第二章  熱田

第二章  熱田(1)

 

 

 

 まだ血の匂いがした。

 廊下の先の暗がりの、血溜まりの痕が清めきれていない。

 

(……見苦しい)

 

 胸の内で吐き捨てた。

 血の痕がではない。

 それを遺して死んだ何者かが、である。

 抜き打ちで斬られたか、戦って死んだのなら、廊下の突き当たりに血溜まりはできない。

 逃げ場を失い、追い詰められて殺されたのだ。

 あるいは茶坊主のような軽輩者かもしれぬが不覚悟に過ぎる。

 武家に奉公した以上、敵襲や味方の裏切りは、いつでも起こり得たことなのだから。

 

(……逃げたのなら、なぜ逃げ切らぬ)

 

 逃げることを卑怯とは思わない。

 生き長らえれば再び名を上げる機会は巡って来よう。

 だが何事も成し遂げずに死ぬのは恥ずべきことだ。

 

「掃除が行き届いておりませぬな。誠に申し訳なきことで」

 

 前を歩いていた平手が言わずもがなのことを言った。

 吉法師は黙して答えない。

 平手への軽侮の念を、なお深くしただけだ。

 

「さあ、こちらで皆、殿をお待ち申し上げておりまする」

 

 血の痕の手前で、廊下の左の開け放してあった戸口を平手が指し示す。

 その向こうは広間であった。

 十五人ほどの平服の侍が居並び、左右の者と雑談を交わしていた。

 無言のまま吉法師が戸口をくぐると、侍たちは口をつぐむ。

 吉法師が上段の間に着座すると、正面中央にいた浅黒い肌に大作りな目鼻立ちの侍が、声を張り上げた。

 

「御城主拝命、おめでとうござりまする!」

「おめでとうござりまする!」

 

 ほかの侍たちも声を揃えて、平伏した。

 吉法師は侍たちを見渡し、

 

「……であるか」

 

 それだけを言った。

 いつもながらの水干姿である。

 肌は白く唇は紅く、童女のように愛らしい面立ち。

 しかしながら侍たちに向ける目は、河原に転がる石でも見ているように無感動だ。

 侍たちは最前列に浅黒い肌の男を含む三人が並び、その後ろに六人ずつが二列で並んでいた。

 平手が最前列の端に座して、言った。

 

「されば、殿をお支え申し上げます、おとな衆をご紹介いたしまする。まずは一のおとな、林新五郎殿」

「よろしくお願い申し上げまする!」

 

 浅黒い肌の男が、また声を張り上げた。

 仏教絵画に描かれる天竺てんじく人のように目と鼻が大きく眉は太い。

 口元に笑みを湛えているが、大きな目は何もかも見透かすようで油断がならない。

 平手が言い添える。

 

「林殿は、御領内の政事まつりごと全般を取り仕切りまする。次に三のおとな、青山与三右衛門あおやま よそうえもん殿。青山殿は歴戦のつわものにございますれば、合戦の折にはいくさ奉行をお任せすることになりましょう」

「……よろしく、お願いいたしまする」

 

 左のこめかみから頬にかけて古い刀疵かたなきずのある男が、頭を下げた。

 疵のせいであろう、左目を細めたままでいる。

 口を閉じたあとは豊かな髭の下の唇を引き結び、何を考えているか表情からは伺えない。

 平手が続けて紹介する。

 

「四のおとな、内藤勝介ないとう しょうすけ殿。内藤殿も兵の進退に長けた御方にて、合戦に際しては荷駄奉行をお任せすることになりまする」

「よろしくお願い申し上げます」

 

 布袋尊ほていそんのように顔も体つきも丸い男が、にこやかに挨拶した。

 およそ武士らしく見えないが、兵の進退に長けたというからには戦場いくさばではそれなりに働くのだろう。

 そうではない無能な者なら家中に無用だ。

 

「そして勘定勝手方は、それがし平手が、二のおとなとして務めまする」

 

 平手が言った。

 

「続いて、この那古野の城につきまして、内藤殿よりご紹介申し上げまする」

「は……されば失礼いたしまして」

 

 わざとらしく咳払いを一つしてから、内藤は語り始めた。

 

「この城は熱田の宮から北へ続く高台の端に築かれております。北と西は城外の土地が低くて守りやすく、南と東はさほど高低差がございませぬので出丸や櫓で備えを固めております」

 

 また咳払いをして、

 

「そも、那古野は駿河今川家の庶流にして幕府奉公衆たる今川那古野氏の領したるところ、当代の竹王丸様は政事もおろそかに歌舞音曲に耽溺たんできする文弱の徒、されば大殿、備後守様が謀事はかりごとをもって城を奪い取ったのでございます」

「いや見事に城を乗っ取ったものにござりますれば」

 

 林が笑みのままに声を張り上げる。

 

連歌会れんがえにこと寄せて互いの城に招き招かれ、竹王丸様が気を許したと見るや備後守様、那古野の城中にて床に伏せられ、これは死病にござる家中の者に遺言を残さねばならぬと申されれば竹王丸様もいなみはできず、勝幡より招き寄せたる侍衆は腕に覚えの十名ばかり、当夜、にわかに竹王丸様を搦め捕り、城を明け渡せば命までは取らぬと申し聞かせば、竹王丸様と家来衆は退散いたしたのでござりまする」

「これは林殿、水の淀みなく流れるがごとき、いつもながらの名調子にございまするな」

 

 内藤が手を打って囃し立てる。

 吉法師は、立ち上がった。

 

「……平手」

「は……」

「寝所へ案内あないいたせ。儂は寝る」

「……は?」

 

 ぽかんと平手が口を開けたままでいると、林が大きな笑い声を上げ、

 

「いやこれは、殿はお疲れにござりまするか。無理もござりませぬな。勝幡からの道中、幼き御身にはこたえたのでござりましょう」

「早ういたせ、平手」

 

 吉法師は言いながら、広間を出て行く。

 平手は慌てて立ち上がり、

 

「されば……いまは、これにて」

 

 林に一礼すると、吉法師のあとを追って広間を出た。

 侍たちの失笑が平手の耳に聞こえて来た。

 

「まだ日も高いと申すに、よほどお疲れのご様子じゃ」

「反り返ってみせても睡魔には勝てぬか。まだまだ子供じゃ、可愛らしきものよのう」

 

 それが吉法師まで届いていたかは、平手にはわからない。

 

 

 

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