第6話 You take my breath away. (呼吸ができないのはあなたのせい)


 入学して初めての夏休みも終わり、私と聖は以前よりもっと過ごす時間が増えた。

朝教室で私を見つければ、当たり前のように横に座る彼。それはいいんだけれど、私が少し遅れてきたときは手を軽く挙げて私を自分の横に呼ぶのは少しやめてほしい。端っこでひっそりと授業受けたい日だってあるのに。

 少し注目を集める行動を何もしなくても注目されている彼がしてしまえば、より皆が彼を意識して見てしまう。それはイコール私も目立つということを意味していた。

 私は頭を抱えながら、授業後片づけををする彼を見つめる。「飯、外で食う?」なんてことを首を軽く傾げながら言ってくる彼に、胸を締め付けられるような感覚に襲われた。やめて、無駄に可愛いことするの。それに、何で聖はこう・・・こうも目立っている自覚がないのだろうかと思った。


「いや、学食一択だから」


「ちぇー、麗奈は真面目ちゃんなんだから」


 すたすたと足を前へ進める私の後を、彼は自身の後頭部で両手を組みながらふらふらと付いてくる。聖は自由人すぎてこっちが心配になる、もっと周りを疑うことを覚えてほしいと思うんだけどな。

 彼の周りにいるのはいいファンばかりじゃない、過激なファンだっているのだから。複数人でならまだしも、最近の彼は明らかに私に構い過ぎだ。こんなことを続けていたら・・・私だけでなく彼も恨みを買うんじゃないかな。

 そんなことを考えているうちに、私たちは食堂に到着した。いつものように、注文した料理が乗ったトレイを手に席に座れば、右側から刺すような視線を感じた。そちらを見遣れば、見知った3人が私達を見ていたのだ。


 彼女達の美しい瞳に浮かぶ、私に対する明確な敵意。私はゾクリと、背筋が凍るような感覚をおぼえ、じわりと冷や汗が滲むの感じた。

────・・・たった数秒、私と彼女達の視線が絡んだだけだった。それから立ち上がった彼女は、遠くから私を手招きする。それだけで私は、彼女達が何が言いたいのかなんとなく理解出来てしまう。これから、女同士で話そう。そういうことだ。

 確かに、彼女達には申し訳ないことをしている。私は以前 聖と距離を置き離れると約束しているのだ。

それなのに、またこうして共に過ごす時間は増え、2人で居ることもままある。予想と違う、約束を破った行動をする者がいれば、それは彼女らにとっても不愉快であり心配でもあるだろう。

 けれど、私は・・・彼の隣にいない自分をもう上手く思い描けないのだ。彼が嫌だと言わない限り、今後も・・・たとえ友達としてでも傍にいたいと感じてくれている間だけは・・・彼の隣で笑い合うことを願ってしまった。

 

 聖のことを思う彼女達の気持ちは痛いほどわかる。だけど、私は彼の友達。彼だってアイドルである前に1人の大人の男なのだ。自分の行動には責任は持てるだろうし、考えた上で行動しているはずだ。

 それなのに私の勝手な杞憂で離れ、友達を失えば彼がどう思うのか。そんなのもう分かりきっている。彼はただの、他の人よりちょっと有名なだけの男の子。友達を失えば傷つくし、悲しむ心だって持っているのだから。


 “風間聖はアイドルだから”そう彼女らは言うけど・・・私達が考える以上に彼はちゃんと考え、プロのアイドルとしての意識を忘れずに行動していると思う。

 皆で遊ぶ時も、皆となら記念撮影もするけれど、女の子とツーショットは絶対に撮らないし、学校でもそうだ。

私にしていることは、まぁ大抵、他の男友達にもしているし。ファンの子に軽蔑されたり、事務所に迷惑をかけたりしないように・・・学内では至って真面目に勉学に励んでいる。

 そして周囲に気を配り、グループ活動でも率先して発言しまとめたりと忙しさを理由に勉学を疎かにしない。いつだって熱心に取り組んでいるし、どんなに疲れていても居眠りなんてしない。

 そんな彼を、偉いと思うし尊敬している。好きな人だという前に、尊敬する友達を・・・私だって失いたくないのだと、そう・・・自身を鼓舞して。──これから私は話さなければならない、戦わなければならないのだから。




 私は急いでうどんを啜り、立ち上がる。


「ごちそうさま!聖、また後で」


 小声で彼に耳打ちすれば、不思議そうな顔で私を見上げる彼。

私に話しかけながらゆっくり食べていたからだろう、彼のトレイの上にある料理は、まだ半分以上残っている。

ごめんね聖。いっぱい話しかけてくれていたのに、軽く相槌を打つ程度であまり構ってあげられなかった。


「そんなに急いで何?・・・用事?」


「いや・・・まぁ、野暮用?」


 なんと説明すべきか、言葉も浮かばなければ、すべて正直に説明できるわけもなくて。歯切れ悪くそう言えば、彼は きょとんとした顔を柔らかく綻ばせた。


「ふはっ・・・なんで疑問形なんだよ」


「はは、まぁそんな時間かかんないと思うけど・・・聖はゆっくり食べてて!」


ちょっと怖いけれど、その恐怖心を抑えて・・・笑顔で彼に手を振り、私は小走りで3人を追いかけた。








──────────・・・


 彼女達が歩いていった方向へ足を進めれば、小さい机や椅子がある・・・学生たちの休憩スペースにたどり着く。

建物横にあるその場所は、生い茂る葉が揺れ、そこから入る木漏れ日が美しい場所だ。時々カップルや友人同士でここで一緒に休憩している学生達を見かける。

この場所も夏の茹だるような暑さは消え、木陰は少し涼しかった。

 彼女達が座るテーブルの、向かい側に私も落ち葉を払い腰掛ける。学生達の憩いの場と言っても過言でないはずのこの場所は、ゆっくりと時が流れる穏やかな空気に似つかわしくなく、どろりとした重々しい雰囲気に包まれていた。


「お待たせ」


 そう私が声をかければ、長髪でストレートの子も口を開いた。せっかく美しく装って、綺麗な女の子なのに。彼女の表情から元々の美しさは見る影もなく、苦々しく嫌な表情から口元が歪み、感情を隠しきれていなかった。


「私達が話した内容、覚えていますか?」


「・・・勿論、覚えていますよ」


 絞り出すような声でそう囁く彼女に、私は頭に血が登り冷静さを失わないようにと深く息を吐き、言葉を返す。

自分が思った以上に冷たく響いたその言葉に、私自身も驚いた。私って、こんな声出せたんだなって。


「あなた達に忠告されて、よく考えた。」


素直に、聖のことが好きだから邪魔をしたくなくて、そばにいたらいけないと思った。それしか私にできることはないって。


「風間くんを一方的に避けて、歩み寄ってくれた彼をまた突き放して、・・・そして傷つけた」


でもそんなこと無かった、彼は私を男友達と同じように接してくれている。期待なんかしてない。好きだから相手を思って身を引くのも愛、でも相手が友達でそばにいて欲しいと願ってくれていて、自分さえ我慢すれば相手を傷つけなくて済むと気づいたの。


「その後、これからどうしたらいいのかってよく考えた。嫌われたんだから、そのまま身を引けばいいかとも思った。・・・でも、彼がまたきっかけをくれた。私は、風間くんが大切だから・・・彼から友達を奪いたくない。彼が私に与えてくれた優しさを、私は返していきたい」


 ショートカットの可愛らしい女の子を見遣れば、唇をグッと噛み締めて、俯いてしまう。そうだよね、ファンでも・・・大切に思っているからと言って、彼の友達を勝手に奪っていい権利なんてない。でも、私が傍に居るのは嫌だろうし、不安だよね。

 でも、私がすべきなのはこの子達の考え通りに行動することじゃない。風間聖という1人の人間にちゃんと向き合って、彼がどうしたいか、私がどうすべきかと考えて行動することだ。

そのほうがよっぽど大切で、彼を傷つけることもないとやっと分かった。

────・・・聖がそばに居ていいと言ってくれるうちは、私はそばにいたい。彼の最高の友達でいると誓ったから。


「友達を奪いたくないなんて、随分自意識過剰なんじゃないです?」


ふわふわと栗色の巻き髪の女の子の表情からは、明確な敵意は感じない。けれど、口調の端々に滲む刺々しさに私は居心地の悪さを感じた。


「私もそう思っていました。・・・だけど、私は彼が好き」


「っ・・・それなら、身を引くのが筋でしょう?」


 動揺して慌てたような言い方だった。冷静さに欠けたその物言いをする彼女を見ていると、不思議と私の気分は落ち着いていた。

だって・・・彼を思う、私と彼女達の気持ちに違いは無いはずだ。どちらも、彼を大切に思っている。ただ、少し考え方が違うだけ。


「そう思って一度身を引きました。ただ、風間くんは本当にプロ意識がある人ですよ。私に対してと、他の男友達に対しての扱いは対等で平等。たとえ私が彼に特別な感情があったとしても、彼は私を友達以上として見ない。何も無いんです、本当に」


「そんな言い訳・・・!」


「言い訳でもいい。私は風間くんに、友達以上の関係性を求めることは無いし・・・彼も同じ。それなら、あなた達が心配するような結果にもならないと思います」


 だから、私は彼と友達でい続けます。そばに居ます。・・・ごめんなさい。彼女達にお辞儀をし、立ち上がった時だった。

────・・・左手首にズキリと痛みが走った。痛みのする方を見遣れば、彼女は栗色の髪をふわりと揺らし、見たことも無い形相で私の手首を掴んでいたのだ。可愛らしくアートを施された長い爪は硬く、私の手首に食い込み皮膚がえぐれている。


「・・・っ、いっ、」


思わず痛みに顔をゆがめ、呻き声を上げてしまう。


「────・・・待ちなさいよ」


「っ、え・・・っ?」


「一方的にあなたの言い分だけ聞いて、はいわかりましたって私達が納得すると思ってるの!?────あなたって随分、楽観的でなにも考えていないのね。聖くんもあなたなんて人、友達にするなんて気が知れてるわ!」


 あまりに気遣いや配慮に欠けた言い草だった。私のことを悪くいうのは、当たり前だし理解出来る。私だって彼女らと同じ立場なら嫌だろう。

だけど、だからってずっと応援してきた好きな人のことを貶すなんて・・・そんなこと、どうしてできるの。


「聖のこと悪く言わないで!」


半ば叫ぶように言ってしまったその言葉に、はっと口を覆った。


「っ──何が、風間くんよ。・・・そう名前で呼んでる癖に。私達に変に隠すように苗字で呼ぶなんて、ずるくて汚いやり方じゃない?」


「・・・ごめんなさい。でも、別にあなた達だから隠してたわけじゃないよ。彼とは友達だから、名前で呼ぶけれど・・・それをよく思わなかったり、彼に迷惑をかけたりすることがないように気をつけているだけだよ」


 キリキリと私の手首を締め上げる彼女の手は震えていて・・・それが怒りなのか悲しみなのか私には分からないけれど。

・・・私だって、3対1というこの理不尽な状況で逃げずに話している。これはドラマなんかじゃない、私はヒロインでも強く気高いお姫様でもない。

 ただの女子大生である私が、こうして3人に負けずに、はっきり意見を言っている。それがどれだけ勇気がいることなのか彼女達は分かっているのだろうか。



「だから・・・!迷惑だって言ってるのよ!香椎さんの存在が、聖くんの近くにいるだけで迷惑になるの!彼だって迷惑してるし、・・・それに、あなたなんかが傍にいたら・・・彼の未来が、」


「・・・そう言うけど、聖にそう聞いたの?」


「え?」


 3人がきょとんと、今の雰囲気に似つかわしくない表情を見せた。こうしていると年相応で可愛らしいのに。

恋をすると女の子は変わると言うけれど、これはいい変化だと言えるのだろうか。


「あなた達が勝手に聖の気持ちを決めつけて何になるの?彼はアイドルである前に大学生でただの男の子なんだよ。友達との距離感はバグってるけど、男女の区別なく好きな友達にそうしてるだけ」


「・・・っ、聖くんが好きなわけない!香椎さんみたいな人、好きなら私は担降りするから!最低よそれって!ファンへの裏切り、プロ意識の欠けらも無いじゃない!」


──────・・・なんてこと、言うの?

さらりとストレートの髪を振り乱し、そう叫ぶ彼女は怒りに満ちた表情をしていた。

私は、理解できなかった。どうしてそうなるの?どうして好きな人をそうも貶めるような言い方ができるの。


「私のこと悪くいうのはいいよ、でも聖のこと悪く言わないで」


 ぎろり、彼女達を睨み返せば、私の初めて見る表情に驚いたのか手首を掴む力が緩んだ。グッと強引に彼女の手を引き剥がせば、私の左手首からはツー、と赤い血が滲み流れていた。

 どれだけの力で彼女が私を掴んでいたのかわかる。真剣に聖が好きな彼女達だから、私を毛嫌いする理由も、引き剥がしたい理由もわかる。けれど、彼女達ももう分かっているはず。好きという言葉に嘘がないなら、彼がどんな人間なのかを。


「──聖はね、絶対女の子と2人で遊ばないんだよ」


「いきなり何言って、・・・?」


「ツーショットもね、たとえ友達だとしても女の子とは撮らない。なんでか分かる?それをなにかのきっかけで見てしまわないように・・・ファンの子を悲しませたくないからだよ」


 ハンカチで軽く手首を押さえながら、いつになく落ち着いて話せている自分に驚く。彼女達を正面から見据えれば、怒りが私の中でどろどろと溶岩のように怒りが渦巻いているにもかかわらず、怒りに任せて怒鳴り散らしたり泣き叫んだりしようとは思わない。

 だって私程度の女で揺らいで、ずっと応援して好きだったはずの聖のことを貶めるような発言をする彼女達に・・・私は絶対に負けない。


「彼はただ大学生活を楽しんで、自由に友達との青春を謳歌しているだけ。それでも、ファンを思って行動していることを私は知っているから、・・・彼のことを好きなら、あなた達もわかっているはずでしょ?」


1歩、私は彼女達の方へ踏み出す。


「私はプロ意識を持ってアイドルを頑張っている彼を尊敬しているし、友達としてできる限り支えていきたい。

でも、彼はアイドルである前に1人の人間だということを忘れないで。友達ぐらい彼自身で選べると思うよ」


「・・・聖くんのこと、知ったふうな口を聞かないでよ!」


 ショートカットの子が、私に向かって手を振りかぶるのが見えた。──・・・あ──、やらかした。

この勢いだと、めちゃくちゃ痛いビンタが来るぞ、なんて変に冷めたことを考えて、私は目をぎゅっと瞑った。

 すると、後ろにすっと引っ張られる感覚が私を襲った。覚悟していたはずの頬への痛みはいつまで経ってもやってこない。急に引っ張られたことで重心がぶれてふらっとすると、広い背中が私を受け止めた。ポンポンと、私の腕を軽く叩く優しい感触で、わかってしまった。


「聖・・・?」


──彼だ。私の大好きで、堪らなく大切な・・・ずっと大切にしたい友達。私の特別な男の子。


 彼の少し屈んだ背中越しに見えた彼女達の顔は、困惑と動揺でいっぱいという複雑な表情をしていた。

 どうして聖くんが、どうしよう。そんな彼女らの心の声が聞こえてくるようだった。彼の左手が、私の頬を打とうとして振りかぶっていた彼女の手を掴んでいた。

 一体どこから出てきたんだろう?そんなことを考える。彼が来てくれた安心感からか、突然震え始めた指で、私の腕を優しく擦る彼の指に自分のそれを重ねた。

ぴくりと、彼の指は小さく揺れる。けれど、何事も無かったかのように私の指を受け入れてくれた。──・・・彼のそんな優しさが、温かくて痛かった。


「ねぇ、何してんの?」


 優しく穏やかに、諭すような言い方だった。けれど、私にはわかるよ。聖、怒ってるでしょう。

 フィールドワークの日を思い出す。優しい言い方だけど、彼が纏う空気がいつものそれとは全く異なるのだ。

出会ったばかりのあの時でさえわかったのだから、長く時間を過ごした今わからないはずがなかった。


「いや、これはあの・・・」


「えっ、と・・・その、」


「っ、──別に、・・・」


 おろおろと、視線を左右に揺らし、彼女たちはしどろもどろに意味をなさない言葉を呟く。

好きなアイドルを目の前に言葉が出ない、そんな可愛い雰囲気ではなかった。彼女達も、わかっているのかもしれない。いつも優しい聖が、今は怒りに満ちているということに。


「はっきり言って欲しいんだけど?」


「・・・っ、香椎さんが、私たちの忠告を無視して聖くんに迷惑をかけているから!私達は、聖くんのために・・・っ」


「あー・・・なるほどね?だからかぁ、」


 ちらりと、首を私の方に向ければ、困ったような・・・見ているこちらが寂しくなるような顔をしている彼と視線がかち合う。

私は何だか気まずくて、何も言えなくて、思わず下を向いてしまう。いたたまれない気分になった私は、彼の指に重ねていたそれをそっと離した。彼の傍にいたからか、私の手の震えはもう納まっていたから。

 すると、彼は彼女達から死角になるように背中に腕を隠して私の手をそっと握った。いつもの力強さは感じられず、あまりに優しく私に触れるから・・・こんなの良くないってわかっていたけれど、私はそれを振り払えずにいた。


「・・・でもさぁ、俺のファンならわかるでしょ?こういうことされるのが1番嫌いだってこと」


 私が手を握られたことで、どきどきと胸から聞こえる心音を聞こえないふりをしていると、彼が言葉を続けた。

聞こえてきたのは、あまりに冷えた声だった。後ろから彼の表情は汲み取れないけれど、きっともう、彼の優しい顔を・・・彼女達は見ることは出来ていないのだろう。


「俺のためって本当にそれだけ?女の子と一緒にいる俺が嫌なだけでしょ。女友達はこいつだけじゃない。

俺はアイドルだけど、自分の友達ぐらい自分で選べるよ。──・・・知らなかった?」


「っ、──ごめ、なさ・・・っ」


「・・・、っ失礼します、」


 ばたばたと走り去っていく彼女達は、泣いているようだった。

私は少し申し訳ない気持ちを抱きながらも、大好きだと言う聖のことを悪く言った彼女達を、きっと今後何があっても許すことはできないだろうなと感じた。

 慌ただしく彼女達が走り去っていく背中を2人で見送ると、彼は私の方に体を向けて、視線を重ね合わせた。ぎゅっと握られていた手を優しく解かれて、寂しさや残念さを感じてしまう欲深さを振り切るように、私は緩く首を振る。


「相談、して欲しかった」


「う・・・っ、ごめん、なさい」


 あまりにも悲しそうに眉を八の字に下げて私を見るものだから、申し訳なさに思わず俯いてしまう。


「これからは、突然避けたりせずにちょっとぐらい頼ってよ」


「・・・うん、ありがと」


 ふと左手首の傷と乾いてしまった血が目に入り、私は隠すようにハンカチを握り直す。けれど、上手く力が入らなくて、左手からすり抜けたハンカチを追いかけるように左手を伸ばせば、私が掴んだのはハンカチではなく聖の大きな手だった。


「あっ・・・痛っ、」


痛みに思わず眉を顰めれば、彼は驚いたような顔をして私が落としそうになったハンカチを握りしめていた。


「麗奈、ごめん」


「えっ?」


 何に対しての謝罪かわからず首を傾げる。彼は、私の手を離して、両肩にそっと自分の手を乗せた。

いたわるような、優しい触れ方にびっくりしてしまう。こんな触り方、できる人だったんだ。なんてふざけた考えが頭に浮かんで、いや・・・聖って結構場の空気を読んでから行動するから、私が怪我してるから優しく触るのかなとか、冷静に分析を始めてしまう。


「俺は、・・・自分が不甲斐ないわ」


 はぁ、と深いため息をついた彼の顔は、俯いているからよく見えない。きっと、友達が自分のせいで傷ついていると、彼も心を痛めているのだろう。

でも、大丈夫だよ。私が好きできみの隣にいることを選んだ。好きできみに言わなかったんだから。聖は何一つ悪くないんだよ。


「大丈夫、聖のせいじゃない」


「・・・何、言ってんだよ。どう考えたって俺が巻き込んでるだろ?」


「だって、私が1人で解決しようとしちゃっから。彼女達の気持ちが理解できない訳でもないし、聖がね・・・避ける私に寄り添ってくれて、仲直りできた時・・・私本当に嬉しかったんだよ」


聖を見つめて安心させるように微笑めば、少しだけ口元を緩めてくれる彼。

彼にはずっと笑っていて欲しいから、だからこんなの全然問題ない、へっちゃらだよと笑える自分がいる。だから大丈夫だよ。


「でも、これからは絶対俺を頼って。マジで心臓に悪いし、」


「はいはい」


「ちょっと、すんげー適当な返事!信用できないんですけど!?」


「ははは!はーい!」


思わず笑えば、彼もへらりと人好きのする柔らかい笑みを見せてくれた。

優しく垂れる瞼に、いつも心を乱されていたけれど・・・今日はその顔を見て心から安心している自分がいた。


「──もう勝手に1人で離れていくなよ」


「なーに?もう、子供みたいな言い方して。もうしないってば、」


 サァ────と柔らかい風が私たちを包んで、彼の髪を揺らした。笑いながら彼を見つめれば、ちょっと不安げな、子供みたいな瞳が揺れていた。

いつも自信満々なのが当たり前で、カッコつけてる風間聖。それがアイドルの彼。でも、こんな風に私に自分のあまり人に見せないような表情や態度を見せてくれるのは、きっと私を信用しているからだよね。

 キラキラと葉の隙間から漏れる陽の光を浴びる彼は、うつくしくて。こんなに綺麗で、ずっと見つめていたいと思う人と出会えるなんて・・・考えたこともなかった。


「離れないよ、私・・・聖から離れたくないって思っちゃったんだ」


素直に口から零れた本心は、やばいと思った時には時すでに遅く、彼の耳まで届いてしまっていた。


「────・・・俺も。」


「え?」


「俺も、ずっと麗奈と一緒にいたいよ。」


 私の頭をくしゃりと撫でて、笑みをこぼす彼が、愛おしいと思った。

決して伝えることは無いこの思いだけど、この恋を捨てることも、この恋を守ることができるのも、私しかいない。


──ねぇ、聖。私ちゃんとするよ。

ちゃんと、この思いを綺麗に隠すから。だから・・・きみへのこの思いを守って、大事にしてもいいですか。

誰にも気づかれないように、頑張るから。だから、許して欲しい。この思いを捨てられずにいることを。

 ぎゅっと唇を噛むように押し黙れば、上から優しくて温かい声が私に降ってくる。


「それに・・・さっきはありがとな、焦って来たから全部は聞けてないけど、・・・俺のこと庇ってくれてる声だけちょっと聞こえちゃったんだよね」


 照れくさそうに少し自身の頬をかきながら、私から目を離さないでいてくれる彼。

彼と私がこのままずっと隣で笑い合える保証なんてないけれど、こうして傍にいられる時間を大切にしていきたいと思った。


・・・私達は、友達。


 彼の隣にいるのが居心地が良くて、それはきっと気を張らなくていい、素直な自分でいられるからで。

彼もそう思ってくれているのかな、なんて嬉しい気持ちで胸がいっぱいになる。これで満足しなきゃいけない。それなのに。

もっと、もっとって、・・・もしかしたらって、その言葉の中にある甘い響きを求め、意味を見出そうとしてしまう。そんな自分を打ち消すことができなくて。

 緩く私の頬を撫でた彼の手を、掴んで。私は笑みを作った。こういう期待してしまうようなことは、しないでって彼に伝わるように、そっと自分から引き剥がす。

彼の優しげな表情に、少しだけ悲しみの色が滲んだような気がしたけれど、きっとこれも私の願望が映し出した幻想なのだろうと思った。




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