男性がゴキブリを踏みつぶす気合。
「あっ。私のゴキ……」
立ち上がらなければ……、ゴキブリを回収しなければ……、ホームに降りなければ……。やるべきことが多くて、頭がグルグルした。もう、朱音の視界にゴキブリはいない。
ドア付近に立っていた乗客は逃げるようにホームに降りた。
「誰だ。ゴキブリなんか持ち込んだのは!」一つ向こうのドアの辺りであがる太い怒鳴り声。
乗客の目が、四つん這いの朱音の背中に突き刺さる。
「行こう」冷静な声が朱音の右手を取った。その手にぶら下がるようにして立ち上がると、そのままの勢いで電車の外まで連れ出された。
朱音は誰かに引かれながら、今降りたばかりの出口を振り返っていた。左手は、まだ割れた紙袋をしっかりと握っていた。
「ゴキブリを集めて行け!」
あの太い声がする。誰かが追いかけてきそうで怖かった。その時流れた汗は、冷や汗か……。ムッとする熱気が朱音を包んだ。
朱音の手を握った手は、躊躇することなくどんどん電車から離れた。彼女が自由になったのは、出発のメロディーがホームに流れて電車のドアが閉まってからだった。
「私のゴキちゃんが……」
ホームを出ていく電車を見送りながら、とんでもない罪を犯したような後悔に
遠ざかる電車を見つめる朱音。その頭の上から声が降ってくる。
「大丈夫かい?」
「あ、ありがとうございます」
声の主に目を向けて驚いた。あの黒いシャツの男性だった。
「驚いたな。ゴキブリを持ち歩くなんて……」
そう言う彼の表情が泣いているように見えた。……この人は心の深いところに悲しみを背負っているに違いない。何故かそんな気がした。
「Gを飼っていたらおかしいですか?」
「え?……」彼が目を丸くし、それから三日月形にした。「……ゴキブリなら、また捕まえればいいさ」
それはそうだが、また伯父に頼み込まなければならないと思うと切ない。
「10個の命が消えるんですよ」
10個の魂と伯父の不機嫌な顔が重なって泣きたくなった。いや、実際、泣いた。
「泣くなよ」
彼が困惑していた。
朱音は恥ずかしくなってうつむいた。彼に誘導されて近くのベンチに座った。
落とした視線を遮るように青いハンカチが差し出された。自分もハンカチは持っているので迷ったが、彼の好意を受け取って涙をふいた。そうしないと、黒いシャツの秘密が解けないだろう。結構、自分はずる賢いと思った。
「ありがとうございます」
顔をあげると、目の前にあの泣いているような瞳があって、胸がキュンと鳴った。
「大丈夫そうだね」
彼の声は朱音の胸に甘く溶け込んだ。手にしていたハンカチを奪われないようにギュッと握りしめた。
「洗って返します」
朱音は他人とコミュニケーションを取るのは苦手だったが、目の前の男性とは話したいと思った。そして黒い長袖シャツの秘密や、病院のベンチで泣いていた理由を知りたかった。
「いいよ。あげる」
アニメや小説のような展開に、ベタだなぁと冷静に見ている自分と、喜んでいる自分がいるのに気づいた。
「困ります」
そう言って黒いシャツの袖を握ったのは、喜んでいる方の朱音だった。
「そうか……」
引きずられるようにして、彼が隣に腰を下ろした。
「……ゴキブリ、何かの悪戯に使う予定だったの?」
「エッ?」
彼の質問には殴られたような気分だった。ゴキブリをそんな風に使うつもりだったと思われたのが心外で、彼の瞳を睨んでしまった。
「ごめん。僕の勘違いのようだね」
どうやら彼は私の心を読めるようだ。……少し嬉しく、少し恥ずかしい。
「すぐに必要なの。ゴキブリ?」
「夏休みの研究にしようと思ったんです」
「そうなんだ」
「おかしいですか?」
変な奴だと思われるのには慣れている。でも、真夏に黒い長袖シャツで歩いている人間には言われたくない。
「いや、感心しているんだよ。今どき夏休みの研究で虫を観察しようという小学生がいるなんてね」
「しょ、小学生じゃありません。身長だって150あります。学校では小さい方だけど……」
ショックだった。立ちあがって小学生でないところを見せたつもりだったけれど、足がふらついた。へなへなとベンチに掛けた。
「あ、ごめん。夏休みの研究というから、てっきり……。中学生でもそんな宿題があるんだね」
「宿題じゃありません」
「なら、どうして?」
「気になるから……」
上手い説明が思いつかない。
彼が立ちあがる。
「そうか。好奇心があるのは良いことだよ。そうして疑い、考えていたなら、大切なものも守れるかもしれない」
彼の言葉が陰ったのを、朱音は聞き逃さなかった。彼は大人なのだと感じた。
「昆虫学者になれそうだ」
大人が子供をほめて
彼が進みエスカレーターに乗る。朱音はその後をぴったりとついて乗った。まるで歳の離れた兄妹のように。
「どうして長袖なの? 暑くない?」
朱音が聞くと、彼は少しだけ身体をひねり、「ヒミツ」と応じた。
「教えてよ」
「ヒミツ」
同じことを3度繰り返した。3度も拒絶されるとさすがにへこんだ。
自動改札を抜け、千坂が「じゃあ」と言って山側の西口に向かう。朱音の家は海側の東口。返事も出来ずに彼の背中を見送った。
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