第一章 津島(6)
外出から帰った吉法師の足を洗うのは十蔵の役目だ。
本来なら下女のやることだが、吉法師はいまより幼い時分、下女たちが我が身に触れることを嫌ったらしい。
吉法師自身は覚えていない。
その下女どもが何か気に障ることをしただけではないかと思う。
勝幡城内、奥御殿の裏玄関。
上がり
その様子を眺めながら、なんとも小さな足だと吉法師は我ながら思う。
小さくて白い。赤子の足と、さほど変わらない。
もう自分で歩ける歳だというのに。
吉法師には兄弟が何人もいる。
父の備後守が
勝幡城内の奥御殿に暮らすのは正室の土田御前と、その子供である吉法師、そして
坊丸は吉法師の二つ下の弟だ。
それとは別に、城下には側女の一人一人が屋敷を与えられ、子供がいればその子供とともに暮らしていた。
備後守は吉法師に弟や妹の顔を見知っておけと言い、ときおり側女の屋敷へ同行させる。
そこで赤子や幼子である弟や妹と引き合わされるが、吉法師は早々に城へ帰されて、備後守だけが屋敷に留まる。
どうやら備後守は、昼のうちから側女に会いたくなると吉法師を口実に使っているようだ。
愚かなものだと吉法師は思う。
夜には堂々と会いに行くのだから、昼であろうと同じように訪ねればよいのだ。
我が父ながら備後守には体裁を気にしすぎるところがあると、吉法師は感じている。
「──お帰りなさいませ、吉法師殿」
後ろから声をかけられた。
母の土田御前が、奥から出て来たのだ。
振り向いた吉法師に、土田御前は、やわらかな笑みを向けている。
しかし母が坊丸の手を引いていることに気づき、吉法師は
だが坊丸は可愛いげがない。
織田の一族らしく、坊丸も色白で綺麗な顔立ちである。
そして吉法師とは違い、いつもにこやかで愛嬌がある。
しかし坊丸が笑みを消したとき、その大きな目には淀んだ沼のような
あるいは、坊丸がそのような目を向けるのは兄に対してだけなのかもしれないが。
十蔵は土田御前に会釈して、吉法師の足を清め続ける。
土田御前が坊丸に、優しい声で促した。
「坊丸殿も、兄上にご挨拶なさいませ」
坊丸は目を笑みのかたちに細め、しかし瞳にはいつもの昏い色を宿したまま、兄に向けて言った。
「おかえりなさい、あにうえ」
「……うむ」
吉法師は、うなずき返す。
土田御前は息子たちが仲良くあることを望んでいる。
それは母親として当然の思いだろう。
だから吉法師も、坊丸への悪感情を押し隠し、できるだけ母親の期待するような、兄らしい態度をとってみせる。
幸いというべきか、吉法師が坊丸と接する機会は多くはない。
織田備後守の嫡子である吉法師は、常に近習たちに取り巻かれ、あるいは学問のときには傅役の平手が側近くに控える。
一方、まだ三歳であるからかもしれぬが坊丸は、いつも母親や、彼女に仕える女房たちとともにいる。
それはつまり坊丸が、本来なら兄弟で分かち合うべき母親の愛情を独り占めできる時間が長いということだが、
武家の子女は嫡男に限らず、乳母が育てるのが昔からの習わしだ。
そして男児なら、ある程度大きくなれば女たちの世話を離れて、年上の近習か同年輩の小姓らに囲まれて生活するようになる。
吉法師も、そうして育った。
実母は顔を合わせたときに笑顔で言葉をかけてくれれば、それでいいのである。
土田御前が自らの手で坊丸を育てているのが異例のことで、それには坊丸が生まれてすぐに大病を患ったという事情があるらしい。
しかし、いまはもう病がちということもない。
吉法師からすれば、姫君でもあるまいに女房どもに囲まれて生活する坊丸は惰弱としか思えない。
坊丸自身が、その昏い目の奥で何を思っているかは知らない。
土田御前が笑顔のまま、しかしほんの僅かに眉を曇らせて言った。
「それで吉法師殿、お戻りになられたらすぐ表御殿の広間に参るようにと、御父上からのお言伝なのです」
「……父上が」
吉法師は母親の顔を見上げる。
土田御前は困り顔をしているが、備後守が吉法師にどのような用件があるのかまでは知らないらしい。
しかしどうやら、あまりいい話ではないことは、おそらく父親の態度から察しているようだ。
「……参りまする」
吉法師は、自分に言い聞かせるように口にした。
ほかに答えがあるはずもない。
十蔵が吉法師の足を清め終え、黙したまま一歩下がって、頭を下げた。
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