第一章 津島(7)
小姓が灯明に火を入れて下がると、吉法師は備後守と二人きりになった。
表御殿の広間である。
主だった家臣を集めて評定が行われるほか、備後守の日頃の政務に使われているが、その際も祐筆や奉行そのほか六、七人の家臣が控えることになる。
二人で向き合うには広すぎる空間で、吉法師には居心地が悪い。
「蔵と
笑っているはずの備後守の顔に、灯明が微妙な陰影を作り出している。
吉法師は顎を引いて頭を下げるかたちをとり、目を伏せた。
「は……お変わりございませんでした」
「禅休入道殿や、清兵衛殿とはお会いしたか」
「大きな商いの話があってお忙しいと伺い、ご挨拶は控えました」
「ふむ。商売が繁盛しておるなら、よきことよ」
備後守は、うなずく。
「吉法師そのほう、五つであったな」
「……は」
「家中の者は皆、そのほうを年に似合わず沈着じゃと申す。さりとて小童は小童よ。一人では馬にも乗れぬ。剣も振るえぬし弓矢も射れぬ」
「…………」
吉法師は唇を引き結ぶ。
反論はできない。
いま言われたことは事実でしかないからだ。
備後守は、問うた。
「
「……は」
「しかと答えよ。儂の目を見て」
「…………」
吉法師は顔を上げた。
備後守と目を合わせる。
相手は、もう笑っていない。
姉や母が吉法師に向けるような家族としての情など感じさせない。
値踏みをする目であった。
目の前にいる息子の一人が、使える手駒であるのかと。
そう、吉法師は正室の生んだ長子であるとはいえ、ほかに備後守の息子は何人もいる。
吉法師が使いものにならないと思えば寺に送って坊主にして、坊丸でも誰でも代わりの息子を世継ぎと定めることができる。
吉法師は、じっと相手を見返す。
自身の生殺与奪の権を握る男の顔を。
これが答えだと言いたい気持ちだった。
自分は織田備後守の手駒などになるつもりはない。
自分は自分だ。
やがて元服して父と同じ三郎とでも称することになるのだろう。
父祖同様に通字の「信」を含んだ諱を名乗るのであろう。
だが、そのときから自分は一人の武士として生きるのだ。
祖父は津島を手に入れた。
父はおそらく熱田を我がものにしようとしている。
自分は、それらを譲られただけで満足するつもりはない。
自分が相手を値踏みしているのだ。
織田備後守は何をどこまで手に入れるのか。
自分はそれを足がかりに、さらに多くのものを手に入れてみせようと。
「……癇の強いやつよ」
備後守は口の端に皮肉めいた笑みを浮かべた。
緊張を緩めたということではあるのだろう。
「吉法師そのほう、那古野の城主を申しつける。一のおとなに林新五郎、二のおとなに平手五郎左衛門をつけるゆえ、油断なく城を守り通せ」
「……承知いたしました」
吉法師は頭を下げた。
母が懸念するような悪い話ではなかった。
むしろ吉法師には朗報だった。
拍子抜けする思いだったが、安堵を顔に出さないよう、あらためて唇を引き結ぶ。
おそらく土田御前は、まだ五歳の吉法師が自分の手から離れていくことになると察して、その眉を曇らせていたのだろう。
しかし吉法師は、ただの五歳ではない。
織田備後守の嫡男であり、いずれ父親を踏み越えてくれようと心を定めた一人の男子なのだ。
だが心根はともかく、体は五歳の幼子でしかないことは事実。
いまは吉法師自身が手足として使える駒が必要だった。
「されば、お願いの儀がございまする」
「なんじゃ。城主就任の祝いの引出に、聞けることなら聞いてやろう」
「十蔵を、引き続き我が近習として那古野に伴いたく」
「十蔵とな。
それが十蔵の苗字であった。
備後守は、にやりと口の端を歪める
「それは聞けぬわ。家来は召し使うものであって頼るものではない」
「…………」
失策であった。
吉法師が何も言わなければ、十蔵をそのまま那古野へ伴うことができたかもしれない。
あるいは、いったん引き離されたとしても、あとから口実を作って願い出て、那古野へ召し寄せることができたかもしれない。
家臣に頼りきるなという備後守の言うことも正論ではあろうけど、十蔵に代わる手駒を吉法師が見出すのは容易なことではないだろう。
それだけ十蔵は吉法師の意をよく汲んで、思う通りに動いてくれる男だった。
備後守は、もったいぶるように口髭を撫で、
「じゃが、林、平手ら食わせ者ばかりに囲まれて、気の利いた者が身近におらぬでは心許なかろう。
「甲賀……」
目を見開く吉法師に、備後守は「ほう……」と愉快そうな顔をする。
「知らなんだのか。いや、話して聞かせてもおらなんだな。岩室と申すは滝川と同様、近江国甲賀郡の土豪の家よ。もっとも十蔵自身は分家の
「……誰ぞに雇われた刺客とはお考えになりませなんだのか」
眉をしかめて問う吉法師に、にやりと備後守は白い歯を見せた。
「何ゆえじゃ。甲賀の土豪と申せば忍びの者どもの元締めであるからか。先ほどまでは十蔵を頼りとしておるようであったのに、
「十蔵が他国の間者ではないと、父上がお考えになる理由をお聞かせくださいませ」
吉法師は頭を下げた。
これは学んでおかなければいけないことであった。
いずれ武家の当主として家臣たちを召し使う立場になるならば。
吉法師は他人の悪意に鋭敏なつもりであったが、本職の間者が相手では、勘ばかりを頼りにもできない。
だがすぐには備後守の答えは返らない。
吉法師が目を上げると、備後守は、にやにやと意地の悪い笑みを浮かべていた。
その顔のまま答えて言った。
「仮に十蔵がどこぞの誰やらに雇われていたとして何ができたか。吉法師よ、そのほうの命ひとつを奪ったとて、儂の子はほかに何人もおるのじゃ。十蔵ひとりを儂の側に近づけることは、せぬようにいたしておったからのう」
「…………」
なるほど備後守にとって、自分は手駒の一つでしかないのだと、吉法師はあらためて思い知った。
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