第二章 熱田(3)
「──行く末、思いやられまする」
五郎右衛門の言葉に、平手は眉をしかめた。
「それでも我らの殿じゃ。お支え申し上げねばならぬ」
「それがしは、むしろ末頼もしく思いましたが。林殿、青山殿ら歴々の侍衆が居並ぶ前で、儂は寝るぞと豪胆な仰せ」
甚左衛門が笑い、平手は眉間の皺を深くする。
「家臣など何ほどのものとも思うておられぬのよ。幼子とも思えぬ、あの冷ややかな目に表れておろう」
那古野城下の平手の屋敷である。
いや、屋敷と呼んでも足軽や奉公人が暮らす長屋といくらも違わぬ粗末な造りだ。
これでも、もとは今川竹王丸に仕える家老が住んでいたというのであるが。
障子戸を開ければ梅の木が一本せいぜい植えられる程度の小さな庭があり、板塀の向こうには青山であったか内藤か、ほかの誰かの屋敷が間近にある。
この窮屈な屋敷地の拝領を林は辞退して、近くの寺に仮住まいしながら、いずれ新しく屋敷を建てる腹づもりらしい。
大身ゆえに余裕があるのだろう。
平手たちは障子戸を閉め、声をひそめて語り合っていた。
五郎右衛門と甚左衛門は先刻、吉法師が家臣たちと対面した場で十五人の侍衆の中にいた。
「ただ物事の是非をわきまえぬ、うつけでございましょう」
五郎右衛門が言って、平手は首を振った。
「そうであったとして、あの癇の強さじゃ。いずれ大殿にさえ歯向かい、御勘気を蒙ることになるやもしれぬ。そのときは儂は詰め腹を切らねばならぬし、おまえたちにも累が及ぼうぞ」
「それでは吉法師様の附家老など、とんだ外れ
五郎右衛門は眼尻を吊り上げる。
甚左衛門が笑って言った。
「さて父上のご不興は、勝幡の屋敷を土蔵の宝もろとも召し上げられたがゆえと思うておりましたが」
「それもないとは申さぬが」
平手は気まずげな顔をする。
五郎右衛門が呆れたように、父親と弟の顔を交互に見た。
「屋敷など何ほどのことがある。大殿とて古渡の城に移られた。いずれ勝幡の屋敷は返上せねばならなんだのじゃ」
「兄上には、
甚左衛門は、おどけるように目を丸くして、
「先年、京より下向せられた公家の
「これは、ますますもって貧乏籤じゃ」
五郎右衛門は忌々しげに吐き捨てる。
甚左衛門は平手に向き直り、居住まいを正した。
「なれど父上、吉法師様の附家老のお役目は、いまさら返上もなりませぬ。されば、いまのお立場にあって平手中務の器量を再び世に知らしめる方策を考えましょうぞ」
「うつけの若君の子守を押しつけられて、いかなる器量を見せられようか」
憮然として言う五郎右衛門に、甚左衛門は、やんわりと笑い、
「それを考えることが器量なのです」
「いまの儂は大殿ではなく御曹司にお仕え申す身。その立場で出来ようこととは……縁談、か?」
平手が言うと、甚左衛門は笑顔でうなずいた。
「いかにも、吉法師様に良き縁談を取り結ぶのです」
「ふさわしき相手の心当たりはあるか?」
「京の公家衆ではいかがでしょう。まことの家柄はどうあれ吉法師様のお相手が務まる気立てのよき姫を、いずれかの清華家の御養女にしていただき、吉法師様の御正室としてお迎えするのです。まあ銭さえ積めば、できないことはないでしょう」
「公家など頼みにならぬぞ。吉法師様御廃嫡となれば、姫などいくらか銭を添えて京へ送り返して、それで仕舞いじゃ。大殿の御勘気を避ける楯とはならぬ」
五郎右衛門が苦り切った顔で言い、甚左衛門は目を丸くした。
「これは兄上、ようお気づきなされました。いや仰せの通りにて、それがしそこまで考えが及びませんでした」
「では縁を結ぶなら、
平手は腕組みをする。
「されど大名となれば銭では動かぬ。大殿はこの尾張随一の旗頭とは申せ、そのお立場は尾張守護たる武衛家の御家来、それもまことは直臣ではなく家来の家来、
「かと申して主筋から奥方を迎えようにも、武衛様には年頃の姫がおわさず、いやそれよりもまず後ろ楯としての頼み甲斐は公家衆とご同様ですからなあ、ここだけの話として」
甚左衛門が、くすくすと笑って言う。
五郎右衛門が床に拳を、どんと打ちつけた。
「八方塞がりではないか。これは投了いたすよりほかないわ」
「うむ……まあ縁談自体は、よき考えじゃ。ふさわしき相手は、この先あらためて考えるほかあるまい」
平手は渋い顔で言うほかなかった。
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