マーダー・ライセンス

@anohinowasuremono

マーダー・ライセンス


          プロローグ


 少女が泣き叫びながら目の前を横切った。

少し遅れて、ブラウスの脇腹を血に染めた女性が必死に交差点に向けて走って行く。さらに多数の男女が恐怖の表情で逃げ惑い、その後ろから包丁らしきものを振り回しながら、若い男が追いすがっていた。そのシャツもズボンも血に染まって真っ赤だ。

通報で駆け付けた警官たちに男は取り押さえられたが、パトカーに押し込められるまで終始意味不明の言葉を喚き続けていた。路上には数人の男女が血まみれになって横たわり、周辺は騒然とした空気に包まれ、警官や救急隊員たちが忙しく動き回っている。交通は遮断され、恐怖と好奇心の入り混じった表情の野次馬たちが、スマホを手にして人垣の間から現場を覗き込んでいた。

担架に乗せられて搬送される被害者たち。痛みに顔を歪める人、恐怖に両手で顔を覆う者、放心状態で路上に蹲る女性。そして微動だにしない・・・複数の遺体―――。

「ひどい事件だった・・・」

 生々しい事件当時のニュース映像を横目で見ながら、石垣健太郎は苦い物でも口にしたように、食べかけの餃子を呑み込んだ。

「ほんとに。犯人の仲河和信は、最近になってようやく刑が確定したのよね」

 同じ画面を見ていた竹内陽子が、見えない相手を非難するような口調で応じた。

〈身近な犯罪を考える〉という夜のテレビ特番で、近年起きた無差別殺傷事件等を取り上げ、身の回りに潜む犯罪の危険性を検証するというものだった。番組ではニュースでも度々使われた実際の防犯カメラ映像や一般人がスマホで撮影した動画、番組が制作した再現VTR等を交えながら解説を加えていた。遅い時間帯とはいえ、生々しい現場映像は今でも衝撃的で、事件関係者にとっては二度と目にしたくない光景に違いない。

「控訴が棄却されて死刑が確定した。五人も亡くなってるんだから当然さ。人の命を奪っておきながら、犯行当時は心神耗弱の状態だったとかなんとかで、弁護士が無罪を主張してたんだよな。そんなの、どう考えたって納得できないさ」

「そうよね。遺族の人たちは、それこそ犯人を殺したいほど憎んでいたはずだもの」

 陽子の不穏な発言に一瞬驚いたのと、画面に別の凶悪事件の一場面が映し出されたのを見て、さすがに耐えられなくなって石垣はチャンネルを変えた。

職場には少し遠いが、まがりなりにも庭付きの一戸建て住宅のリビングで、田所は久々に寛いでいた。それまで掛かりきりになっていた事件がようやく解決し、十日ぶりに自宅に帰ることができたのだ。

 警視庁新宿東署の刑事である田所は、ほとんど一年中事件に追い回されている。凶悪事件が発生すれば捜査本部に一週間ほど寝泊りすることも珍しくはない。たとえ非番でも、ひとたび事件が発生すれば署から呼び出される。そんなわけで、敢えてマイホームを手に入れた理由というのは、つまるところ家族のためだった。ほとんど家にいない主人に代わって家を守る妻や一人娘は、長い官舎暮らしで目に見えない息苦しさを味わってきたに違いなかった。だから、そろそろ先が見え始めた昨年、思い切って家を買うことにしたのだ。それもマンションではなく、文字通り猫の額ほどのささやかな庭付きの一戸建てを。

 そう決心をさせたのは、仕事一辺倒で家庭を顧みなかった罪滅ぼしの意味もあったが、娘の美奈子が小学校入学の時に言った言葉が胸の奥に残っていたからだった。

「ミナ、ワンちゃんが欲しいの」

「そうか、犬が好きか? でも、官舎(ここ)では動物は飼えないんだ。ごめんよ。犬だって、広い庭を駆け回りたいだろ、だから我慢してくれるね?」

「・・・うん、ミナ我慢する。だからお父さんもがんばってお仕事して、ミナが大きくなったら、お庭のあるお家をつくってね」

「うん、お父さん仕事がんばるよ。そして、きっとミナに犬をプレゼントしてあげるからな」

「わーい。絶対だよ、約束だよ」

 その時の娘の笑顔は今でも忘れない。

 あれから十年も経ってしまったが、どうにか犬小屋くらいは置ける庭付きの家を手に入れることができた。ただ、当人はそんな昔のことは覚えていないようだ。中学生になった時には、彼女の専らの関心事は若いアイドルグループのCDや写真集の発売日のことだった。今はベッドが置ける自分の部屋ができたことにご満悦だが、犬のことはすっかり忘れたようだ。それでも、たまに妻と一緒に台所に立つ姿を見ると、長年の苦労も無駄ではなかったと思えた。

 一つの事件のけりがつき、束の間とはいえ一般人と同様の平穏な時間を噛みしめながら、冷えたビールを味わっていた矢先だった。何気なくつけたテレビの画面に、氷水を浴びせられたような衝撃を受けた。それは管内で二年ほど前に起きたストーカー殺人の再現ビデオだった。

 すでに犯人も起訴されてはいたが、奪われた女子大生の命は戻らない。しかもその事件では、その後の調べで警察側の当初の対応に不備があったことが露見し、マスコミに連日報道された苦い記憶があった。それは担当した警察署だけではなく、警察全体に対する世間の非難だった。本当の悪は犯人なのに。

 その裁判はまだ結審していない。検察側は極刑を求めたが、一審では懲役十五年であった。しかし、弁護側は一審を不服として控訴した。警察官は被疑者を逮捕するまでが仕事で、その先は検察、判事の領分となる。何とも歯痒いことだが、これが現実なのだ。現場で実際に犯人と対峙し、犯行自体の残忍さを目の当たりにしていても、いざ裁判となると、そうした犯人にも人権が発生する。この現実は、一線の捜査官にとっては憤怒以外の何物でもない。そのジレンマは多くの警察官が等しく抱くものである。

 マスコミ報道はしばらくして嘘のように途絶えた。当然ながら、その後の裁判について詳しく伝えているものも皆無だった。関係者からの伝聞では、結局は一審通りの懲役十五年に落ち着くのではないかとのことだ。

「あなた、そろそろお酒にしますか?」

「・・・いや、やめとこう」

 田所はグラスの底に残ったぬるいビールを喉に流し込んだが、なにやら別の苦みが逆流してくるようで、慌てて口許を押さえた。


 ルナはバスルームを出てローブを纏うと、濡れた髪をタオルで拭きながらベッドルームのドアを開けた。

 月に一度の割合で利用する、横浜のシティーホテルの一室だ。ダブルベッドでは同じくバスローブ姿の男が、ヘッドボードに凭れてテレビ画面に眼を向けていた。

「もう若くないってこと?」

 その手の画像を観ていたのだろうと思った彼女はからかうように笑った。

「そうじゃない、報道番組だ。ちょっと気になったからだが、観なければよかった」

 ボソッと言って、すぐに画面を消した。

「気になるって、仕事関係?」

「まあそのようなものだ。だが、いつものことながらいい気分ではない」

 男は佐伯と名乗っていたが、本名かどうかはわからなかった。彼女にしてもルナというのはいわゆる源氏名で、本名は教えていなかった。双方でミステリアスというスパイスを加えた男女の関係が半年ほど続いている。

 男は自身の職業について何も語らなかったが、彼女にはおおよその見当はついた。だが、敢えて詮索するつもりはなかった。今の関係は良好で、彼の自分に対する態度、気持ちも不快に思わなかった。もちろん恋人ではないが、経済力で支配しているといった不遜さがなく、ひとりの人間として扱ってくれることが嬉しかった。何より二人でいる時、男のリラックスしている姿が自然体に映るのが好ましかったのだ。

 唯一欠点を挙げるとすれば、男の過度な潔癖症だった。ベッドを共にするとき、ふたりはそれぞれ十分以上シャワーを浴びなければならなかった。まあそれは一種の儀式として容認できたが、問題はそうした衛生面よりも精神面で、新聞紙面に政治家の様々な不祥事の記事が躍る度に明らかに表情を曇らせ、三面記事の傷害事件や詐欺事件を目にすると不機嫌になった。単に正義感の強い人間とも言えるが、普段は紳士的な人物だけに間近で度々目にする彼女には気がかりなことだった。

 だから今も男の肩に頭を凭せ掛けながら、いくばくかの不安を抱いていたのだった。

(いったいどんな番組を観ていたのかしら?)


 畑中靖男は小さな仏壇に合掌し、中に収められた位牌に向かって、恐らく三日前にもしたであろう思い出話を語っていた。

「―――あの夏休みの旅行は楽しかったな。おまえは虫捕りに夢中で、一日中山の中を駆け巡ってたっけ。でも遊び疲れて眠ってしまい、旅館までおんぶしていくことになって、父さん大変だったぞ。いつの間にか大きくなって、重かったからな・・・」

 そこで言葉に詰まり、俯いて肩を震わせた。いつも同じだ。三年が過ぎようとしている今も、涙が枯れることはない。

 しばらくして顔を上げると、リビングでつけっぱなしだった無音のテレビの前に座り直した。本来なら決して見たくない映像だったが、ある決意を固めるためにその画面に冷ややかな眼差しを注いだ。

 テーブルの上には、内側がソフトパッドに覆われた小型のアタッシュケースに収められたカプセル状の金属が、その鏡のような表面に色鮮やかな光の波模様を映していた。殺風景な部屋には最小限の家具だけが置かれ、およそ生活感がない。すっきりと片付いているというよりも、失われたという感覚だ。以前はそこかしこに溢れていた温もりや匂いが、ある時を境に死んでしまったような、喪失感を伴った乾いた空間だった。

 その中でテレビ画面は思いきり違和感を撒き散らしていたが、それ以上に畑中の暗い目の光が辺りに牙を剥いているかのように感じられた。

(犯人の生い立ちや、犯行時の心理状態の分析など無意味だ。こいつらには一秒でも早く世の中から消えてもらいたい。それが私の願いだ)

 彼はアタッシュケースを閉じ、ダイヤル式のロックをかけた。そのケースを愛おしげに両手で包むようにして持つと、ゆっくりと立ち上がった。それからテレビに背を向けると、電源を切ることもなく部屋を出た。


 同時刻。意外な人物も同じ映像を険しい表情で見つめていた。

 豪華な応接間といった造りの二十畳ほどの部屋で、中央に置かれた革張りのソファで背筋を伸ばして画面に見入っている。ネクタイを緩めることもなく、何事かを思いつめたような横顔には鬼気迫るものがあった。

 その人物の名前は本郷紘一郎。現在の総理大臣である。その彼がいかなる理由でそうした番組を真剣に見ていたのだろうか。部屋の隅には目立たないように側近の人間が控えていたが、それが勤めであるかのように気配を消していた。

 画面は弁護士や心理カウンセラー、社会学者といった有識者数人による討論会のコーナーに移っていた。誰もが尤もらしい持論を展開していたが、どれひとつとして実効性はないように思えた。それでも彼らの発言の一部は確かに的を射ており、心情的には理解できる部分もあった。あくまでも、当事者ではないがという注釈つきのことではあるが。

「相変わらず無責任な意見ばかりだ。自分たちの専門分野での都合のいい机上の論理をまくし立て、最後にはお決まりの社会批判だ。こじつけや責任転嫁とわかっていても、国民はどこかに怒りをぶつけずにはいられない。しかしこうしたことが政情不安を引き起こし、政党不信の火種とならないとも限らない。だからこそ、思い切った改革が必要なのだ。いよいよあの計画を実行しなければならない時期のようだ・・・・」

 本郷は独り言のように呟いた。続いて、今度は明確に指示した。

「法務大臣と警察庁長官を呼び出してくれ。・・・あ、国家公安委員長も頼む」

 側近の男が静かに部屋を出ていくのを確認すると、自分の言葉に句点を打つように、リモコンのオフボタンを強く押し込んだ。


              1


 東京新宿のその店は六階建ての雑居ビルの地下にあった。

 大人が通う本格的なバーというわけではなく、若い連中には入り辛いというだけの店構えだ。内部の造りは、テーブルや壁の装飾に至るまでアンティークを装っているが、暗い照明のせいで辛うじて誤魔化しているだけだった。真贋を確かめる目的でそれらを眺めれば、一瞥しただけでまがい物ということが知れる代物だ。金や銀の装飾も、ほとんどがメッキか安っぽい塗り物だ。裏を覗けば、中国や台湾の文字が躍っていることだろう。いや、最近ではベトナム製が躍進しているらしい。

 唯一店主の矜持と言えるのが、カウンターの後ろの棚に並んだ酒類だった。ラベルを見た限りでは、ひと通りのものが揃っているようだ。

 火曜日の夜ということもあり、店内に客はまばらだ。

「ひとりかな?」

 男の客が、カウンターでグラスを傾けていた女に声をかけた。

「見てのとおりよ。で、口説こうとしてるわけ?」

「いや。こっちもひとりだから、話し相手を探してただけさ」

「そう、まあいいわ。あたしも退屈してたところ」

 女は隣の席に目をやった。

 男は自分のグラスを持って席を移った。

「お近づきのしるしにまずは乾杯しよう」

 腰を下ろすのと同時に半ば強引にグラスを合わせ、水上と名乗った。

「お名刺貰えるかしら?」

「おいおい。それは野暮なのか、それともプロかな?」

 男はそう言いながらも、上着の内ポケットを探り、名刺を一枚取り出して女に渡した。

  ㈱大崎電子 第三開発部設計課 副主任 水上 修

女は名刺をしげしげと眺めながら、目の前の男を値踏みした。

「へえ、水上って嘘じゃないんだ。それにしても人は見かけによらないっていうけど、あなたが有名な電機メーカーのエンジニアだなんて。全然そんな感じじゃないもの」

「お互い様さ。男を外見で判断するような、そんな初心には見えないが」

「ご挨拶ね。まあいいわ。あたしはミツエ。お察しの通り、OLじゃないことだけは確か。ここでは大人同士の付き合いということでいきましょう」

「そう願いたいね」

 二人は改めてグラスを合わせ、互いがこれまで二桁の人間に話してきたのと同じ話を聞かせた。一握りは事実だが、残りはでまかせと他人の話に脚色したものだ。

 ほどなくしてマスターの商売熱心さが頭をもたげ始めたころ、男は女を促して店から連れ出した。夜の新宿は相変わらずの喧騒だったが、二人にとってはどうということもなかった。若い恋人たちのように上辺だけの洒落た演出も不要だったし、セオリー通りの儀式も時間の無駄でしかない。この街のように表面は真実の何物も語らず、知ろうとも思わない。お互いにそんな関係を求めて、敢えて猥雑な街を彷徨していたのだ。ここでは総べてが許される。何でも起こり得るのだ。そう、昼間なら不思議でも何でもない微笑ましいほどの純愛からおぞましい犯罪まで。

 二人は酒場を出た足で歌舞伎町裏手のホテルに直行した。

 

 一ヶ月後―――

 その朝、下落合の閑静な住宅街の一角に建つアパートの周辺は騒然としていた。

 数台の警察車両がアパート前に横付けされ、鑑識課員や捜査関係者が忙しく行き来している。二階の奥の部屋の入口にはブルーシートが掛けられ、通路には制服警官が硬い表情で立ち番をしていた。そこへ白い手袋を嵌めながらゆっくりと、中年の刑事が鉄製の階段を上ってきた。制服警官は姿勢を正し、型通りの敬礼をした。

「主任、こちらです」

 奥から部下の森田が声を掛けた。

 ドアの前で靴カバーを付け、その風貌と同じくらい年季の感じられるスーツ姿の男はリビングに足を踏み入れた。田所譲一、警視庁新宿東署の刑事である。

窓は開け放たれてはいたが、悪臭は部屋中に染み込んでいた。

「こりゃあひでえな」

「ええ、喉をスッパリです。隣の住人が、異臭がすると管理会社に苦情を持ち込んだことで発見されました。鑑識の話では死後四、五日経過しているとのことです。部屋の中に凶器は見当たりません」

 搬出されようとしていた遺体を一見しただけの上司に対し、若い刑事は不相応に慣れた様子で報告した。発見時、女の死体は毛布でくるまれていた。その死体のあった周りの血の跡はすでに黒い染みとなり、生々しさが薄れている。

「被害者は?」

「それが、身分証明書の類が見当たらないので、今のところまだ・・・」

「ここの住人じゃないのか?」

「ええ、大家に確認しました。この部屋の主は水上修。大崎電子のエンジニアで三十歳、独身です」

「じゃあ、ホトケさんは恋人か?」

「そこが微妙でして。近所の聞き込みでは、これまで女性の出入りを見かけたことはなかったそうです」

「ふうん。最近知り合った仲か・・・言われてみれば、化粧も素人ではなさそうだし・・・。で、部屋の主は?」

「近隣住人の話では、ここひと月ほど見かけないそうです。尤も、特に親しくしているわけでもないので、そういえばという程度ですが」

 森田は手帳を繰りながら報告した。

「ふむ。ようやく女といいムードになったものの、些細なことから痴話げんかになって・・・・ということか?」

 やれやれという思いで部屋を見回した。2DKの、独身男には十分な広さだ。あまり物に執着しない性格らしく、目立った装飾の類はない。家具類も最小限のようだ。

それにしてもひどい有様だ。流しには汚れた食器が放置され、テーブルの上にも足許にもビールの空き缶、ビニールパックや紙袋といったごみが散乱している。これが部屋の主と被害者の仕業だとすると首をかしげたくなる。この部屋ではとても男女で甘い雰囲気になれそうにない。

「主任。これが下のごみ置き場に」

 もう一人の刑事が半透明のビニール袋を提げて駆け込んできた。

 袋の中には女性のパンプス、バッグが無造作に突っ込んであった。バッグの中身はありふれた化粧道具とポケットティッシュ、中身のない長財布、キーホルダー、煙草とライター。スマホは見当たらない。アパートのごみ集積場に出されていたものの、分別されていなかったことで回収されなかったようだ。

「男が女の荷物を処分しようとした―――?」

「決まりですね。痴情のもつれによる犯行。絵に描いたような簡単なヤマです」

「だが、携帯と財布の中身は抜き取ったのに、バッグや靴は階下のごみ置き場か? 肝心の死体は放ったままだし、どうにもちぐはぐだな」

「些細なことで喧嘩になり、争いがエスカレートして殺してしまった。我に返って、何とか死体の始末をしようと考え、身元の割れそうな物だけ抜き取って所持品は処分。それから大慌てで逃げ出した―――そんなところじゃないですか?」

「・・・そうだな、現場は間違いなくここのようだし・・・。鑑識さん、こいつもお願いします」

田所は近くの鑑識課員にビニール袋を手渡した。

「で、水上の行方は?」

「勤め先に確認したところ、先週は三日間の予定で中国の現地工場に出張していたそうで、帰国したとの報告の後、週明けから連絡が取れていないそうです。出張から戻ったのが金曜日の夕方だったので、本社に報告後そのまま帰宅を許可したそうです。今日は水曜ですから、実質的には三日間無断欠勤ということです」

「やはりこの部屋の住人のそいつが犯人ということか」

「状況は明白ですね」

「ただ・・・そうなると、この部屋の様子が引っ掛かるな」

「どういうことですか?」

「解剖の結果待ちだが、被害者は死後四、五日。つまり、金曜か土曜日に殺されたことになる。一方、水上が出張から戻ったのが金曜の夜。となると、犯行は金曜日の深夜から土曜日にかけてというわけだ。だとすると、このごみの量は多過ぎるだろう」

「なるほど、言われてみれば。でも、ずぼらな性格で出張前のごみを捨てなかったということも・・・」

「いや、部屋自体の簡潔さから見てそれはないだろう。それに、少なくともこいつは製造日時が先週の木曜日の日付だ。水上には買えない」

 田所が指先でつまみ上げたのは、サンドイッチの包装だったと思われるビニール片だった。確かに印刷してある製造日は木曜で消費期限は当日十九時になっていた。スーパーにしろコンビニにしろ、期限切れの商品を販売したとなると、今のご時世では大問題である。つまり、金曜日に帰国した水上が購入したものではないということだ。

「じゃあ、被害者が持ち込んだということですか?」

「指紋を照合するまでもないだろう。ガイシャが水上の留守中に部屋を使っていたんじゃないか? 少なくとも金曜日は先に部屋にいて、部屋の主を待っていたというわけだ。鍵が壊されていないから、合鍵を持っていたんだろう」

「なるほど。あっ、さっきのキーホルダーを確認しないと」

 森田が慌てて鑑識を呼び戻そうとしたが、田所はそれをやんわりと止めた。

「あの中にはなかった」

「どうしてこの部屋の鍵がないとわかるんです?」

「あのキーホルダーに鍵は三つ。一つは明らかにロッカーキーで、職場のものだろう。もう一つはディンプルキーで、新式の上等なドアの鍵だ。残りの一つは飾り細工がしてある華奢なものだった。どこの鍵かはわからんが、少なくともこの部屋のものじゃない」

「さすがですね。一瞬見ただけでそこまで―――」

「お世辞はいい。犯行から日が経っている。逃亡したとなると厄介だ。いずれにしても、重要参考人として水上修の身柄を押さえるぞ」

 あまりに単純な展開にいささか拍子抜けした。とはいえ、現実とはこんなものだ。そうそうドラマにあるような猟奇的殺人や、謎めいた殺人方法が横行するわけはないのだ。

 捜査本部が設置されたものの、容疑者も特定されて早期解決は確実と思われた。


                2


 翌日になってようやく被害者の身元が割れた。橋本美津江、二十九歳。ひと月前まで池袋のキャバクラで働いていたが、店の若い娘と客の取り合いで大喧嘩になり、翌日から出勤しなかったという。住まいは私鉄の江古田駅の近くだが、ここ半月ばかりはほとんど部屋に帰っていなかったようだ。店の馴染客や、酒場で知り合った男と日替わりでよろしくやっていたらしい。そして、最後にとんでもない奴に出会ってしまったというわけだ。

 解剖の結果、死因は頸動脈切断による失血死。当初の見立て通り、死後四日ほど経過しているとのことだった。暖かい日が続いたので死亡推定日時には幅があるが、ほぼ推測通り金曜日の深夜から土曜日の早朝にかけての犯行であるとの見解が出された。凶器は発見されていないが肉厚の、例えば出刃包丁のような刃物と推定された。ただし、手入れがされていないのか、傷口は滑らかではない。また、死亡直前の情交の痕跡はなく、体液の採取は叶わなかった。

 一方、水上の行方は杳として知れなかった。出張から戻った夜以降、その足取りがぷっつりと途絶えてしまっていた。通り魔的、あるいはよほど辺鄙な土地での犯行ならいざ知らず、氏名が判明している都会に住む人物がその足跡を消し去ることは難しい。にもかかわらず、金曜の夜を境に煙のように消えてしまったのだ。

 勤務先の大崎電子はPCやモバイル機器の基盤、さらに自動車用電子部品が主力で、グループ会社全体の売り上げでは業界の上位に位置する会社である。

 本社は渋谷区内にあるが、水上の勤務していた部署は開発部門で、社屋(研究室)は都下東村山の丘陵地帯にあった。周囲は緑が豊かで、その中に清潔感溢れる白い建物が整然と並んでいる。まるで健康食品や医薬品を扱っているようなイメージだ。

 敷地の正面入口には守衛室があり、出入りする車両や人間を厳重にチェックしている。その厳格さは、さすがに最先端の技術開発部門の中枢だと思わせた。

 捜査員が訪問した際も例外なく持ち物のチェックがあり、所定の用紙に名前を記入させられたほどだ。そうやって、ようやく立ち入りが許された区域内で聞き込みを行ったのだが、上司は全く信じられないと繰り返すばかりだった。

「目立たない男でしたが、仕事ぶりは真面目でした。遅刻はもちろん、有給休暇もほとんど使っていませんでした」

 休暇の取得と真面目さとの関係はともかく、病欠もしなかったということを言いたかったようだ。

 同僚や彼を知る社員に訊いても、潜伏先の心当たりはないという。

「根っからの技術者で、休みの日もどこで何をしてるのか・・・。親しい友人の話も聞いたことないし・・・」

「本当に彼が犯人なんですか? 信じられないな、あの生真面目な人がねえ」

「だいたい、水上さんがそんなお店に出入りしてたなんて、ショックです」

 若い総務課の女性は心底信じられないといった様子だった。まさか彼女が個人的に彼に対して特別な感情を持つ間柄とは思わないが、水上が社内では真面目な好人物、というよりも人畜無害な目立たない男という印象で一致していた。

 さらに近隣の、行きつけの飲食店の従業員にも尋ねたが答えは同じだった。そもそも、犯罪とは無縁の人物だという話が誰の口からも聞かれ、容疑者になっていることに驚いていた。最も意外だったのは、大崎電子では独身寮も完備しており、水上もその一室に居住していた。つまり、現場のアパートは水上の別宅だということだった。

 住居の件はともかく、田所はどうしても腑に落ちなかった。容疑者の足取りがつかめないということはもちろんだが、聞き込みを進めるうちに見えてきた水上という人間像と、あの女性の死体を生み出した犯人像が一致しないのだ。人間は見た目だけではわからないし、誰の前でも本心を曝け出しているわけではない。それはわかっている。それでも、長年の刑事の嗅覚が異議を唱えているのだった。


どこかの勇壮な祭りの山車のような勢いで、ストレッチャーが運び込まれてきた。

処置室はまるで戦場のようだった。応急処置に必要な器具と薬品のアンプルが収められた救急カートが、けたたましい音を立てて廊下を走ってくる。押している看護師たちの表情も険しい。

「今日はなんて日だ。工事現場の足場からの転落、チンピラ同士の喧嘩で刃傷沙汰の後は交通事故のダブルヘッダーときた。これでヤク中患者でも運ばれて来ればグランドスラムだ」

 待ち受けていた医師が、険しい表情の下から軽口を飛ばした。

「患者は二十代後半から三十代男性。車両の自損事故で車外に投げ出されて全身打撲。右足と左腕の複雑骨折、および胸部と右側頭蓋も骨折の疑い。顔面に打撲痕及び裂傷。意識レベル低下」

 助手の外科医が救命士から引き継いだ状況を簡潔に報告した。

 救命医療センターの担当医が鬼のような形相で看護師に薬剤投与の指示を与え、計器に表示されるバイタルに真剣な眼差しを注いだ。処置台に移された男は上半身が血まみれで、報告通り頭部には止血帯で応急処置が施されてはいたが、それもすでに赤黒く染まっていた。左の腕も複雑骨折のために妙な形に曲がっている。

「頭部と胸部のCTを。至急だ」

 救急救命は時間との勝負だ。多臓器損傷の場合はその施術の優先順位を決める必要がある。一分でも早い処置が必要な部位から処置しなければならない。そのための画像診断は慎重かつ迅速でなければならない。この時点での判断が患者の生死を分けることもあるのだ。幸い、この日の担当技師は画像診断のベテランであった。

「ろっ骨が折れているが、肺に損傷はない。だが、頭部の損傷は深刻だ。血腫除去の為、即刻開頭を」

 実はこの日の午後、やはり交通事故で負傷者が運び込まれ、つい三時間ほど前に長時間にわたる手術が終えたばかりだった。残念ながら、その人物は生還することができなかった。先の医師が冗談めかした「グランドスラム」ではなかったが、この日のこの病院はまさに戦場だったのだ。

 戦場では当然ながら勝者と敗者が存在する。この日の戦績は今のところ二勝一敗だった。医師の力だけではなく、運命としかいえないぎりぎりの分かれ目―――その果てしない連続が救急救命の現場である。

(二人続けては死なせない)

 そんな医師たちによって、今度の負傷者は六時間に及んだ手術の末に何とか一命を取り止めた。ただし予断を許さない状態で、当分はICUから出られないとのことだ。不謹慎を承知でいえば、戦績は二勝一敗一分けとなったわけだ、今のところは。

 

 JR駅近くの別の病院の駐車場に大型の白バイが停まっていた。

 二階の病室のベッドで、そのタクシー運転手は警察官の訪問を受けた。同僚が見舞いに置いていった週刊誌を拾い読みしているところだった。

「それでは信号は青だったんですね?」

「もちろんですよ。ばっちり青だった。それなのに、あの車が脇道からいきなり飛び出してきて私のタクシーにぶつけて逃げたんですよ、すごいスピードで。ドラレコを確認してもらえればわかります」

 説明しながら、首のコルセットに手を当てた。後部側面に追突される形になったので、サイドウインドーに側頭部を打ちつけて軽い脳震盪を起こしたものの、シートベルトのおかげで大事には至らなかった。検査の結果、脳には異常が認められず、頸部にごく軽度のむちうちの疑いがあるが、明日にも退院できるとのことだ。

 問題は車の修理や自分の休業補償のことだが、会社が総べて手配してくれたようだ。保険の申請の件もあるので、警察の事情聴取もやむを得ない。こっちに非はないのだから、ありのままを正直に話せばいい。会社の担当者からはそう言われていた。

「相手の運転手はどうしたんです? 捕まえてくださいよ」

 金銭的なことはともかく、こうして痛い思いをさせられたことに腹が立ち、つい棘のある物言いになった。

「それが・・・手配はしているのですが、逃走後まだ該当車両が発見されていません。そんなわけで今のところ何とも・・・。で、幸い軽傷だったあなたからまず状況を伺いたかったのです」

「私の覚えていることはそれだけです。事故の後しばらく気を失っていたらしく、気が付いたときには救急車の中でした。ですから、ぶつけられた後のことは・・・」

「そうですか。たいへんな時にありがとうございました」

 ありふれた当て逃げ事件だろうが、犯人は馬鹿な奴だ。ドライブレコーダーもあるし、該当車両はすぐに手配されるだろう。それにしてもよほど慌てていたのだろう、あんな場所でわかり易い交通違反をするなんて。ひょっとして酒酔い運転の挙句、他にもぶつけた相手がいたのかもしれない。それとも、最近あのあたりで頻発している盗難事件の犯人で、一仕事した後だったのか。あるいは―――。

 警官はそんなことを想像してみたものの、すぐに交通課の職務の範疇を超えていることに思い至り、思考を停止させた。これは単なる交通事故であり、上司に命じられて事情聴取に赴いたに過ぎないのだ。速やかに聴取を済ませ、必要な報告書を作成しなければならない。その上で、事故を起こした該当車両を何としても探し出すのだ。

 

               3


 殺人事件の捜査は思いもかけず難航していた。容疑者の氏名、人着も判明しているにもかかわらず、足取りが掴めない。水上に関する情報が皆無で、それこそ煙のように消えてしまったのだ。

 田所の長年の刑事生活の中でも異例のことであった。

「いったいどうなってるんだ?」

「本部でも新しい情報を掴んではいないようです」

 田所の班は頭を抱えていた。鑑識からの報告も、当初の一報以来、目新しい報告は何もなかった。

「ひとつ気になっているんですが」

「何だ?」 

 森田の真剣な顔つきに合わせ、田所は渋面のまま訊いた。

「水上はなぜわざわざあそこに部屋を借りていたんでしょう? 研究所近くの独身寮に部屋があるのに」

「ああ、そのことか。実は俺も疑問に思ったんだが、会社の上司の話だと、あそこは学生時代から借りているそうだ。大学が新宿だったんだ。大崎電子の本社は渋谷区内だし、地理的条件も入社動機のひとつだったんだろう。入社後に勤務地変更になったが、契約更新したばかりだったこともあって、すぐには引き払わなかったらしい。本社での会議や出張も時折あるのでそのままにしていたようだ。寮生活だといろいろ煩わしいこともあるから、自由になれる隠れ家ってところだろう」

「そういうことだと、当然自腹ですね。ずいぶんと贅沢というか無駄なことを」

研究者の優雅な生活を羨む気持ちが、非難めいた口調にさせた。

田所は意に介さず、事務的に続けた。

「寮の間取りは台所と他に一部屋。別班が捜索をしたが目ぼしい収穫はなかったようだ。聞き込んだ寮の住人の話では、水上は基本的に人付き合いが苦手で、休日も同僚たちと親しくしてはいなかったらしい。仕事のアイデアもひとりでじっくり練るタイプだったようで、月に二、三度はあの部屋を使っていたらしい」

「それであんな殺風景な・・・。本当に仕事人間だったんだ」

「だが、それが災いして女で躓いたのかもしれん。仕事熱心な人間は犯罪者にならないっていうことにはならんさ。それに、人間誰だって他人の知らない面があるもんだろ。ところで、被害者の部屋からは何も出ていないのか?」

「店の客と思しき多数の名刺が。その中に水上のものもありました。二人に接点があったのは間違いありません。ですが、被害者の男関係はお盛んのようで、部屋には複数人の多数の指紋がありました。ただし、その中に水上のものはなかったとのことです。親密になったのは最近のことで、逢瀬はもっぱらホテルかあのアパートだったということでしょう。それと、例の鍵は被害者のマンションの物でした」

 言わずもがなの一言だったが、案の定、田所は無視してさらに訊いた。

「殺害現場から出た指紋はどうだった?」

「はい。水道の蛇口やトイレのドア、冷蔵庫などから被害者の指紋が複数検出されています。水上の出張中、あの部屋を彼女が使っていたのは間違いなさそうです。他にも複数の指紋が検出されていますが、前科者リストに該当するものはなく、過去に出入りした人物のものと思われます」

「会社の連中とは親しく付き合ってはいなかったようだが、いずれにせよ関係者指紋と照合すればある程度は絞れるだろう」

「もちろんチェックしました。ところが、それ以外に全く不明な人物のものが二、三あって、特定できない状況です。」

「何だと? それじゃあ他にも容疑者がいるっていうのか?」

「被害者が招き入れた可能性もありますし、まだ何とも・・・。なにせ年季の入った建物なので、あちこち手が入っているようです。先月も水道の配管工事があったと、大家が証言しています。実際、水回りに不明の指紋が集中しているとのことでした」

「配管工事の作業員か・・・。念のために、後で業者の名前を聞いて指紋採取に協力してもらってくれ。それと、ごみ袋の方はどうだ、何か出なかったのか?」

「はい、特に目ぼしいものは。化粧道具と靴からはガイシャの指紋、バッグからは本人以外の部分指紋が出たそうです。が、こちらも該当者なしです」

「バッグから? 部分指紋か・・・決め手にはならんな。販売店の店員のものかもしれんし、電車やエレベーターで乗り合わせた客のものかもしれん・・・」

「ですね」

「水上の家族はどうなんだ? 連絡はついてないのか?」

「はい。水上修は早くに父親を亡くしてまして、数年前に母親も亡くしています。兄弟もいません。そんなわけで、実家もすでに処分されています。群馬の方に遠縁の叔父にあたる人間がいるにはいるんですが、賀状のやり取りもしていないようです」

「そいつはまた・・・・。要するに天涯孤独の身の上というわけだ」

 容疑者ということで水上修という人物のあらゆる情報をかき集めているが、その内容の薄さに一抹の哀愁を覚えるのは不謹慎なことだろうか。いや、巷の多くの一般市民は大同小異ではないか。形式的な略歴や家族、友人関係を報告書にまとめてしまえば、たいていは一、二枚の中に納まってしまうに違いない。水上の場合も会社での業績はそれなりに評価されてはいたが、私生活となると途端に寂しいものになり、取り立てて語ることもない、ごく一般的な独身男に過ぎなかった。

「それで被害者の他に特に親しい女もいなかったとなると、行き先は見当もつかんな。もう一度、現場を拝んでくるか」

 田所は部下の森田を伴って、再び現場のアパートに向かった。

 私鉄の最寄駅から歩いて五、六分の閑静な住宅街の一角にそのアパートはある。木造二階建て、全八室のありふれた造りだ。臨場当日は建物のことなど気にもしていなかったが、ベージュ色の奇を衒わない落ち着いた外観は周囲と調和している。

現場となった二〇四号室のドアの前には立ち入り禁止のテープが張られたままだが、今日はすでに立ち番の警官もいなかった。

「主任。もう何も出ませんよ」

 森田は気のない声を漏らした。

「わかってるさ。でもな、ここに来ると何かが違ってる気がしてくるんだ。例によって長年の勘ってやつで、何の根拠もないがな」

「はあ」

 そう答えるしかなかった。とはいえ、田所が単に勘だけでこれまでの事件(ヤマ)をものにしてきたわけではないことを知っていた。論理的な推理と、妥協を許さないしぶとい捜査が信条なのである。

 一方で、アパートの住人からの情報が乏しいのも事実だった。二〇三号室の住人はホステスで、犯行日と思われる金曜日は客に付き合って遅くなり、帰宅は日付が変わった午前二時過ぎで、出勤時まで隣室では物音もしなかったと証言している。階下の一〇四号室は現在空室。一〇三号室のフリーターは工場の夜勤で、帰宅したのは土曜日の午前八時過ぎだった。残りの四室の住人はすでに就寝していたり、テレビゲームに熱中したりで、いずれも異常には気付かなかったと言っている。

「なあ森田。遺体発見時の状況を思い出してくれ。おまえはあの状況をどう考える?」

 そう言いながら、すでに調べ尽くしたはずの部屋の中を見回した。

「どうって、殺害の動機や経緯ということですか?」

「いや、見たままのことだよ。例えばおまえが犯人だとして、何かの拍子に女を殺してしまったとする。死体は目の前にある。だが、幸いなことに現場は誰にも見られていない。さて、おまえならどうする?」

「自分は人殺しなんてもちろんしませんが、誰にも知られていないということであれば、何とか処分することを考えるでしょうね。とにかく近くに死体があるのはごめんです」

「だろうな。それが普通だよな。それに、発見が数日経ってからだったことからもわかるように、当日の目撃者はおろか、不審な物音や声を聞いた人間もいないんだ。そこで犯人(水上)は何とか死体を〞始末〟しようとしたはずなんだ。だからこそ、おそらく持っていたはずの携帯電話や、身元の割れる恐れのある財布の中身を抜き取り、持ち物を処分しようとした。さらに死体を毛布で覆っていたことから、その後に移動するつもりだったのだろう。しかし、何かの事情でそれが中断され、そのまま逃亡する羽目になった。その〞事情〟とは何だったのか?」

「なるほど、確かに。あの現場の様子は後始末の途中という感じでした。でも、妙な点もあります。まず凶器が見当たりません。遺体を移動するつもりならもちろんですが、放置するにしても凶器だけを持ち出すのは不自然な気がします。指紋はそこら中に付いてるわけですから意味がありません」

「そうだ、その点も不可解だ。まあ、とりあえず先に凶器だけでも始末しようと思ったのかもしれないが、小さな物でもいざ始末するとなると人目に触れる恐れはある。犯罪者の心理として、そうしたリスクは最小限にしたいだろう」

「そもそも、どうして遺体の傍を離れたのでしょう? 主任が言ったように、凶器を持ち出すためだけに部屋を出たとは思えません。例えば誰かと会うつもりだったとか。協力者がいたという可能性も・・・」

「だが、殺人犯を助けるほどの親しい人物は浮かんでいない。実は本命の彼女がいたとか?いや、ないな、浮気相手の死体の始末なんて・・・。そういえば、水上のパソコンや携帯から何か出てないのか?」

 今さらという思いがあったが、現場で意識した記憶がなかった。

「いいえ、あの部屋にはなかったんです。同僚の話では専らタブレットを愛用していたそうで、おそらく逃走の際に持ち出したものと思われます」

「タブレット? 何だそりゃ?」

 未だにガラケー派の田所にはピンとこなかったが、森田は簡潔に説明をした。

 加えて、仕事柄デバイスの使用には制限があり、個人のパソコンで会社のパソコンにアクセスすることはできないとのことだった。当然、携帯の持ち込みも制限されていた。どちらにせよ、安易に詳細な個人情報を得る術は今のところなかった。

「まあいい。いずれにしても、俺はその〞事情〟の線を当たってみようと思っている」

「ホシが割れているのにですか?」

「そのホシが消えちまったんだ。こうなったら手探りでも進むしかあるまい。そうすればいずれは辿り着くさ。まずは、もう一度大家の話を聞こう」

 大家の自宅は現場のアパートと隣接した敷地にあった。重厚な瓦屋根の純和風の建物である。呼び鈴を押すと、しばらくして大家と思しき人物が玄関口に出てきた。

「警察の者ですが、度々申し訳ありません。改めて伺いますが、水上さんというのはどんな人物でした?」

 平穏な日々に水を差されて不満を隠せないでいる初老の男に、森田はさり気ない口調で質問した。

「どんなって・・・この前も別の刑事さんに言ったけど、物静かな普通の人だったけどね」

「最近何か変わったことはなかったですか? 水上さんが何かトラブルを抱えてるとか、女性ともめていたとか?」

 誘導のようで心苦しかったが、ここまで状況証拠が揃っている以上、つまらない配慮は無用だろう。それでもつい〞さん〟付になってしまった。

「さあ、わからないね。学生の時から貸してるが、家賃の滞納もなかったし。それに同じ敷地とはいっても、アパートとの間にはごらんのとおり自宅(うち)の庭があるし、毎日顔を合わせるわけでもないから」

 おそらくそれが自慢なのだろう、数種類の木が枝葉を茂らせた庭を見やった。

そこは庭というよりも疎林の一部のようで、どこからか飛来した種子が勝手に根付いたという趣だった。大家の言外の意味合いが、単純に建物の立地的なことを指しているのか、あるいは店子のプライバシーは尊重しているという点にあるのかは不明だった。だが、立地条件による〞目隠し〟という意味では、樹齢を重ねたツバキやカエデの枝葉がその背後のアパートの壁を遮っていた。手前には手製の棚が設けてあり、二十鉢ほどの盆栽がその枝ぶりを競っている。道路側はカナメモチの生垣で、赤と緑の葉のコントラストが鮮やかだ。これまた道路からの視線を絶妙に遮っていた。

「家賃はどのように? 集金の際に世間話とかは?」

「それは馴染の不動産屋に任せてある。管理会社から毎月末に私の口座に振り込まれることになっているんだ」

 見かけによらずビジネスライクな人物らしい。その好々爺然とした居ずまいに反し、大家さん宅に現金で持参するといった昔ながらのアナクロは肌に合わないようだ。

「ということは、隣の部屋の方のことも・・・・」

「ああ、あのホステスさん。恭子さんていったかな、彼女は深夜か朝帰りで、出勤は夕方からだね」

 やはり歳をとっても男だ。その筋の女性には目がいくらしい。だが、帰宅が朝方というのは習慣的で、初めに本人に聴取した時の証言に偽りはないようだ。またそんな日常では隣近所との付き合いも希薄なはずで、彼女が水上の近況についてどの程度知っていたかは疑問である。事情聴取の際に「女性関係についてはわからない」と答えたのは、言葉通りの意味で、それ以外についてもほとんど知らないに違いない。因みに、異臭の件で管理会社に電話したのは彼女である。

「では、階下にお住まいの方は?」

「一〇四号室だね。今は空室だよ。二ヶ月前まで山口さんという老夫婦が住んでいたんだが、旦那さんが亡くなってね。奥さんは足が不自由だったんで、息子さん夫婦と同居することになって引っ越したんだ。その後まだ入居者が決まらなくて困ってたんだ。そこに今度は殺人事件だ。事故物件ということで、ますます新しい人が来なくなってしまうな」

 最後は恨み言を聞かされる羽目になったが、その口振りとは裏腹に表情は暗くはなかった。もともと経済的にひっ迫しているわけでもなく、小遣い稼ぎ程度のつもりなのだろう。庶民には羨ましい限りだ。

 結局、犯行に関する新たな第三者の証言は得られなかった。それどころか、初動捜査で得られた情報にほとんど意味がないことと、現場の不自然さを再確認しただけだった。

 ところが、翌日の捜査会議で劇的な展開があった。いや、終幕というべきか。

 なんと、水上修の死亡が報告されたのだ。捜査員一同は肩透かしを食った格好になり、管理官の報告を呆然とした面持ちで聞いた。

「容疑者として行方を追っていた水上修は、二十日未明、逃亡用に盗み出した軽トラックで走行中に運転を誤って道路脇の立ち木に激突。衝撃で車外へ放り出され、その際全身を強く打って救急搬送されたが、手術後も意識を取り戻すことなく昨日死亡した。搬送先の東都医科大学病院からの照会が死亡後だったこと、および各部署の連絡不備により情報の遅れがあったことは遺憾だが、所持していた免許証により本人と確認された。よって本件は、被疑者死亡で送検。捜査本部は解散。以上だ」

 田所の消化不良は加速した。あれだけ自分たちが必死になって水上の足取りを追ったにもかかわらず、何も情報がつかめなかったということが附に落ちなかった。突発的な事故で、よりによって管内の病院に搬送されたことはある種の盲点だったかもしれないが、捜査陣の誰の網にもかからないということは考えにくかった。

「でも主任、そういうことならあの現場の状況の説明もつくんじゃないですか」

 言われてみればどうということもないが、犯人は死体を運び出すために〞足〟を調達に部屋を出たのだ。そう、彼は戻るつもりだったのだ。証拠を隠滅し、死体を遺棄するために。それを、死体を放って逃げたと思い込んでしまった。日にちが経過しており、捜査本部もそうした先入観で逃走経路の判断を誤った。加えて容疑者の氏名が判明していることもあって、初動捜査にも楽観ムードが漂っていた。何とも間抜けな話で、世間に笑われても文句は言えない。

 しかし、幕の引かれた事件にいつまでもこだわっているわけにはいかなかった。なにしろ田所たちの管轄する新宿界隈は、日本有数の凶悪事件の多発地域である。窃盗、傷害に始まり不法滞在、違法薬物、さらに殺人―――と息つく暇もない。したがって、決着した事件は報告書を書類ケースに放り込んだらそれで終わりだ。前のファイルを閉じなければ、先に進むことができないのである。


              4


欠伸を噛み殺しながら、森田は運転席で窮屈そうに上半身を伸ばした。

「奴は現れますかね?」

 管内では相変わらず凶悪事件が続発しており、田所たちがのんびりする暇はなかった。今も別班の応援に駆り出され、二日前に起きた強盗傷害事件の容疑者の愛人宅を張り込んでいる最中だった。時刻は午後十一時を回ったところだ。張り番を交代してから五時間が経過していたが、部屋のドアは閉ざされたままだ。

「本人はまだ目をつけられていることに気付いてないだろう。いずれにせよ、今の奴が入れ上げているのはあの女だけらしい」

 田所に焦りはなかった。この仕事の要は忍耐と足だということが身体の芯まで染み込んでいるからだ。彼の様子に緊張感はなかった。だが、それは肉体的なことであって、神経が研ぎ澄まされていないということではない。その証拠に、マンションの入り口付近で動いた人影を見逃すことはなかった。

「おいでなすった」

「奴ですか?」

「わからん。しかし、住人ではなさそうだ」

 その人影は入り口のドアの前で躊躇している風だった。エントランスの暗がりの中で顔は見えないが、明らかに男だ。やむなく田所は動くことにした。マルタイでなかった場合、これまでの忍耐が無駄になるが、他に手はない。

 田所は相手に気づかれないように慎重に距離を詰めた。その男の関心はもっぱらそのドアの中にあるらしく、背後の気配には無警戒だった。

 男の表情が読める距離まで近づいたとき、裏手からふたつの人影が男を襲った。予想外の出来事だった。二人組は両脇から男を押さえ込み、近くに停めてあったミニバンに連れ込もうとしていた。

「そこで何をしてる? そいつを離せ」

「えっ?」

 二人組は慌てた様子で男を突き放すと、車に飛び乗り、ライトもつけずに急発進させた。二、三歩追ったが、ナンバーは下二桁しか読めなかった。

「大丈夫か?」

「ええ、何とか」

「あいつら何者だ?」

「さあ、知りませんよ」

「ここの住人に用があるのか?」

 逃走した二人組のことはもちろん気がかりだが、今は与えられた職務を果たすのが先決だ。やむなく目の前の男に集中することにした。

「そういうあなたは?」

 すでに平常心を取り戻した男が落ち着いて訊き返したので、田所は警察手帳を取出し、威圧的な視線を投げた。

「なんだ、そういうこと。堂に入ってるから、その筋の人間かと―――」

「来い」

 最後まで聞かずに男の腕を取って車のところまで引っ張っていった。そして、有無を言わさず後部座席に押し込んだ。

「な、何をするんです? 僕は何も・・・」

「わかったよ。ただ、あそこにいられると困るんだ。税金の無駄遣いをしないためにも協力してくれると助かる」

「事件ですか?」

「ノーコメントだ。その筋ってどういうことだ? おたく、そういう仕事か?」

「僕はただのライターだけど―――」

「で、何を嗅ぎまわってた?」

「ずいぶんと不公平だな。それにこの扱いはまずくないですか?」

「黙れ、公務執行妨害だ。まずは名前を聞こうか」

「ひどいな。でも、まあいいか・・・・。石垣、石垣健太郎」

「ほう、ガキ大将みたいな名前だな。それで、あそこで何をしてた?」

「ある人物を訪ねるつもりだったんですよ。ただ、どう話をしたものかと・・・」

「ある人物って誰だ?」

「そいつは言えませんよ。こっちはそれで飯を食ってるんだから」

「そんなに警察が好きか? いくらでも泊めてやるぞ」

「参ったな。仕方がない・・・塚原真由美というキャバクラのホステスですよ」

「な、何だと?」

 勢い余って天井に頭をしたたか打ちつけた。田所が驚いたのも無理はなかった。ふたりが夜半から張り込んでいる相手が、その真由美だったのだ。

「どうしておたくが彼女を知ってる?」

「知ってるわけじゃないですよ。知り合いの事件の関係者と一緒に働いていたことがあるというのを聞いて、ようやく探し当てたんだから」

「事件関係者? 知り合いっていうのは誰だい?」

「水上修という、高校時代の同級生なんだけど、殺人事件の容疑者だって―――」

「お、おい、今誰って言った?」

 再び頭をぶつけるところだった。

「水上・・・修」

 自分の高校時代の友人の名前に刑事が異常な反応を見せたことが不可解だった。

「あんた、水上の友人か?」

「ええ、まあ。友人といっても同じクラスにいたことがあるというだけで、特別親しいというわけじゃないけど」

「それでか・・・。記事もちっぽけだったからな。・・・彼は死んだよ、交通事故で」

「えっ? 死んだ・・・? 嘘だろ」

 今度は石垣が驚く番だった。

「で、その友人と女の関係は?」

 田所はにわかに興味が湧いてきた。だが、事件についてはすでに幕引きがされている。今さらどんな話が出たところで、被疑者死亡の結論は変わらない。今こうして張り込んでいるのは、別件の強盗傷害事件の捜査なのだ。

 石垣の語ったことは捜査本部の掴んでいた事実と大きく変わったところはなかった。ただ、この事件に興味を持ったきっかけはもちろん旧友の名前が出たからだが、彼なりに調べているうちに違和感を感じたという。それは彼の知る水上と、殺人という行為がどうしても結びつかなかったからだ。ライターを自称するこの男に田所は親近感を持った。犯行と人物像が結びつかない―――理屈ではないその感覚は、立場が違っても核心を突いているのではないか。なぜか我が意を得たりという自信が蘇った。さらにさっきこのライターを襲った二人組といい、とても一件落着というわけにはいきそうになかった。

「その真由美という女に会ってどうするつもりだったんだ?」

 たまらず森田が口を挟んだ。

「どうって・・・、店の子が彼女から聞いたって。殺された女性が水上の名刺を見せてくれたことがあるって。だけど当人が今夜は休んでいるというので、住所を聞いてここまで来たというわけ。彼のことで何か知っているかと思って・・・」

「それだけのことで? たいしたブンヤ魂、いやライター魂か。しかし、そんな話を聞いてしまうと我々も黙っているわけにはいかんな」

 美津江の身元が判明したのは、同じマンションの住人でかつて同じ店にいたことがあるというホステス仲間の情報だった。彼女の話では、被害者は気分屋で一ヶ所に長く腰を落ち着けることができないたちで、ここ一年ほどの間に店を三軒も変わっていたという。そんなこともあり、直近の店の従業員もホステス仲間も美津江の私生活についてはほとんど知らなかった。だから、捜査員に聴取されても多くを語ることはなかったのだ。それでも彼女がそうした店に勤めていたこと、さらに自室から水上の名刺が発見されたことでふたりに接点があったことが立証された。捜査本部としてはそれで十分だったのだ。

「でも、彼が死んでしまったんじゃ、意味がない。事件は決着したということでしょ?」

「公式にはな。だが、すっきりしないのはあんたと一緒だ」

「それで、刑事さんたちはどうしてここに?」

「ふむ、仕方がない。こちらもネタを明かそう。その真由美という女の情夫を張ってる。今日あたり顔を見せると睨んでいたんだがね」

 事件について詳しくは話さなかったが、別の事件の関係者同士がかつて同じ職場にいたことがあるとは、世間は狭い。あくまでも強盗傷害事件の捜査の過程として真由美と美津江、そして水上の関係について捜査をしても大きな問題にはなるまい。これで少しは消化不良が収まるかもしれない。

 いくつかの警告を受け、石垣は解放された。

 だが、とことんケチがついて回る時期というのはあるものだ。翌日の夕方になって編集部に顔を出すと、編集長に散々嫌味を言われた挙句、先週ようやく書き上げた記事をあっさり没にされた。臨時雇いのライターの身では何も言えないが、これで今月の家賃も危うくなった。同棲中の彼女と折半の約束だが、それも怪しい状況だ。

 くさくさした気分のまま、石垣は行きつけの居酒屋の暖簾を潜った。

「おやじ、ビール」

「はいよ。今夜は荒れてるねえ。また編集長の雷かい?」

 毎度のことで、店主は軽口を叩きながら瓶ビールとグラスをカウンターに置いた。

つい三日前のことだった。いつものようにこのカウンターでビールを飲んでいるときにふと横を見ると、先客が残していった新聞の見出しが目に入った。取り上げて拾い読みすると、殺人の容疑者とされている男の名前に見覚えがあった。同姓同名かと思ったが、出身地と年齢が自分と同じことで、記憶にある同級生だと確信したのだ。だが、石垣の知るその同級生は目立たない、真面目を絵に描いたような人物だった。高校を卒業してから自分は二流大学の文学部、彼は有名大学の工学部に進んだ。あれからすでに十年。いくらでも人が変わる時間はあった。しかし、それにしても水商売の女性とその男とはつながらなかったのだ。まして殺人とは。

 その翌日。あろうことか、編集長に大見得を切ってしまった。

「今度こそ特ダネを取ってくるので、特別ボーナスを用意しといてくださいよ」

凶悪事件の容疑者が自分の同級生となれば、多少なりとも深く切り込める。そう踏んだに過ぎない。同級生から殺人犯が出ることの嫌悪感や、同情というものもなかった。何よりも家賃が払えるかどうかの瀬戸際だったし、手札のワンペアを最大限に生かしたいという小市民的な発想に従っただけだった。ジャーナリスト―――そんな大層なものではないことは自覚してはいたが―――としては失格だが、久々に気分だけは昂揚していたのだ。

 その勢いにまかせて思いつくままに盛り場を歩き回り、いくつかの情報を得ることができた。食うために風俗ライターをしていた時代もあり、その伝手が僅かな助けにはなった。池袋のキャバクラで真由美という、被害者と一緒に働いたことがある女性の名前を訊き出した時はツキが回ってきたと思った。

 真由美に会って話を聞くつもりで訪ねたのだが、その先の展開は予想していなかった。どういう記事にするのか、自分でも不明のまま、成り行き任せという無責任なものだった。それでも行動は起こしたのだ。石垣は自分を誉めた。しかし、自身を鼓舞して号砲とともにスタートダッシュを決めたのに、僅か数歩のところで落とし穴に転落したような気分だった。結果的に彼女に会うことさえ叶わず、何より被疑者とされた水上が死んでしまったなんて。

 石垣は手酌でコップに注いだビールを一気に煽った。

 警察車両の中で、持っていた情報はあらかた吐き出させられてしまった。だが、僅かながら警察側の情報も手に入れることができた。おそらくベテランの刑事が気を利かせ、哀れな三流ライターにささやかな朝飯代程度の施しを与えたのだろう。

プライドなどくそ喰らえだ。石垣はお恵みをありがたく頂戴することにした。

 刑事たちの話によると、痴話喧嘩の末に女を殺してしまった水上は、死体遺棄の目的で近くの酒類販売店の配達用軽トラックを盗み出し、アパートに戻る途中で事故を起こしたらしい。確かに、殺人を犯した直後では平静でいられなかっただろう。運転を誤っても不思議ではない。

 病院としては搬送されてきた重傷者が殺人犯だなどと知る由もなく、懸命に手当てしたものの意識不明のまま、五日後に死亡を確認した。ここで初めて病院側は警察に照会をしてきたというわけだ。結果的に警察が事情を把握できたのは、さらに数時間後の事だった。話を聞く限り、小さな偶然と病院と警察の連携ミスが重なったに過ぎない。それが新聞発表の〞慎ましさ〟の原因だったかもしれない。

 葬儀はどうなるのだろう。やはりこうした場合、世間体からも密葬ということになるのだろうか。漠然とそんなことを考えた。当事者の家族、親戚は複雑だろう。たとえ犯罪者だったとしても、死んでしまえば誰でも一様に死者という普遍的な存在になる。一握の灰に憎しみや恨みを向けたところでどうにもならないだろう。もちろん、被害者感情に目を瞑っての話であるが。

 センセーショナルな―――実際は日常的に起きている痴情のもつれというお決まりの図だった―――事件をものにしようと意気込んではみたが、被疑者が死亡してしまったことであっさり片が付いてしまった。踏み出した足の置き場に困り、どの方向を向けばいいのかさえわからない。だが、このまま放り出すのはあまりに無責任に思えた。記事にはならなくても、せめて事件の顛末を自分の耳と足で確認しようと考えたのは、あながち、たまたま同級生だったという理由だけではない気がした。

 会ってくれるかどうかわからないが、ともかく水上の家族から話を聞こうと思った。話をしてくれなくても、せめて線香の一本くらい供えることは許してくれるだろう。同窓会名簿を頼りに実家の住所を訪ねてみよう。そう思い立つと、まだ半分ほど瓶にビールを残したまま勘定を済ませた。

帰宅すると、陽子がいつになく沈んだ面持ちで食卓の前に座っていた。

「お帰り。食事は?」

「少しだけ腹に入れてきたから、簡単なものでいいよ。・・・何かあったのか?」

 彼女の様子が気になり、それとなく訊いてみた。

「健太、水上君の事件の取材をしてたのよね? 彼・・・亡くなったんですって」

 意外な気がした。陽子は石垣の仕事にはほとんど関心を示したことがなかったからだ。だが、お互い同じ高校の出身ということで、まったくの無関心でいられるはずもなかった。

「何だ、知ってたのか。ああ、びっくりしたよ。今日、たまたま担当の刑事と出くわして、その話を聞いたんだ。おかげで、せっかくネタになると思ったのに、あえなくパーだ」

 石垣はショルダーバッグをワークデスクの上に置き、上着をクローゼットのフックに掛けると、リビングのソファにぐったりと凭れた。しばらく目を閉じ、空回りに終わった今日一日を振り返った。

「ビール、飲む?」

 飲み屋で半端に喉を湿らせてしまったので迷ったが、陽子の口振りがいつもと違うのが気になり、思わず頷いてしまった。

 陽子が冷蔵庫から缶ビールを取出し、石垣に手渡した。

「サンキュー。で、明日にでも彼の実家を訪ねようかと思うんだけど」

「そう・・・でも、確かお母さんが数年前に亡くなったって聞いたことがある。お父さんを早くに亡くして母子家庭だったから、彼、一人ぼっちだったのよ。寂しいよね・・・」

「そうだったんだ、知らなかったよ。でもどうして―――」

言いかけて言葉を呑み込んだ。

 名前の通り明るさが持ち味で、細かいことには無頓着な彼女だが、今日はどことなく勝手が違った。妙に陰があり、別人のようだ。水上の両親の件も初耳で、悉く空振りの自身を情けなく思ったが、それよりも陽子の態度の方が気がかりだった。

「わたしも飲もうっと」

「珍しいな、陽子が一緒に飲もうなんて。嫌なことでもあったのか?」

「大丈夫よ。そうじゃないの・・・・水上君には救われたことがあるから」

「救われた? 何だよそれ?」

「わたし、高校のとき文芸部だったでしょ。文芸部の活動って地味で、運動部はもちろん文化部の中でも全然目立たないし、何それって感じなのよね。それでも、年に一度の文化祭の時は私たちも力が入るのよ」

 それは一年に一回だけ、きちんと製本された文集が出せるからだ。今はパソコンで原稿もできるし、編集も断然楽になった。しかし、当時はあえて印刷屋に発注して、箔押しの表紙で製本してもらった。それに見合う内容の作品だったかはともかく、年に一度の〝晴れ舞台〟のために全員が奮闘し、その達成感の余韻に浸ったまま新しい年に突入するというのがお決まりだった。

ただし、そこにひとつの試練があった。

「二年生の時、わたしは短編小説を書いたんだけど、いま読み返すと恥ずかしくて顔から火が出そうな出来だった。部員の皆もそれぞれ詩や評論(感想文に毛が生えた程度のものだったけれど)を発表して、その年の文集は完成した。後日、反省会を兼ねて批評するんだけど、案の定、わたしの作品は酷評されたわ。校内で文集を買ってくれた人にはアンケート用紙も渡してあって、部室の前の回収箱に入れて貰うようになってたの。そこにも辛辣なことが書いてあって、私は完全に落ち込んでた。そんな時、水上君が言ってくれたの。『僕には文学的なことはよくわからないけど、君の作品には血が通っている。体温が伝わってくるっていうのかな。皆はそれがうまく表現できずに拒絶反応を示しているだけだよ』って。嬉しかった。小説家になろうなんて大それたことは考えてなかったけど、何となく文学に関する世界で仕事がしたいって思ってたから。だから、大学はW大の文学部って決めて、そのために必死で勉強したわ。その甲斐あって入試に合格して、何とか無事に卒業もできた。就職も出版社一本に絞って、念願の編集者になれたのよ」

 つまり、彼女が初心を貫けたのは水上の一言だったということらしい。石垣に言わせれば、それは彼女の生まれながらの才能と努力の結果で、なるべくしてなったのだと思っている。しかしそんな思いも、話を聞いてしまうと、単にちっぽけな男のジェラシーに映るだろう。実際、ひょんなことから同棲することになって二年近く経つが、未だに籍を入れる決心がつかない臆病者なのだ。もちろん経済的な理由が第一だったが、彼女が自分と一緒にいてくれること自体が奇跡だと思っている。自分には他人に誇れる何物もない。まして一人の人間の未来を左右することなどできはしない。それがわかっているから、つい現実から目を逸らしてしまう。夢から覚めたくはない。

「そんな彼が人殺しなんてできるはずがないわ。何かの間違いよ、わたしはそう信じてる」

一緒に暮らしているふたりの二年という時間よりも、水上の一言の方が重いのだろうか。そもそも、自分の言葉で陽子の心に残っているものがあるのだろうか。事件のことよりも、胸の奥に湧きあがった靄のような影が気持ちをざらつかせた。

「ビール、残りを貰うぞ」

 自分の分を空けてしまった石垣は、陽子が飲み残した缶ビールに手を伸ばした。その手が彼女の左の胸に触れた。陽子はトレーナーの下に下着をつけていなかった。昼間はスーツを着込み、ヒールで武装しながら、まだまだ根強い男社会に立ち向かっているのだ、せめて自分の家の中では身も心も解放されたい。それが彼女の言い分だった。

 石垣は生温くなったビールを一口だけ飲むと、さりげなく陽子の唇に自分のそれを重ねた。微かに触れたくらいの、少年の戯れのようなものだった。

「何よ、ばかみたい。やきもち―――」

 言いかけた時、再び口をふさがれた。今度は思いもかけない強さだったが、彼女は拒むことはしなかった。


                5


 次の日、真由美の情夫はあっさりと確保された。

真由美と付き合う以前からの腐れ縁だった女と別れ話がこじれ、つい手を挙げてしまった。さして強く殴った覚えはなかったが、転倒した時にガラステーブルで頭部を強打したらしい。その出血を見て慌てた男は、引き出しから女の財布を抜き取って部屋を飛び出したという。

「財布の中身はどうした?」

 すでに目の前の男がどういう種類の人間か理解した田所は、形式的に訊ねた。

「中身って言ったって、たった三万八千円ぽっちだぜ」

「その〞ぽっち〟のために危うく人殺しをするところだったな」

「待ってくれ。金を盗るために殴ったわけじゃねえよ」

「結果は同じさ。被害者だってお前の言い分なんか認めやしないさ」

「そんなっ。ちっ、とんだ疫病神だぜ。財布の中身と同じで、薄っぺらい女のくせしてよ」

「お前な、自分が何をしたのかわかってるのか? 下手すりゃ殺人未遂、どう転んでも強盗傷害で刑務所行きは決まりだ。問題はどのくらい務めるかだが、俺の知ったことじゃない。何年でも好きなだけ入ってればいいさ」

 確かにたいした問題ではなかった。こうしたクズのような輩はごまんといる。

 目の前の事件は片が付いた。いかに犯罪多発都市の管轄とはいえ、時には一息つくこともあるのだ。それが次の事件までのほんのわずかな時間だったとしてもだ。だが、経験を積んだ刑事にとってはありがたくない時間でもある。事件に追われ、振り返る暇がなければ前だけを見ていられる。だが、過去を振り返る時間があると多くの悔恨に苛まれる。ことに命が失われた事件は。

 犯人は逮捕したものの、彼らの供述によって遺族は納得できたのだろうか。あるいは本当に単独犯で、他にも犯人がいた可能性はないのか。遺書が発見されたが、本当に自殺だったのか。数え上げればきりがない。水上の件も田所にとってはそうした疑惑の事件の一つになろうとしていた。それも、少しも自身を納得させることができない、大きな異物として胸のあたりにつかえていた。

 その不快感に比べれば、目の前の低俗な男の行為は単純で、不謹慎な言い方をすれば、感情剥き出しの正直な行動といえた。そこには作為も隠し事もない。現実的にはそうした事件がほとんどだが、だからこそ稀に〝腑に落ちない〟一件は気になるものなのだ。

 調書を書き終えて一息ついているところに森田が近づいてきた。

「主任。妙な話を聞き込んだんですが・・・」

「待て・・・ちょっと出よう」

 森田の表情から内容を察した田所は、促して部屋を出た。

 階段を上り、署の屋上まで相手を連れ出した。

「何だ?」

 ようやく警戒を解いた田所は訊ねた。

「実は例の指紋の件なんですが、詳しく調べたら、どうしても辻褄の合わないことが」

「辻褄が合わない? どういうことだ? 複数の指紋が検出されたことは聞いたし、特定不能ということだったが、そいつがわかったのか?」

「いえ、そうではないんです」

「もったいぶらずに話せ」

「鑑識の人間がこぼしてたようです、順番がおかしいと」

「順番? どういうことだ」

「部屋の玄関の内側のドアノブについていた指紋なんですが、最後についた指紋は水上のものではないということなんです。もちろん被害者のものでもありません」

「何だって?」

 田所は混乱した。当然だ。確かに複数の指紋の中に個人を特定できない指紋があった。だがそれは被害者が出入りする前の恋人のものかもしれないし、宅配業者のものかもしれない。今となってはそれらを照合することは不可能である。だが、〝順番がおかしい〟とはどういうことなのだろう。

 さらに聞いてみると、ようやくその意味するところがわかった。女を殺してしまった水上は、死体を始末するために車の調達を思い立ち部屋を出た。鍵はかかっていたから、その後に出入りした人間はいないことになる。とすれば、最後に指紋をつけた人間は水上本人のはずだ。だが、鑑識によれば最後に内側のドアノブに触れたのは水上以外の〝誰か〟ということになるのだ。

 こんな重大な発見があったのに、どうして本部に上げなかったのだろう。もし報告がなされていたとすれば、なぜ捜査本部は水上を犯人と断定したのだろう。他の状況証拠が明らかに彼を示しているとしても、もっと徹底した裏付け捜査をするべきだったのではないか。被疑者死亡で決着した今となっては手遅れだが、改めて疑問が浮上した。

(その指紋の主が犯人なのか? 未知の人物は誰か?) 

 やはり空白の時間はありがたいものではない。ついつい余計なことを考えてしまう。田所は慌てて雑念を振り払った。

「わかった。この件は他言無用だ」

 部屋に戻ると何やら慌ただしい空気が流れていた。

「一件落着したばかりですまんが、ちょっと手を貸してくれ」

 課長が二人に声をかけてきた。

「これからですか? 今日は久々に早く帰れると思ったのですが」

 田所は不満げな物言いをしたが、その実ほっとした部分もあった。 

 二人ともいつ自宅の布団で身体を横にしたのか忘れていた。それは他の捜査員たちも同じだったが、誰も恨み言を口にする者はない。なまじ何事もない非番の一日があると、どう過ごしていいかわからないのだ。そんな彼らにとっては、事件に振り回される方が気が楽ということらしい。

 歌舞伎町界隈はすっかり夜の顔に変わっていた。若いカップルもサラリーマンも違和感なく、歓楽街の光の波と雑多な音の洪水の波間を漂っている。

 夜の八時を回ったところだ。ふたりは黒地に金色の縁取りの厚いドアを押し開け、責任者を呼び出した。いくらか高級感を漂わせたこの手の店では、この時間は客の数はまだ少ない。無粋は承知だが、ホステスもあらかた出勤している時間帯のほうが都合がいい。奥から姿を見せたのは、四十代と思われる着物姿の女性だった。化粧映えのする面差しが意志の強さを際立たせていた。彼女が店のママらしい。

 グラスを傾けるでもないのに毎晩のようにこうした店を覗いていると、何だか自分がその店の常連のような気がしてくる。刑事の給料では三日と通えない高級店も、いつしかテーブルの配置からホステスの控室の場所まで頭の中に描けるようになる。

 店側にしてみればありがたくない〝客〟だが、真っ当な店にとっては邪険にもできない。生安(生活安全課)に限らず馴染の警官がいるとなれば、暴力団関係の連中も多少はおとなしくしていてくれる。税金という「みかじめ料」を払って用心棒を頼んでいるようなものである。

 条例によって減ったとはいえ、怪しげな店は相変わらず存在する。一方で迷惑な客も少なくないので、桜田門の威光がありがたがられることもあるのだ。そんなこともあって、本来なら生安課のホームグランドだが、時には耳寄りな情報がもたらされることもある。

 課長に命じられたのは覚醒剤がらみの傷害事件の裏付け捜査だったが、そのママが気になることを口にした。

「怪我をされたのは相川興業の社員の方だとか。ただ、確かに相川興業の社長さんはたまにみえますが、いつもおひとりです。世間ではいろいろ噂されているようですが、店では紳士ですわ。お金の遣い方もきれいですよ。あの社長さんの部下の方なら馬鹿な真似はしないと思いますよ。相手が悪かったんでしょうね、きっと。わたしの知り合いのママも言ってたわ。相川さん、あちらの店も常連らしくて・・・・。そういえば、彼女がこの前の事件のことで妙なことを言ってたわ。別の彼氏だったのね、とかなんとか」

「この前の事件て、ホステス殺しの? 別の彼氏っていうのは何のことだい?」

「その前に、喉が渇いてません?」

 彼女は森田の顔を見ながら、少しだけ声のトーンを変えた。ただで何もかも話すわけにはいかない、そんなしたたかさが上目使いの端に覗いた。

「いえ、職務中ですから」

 森田が慌てて断った。

「確かに喉を湿らせたい気分ですが、我々の安サラリーではママの指名料は払えそうもないし。それに・・・〝客〟にお得意さんの話をしたとなると、ママさんの立場も・・・。その代り、本部のエリートさんにこの店を紹介しておくよ、美人揃いだってね」

 田所はさすがに心得たもので、駆け引きは絶妙だった。尤も、相手にしても本気で飲ませようと思ったわけではない。おそらく、若い刑事をちょっとからかってやろうと邪気を見せたに過ぎない。

「ありがとうございます。ぜひお願いしますね。・・・・彼女、智美っていうんだけど、あたしの昔のホステス仲間なのよ。その智美が去年ようやく自分の店を持ってね、もちろんいい人のおかげよ。ああ、そんなことはどうでもよかったわね。とにかく、その一周年記念のパーティーに例のホステスをヘルプに頼んだらしいの。店の子の知り合いとかでね。で、当日その彼女は彼氏らしい男と同伴してきたって」

「ほう、それは初耳だな」

「ええ、そんな報告はどこにも上がっていません」

 森田は思わず声を上ずらせた。

「で、どの彼氏と違うって言ったんだい?」

 田所は平静を装ってはいたが、やはり淡い期待感は持っていた。

「新聞に載ってた写真と、その時の男は感じが違うって」

「新聞の? ああ、あの水上修の写真か。だがね、あの小さいモノクロ写真と実物じゃあ印象が違って当然だろう。それにあの写真、会社の集合写真から抜き出したものなんだ。何でも二、三年前のものだって話だ」

「だとしても、私も智美もこの世界で二十年近く生きてるのよ。人を見る目は確かよ」

 彼女は自信たっぷりに言い切ったが、田所の顔には落胆の色がありありと浮かんでいた。

「だいたい、当日の〝彼氏〟があの男だったかわからないんじゃないか? 他にも〝いい仲〟の男はいただろう」

「いいえ。ヘルプの彼女、その人のことを『水(みず)さん』て呼んでたって。それは間違いないわ」

 二人の刑事は顔を見合わせ、一度捨てた馬券を慌てて拾い上げて見直すように、改めてママの話に耳を傾けた。


                6


 華美な装飾を控えつつ、和の様式を盛り込んだ総理官邸は、外観からはゆったりとした時間が流れているかのような印象を受ける。しかし、昼夜を問わず山積した国内外の問題について議論が交わされている。表裏、公式非公式に拘わらず。

五階の総理応接室に、法務大臣の是永と警察庁長官である皆藤、さらに国家公安委員長の一条が顔を揃えていた。

「総理、急なお呼び出しですが、どういうことでしょう?」

 法相の是永が疑心暗鬼の眼差しを向けた。秘書が同席していないことが奇異に思えたからだ。過去の経験ではあまり好ましい内容ではないことが多いのだ。

「その草稿をどう思うかね?」

 総理の本郷は、テーブルの上の黒い表紙のファイルを目で示した。是永はファイルを手に取り、眼鏡を取り出して表紙を開いた。

「―――すでにスタートしたマイナンバー制度の要綱に思えますが、今さらどうしてこのような・・・?」

「私の長年の構想である『国民総合管理法案』の概要だ。推進していたプロジェクトがようやく軌道に乗り、実現化のめどが見えたということでね。導入部は指摘されたとおりだが、その先を読んで欲しい」

 是永は言われるままに読み進めていった。

 やがて数ページ捲ったところで手が止まった。

「ここに書いてあることは妄想というか、空想小説そのものではありませんか」

「妄想? 本気でそう考えているのかね?」

「もちろんです。こんな話は狂信的な反政府主義者や新興宗教、あるいはオカルトマニアたちの間にはびこる都市伝説的なデマの類いです。一国の総理が真剣に論じることではありません」

 露骨に呆れ顔を向けた。

「もちろん私には仕組みはわからん。だが、その実用性については一考に値すると信じている」

 その声音はいつもと変わらない。

 一方、皆藤は要綱の意味するところが理解できず、戸惑いを隠せないでいた。結果として言葉を呑み込み、本郷の次の言葉を待った。

「これは究極の国家再生プロジェクトだ。今や既成概念は捨てなければならない。これまでのような〝選挙のため政策〟ではどうにもならないところに来ているのだよ、我が国は」

 本郷の眼差しは真剣そのものだった。

「この暴案、失礼、妙案を考えられたのは・・・・? なるほど。で、国家公安委員長が同席されているわけですか。それにしても『M計画』やら『Z法』とは。まるでスパイ小説のようですが」

 ファイルの一枚目に冠されたネームを引合いに出し、薄笑いを浮かべながら言った。

「大臣ならご理解いただけると思うが、我々の立場でこの計画を推進することの胸の内を察していただきたい」

 一条は是永の皮肉を受け流した上できっぱりと応じた。しかしながら、〝我々〟が誰を指しているのかは曖昧だった。

「これによると、警察庁の縮小を意図しているように思えるが―――」

 皆藤は不安を押し殺し、慎重に言葉を選んだ。

「長官。確かに結果的には警察官の数は減少する。だが、公務員全体の削減が求められているのだ。それに現在の我が国の人口比率に照らせば、自然減の範疇だよ。これはあくまで効率化だ」

「しかし―――」

「はっきり言うが、あなたをここに呼んだのは、是非に対する意見を聞くためではない。この計画を進めるにあたって、あなたにやってもらわなければならないことを確認してもらうためだ。その点、誤解のないように」

 ニュース映像では温厚そうな表情を前面に押し出している本郷が、今は別人のような毅然とした険しい顔つきだった。その迫力に、皆藤はあっさりと引き下がった。もちろん、自己防衛本能が働いたからに他ならない。ここで総理の不評を買うことは自身の地位を危うくする。それだけは明白だった。全国二十七万の警察官の頂点に立つ満足感は何物にも代えがたい。多少担ぎ手が減ったとしても、神輿に乗る快感は捨てがたく、その玉座から引き摺り下ろされては元も子もない。

 彼らの手にしたファイルには、俗にいうところの「国民総合管理構想」の草案が記されていた。ただし、この曖昧な名称の裏には、本郷が予てから抱いていた壮大な計画の実現化への道標も隠されていた。この制度はアメリカの社会保障番号制度と似通ったもので、個人の重複しない番号(当然ながらここに住所、氏名、年齢等が紐付けされている)によって各種の手続きを簡便にすることが主旨である。しかし、「国民総合管理構想」は加えて、各種の資格、学歴、職歴はもちろん、病歴や犯歴、さらには各種の認証システムと連携して、防犯システムの一端を担わせるというものであった。

いずれ「マイナンバーカード」が日常生活に不可欠なものとなり、そのためのインフラの構築計画がすでに始まっている。健康保険証、運転免許証と続き、その後も制度は段階的に進展する予定である。

 マイナンバー制導入に際し、政府内の一部で過激な案が出されていた。もちろん当時は俎上に上がることもなかったが、その案というのは究極のウェアラブル、すなわち体表にバーコードのタトゥーを施す、あるいは体内にICチップを埋め込むというものだった。カードは偽造され、他人に不正使用される可能性がある。あらゆる場面で確実な生体認証ができれば不正使用は回避され、格段の効率化が可能だと考えられたのだ。

 将来的には、幼児がワクチン接種をする感覚でマイクロチップを体内に挿入することが義務付けられるかもしれない。現に、米国の某IT企業が希望者を募り、社員の手にマイクロチップを埋め込んだというニュースが報じられたことがあった。世間の反応は批判的だったようだが、空想がついに現実となったということで話題になった。

 ある研究チームが開発した〈MLチップ〉と呼ぶ電子機器は、その開発の原点は脳科学の研究推進だったが、性能は飛躍的に向上し、用途の広がりにも期待できた。現実のテクノロジーが発想に追い着いたと言えるだろう。問題はチップの具体的な機能と運営方法である。まさにこの部分に政府が関わっているのだ。法整備が整えば、国家はいかなることも可能になる。個人情報の秘匿性など何の意味もなくなるのだ。SNSによる拡散さえ凌ぐほどの速さ、かつ正確さで情報は国家の〝所有物〟になる。国民は意識することなく、目に見えない鎖でつながれるのだ。

 所得も完全にガラス張りとなり、脱税は不可能になる。この点は庶民は歓迎すべきだが、支出についてもチェックされることになる。これは〈MLチップ〉導入の弊害ともいえるが、装着率百パーセントを前提としたインフラの運用のためには必然なのだ。人々は意識することはないがあらゆる取引、売買の際に通帳と身分証明書の提示をしていることになるのだ。

 市場の大部分は電子取引となり、貨幣の流通は激減する。国家は国民の経済状態、市況を完全に把握できるので、経済のコントロールはいとも容易くなる。日銀の意義も希薄となるだろう。やがて、チップ非装着者は生活物資の入手さえできなくなる。総理の本郷がしきりに口にする「国家の存続にかかわる」というのはそうした意味合いであった。

 個人情報保護法―――一見国民の人権を守っているように思われるが、そもそも個人の情報を保護する意味がどこにあるのか。それは隣同士の個人がお互いを知る必要がないということに過ぎない。個人同士は知る必要はないが、国は総べてを知っている。これこそが肝心なのだ。国はある事柄において必要な人間をいつでも選択することができる。逆に不要な人物は自由に排除できるのだ。犯罪においても、あらゆる条件から特定の人物を候補(容疑者)としてリストアップすることが可能になる。

 現状でもPCやスマホはもちろん、カーナビや各種のICカード―――これらが個人の現在位置や行動範囲・パターンを正確に教えてくれる。キャッシュレス化を急ぐ背景には経済界の後押しがあり、それはとりもなおさず顧客情報収集のために他ならない。街角や商店に設置された防犯カメラも、監視カメラと呼び方を変えるだけでその意味合いが変わってくることに気付くだろう。

 こうしたインフラを統合管理し、すでに開発されている各種認証システムを組み合わせれば、個人の行動は容易に把握できるのだ。警察内部では将来的にこうしたシステムを活用するべく、一部で準備が進められているという噂である。しかし、皆藤が総理の一喝で素直に沈黙したのも、根底には「国民総合管理システム(仮称)」の実質的な統括者が自分になるという確信があったことを考えれば、もはや公然の秘密という表現が正しいのだろう。警察庁長官の彼に言わせれば、警察官の数が減ったとしても、反比例的に権力が増大するという構図が見えている以上は流れに逆らわないのが得策というわけだ。

 とはいえ、ファイルには「IC機器」、あるいは「チップ」とだけ表記されており、厳密にはその詳細を知る者はいなかった。いわばブラックボックスである。発案者の一条と本郷は概略を把握してはいたが、試作段階のためその実態及び詳細な性能については開発担当者自身にしかわからない。また、それほど秘密裏に進められてしかるべき案件であった。

 皆藤と是永はファイルの中身を見たのは初めてだったが、それぞれに思惑があった。予てから本郷が「国民総合管理構想」を掲げていたことを知っていたし、任期中に実現しなくても党内の派閥議員によって継続的に推進される可能性は大であり、その実現が自分の地位に及ぼす影響についても想定していたからだ。

「言うまでもないと思うが、このファイルの存在は極秘だ。ここにいる我々だけの了解事項ということにしてもらいたい。いかなる腹心といえども、口外は厳禁と心してほしい。もしこの件に関してどこからか私の耳に入ることがあった場合、あなた方の誰かがその責を負うことになる」

 本郷は各自に念を押すと、ファイルの厳重保管を命じ、会合の終了を宣言した。

 三人はそれぞれ重い足取りで部屋の出口へと向かった。

「そうだ、是永大臣。あなたに伝えておくことが―――」

 最後尾の法務大臣に本郷が声をかけた。是永は足を止め、前を行く二人に僅かに首を動かして挨拶を済ませると、一呼吸してから踵を返した。

「何でしょうか、総理?」

 二人が出て行った扉が閉まるのを確認すると、是永は再び先ほどの席に座り直した。

「概略はそのファイルにあるとおりだが・・・実は補足事項があってね。その内容は皆藤さんには知られたくないのだ」

「と言いますと?」

「そのファイルには、公務員の人員削減の目標を十五パーセント程度と記載してあるが、一律ということではない。具体的にはまず警察官を半減させるつもりだ」

「そんな無茶な。そんなことをすれば我が国の治安は一気に南米諸国並みに悪化してしまいます」

「まあまあ、落ち着きたまえ。そのファイルを読み込めば、『管理システム』をどう運用すれば国益につながるかがわかるはずだ。すなわち、個人情報の集約において、犯罪関連に限定すれば〝選別〟ができるということだ。これを各政府機関および金融機関と共有できれば、例えば一切の免許類の失効、金融機関の取引停止ということが可能になる。さらには仮想通貨も例外ではなくなる。それらを網羅したのが『Z法』だ。仮称だがね」

 確かに、ファイルの末尾に主要な法改正の項目が列挙されていた。

「なるほど。資金洗浄もままならず、犯罪者は一般の社会生活すら困難になるということですね」

「景気回復も思うに任せず、財政改革を声高に問われる現状においては思い切った策が必要だ。それも、これまでのような小手先の改革ではなく、画期的な案が求められている。だからこそ、あなたに協力を求めたいのだ」

「しかし・・・あまりにも強引な話で、国民の賛同を得るのが難しいのでは?」

「そんなことはないだろう。政府の無駄をなくせ、公務員制度の見直しを図れ―――そうした世論に応えるために考え出したことだ。まず警察官を半分にする。大臣が言ったように、世界的に見ても高度な治安維持を誇る我が国において、それを継続するためにどうすればいいのか? 取り締まる側が半減するなら、取り締まられる側も半分にすればいい。すなわち、自主的に犯罪率を減らしてもらうしかない。妙な言い方だが、理屈はそういうことだ。日常生活に支障をきたすとなれば、自然と犯罪にブレーキがかかるのではないだろうか。彼らとて人の子、生きていくためには食わねばならない。さらに総量的な考え方からは犯罪捜査の迅速化、犯人の逮捕、起訴といった一連の手続きの簡略化が必要だ。これが実現できれば、実質的に人員の削減がカバーできる」

「それが『国民総合管理構想』ですか? かつて国民総背番号制だとか国民総ID制とかで議論され、さらに名称が『マイナンバーカード』に変わったわけですが・・・そこにおっしゃるような項目を付加することでそうした効果が得られるものでしょうか? しかも個人情報との兼ね合いが難しい。まして政府が干渉するとなると・・・・」

「それは逆だ。政府が個人を管理するのは当然だ。それが秩序ある国家の使命だと信じている」

「民主主義の根本を揺るがすことになりませんか?」

「それは見方による。悪を規制するという姿勢を強調すれば、善人気取りの大方の人間は目を瞑ると思うが」

「なるほど。そういった情報操作を徹底するわけですか」

「そういうことだ。それにしても・・・」そう言って言葉を切り、何かの戒めを剥ぎ取るようにして続けた。「法務大臣の職にある人間を前にしてこんな発言は不適切かもしれないが、法の無力さを痛感することはないかね?」

「無いと言えば嘘になります。しかし、どうしてそのような―――」

「あなたは死刑執行命令書に署名をする覚悟がお有りかな?」

 あまりにも唐突に死刑という言葉が本郷の口から発せられたので刑法改正、それも厳罰化を念頭に置いているのだと判断した是永は、素直に持論に従った。

「もちろん。私は死刑廃止論者ではありません。極悪人には相応の罰が下されるべきだと考えています。当然、死刑も含まれるべきだと」

「それを聞いて少し安心した。肝入りでスタートした裁判員制度も、すでに問題が露見している。素人たちがいくら知恵を絞ったところで、最終的には専門家が道筋を示してしまう。場合によっては二審で量刑が変わってしまうことも少なくない。市民感情が色濃く出過ぎているという理由でね。これでは本末転倒というか、もとの黙阿弥。法務省のパフォーマンスだったという非難は否定できない」

「心外ですが、現状はそうした見方に傾いているようです」

「多種多様な現代社会において、過去の法律は対応しにくくなっていると思うのだがね。犯罪そのものが複雑化、悪質化している一方で、法律も法律家も寛大過ぎる」

「同感です。問題の根源はどこにあるとお考えですか?」

「良心だろうか。この厄介な感情のせいで誰もが心を痛めている。一方で感情論は排斥せねばならないという風潮がある。法に携わる人間は感情に左右されてはならないという不文律が、実は最大の問題なのかもしれない」

「しかし、それなくして法治国家は成立しません。感情のままに犯罪者を厳罰にしていたら、負の連鎖が止まらなくなります」

「だが、被害者の気が晴れるならその先はなくなるかもしれんよ。殊に殺人事件の被害者遺族にとっては、犯人に望むのは極刑しかないだろう。そこにマスコミ等の世論が雑音を差し挟むのは筋が違うと思う。裁判の結果を知るのは被害者遺族と犯人だけでいい。受け入れるのは当事者なのだから。そもそも公にする必然性があるのだろうか。要は関係者の知る権利が担保され、結果的に悪が排除されれば誰も不利益を被ることはないのでは?」

「異を唱えるのも馬鹿馬鹿しいほどの詭弁です。いくらなんでもそんな理屈が通るわけがありません」

「理屈はいらんのだ。究極のシンプルさ―――法を犯せば必ず相応の罰を受ける―――これだけが全国民に浸透すればいいだけのこと。それが『Z法』の骨子なのだ。だからこそ、法務大臣の協力が不可欠なのだよ」

「ですが、法そのものが不明瞭な一面を含んでいるのでは? 人間という存在の多様性によるものでしょうが」

 是永は学生時代に戻ったような、本質論を呟いた。

「だからこそ大胆な改革が必要なのだ、感情論抜きで・・・」独り言のように呟いてから続けた。「進捗状況については逐一知らせるので、よろしくお願いする。あなたには今後も私の構想に力を貸していただきたい」

 本郷がこの先どのように改革を進めるつもりか計りかねたが、ふと「パンドラの箱」を想起していた。踏み込んではいけない領域に対する恐怖心が無意識に働いたのかもしれない。総理はまだ総べてを晒してはいない。想定外の何かを隠し持っている気がした。ともあれ、少なくとも自分は安全な懐中に留まれそうだ。そう確信した是永は、精いっぱいの忠誠を言葉の裏に込めて頭を下げた。

「光栄です。ご安心ください、警察庁には〝箱〟の中身を見せることはしませんので」

 本郷の改革路線は多少過激な部分もあったが、概ね好評であった。というのも、議員たちの権益を無闇に奪うことはしなかったからだ。もちろん、野党や国民の意を受けて最小限のナタは振るうが、それが致命傷にならない程度に優しく振り下ろすという戦法だ。

 法案反対や不祥事の追及も、立場が代われば我が身に返ってくる。政治家にとってのそれが宿命である以上、お互いのために骨を断つようなことは決してしない。連立与党議員についても、政府の要職のポストを与えるといった飴を忘れず、見返りに僅かな出血を要求した。結果、政界のムードとして「まあ、いいか」という流れができつつあった。したがって、今のところ本郷に寄り添っていれば大きな怪我をする危険はきわめて少ないといえた。決して大儲けはできないが、ともかく得をした気分になれる手堅い株券といったところだ。

 今回の奇抜な案も、よくよく考えると政府側がより国民を管理しやすくなるだけで、リスクはきわめて少ない。唯一、警察庁の連中には痛みを我慢してもらわなければならないようだが。是永は己の安泰と皆藤の今後の処遇を客観的に比較し、そんなふうに冷静に分析しながらも、なぜか足取りが重いことを自覚していた。 


                7


 どこか垢抜けない駅舎の改札を出ると、当時とほとんど様変わりしていない商店街が続いている。思い出の中の看板やショーウインドーは大部分がそのままだ。気分はすっかり十年前に遡り、懐かしさに浸りたいところだが、今日は仕事の名目でやってきたのだ。実を言えば、自身の実家にも何年も顔を出していない。三十にして未だに正社員にもなれない不肖の息子を、両親はさぞ嘆いているだろう。その渋面を想像すると、いくら勇気を振り絞っても実家には足を向けることができなかった。そうした後ろめたさも、仕事というカモフラージュがあればまともに対峙しなくて済むような気がした。あるいは、そう思い込むことができそうだった。

 そんな自己弁護を胸の内で繰り返しながら歩いていると、白い鉄のフェンスに囲まれた幼稚園が見えてきた。四半世紀前に自分も通っていた懐かしい幼稚園は、外壁こそ塗り直されていたが、当時と変わってはいなかった。園の庭では、遊具に群がった子供たちが歓声を上げている。かつて自分にもあんな純真な時代があったのだと、妙に年寄りじみた感傷に襲われた。

 さらに住宅街を歩いて行くと次々と記憶が蘇り、いつしか高校時代に戻っていた。十年の間に何軒かの住宅は建て替えられ、明るく改装された店舗も目に付いた。そのせいで街並みが少しばかり都会的になったようにも見えるが、匂いは当時のままだ。

そして、目的の場所に辿り着いた。

水上の実家はすでになくなっていて、卒業名簿の住所には三階建ての小規模なマンションが、昔からそこに建っていたかのように街並みに溶け込んでいた。陽子の言葉通りすでに両親が亡くなっているにしても、水上本人の情報が得られるかもしれないという淡い期待がなかったと言えば嘘になる。しかし、一家が暮らした家がなくなっているという現実は、視覚的に喪失感をかきたてた。

 さらに、以前近所にあった酒店はコンビニに変っていた。店舗の造りからすると、商売替えをしたわけではなさそうだ。酒店の主は将来に見切りをつけ、住宅兼店舗と土地を手放したのだろう。どうやらこの一帯が足並みをそろえて転居したらしい。とすれば、新しい店のオーナーに近隣住民の動向を訊ねても無意味ということになる。

覚悟はしていたものの、こうもあっさりと肩透かしを食うと気持ちの置き場所に困ってしまう。ただ、自分の目で確かめたことに満足するしかなかった。もともと水上と交流のなかった石垣には彼の交友関係も知る術がなく、ここに留まる理由がなくなった。

 駅へ戻る道がやけに遠く感じられた。周りの景色が急に色あせて見える。それは感傷による絵画的なものではなく、単にくすんだ劣化の証左だった。その象徴のような駅舎が見えてきた。このまま引き上げようと思ったとき、懐かしい喫茶店の看板が目に入った。チェーン店に負けずに生き残ったようだ。

感傷に浸る気はなかったが、気が付くとドアを開けて店内に足を踏み入れていた。

十年前と変わらず、店内には低く音楽が流れ、コーヒーの香ばしい匂いが漂っている。まさしく昭和の喫茶店の香りだ。テーブルも椅子も当時のままに見えたが、さすがに壁は茶色く変色し、マスターは十年分の皺をその顔に刻んでいた。

ブレンドコーヒーを注文し、しばし回想をしていると、

「やだ、石垣君じゃない?」

 斜め前の席にいた同年代の女性に声を掛けられた。

「えっと?」

「ひどいなあ、忘れたの? 良美よ、良美」

 そう言いながら、コーヒーカップを手に石垣の前の席に移ってきた。

「野口、野口良美か? 久しぶりだな」

「思い出してくれてよかった。だけど、いまは野口じゃないの」

「結婚したのか?」

 彼女の左の薬指にはリングが光っていた。

「ぎりぎり三十路に入る前に間に合った」

 屈託なく笑う口許を見て、石垣はようやく制服姿の彼女の顔を思い出した。そうか、当時は素顔しか知らない。化粧をした彼女は初めて見たのだ。

「それはおめでとう。旦那さんは知ってる人?」

「シンジよ。森信二。いろいろあったけど、腐れ縁かな。今日は旦那の実家に顔を出してきた帰りなの。いいお嫁さんて、結構しんどいのよ。たまには一人で羽を伸ばさないと」

 自分の席に残した灰皿の吸殻を一瞥して自嘲気味に呟いたが、表情は明るかった。

 お相手の森信二も三年の時のクラスメイトだ。特に仲が良かったわけではないが、真面目な目立たない奴だった。同じクラスの良美とは当時から噂があったが、好対照なふたりの関係には大方の者が半信半疑だった。それに、凡庸な偏差値で進学校でもない東山高校では、大らかな校風が良くも悪くも男女間の垣根を低くしていたので、男女ふたりが教室や校庭で親しげに会話していたとしてもそれはごくありふれた光景だった。

 正直、野口良美とも個人的に親しかったわけではない。ただ彼女はいわばクラスのムードメーカー的なキャラクターで、男女にかかわらず好感度が高かった。森信二はストレートにその感情に従ったようだ。それにしても結婚まで辿り着いたのなら、素直に祝福するのが旧友の礼儀だろう。「結婚」の二文字には恐ればかりが先に立ち、同時に将来に対する展望や気構えといったものからも逃げ腰の我が身を省みれば、一大決心をした二人は尊敬に値する。

「石垣君、今仕事は? 何やってるの?」

 最も苦手な質問だった。

「ああ、小さな出版社で雑誌のほうを」

 余計なことは言わないことにしていた。

「へえ、何かかっこいいかも」

「全然。雑用ばかりさ」

「皆はどうしてるかな? たいていはいっぱしのサラリーマンてとこよね、きっと。・・・そういえば、水上君、死んじゃったのよね」

 その口吻は、級友の死を格別深く悼んでいるでもなく、軽んじているわけでもなかった。自分も含めた三者の距離感と同様の、正直な感情の込め具合といえた。

「俺も特に付き合いがあったわけじゃないが、何となく足が向いてさ」

「そう。・・・わたしも、四年くらい前だったかな、水上君のお母さんのお葬式の時に顔を合わせたきりで。・・・そしたらあんな事になって」

 なぜか唐突に罪悪感に襲われた。事件が無ければ彼の名前や顔を思い出すことさえなかった。まして、母親のことなど考えもしなかった。さらに、身内のいなくなった水上の今の〝居場所〟さえ知らないのだ。親戚が引き取ってくれたのか、あるいは拒まれて無縁仏として処理されたのかも確認できていない。こんな覚悟で、事件の真相を突き止められるはずもなかった。

 それから断片的な思い出話を暫く交わした後、良美は夕食の支度があるからと先に席を立った。店を出る彼女を見送りながら、石垣は改めて旧友の心情を思った。

 いくつかの理由や言い訳を用意して、ようやくの思いで地元を訪れたが、収穫は得られなかった。しかし、基本にして最も大切な、取材対象に向き合う姿勢や真摯さを失いかけていたことに気付かされた。おかげで、今は自分がやるべきことが見えていた。だから、行きつけだった食堂の定食の懐かしい味に後ろ髪を引かれたものの、思いつきを行動に移すために新宿行きの電車に飛び乗った。


                8


 カナメモチの生垣が切れると、目指すアパートが見えてきた。昼間なら赤と緑のコントラストを増した生け垣がさぞ鮮やかなのだろうが、夜も深まったこの時間では、離れた街灯の明かりで鬱蒼とした葉のシルエットが壁に見えるだけだ。

階段下まで近づくと、階段と通路の天井灯の明かりで外壁の凹凸の質感がぼんやりと浮かんだ。クリーム色のシンプルな外観の、特徴のない建物だ。部屋数は八部屋。一、二階にそれぞれ四部屋の画一的な造りだ。鉄製の外階段は北側の中央にあり、二階の住人は上りきると左右に二世帯ずつ分かれることになる。この状況では住人同士のコミュニケーションは最小限と言わざるを得ない。

 石垣は二〇三号室の吉行恭子という女性に話を聞くつもりだった。今さらの感はあるが、事件直後は警察の監視もあり、肝心の現場近辺の取材もままならなかったからだ。田所の話では、夜の仕事で帰宅は午前一時ごろ。部屋の明かりが消えるのは三時か四時で、昼近くまで寝ていることが多いという。現在の時刻は零時を回ったところ、日付が変わったばかりだ。石垣は帰宅時間を狙っていたが、先日のような失敗は二度とごめんだ。そんな思いが頭を過り、落ち着きなく辺りを窺いながら、ひたすら待ち続けた。

 零時半過ぎにタクシーがアパートの前に停まった。後部ドアが開き、女性が降りた。足取りはしっかりしている。酔ってはいないようだ。足元がおぼつかない様だったら出直すつもりだったが、無駄足にならずに済みそうだ。

「お疲れ。恭子さん? 文栄堂の大福があるんだけど、食わないか?」

 お得意の能天気ぶりを誇張しながら声をかけた。

「あんた誰? それに、こんな時間にそんなもの食べると思う?」

 仕事柄、ぶしつけな男のあしらいには慣れている。

「甘いものは別腹。アルコールの後の大福なんてサイコ―だと思うけど」

「馬鹿じゃないの。帰ってよ、もう寝たいんだから。用があるならお店に来てよ」

「俺が美味いお茶を淹れてやるからさ。少しだけ話を聞かせてよ、お隣の事」

 あくまでも低姿勢だ。

「話って、あの事件の? あんた刑事・・・なわけないか」

「こんな人相のいい刑事はいないよ。人助けのつもりで少しだけ時間をくれないか?」

 この通りだと、両手を合わせた。

「変な人。だけど悪い人間じゃなさそうね。わかったわ、ほんとにお茶を一杯だけよ」

 彼女は警戒を緩め、先に立って階段を上がった。

「ありがたい。さすがにこの時間だと、体が冷えちまって」

 彼女は石垣を部屋に通した。

 意に反して殺風景な部屋だった。商売道具の衣装が多いことを除けば、一般的なOLと大差はない。ドラマで描かれるような乱雑な様子はなかった。

 彼女は明るい色のジャケットを脱いで傍らのハンガーラックに掛け、代わりに紺色の地味なカーディガンを羽織った。

「で、何が聞きたいわけ?」

「その前に、お茶を淹れてやるよ。約束だから」

「本気だったの? 呆れた。じゃあ、勝手にやって。やかんはそこにあるから」

 言いながら彼女はドレッサーの前に座り、顔にクレンジングクリームを塗り始めた。石垣は気にすることもなく、台所で慣れた手つきでやかんに水を注ぎ、コンロに掛けた。

「実は、お隣の水上のことなんだけど―――」

 彼女の手が一瞬止まったが、すぐに鏡の中の自分に集中した。

 石垣は背中越しに、隣人が旧友だったこと、自分はライターでその旧友に何が起きたのかを明白にしたいのだということを力説した。いくぶん友情を前面に押し出し過ぎたが、疑問をどうしても払拭したいという単純な思いは通じたようだ。

「ふうん。でも、お隣さん死んじゃったのよね?」

「ああ。だから本当は何があったのかわからない。だけど、どう考えても人殺しをするような奴じゃないんだ。だから、せめて前日までの彼の様子を聞けたらと思って・・・」

「様子と言われても、あたしはこういう仕事だし、お隣さんはお堅い勤め人。時間だけじゃなく、住んでる世界が違うのよね」

 その言い方は捨て鉢というのではなく、どことなく悟ったようにも聞こえた。

「じゃあ、女性関係に限らず出入りしてた同僚や友人というのも?」

「ええ。会ったことないわ」

 石垣はお湯が沸騰する前にコンロの火を消し、日本茶を淹れる支度を始めた。急須に茶葉を入れ、まず湯呑に湯を注いだ。それを急須に戻して、改めて二つの湯呑に交互に三回に分け、最後の一滴まで注いだ。

「さ、どうぞ。アルコールが抜けるよ」

「ありがとう。・・・・あら、ほんとに美味しい。いつものお茶じゃないみたい」

「よかった。大福も味見してくれ」

 勧められてひとつ手に取った。

「気持ちはわかるけど、隣で人殺しがあったのは事実だし、車で逃げる途中に事故で死んだのよね。・・・わあ、これ美味しいわ、お茶とぴったり」

 すっぴんの口許に白い粉をつけながら、屈託のない笑顔を見せた。これが彼女の素なのだろう。

「でも、彼が人殺しをしているのを見たわけじゃないんだろ?」

「当たり前よ。それだったらすぐに一一〇番してるわよ。それに新聞に書いてあったけど、彼女が死んだのは金曜の夜遅くだったんでしょ? あたしが帰ってからは何も聞こえなかったから、あの時もう彼女は殺されてたわけね」

「そういうことになるかな。で、警察にも?」

「もちろん、そのまま答えたわよ。嫌な臭いがしたから管理会社に電話しただけなんだから。水上って人とは先週どころか、ここ一ヶ月ほどは顔も合わせてないって」

「な、何だって? 一ヶ月も会ってないのか?」

 職業柄、生活のリズムがずれているのは止むを得ない。しかも、相手が寮とアパートの二重生活では接触の機会はさらに少なかっただろう。だとしても、ごみ出しや買い物に出る際など、顔を合わせる機会もあるだろうと思っていた。だから、当人の口からそんな言葉が出るとは考えてもいなかったのだ。要するに警察は、総べて状況証拠から水上を犯人と断定したのだ。とはいえ、常識的に考えれば犯行現場の住人が事件後に姿を消した事実は犯行を物語っているし、盗難車は事故を起こし、結果的に水上が命を落としたのも事実だ。それでもなお、割り切れない思いは変わることはなかった。

「ところで、隣で殺人事件があったのに平気なの?」

 素朴な疑問を口にした。

「気味が悪いのは確かね。でも、人間いつかはみんな死んじゃうんだし、犯人が住み続けているわけでもないし」

「へえ、たいしたもんだ。肝が据わってる」

「そんな・・・いちいち引っ越すのは面倒だし、物入りだから」

 残りのお茶を飲みながら、遠くを見るような眼で呟いた。それは諦念ということでもなく、悟りを口にした尼僧の言葉のようにも聞こえた。彼女の過去には石垣の想像も及ばない幾多の襞が刻まれているのだろう。それでいて、決して悲嘆や悔悟、自虐の類は滲んでいなかった。

「話を聞かせてくれてありがとう。今度は店に顔を出すよ」

 約束通りお茶を一杯だけ飲んで、石垣は腰を上げた。これといった収穫はなかったが事件当夜、誰も直接的に水上と被害者を目撃した者がいないという事実の確認ができた。

去り際に、石垣の背中に女が声をかけた

「あんた、優しいんだね。お友達の事、わかるといいわね」

 本当に水上は彼女を殺したのだろうか。それ以前に、彼は彼女と付き合っていたのだろうか。単に男と女の関係だったとしても、お互いに独身なのだから隠したり周囲に気を遣う必要はない。ましてや、そうした自由を謳歌するための〝別宅〟ではないか。だとすれば近隣の住民の目に触れないはずはない。そんな素朴な疑問が浮かんでは消えた。確かに、誰ひとり二人が口論や争っている姿を目撃した者は見つかっていない。その点は警察も認めている。しかし、被害者の周辺には他に有力な容疑者は浮かばず、あらゆる状況が犯人は水上だと示しているのだ。この現実を覆すことは困難だ。

 朝帰りのせいでほとんど寝ていなかった。もつれた糸が頭の中に詰まったような気分のまま、夕方まで無為な時間をやり過ごした。水上の件が尻切れトンボの結末になったことで、いつにも増して編集長の嫌味を聞かされた。公式にはすでに事件は解決している。一介のライターがあれこれ調べたところで何も変わることはないかもしれない。だが、今の石垣にとっては、水上が死に至った経緯、真相を解明することが至上課題だった。とはいえ、道楽で探偵もどきの真似ができる身分ではない。クビにならないように、誌面を埋められる程度のものを並行して探し回らねばならない。だからといって新しいネタが簡単に思いつくはずもなく、落ち込む気持ちを抑えて早めに家に戻った。

「お帰り」

 陽子はいつもと変わらない笑顔で迎えてくれた。仕事柄、お互いに徹夜や外泊は珍しくないので気に留めることもない。

「今日は早いな」

「ええ、珍しく予定通り原稿が貰えたから。あ、すぐ夕飯の支度するね」

「珍しくって、そんなにいつも締切に遅れるのか?」

「締切なんて、あってないようなものよ。特に高梨先生は気分屋だから・・・・」

 石垣がテーブルに着くと、手際よく料理が並んだ。今夜はほうれん草の胡麻和えと、アスパラのベーコン巻。それとサーモンのマリネだ。彩りも鮮やかで食欲をそそられた。今し方の落ち込みが嘘のように薄れていく。

「さあ、食べよ。あっと、ビールは?」

「今夜はいい。このアスパラ旨そうだな、いただきます」

 早速、アスパラベーコンにかぶりついた。熱々の油の甘さにアスパラの微かな苦みが絶妙だった。

「今日の高梨先生はご機嫌で、次回作の構想まで拝聴させられたわ」

「高梨って、あのミステリー作家の?」

「そう。でも、元々は社会派の硬派で鳴らしてたのよ」

「だけど、お堅い企業物では稼げないってことか」

「そんなとこね。それまでの取材を活かして社会派ミステリーを書いたら、それが当たったというわけ。確かに企業の内情については詳しかったので、主人公たちの心情や裏事情についてはリアリティーがあったわ」

 今日の陽子はいつにも増して饒舌だった。他愛のない話題はよく口にしたが、これまで仕事のことはお互いにあまり話さなかった。彼女が仕事の話をしないのは彼に対する遠慮というか、気遣いだった。石垣の方は半分は羨望であり、半分は自己嫌悪からだった。

 彼女はW大の文学部を出て、志望の大手出版社の編集者になった。まさに順風満帆といった略歴だ。それに引き替え石垣は二流大学の、それも倍率が低いという理由だけで文学部を選んだ。就職も、ある新聞社を目指したものの、書類選考の段階で対象外にされた。最終的に大衆誌をメインにしている小さな出版社の、契約社員とは名ばかりのライター見習いという身分に甘んじている。そんなわけでふたりの間には微妙な溝が横たわっていたのだ。

 ただ陽子は本当の意味で頭のいい女だったので、仕事の優劣など意識してはいなかったし、これまでは敢えて話題にすることはなかった。

「でね、その次回作のことなんだけど・・・」

「面白そうなのか?」

 小説自体にさして興味はなかったが、珍しく仕事の話を振ってきた彼女に話を合わせた。

「病院が舞台のミステリーなんだけど、その取材中にちょっと気になる噂を聞いたそうなの。実はこれ先生の口癖でね、〝噂を聞いた〟というのは、たいていきちんと裏も取ったことなの。ただ、情報源の秘匿のために〝噂〟ということにしてるのよ」

「ほう、ずいぶんと良心的というか、律儀なんだな」

「茶化さないで。問題はその〝噂〟なんだけど、ある画期的な研究のために被験者を集めてるんだって。中心になってるのは東都医科大らしいわ」

「被験者ってことは・・・・つまり臨床試験? 新薬か何かの?」

「そこまではわからないって。でも、特別な施設をすでに作ってあるらしいわ。国からも補助金が出てるって」

「ふーん、そいつは大掛かりだな。いわゆる治験てやつだよな。やっぱり、癌の特効薬とか画期的な治療法の開発ってとこじゃないのか?」

「かもね。それで先生も、ベタ過ぎるというのでストーリーを練り直すと言ってたわ。でも、これってケンタの次の仕事になるんじゃない? 前に、医療現場の現実をレポートするとかって言ってたわよね」

 そういうことか。遠まわしに取材のネタを提供してくれたのだ。医療過誤や現場のスタッフの厳しい現実、医師と研修医の待遇の格差などはあまりに多く語られてしまい、読者も食傷気味だ。だから何か新鮮な切り口で医療現場の現在を捉えられないかと煩悶していたところだった。少しばかり謎めいていて、何やら胡散臭さも感じられ、大衆も興味を引かれそうだ。でも小説家先生にしてみれば、リアル過ぎて娯楽性に乏しいと判断したのだろう。

 大衆誌とはいえ、ある程度の硬軟の按配は存在する。スクープを狙う気持ちがないわけではないが、市民が関心を持ってほしい記事を真摯に書きたいとも思っている。陽子のような文学的素養はないにしても、ありのままを伝えるためにあがくのはせめてもの意地だ。多くの難病患者の一部にでも光明の射す可能性があるのなら、その大がかりな臨床試験も偏見を排除して記事にできるかもしれない。


                 9


すでに朝の通勤時間帯は過ぎている。それでも相変わらず人の波は絶えることなく押し寄せ、遠ざかっていく。呆れるほどの人の多さに辟易しながらも、自分もその中の一人として街中を歩いていた。

 水上の件が頭の片隅にあったが、今の状況では我が身のために、編集長が目を止めてくれるような記事を書かねばならなかった。そこで陽子の受け売りの話をしたところ、やってみろということになった。辛うじて首の皮一枚で持ち堪えたというところだ。

 向かった先は新宿区内の東都医科大学病院。十五階建ての近代的な建物である。正面の入り口の自動ドアは絶えず開閉を繰り返し、ほとんど意味がないように思えた。フロアにいた案内係の職員に来意を告げると、建物裏手の外来者用の通用口に回るよう指示された。

 裏手に回ると、巨大なオフィスビルのような印象だ。右手の奥に職員及び、製薬会社や医療機器メーカーの営業車用の駐車場がある。診療棟の入口近くは身障者専用のスペースになっている。メインの地下駐車場は一般外来用だ。

 駐車場の出入口のゲートは自動清算方式だが、その脇には警備員の詰所があり、主に職員や薬品会社の営業マンの出入をチェックしている。向かいの事務棟の職員通用口と、並びの救急搬入口の双方が確認できる位置にあるのだ。

 その警備員室を目指していると、すぐ横をダークグレーのワゴン車がゆっくりと進んでいった。そのタイミングで救急搬入口から四人の人物が出てきた。白衣の男性とラフな普段着の男、そしてノータイで上着を抱えた男ときっちりとスーツを着込んだ男の四人である。白衣の人物は医師、普段着の男性は患者だろう。場違いな雰囲気のふたりは何者か不明だ。医師と二言三言言葉を交わした後、患者らしき男性を伴って先ほどのワゴン車に向かった。

 ノータイの男は伴っていた男性をその車に押し込むように乗せると、自分も繋がれたように後部座席に滑り込んだ。スーツの男もすぐに続いた。ワゴン車は静かにスタートし、Uターンしてきて警備員室の前で停車した。後部は濃いスモークフィルムが貼られていて、内部の様子を窺うことはできなかった。警備員がバインダーとペンを運転手に渡し、サインを確認すると一礼してワゴン車を見送った。石垣もつられて目で追っていると、職員専用スペースから出てきたと思われるシルバーのセダンがそれに続いた。

 僅かな違和感を覚えたものの、約束の時間が迫っていた。

 セダンが見えなくなるのを見届けてから警備員に声をかけた。

「案内係の方にこちらに回るように言われたんですが」

「どこの製薬会社・・・じゃなさそうだな」

「今ここを出て行ったのは?」

 習性で、つい余計なことを口にしてしまった。

「あんた誰だい?」

 初老の警備員は胡散臭い若造を睨みつけた。

「私はこういうもので、有名な病院の実態を取材させていただくという企画なんです。会社からアポは入れてあるはずなんですが」

 石垣はこれ以上ないという笑顔を見せながら、腰の低い雑誌記者を演じた。

「〈真実の目〉・・・石垣・・・と・・・、ああこれか。十五時、大林事務長に取材」

 石垣の手渡した名刺と来客予定表らしきファイルとを突き合わせ、警備の男は自身に言い聞かせるように読み上げた。

「それです。良かった、話が通っていて」

「いや、キャンセルになってるな。急な打ち合わせが入って」

「そんなはずは・・・ほんとに?」

 石垣は足元を掬われたような気持でファイルを覗き込んだ。

「残念だが、事務長も忙しい身だからね。連絡がいってないの?」

「ええ。どうやら行き違いがあったようですね」

大病院はマスコミに対して比較的好意的である。所定の手続きを取れば無下に断られることはない。それは隠し事がないということをアピールするためでもあり、痛くもない腹を探られないための防衛策でもあった。とはいうものの、アポの発信は編集長が上司に頼み込んでくれた。病院もある種のサービス業と言えるが、さすがに臨時雇いのライターの相手をするほど暇ではない。編集長ならともかく、下っ端の若造に割く時間はなかったのだろう。屈辱感を覚えたものの、この稼業を長くやっている身にはどうということもない。すぐに気持ちを切り替えた。 

 再び救急搬入口と関係車両の駐車スペースに眼を向けた。また何か気になる光景が拝めるかもしれないと思ったのだ。だが、そんなご褒美は簡単に転がっているはずもなかった。その場所には、誰もが知る製薬会社のロゴが入った車が停まっているだけだった。自嘲気味に笑みを漏らすと、石垣は踵を返し、まだ高い太陽を恨めし気に見上げてから、日盛りの中に歩み出た。 

 一回戦はあえなく空振りに終わったが、さほど気落ちしていたわけでもなかった。最初から大上段に構えたところで、成果はないだろうと疑心暗鬼だったからだ。大病院の地位のある人物が、自分のような下っ端に軽々しく内情を漏らすはずがない、そう確信していた。負け惜しみに聞こえるかもしれないが、今日の取材は編集長の顔を立てるための肩慣らしのつもりだった。

 気分転換というわけで近くの喫茶店に入った。〝カフェ〟ではない、あくまでも〝喫茶店〟の気分だった。つまらない拘りでも、今のような状況下では大事なことなのだ。

(俺なりのやり方があるさ)

 アイスコーヒーの氷をストローで弄びながら、独り言のように呟いた。

 不意にスマホが震えた。良美からだった。店の人間に断りを入れ、慌てて店の外に出た。

「先日はどうも。どうした?」

『あれから旦那と話してたら、ひと月くらい前に水上君を見かけたって』

「本当か? どこで?」

『新宿の歌舞伎町』

「へえ、そいつは意外だな。彼らしくない」

『あたしもそう思った。でもね、意外なのはそれだけじゃないの』

「だけじゃない?」

『その時、堀田君も一緒だったんだって』

「堀田・・・? ああ、あの堀田か。確かに不似合いな取り合わせだな」

『でしょ。で、気になって。この前石垣君が気にしてたみたいだから、一応知らせておこうと思って』

「ありがとう。ところで堀田の連絡先はわかるかな?」

『ごめん、それはちょっと。ただシンジの話だと、代々木辺りの電気工事店の仕事をしてると聞いたことがあるって。少しは参考になるかな?』

「大いに助かる。サンキュー。旦那にもよろしく言ってくれ」

 テーブルに戻り、さてと思案した。確かに新たな情報ではあったが、事件との繋がりは全く見えない。そもそも、闇雲に接触した人間総べてに取材するというのは現実的ではない。堀田に話を聞きたいが、今は自分の目先のことが第一だ。薄情と言われようと、現実は厳しいのだ。まずは足元の次の段を目指すことだ。より現実的な問題を形にした後で、改めて水上の件は仕切り直そう。そう自身に言い聞かせると、残りのアイスコーヒーを一気に飲み干した。

 

                 10


 木曜日。平日の都心で昼のこの時間帯は、どこの飲食店にも行列ができる。それも、若い女性たちの口コミの威力は絶大で、新しくおしゃれな店ができれば必ず話題に上る。なかでも最近できたばかりのイタリアンレストラン〈オッティモ〉は、店の雰囲気、味共に素晴らしく、女性たちの人気を集めていた。ただ、あまりの評判にランチタイムは常に行列を覚悟せねばならず、限られた時間しかないOLたちは涙を呑んで別の店に行くしかなかった。

 その日どうしても〈オッティモ〉でランチを摂りたいと願っていた清美と彩奈は、同僚に頼み込んで十五分早く病院を出た。いつもなら節約のために自分で作った弁当かスタッフ食堂を利用するのだが、給料日翌日の今日ぐらいは贅沢したいと思って、先週から根回しをしていた。

「この時間なら何とか間に合うわよね?」

「だといいけど、今日も並んでる」

 二人が行列の最後尾に並んだ時、すでに八人ほどが順番を待っていた。昼休みの時間と待ち時間を考え合わせると、食事は慌ただしいものになるのはわかっていたが、今日は何としても話題のイタリアンを味わうのだと言い聞かせ、覚悟を決めた。

 十五分ほどで四人のグループとカップルが店内に入り、あと二人だ。ところがそこから進まなかった。気になってガラスのドア越しに店内を一瞥したが、食事が終わりそうなテーブルは見当たらない。昼休みの時間は刻々と過ぎ、さすがに焦りと諦めが胸を過った。

 最悪なことにカップルと思い込んでいた男女は他人同士で、店のスタッフに呼ばれて店内に入ったのは女性一人だけだった。

 雰囲気を大切にする店側は、繁忙時であっても相席はさせなかった。そのポリシーも今の清美たちには恨めしいだけだ。ようやく直前の男性客の番になった。だが、すでに昼休みの時間は三十分ほどしか残っていない。調理時間の短いパスタランチでもぎりぎりだ。

「よかったらご一緒しませんか?」

 思いがけずその男性客が声をかけてきた。昼日中にナンパでもないだろうし、こちらは二人連れだ。躊躇したものの時間が気になっていたこともあり、素直に甘えることにした。

「同じグループということなら店の人も何も言わないでしょう」

 男は二人に目で合図すると、自然体で店のスタッフの案内に従った。彼女たちも慌てて後を追った。

 三人分のオーダーを聞いてスタッフが下がったのを確認してから、二人は彩奈と清美と名乗った。

「ありがとうございます。助かりました、昼休みの時間が残り少なかったので」

「いいえ。僕も評判を聞いてやってきたんですが、ひとりでは入り辛いなと思っていたので、ちょうど良かった。ああ遅くなったけど、僕はこういうものです」

 いかにもというタイミングで名刺を差し出した。

「石垣さん・・・ライターって、記者さんなんですか?」

「まだたいした記事は書いてないんだけどね」

「でも、なんか知的で仕事ができるっていうイメージですよね」

 彩奈が言ったのは一般論で、石垣に対しての言葉ではなかったのだろうが、ともあれ石垣の作戦の第一歩は成功した。

 食事をしながら次の段階に進んだ。彼女たちのイメージを崩さないように努めながら、短い時間の会話の中で、さりげなく出版業界の内情を披歴した。その話しぶりに気を許して、彼女たちも自分たちの職場について話題にした。

「お二人は東都医大病院にお勤めなんですか? 大変なお仕事ですよね」

 石垣は心底同情するように呟いた。

「わたしはまだ新人の部類なので、比較的軽い症状の患者さんを任されることが多いんです。けど、やりがいはありますよ」

 彩奈は優等生の応対をした。念願のランチを味わえたささやかな幸福感の余韻のせいだったかもしれない。

「そうだ。お二人にも協力してもらおうかな?」

 その時初めて思いついたかのように、彼は用意していた架空の取材話を持ち出した。いや、医療業界の裏というか陰の部分を抉るという主題を伏せ、あくまで先進医療の未来像に迫るという建前を強調しただけだ。二人は一瞬警戒したものの、現場の最前線にいるという自負が勝り、協力を承知してくれた。

「もちろんお礼はします。それに機密事項に関する部分についてはノーコメントで構わない。現場の医師や看護師たちの生の声、それがどのように医療業界に活かされているのかが知りたいんです。その辺の医師と業界の技術者たちの関係とかね」

 もっともらしい言葉を並べたが、要は彼女たちからどんな情報でも提供してもらいたかったのだ。さすがに慌ただしいランチタイムの中でそれは叶わないので、後日のアポを取ることが今日の目的だ。にわか仕込みの知識と、目新しいレストランの情報が役に立った。

 俺なりのやり方があるさ―――正面から当たって駄目なら枝葉から。石垣にとってはむしろ得意分野といえる、ナースたちのおしゃべりを拝聴しようと、ナースセンターでの彼女たちのやり取りを耳にして、一足早くお目当てのイタリアンの店に先回りしたという次第だ。     

石垣の適度に軽い物言いは相手に警戒心を抱かせず、それでいながら好奇心とプライドをうまくくすぐった。彼の二枚目半の容貌も幸いしたかもしれない。

 

 週末の夜。約束した時間よりも少しだけ早く彼女たちは現れた。二人とも一昨日とは全く雰囲気が違っていた。それも当然で、先日は勤務先の近所の店のランチ。制服にカーディガンで済む距離と時間帯だった。しかし、今日は渋谷のちょっと改まった店でのディナーである。清美は落ち着いた淡いワインカラーのワンピース。彩奈はシルクの青いブラウスに白のフレアスカートというそれなりの装いで、いつもの消毒臭は微塵もなかった。さすがにきっちりとした常識人なのだ。それにしても、女はどうしてこうも見事にいくつもの自分を持てるのだろうか。そういう自分も今夜は慣れないネクタイを締め、プレスの効いたジャケットに身を包んではきたのだが。

「やあ、今夜のお二人は見違えました。こんなに美人だったなんて」

「よしてください、恥ずかしいですよ。でも、久しぶりだからちょっぴりおしゃれしてきました」

 石垣の見え透いた社交辞令に対し、彩奈は屈託なく笑った。その笑顔通り明るく、素直な性格のようだ。

 三人がテーブルに着くと、ウエイターがワインリストを石垣に渡した。ソムリエが専従するほどには格式ばった店ではないが、店の造りもスタッフの応対も上質だ。石垣がフランス産の赤ワインをオーダーすると、ウエイターはすぐに下がっていった。

「今日はこの店のお勧めのディナーコースにしました。メインは和牛のステーキです。希望があればア・ラ・カルトをオーダーしますが?」

「いいえ、お任せします。わたしたち、好き嫌いはありませんから」

 彩奈が即答した。彼女が言うと嫌味もなく、下品さもなかった。真っ直ぐな性格がそのまま笑顔に表れている。両親が愛情を注いで育てたのに違いない。

 それぞれのグラスにワインを注ぎ、乾杯した。

彼女たちは明るく、率直に語ってくれた。メインディッシュが運ばれる頃には、病棟での日常の話で盛り上がっていた。

「―――というわけで、ドラマみたいな話はけっこうあるんですよ」

 女性二人が話題にしていたのは、つい先ごろ寿退職した先輩のロマンスで、入院患者に見初められて交際が進み、ついにはめでたくゴールインしたという。石垣もテレビドラマの中の話だと思っていたが、現実は案外シンプルなようである。

 彼女たちに言わせると、職場恋愛は一般企業と変わらないが、対象の多くは医師になるため競争倍率が異常に高いのだという。加えて勤務形態によるすれ違い等で恋人として関係を続けるのはかなりの労力を必要とする。出入りの製薬会社や医療機器メーカーのMR(一般企業でいう営業マン)も対象にはなるが、後々の仕事に影響があるのでゴールインまでは難しいらしい。その点、患者の場合は完全に主導権はナース側にあり、入院期間中に患者の対人関係や経済状態などもおおよそわかってくるという。

「それじゃ、お二人とも何人もの患者さんに求婚されたでしょう?」

「あはは、石垣さんて口がお上手。残念ながらわたしはまだそんな経験はないです。でも、彩ちゃんは一度結婚を申し込まれたのよね?」

 清美が冷やかすように肘で突いた。

「先輩、その話はやめてください。いくらなんでもあれはひどいですよ」

 初めて彩奈の表情が曇った。

 問題の男性は妻に先立たれた五十過ぎの会社経営者で、胃潰瘍の検査入院の際にひと目で彩奈が気に入り、何とか入院を引き延ばせないかと懇願してきたという。それができないとわかると、いきなり会社の概要の書かれたパンフレットを手渡し、これだけの資産があるから不自由はさせない、だから結婚してくれ。と看護師仲間の前で頭を下げたらしい。確かにその直情ぶりと愚直さは認めるが、告白された側の気持ちはいかがなものか。

 石垣の期待しているのはそうしたゴシップではなく、例の〝革新的な研究〟についての情報だったが、話題の不自然な軌道修正は避けたかった。

「他にも経済的に恵まれた方がたくさんいらっしゃるんです。うちの先生はみなさん優秀な方ばかりですから」

「へえ、政財界のVIPとかもいるんでしょうね?」

「もちろんです。前財務大臣も毎年人間ドックを受診されています。あ、これは新聞にも載っていたことなので、決して個人情報の漏えいとかではないですよ」

 清美は生真面目に断りを入れた。彼女もまた、職務にも自身にもポリシーを持っているようだ。

 それからひとしきり著名人の名前が挙がり、二本目のワインが空きかけたころ、ようやく興味深い話が聞けた。事務長のところに、およそ医薬品メーカーの営業マンとは思えない物腰の人間が定期的に訪れるというのだ。その男がやってくる日、事務長はいつになく硬い表情で、明らかに忌避したい相手らしい。

「でも、事務長が不本意ながらも会っているのには理由があるんだろうな」

ワインのせいもあって、少しだけ彼女たちとの距離を詰めた。

「ええ。その人が帰る時はいつも見送りに出られるほどですから、どこかの偉い方かもしれません。最初は患者の家族の方か、ひょっとして弁護士さんかとも思ったけど、そういう感じでもなくて・・・。ご存知とは思いますが、大きな病院ゆえの問題も多いんです、医療ミスの疑いをかけられたり」

「それよく聞くけど、そんなに多いもの?」

「まさか。実際にはほとんどが感情論です。先生たちも人間ですから、常に百パーセントということはありません。相手も生身の身体ですから、開腹したらCTや術前の検査でははっきりしなかった病巣が見つかることもままあるんです(もちろん、そうした可能性については事前に説明していますが)。それをドクターたちは瞬時に判断して、最善の方法を摂ります。ナースも指示に従って臨機応変にサポートをします。そうしたことを術後に説明すると、人によっては余計な手術をされたとか言われてしまうんです。悲しいことですが」

「なるほど。その意味でも医師と看護師は運命共同体というわけだ」

 話が望んでいない方向へ進みそうなので、石垣は病院側に話を戻そうと試みた。

「先輩の言うとおりですよ。わたしたちがこんなに頑張ってるのに、理解してくれない人たちがいて、時々虚しくなります。うちの病院は患者さんのためにいろいろ考えていて、症状によっては転地療養や転院の相談にも応じてるのに」

 彩奈が懸命に清美の援護をした。当事者ではない石垣に対してそんなにむきになる必要はなかったが、日ごろ腹に溜めていることなのだろう。

「転地療養っていうと、喘息なんかで空気の澄んだ地方がいいとかよく聞くけど・・・」

 日頃の激務を想像した石垣は話を合わせた。

「ええ。でも最近はもっと広い意味で効用が評価されているんです。例えばうつ病の患者さんの場合は、文字通り環境が変わることで改善がみられます。初期のがん患者の方で、転地後半年でがんが小さくなったという特異な例もありました。もちろん、この場合は因果関係を医学的に解明することは難しいですが」

「なるほど。いずれにしても患者さんのためのケアを考えられているということですね。いやあ、やはり医療関係のお仕事というのは大変なんですね、医師も看護師も」

「ありがとうございます。そう言っていただけると、私たちの苦労も報われるというものです」

「最近は各科の患者さんに勧めているようです。今後の研究のために協力していただける方を募っているとも聞いています」

 清美の言葉に石垣は反応した。転地療養と今後の研究。何やら陽子の言っていた内容と符合する。自腹でコースディナー三人分の散財をした価値はあったようだ。

先日のランチの後、後日ゆっくりと夕食をしながら取材をということになり、その際には謝礼も出すと伝えた。しかし、謝礼についてはふたりとも固辞し、そのかわりに彩奈が店のリクエストを出したのだ。

「評判のお店で、一度行ってみたかったの。わたしたちのお給料では普段は無理だから」

 取材費が出るので気にしなくていいと答えたものの、実際にはそんなものは出るはずもなかった。だが、勢いもあって話はそんな流れになってしまった。

女性二人はデザートを前にして満面の笑顔だが、石垣には余裕がなかった。やむなく直球勝負に出た。

「そういう療養所のようなものは病院側で用意するのかな?」

「ケースバイケースですね。『転地』となると、要は患者さんの生活環境を変えることが主眼ですから簡単ではありません。職場のこともありますし、家族の事情というものもあります。転院の場合だとうちの病院の関連施設や地方の系列病院を紹介する場合もありますが、個人的な相談事になります。ですからデータの蓄積まで至らないんだと思います。さらに今後は医薬品だけでなく、いわゆるメンタルヘルスという部分も研究の余地があると思います」

「最近耳にする、アニマルセラピーなどもその一環ですか?」

「よくご存知ですね。そうです、彼らの存在によって患者さんの回復が早まったり、投薬の効果が飛躍的に高まったりすることはよく知られています。ですが科学的、医学的な説明は十分にはできていません。でもうちの病院もその方面に力を入れ始めているらしくて、脳神経外科や精神科のドクターが研究会を開いたりしているようです」

 医師は病因について説明し、これはと思うケースについては転地療養についても選択肢の一つであることを伝える。さらに系列の専門病院を紹介する場合もある。ただし、それを選択するか否かは患者本人の自由意志ということだ。経済的な問題や、病状の深刻さによってその先は変わっていく。

 ひとつの取っ掛かりになるかと思ったが、病院側の強制ではない以上、計画性といった側面は見えてこない。鉱脈を見つけたと思ったが、どうやら早合点だったようだ。

 無常に時間は過ぎ、最後のコーヒーも飲み終えた。

 昨夜、事情を話して陽子に〝取材費〟の借用を頼み込んだ。

「ケンタの気が済むように」

 彼女はそう言って、申し出の倍の金額を手渡してくれたのだ。

だが高額の取材費になってしまった挙句、さしたる収穫も得られず、石垣はすっかり落ち込んだ(もっぱら財政面においてだが)。清美たちはそんなこちらの事情には無頓着に、また誘ってくださいと笑顔で手を振ってメトロの入口に消えた。若い女性と同席するのは悪いものではないが、目的はあくまで取材であってアバンチュールを求めているわけではない。

 陽子に対する負い目と、己の詰めの甘さ。そんな後悔ばかりを胸に家路についた。僅かな慰めは、大学病院内において新たな分野に向けた動きが存在するという事実が確認できたことか。具体性には欠けるが、作家先生の言う〝噂〟は本物らしい。

時刻は午後十一時を回っていたが、渋谷の街は相変わらず人で溢れていた。いったいどこからこれだけの人間が集まってくるのかと不思議でならない。それでいながら、彼ら彼女たちはお互いの存在を無視しながら歩いていく。スクランブル交差点で、前後左右から一斉に人の波が押し寄せるのに、誰一人としてぶつかり合って足を止める者はいない。近くのビルの階上から眺めると、まさに蟻の群れを連想させる。しかし、これは揶揄の言葉ではなく、脅威と畏敬の念からの賛辞だ。

 今の自分は、我が身だけなのに一歩も先に進めず、ただ立ち尽くすしかないのだ。


                 11


 エレベーターホールを抜け、中庭に面したエントランスを出ると、緩やかな傾斜の舗道が弧を描いて伸びている。滝口峰夫はゆっくりと車椅子を進めながら、午前中の凛とした空気を胸いっぱいに吸い込んだ。

灰褐色の山肌が、裾野から掛けあがってくる春の気配に束の間白や淡いピンクの差し色を見せたと思ったら、すぐ後ろの初夏の陽気に追い立てられるように姿を消し、気が付けば新緑のグラデーションを纏っていた。かつての地肌が透けたような斜面は寂寥感を募らせたが、今は力強い生命の息吹を感じる。

 陽射しは強かったが、風がないせいか遠景には靄がかかり、八ヶ岳の稜線は残念ながらおぼろげにしか見えなかった。それでもこの場所に来ると、滝口は辛うじて心の小波を鎮めることができた。

「今日は残念ですね。山がすっきり見えないわ」

「ああ、留美ちゃん。おはよう」

「おはようございます」

 親しげに声をかけた若い女性が傍らに立ち、滝口と同じように霞んだ山脈に眼を向けた。

留美と呼ばれた彼女は、目鼻立ちのはっきりした美人だった。ほとんど化粧っ気がなく、素肌が透き通るように白い。

 髪はポニーテールで、チェックのプリーツスカート、同じチェックとグレーの切り返しのベスト―――近くの女子校の制服だ。驚いたことに彼女は高校生らしい。そう思って見ると、さらに大人びて目に映り、制服とのギャップに戸惑ってしまう。それでいて、彼方の風景に見事に馴染んでいる。

 都内の有名女子高の前で登校してくる生徒を隈なく観察すれば、同様の整った面立ちの子を何人か見つけることができそうだが、およそこの風景には似合わないだろう。

「お母さんの具合はどう?」

「ええ、相変わらずです・・・」

 留美は僅かに表情を曇らせ、抑揚のない声で答えた。

「そう・・・。でも、希望は持ち続けないと」

 滝口は何かを振り払うように言葉をかけた。

「ありがとうございます。滝口さん、ご自分こそ―――」

「いや、私のことはいいんだ。それより、留美ちゃんがしっかりしないとな」

「わたしは大丈夫。おじいちゃんやおばあちゃんもいるし」

「東京のお姉さんは元気なのかな?」

「ええ。一生懸命働いて、毎月仕送りしてくれています。たまには帰ってきてほしいけど、仕事が大変みたいで・・・」

「そうか。お姉さんも辛いね」

 滝口は再び視線を遠くに向け、それきりふたりは黙り込んだ。

 留美の胸の内には、初めて滝口と言葉を交わした日のことが鮮明に蘇っていた。

 

 花壇には色とりどりのチューリップが競うように咲き、芝桜の絨毯が周囲を彩っている。視線を上げると、数本の白樺の高木が適度に陽射しを和らげていた。その斑になった影を追うように車椅子を進め、滝口はいつものお気に入りの場所で止まった。そこは緩やかに下っていく小山の斜面の遥か彼方に八ヶ岳を臨む開けた場所で、絶好の展望スポットなのだ。

「今日は少し寒いですね」

 何度か見かけたことのあった、車椅子の老人の背後から留美が声をかけた。

 老人はすでに指定席のようになった広場の突端で、いつものように飽くことなく山々と雲を眺めていた。曇り空でいくぶん暗く映るその姿は超然としていて、車椅子がまるで深く根を張った大木の切株に見えた。

「お嬢さん、どなたかが入院されているのかな?」

「母が―――」

「そう。付いていてあげなくても?」

「ええ、今は眠っているので」

「それならいいが。失礼だが、お嬢さんのお名前は?」

「留美です。柄本留美といいます」

「素敵な名前だ。私は滝口」

「ご家族の方は?」

 年代的には祖父と同じくらいの滝口に対して、留美は型通りの問いを投げた。

「いや、もう私だけなんだ」

「奥さんは・・・亡くなられたのですか?」

 高校生とは思えない慈愛の響きのある声音に、滝口は思わず胸を詰まらせた。そして、自然に語り始めていた。それは彼女にというよりも、遥かな山脈に向けて。

「―――私は四十年間、真面目に働いてきた。別に自慢するわけじゃない、そうすることしかできなかっただけだ。学歴も、これといった才能もなく、容姿も・・・。だから、与えられた仕事をひたすら地道にこなすことしかできなかった。それでも、人並みに一人の女性に出会い、愛し、そして結婚した。次の年には息子も生まれた。そりゃあ嬉しかった。だから、以前にもまして仕事に邁進したよ。子供のためにと残業も厭わず、休日出勤にも文句は言わなかった。それも家族のためだと思ったからね。だけど、違ったんだ。仕事にかこつけて、妻や息子のことがわかっていなかった。妻の体調や息子の進路の悩みもまともに聞いてやらなかった。よくある典型的な駄目な父親像そのものだった。そのせいで、独立した息子とはすっかり疎遠になってしまった。それでもね、定年まで無事に勤めあげ、僅かではあるけれど退職金も手にし、これで自分の役割の証になると思ったんだ。金額はともかく、その総べてを妻に差し出すことでリセットできると信じていたんだよ。だが、つくづく神様は、いや運命か、まあそんなことはどうでもいい、ともかく私には冷たかった。退職して三ヶ月ほどして胃の不調を感じて医者に行くと、こともあろうに癌だった。もちろん、その医師は面と向かってはそんなことは言わなかったよ。ただ、ある専門医の紹介状を書きましょうと。私は直感した。だから、紹介された大学病院での検査の日、私は担当の先生にきっぱりと言ったんだ。家族にではなく、私自身に告知してほしいと―――」

 話し疲れたのかそこで言葉を切り、しばし俯いた。

 確かに不運な話だが、それだけなら同じような境遇の人たちは数多いだろう。定年という年齢的なものも当然ながら、真面目で不器用に生きてきた仕事人間には、仕事がないというストレスで体調を崩す者が少なくないという。悲しみや苦しみは人の数だけある。

留美は黙っていた。

「この身体はどうなっても良かったんだ。自分の肉体の痛みは、どうだって―――」

 絞り出すようにして彼の口から語られた話の続きは、あまりに残酷なものだった。

 医師は渋ったものの、結局は滝口の意志の強固さに折れて、ステージ4の膵臓癌であることを告げた。余命半年、奇跡が起これば一年、それが彼に残された時間だった。

 彼は妻に事実を告げ、運命に従うことを望んだ。すなわち、無用な延命措置は行わなくて良いこと、自分の看護のために必要以上の時間を遣ってほしくないことを。だが、妻は泣きながらその申し出を断った。意外だった。取り柄のないだめな夫を見限らなかったのだ。これがドラマなら夫婦愛の美談のワンシーンだが、現実の過酷さは想像できた。自分は絶え間なく襲ってくる激痛に耐え、看護する側はその苦しむさまを間近で見守るしかない。そんな情景がありありと浮かび、胸苦しさに押し潰されそうだった。それでも、彼女の妻としての偽りのない願いであり、素直に感謝しなければならないと思った。

 だが、本人が考えた以上に彼女の気持ちは強固だった。妻は翌日から病院に毎日通いつめ、滝口の意志を無視して可能な限りの治療を医師に懇願したのだ。抗がん剤はもちろん、放射線や最新療法まで、ありとあらゆるものを試したのだ。結果的にその医療費の負担は高額なものになり、僅かな退職金も大半が医療費に消えた。

 三ヶ月もすると、病状の進行は鈍ったかに見えたが、同時に妻の疲労もピークに達していた。ある日の午後、夫の好物の煮物を差し入れようと台所に立ち、鍋を火にかけたところでめまいに襲われて昏倒してしまった。運悪く、鍋つかみ代わりの布巾がガス台に落ち、やがて火が点いた。

 近所の人が気づいたときはすでに手遅れだった。火はあっという間に台所と居間に広がり、消防が駆け付けた時には家はほとんど炎に包まれていた。近隣への延焼を防ぐのが精いっぱいで、とても建物の中に入れる状況ではなかった。

 ようやく鎮火した現場の、猛烈な異臭とくすぶり続ける黒焦げの廃材の下から、無残な焼死体が発見された―――。

 こうして滝口は最愛の妻と、唯一と言える財産の家を失った。余命わずかな彼にとって家財はさしたる意味を持たなかったが、妻の死は残り少ない命の意味を無にした。裏を返せば、あと少しだけ耐えればその悲しみからも解放される。それが唯一の救いと言えるかもしれないが、あまりに残酷な、悲しい救いである。

 今の彼は肉体の痛みを自身への罰として与えているだけの生命体だった。彼の悔恨や贖罪の思いは理解できなくもないが、医師は素直に同意できなかった。だから本人には告げずに鎮痛剤の量を増やしていた。確かに本人が望んだように痛みがあり、亡き妻に対する贖罪を少しでも果たしているという自己満足はあったかもしれないが、鎮痛剤の力を借りなければそうした思考を維持する事さえ困難だったに違いない。

 滝口が生をつないでいるのは、今日も一日苦痛を受けたという自虐的な達成感だけであった。それは城壁に空いた巨大な穴を小石を積み上げて塞ごうとしているようなもので、ほとんど虚しい行為に思われたが、彼にとってはそれだけが生きていることを許されている理由だと決めつけていた。大いなる自己矛盾だが、それを排除してしまったら、彼の命は宣告された半年を待たずして消えてしまっていたに違いない。今の彼にとって手元の時間はどのような意味を持つのか、もはや誰にも答えることはできなかった―――。


「留美ちゃん、ありがとう。あとはわたしが」

 我に返ると、先ほどまで滝口の背後に控えていた看護師が車椅子に手を添えていた。

「さあ、部屋に戻りましょうね」

 鎮痛剤が利き、眠りに落ちた滝口の表情からはもう何も読み取ることはできなかった。本人はおそらく熟睡することなく、疼痛のために半覚醒状態の中で自身を呪い続けているのだろう。実際、留美と話したことが最近の記憶なのか夢の中の出来事なのか、もはや彼自身には判断できなかった。

 留美が病室に戻ると同時に窓に水滴が落ちてきた。山の稜線を覆っていた雲は、とうとう麓の集落の頭上に広がり、時の流れのままに雨を降らせた。そこには抑揚も緩急もなく、白樺の幹も傍らのヤマツツジの蕾も、下草の若葉も区別なく濡れそぼるばかりだ。

 柄本美和子はベッドで静かに眠り続けていた。

 辛うじて自発呼吸はしているが、意識が戻らないまま一年が過ぎた。だが表情は穏やかで、まるで自宅の寝室で休んでいるかのようだ。

「可能性は捨ててはいません」

 担当医は亜美と留美の姉妹が詰問する度にそう繰り返した。

 一年前に父を失った。自殺だった。

父の清二は小さな洋品店を経営していたが、年々減少する店の売り上げに頭を悩ませていた。そんなある日、一人の男が店を訪ねてきた。

「ある一流メーカーの縫製工場をこの町に造ることになったのですが、そこの共同経営者を探しています。もし、関心がおありでしたらお話だけでも聞いていただけませんか」

 男は人当たりのいい笑顔で、某有名アパレルメーカーの名前の入った名刺を差し出した。正確にはその代理店の運営会社社長という肩書だったが、父親の清二はこれまでの知識が生かせると乗り気になり、後日、藤本というその男と改めて会うことにした。

「共同出資をしていただける方が他に数名いらして、おかげで土地はすでに仮押さえしました。あとは工場の建設資金の一部を負担してもらえれば、すぐに着工の予定です。工期は約十か月。稼働後はメーカーのスケジュールに合わせて生産・納品するだけです。年間の最低ロット保証も契約に盛り込んでありますから、心配はいりません」

 仮契約書の内容は、本社発注分以外の新規開拓分は自由裁量が認められ、純益の三パーセントをロイヤリティーとしてメーカーに支払えば、残りは共同経営者間で分配することができる。資産は出資金の比率分が自分の持ち分になる、という好条件だった。さすがに即答はしなかったが、先細りの小売店の経営状況を考えると、身体の利くうちに新しい事業に乗り換えた方が得策だという計算は働いた。結局、自宅兼店舗を担保に銀行から借り入れをして資金を調達することを決心したのだ。

 出資金(小切手)を持って都内のそのオフィスを訪ねたのは、年も押し迫った十二月の半ば過ぎのことだった。駅前の雑踏から、建ち並ぶビルや商店はどこもクリスマス一色で、何かに背中を押されているような気分のまま人混みを掻き分けながら歩いた。

目的のオフィスは渋谷のJRの駅からほど近い雑居ビルの四階にあった。

『トップモード藤本』

 それが男の経営している会社だった。思いのほかこぢんまりとしたオフィスだ。内装もデスク類もなんとなく地味で、およそファッション業界の先端とは言い難い。

「ご承知のようにこの近辺は再開発の最中で、ここは仮の事務所です。我が社も目黒にあったビルを売却して資金を調達したんです。あちらを拠点にして、いずれは都心に向けてトレンドを発信したいと考えているのです」

 清二の疑念を察して、藤本は説明した。

「いえ。新たな事業に資金を集中するのは当然です」

「その通りです。やはりあなたをお誘いして良かった。どうですか武村さん、お話した通りの人でしょう? あっ、紹介が遅れて申し訳ありません。こちらは〈ワールドライフ〉の営業本部長の武村さんです」

藤本は傍らの、三つ揃えのスーツの男を清二に紹介した。藤本とはタイプの異なる人物で、きっちりと固めた髪型と縁なしのメガネがいかにも切れ者に見えた。

「この度はこちらの藤本さんともども弊社の事業拡張に参画していただけるということで、大変ありがたく思っています。よろしくお願いします」

「こちらこそ。よろしくお願いします」

 差し出された名刺のブランドロゴを見て、清二は疑念を払拭した。一流メーカーの営業本部長直々の商談だ。藤本社長も温厚な紳士だし、心配は無用だ。新しい事業を軌道に乗せ、下の娘を志望する大学に行かせてやりたい。清二の本音はそれだけだった。今の経済状態では次女の望む東京の大学に通わせることは困難だったのだ。

 改めて事業計画の詳細を確認した。その後不動産登記の委任状、および各種契約書に署名捺印をし、最終的に小切手の受領書を受け取った。これで次女を東京の大学に通わせることができる。清二はささやかな達成感に浸っていた。

 だが、そんな親心はあっけなく踏みにじられた。後日、不動産業者に同行して実際に見せられた土地は、以前藤本に見せられたものとは全くの別物だった。地番は近接していたが、登記されていたのは山林の傾斜地で、そのままではおよそ建築物が建つ場所ではなかった。確かに専有面積は広大だが、それも実勢価格は笑ってしまうほど安い土地だった。後継者のいない地主が持て余して、ただ同然で手放したのだ。

 三者で契約書を取り交わした三週間後。新年の晴れがましい空気もすっかり消えていたが、一向に工場建設が進まないことに業を煮やした清二が藤本に電話を掛けた。ところが、会社の電話も携帯も現在は使われていないという。頭が真っ白になったが、ともかく武村に連絡しようと〈ワールドライフ〉の営業部に電話をした。

「当営業部には武村という者はおりませんが。因みに部長は木内と申します」

 このときはじめて、騙されたことに気付いた。それでも手元には土地の登記簿があり、それなりの資産価値はあるだろうと一縷の望みを抱いていたのだが・・・・。

 巷で喧伝される詐欺事件や悪徳商法。そうした手合いにどうしてみんな騙されるのだろう。少し冷静になれば気付きそうなものなのに―――日頃から清二もそう思っていた。第一そんな大金は手元にないし、騙す人間も相手を選ぶだろう。端からそうやって他人事と思っていた。しかし、現実に大金を騙し取られたのだ。無いはずの金も苦労して捻出し、この前まで考えたこともないような夢を見ていた。人にはやはり分相応というものがあるのだろう。そのことを身を持って思い知らされた。

 清二には借金だけが残った。若くて健康な身体があれば、返済が不可能な額ではなかったかもしれない。しかし、清二にはその気力も体力も残ってはいなかったのだ。妻はさらに弱かった。打ちのめされた夫を支えるだけの力が、彼女にはなかった。加えて、二人の娘に対する申し訳なさが何よりも重くのしかかった。だから、夫が最終的に辿り着いた心中という選択肢も、彼女には最初から念頭に、というよりも唯一無二の結論だった。

 清二としては妻が不憫で、どうしても残していけなかった。その覚悟は自分の命を絶つことの百倍も悩ましいものだった。理由はどうあれ、自分の一番身近な、かつては愛情で結ばれていたはずの人間を手に掛けなければならない・・・。

 彼は妻の首に回したロープを思い切り引き絞った。掌にロープが食い込み、皮膚を通して食道を押しつぶす感触が伝わってくる。覚悟していたはずの妻も本能的にロープを緩めようと首筋を両手でかきむしった。清二は顔を背け、泣きながらなおも両手に力を込めた。

「美和子、許してくれ。腑甲斐ない俺を、どうか許してくれ・・・・」

 やがて妻の全体重が清二の両腕に沈み込み、静かに床に崩れ落ちた。

 しばらく呆然とその不自然な姿を眺めた後、ふと思い出したように首に巻き付いたロープをほどき、居間の鴨居にかけ、適当に輪を作った。店の片隅から丸椅子を持ってきて高さを調整した後、ロープの輪に頭を通した。

「すぐに行くからな。待ってろよ、美和子・・・」

そう呟くと、何の躊躇もなく椅子を蹴った。

次女の留美がその現場を直視することはなかったが、両親を同時に失ったという底なしの陥穽に呑み込まれたような感覚は、得体の知れない恐怖となって彼女を締め付けた。

しかし本当の悲劇、地獄はその日の夜に病院から伝えられた一報から始まった。

「お母さんが一命を取り止めました」

一瞬、蛍火のような安堵感を覚えたものの、医師の一言でそれも霧散した。

「ただし、意識は戻っていません。酸欠の時間が長かったせいで、仮に戻ったとしても障害は残るでしょう。今は祈るだけです」

 こうして、亜美と留美の姉妹は〝殺人未遂犯〟の父と意識の戻らない母という、二つの十字架を背負うことになったのだ。


                12     


 官邸の一室で本郷と一条は顔を突き合わせていた。どちらの表情も硬かったが、本郷のそれの方が際立っているように見えた。

「総理の肚は決まった。そう思ってよろしいのですね?」

「既に〝こと〟は動き始めている。もう後戻りはできない」

「問題はありません。条件は整っています」

「だが、大いなる賭けであることに変わりはない。予算も投入した以上、結果が出なければ誰かが責任を取らねばならない」

「確かにそうですが、これ以上先延ばししても結果は同じでしょう。むしろ、この機を逃してしまうと、雑音が拡大してしまう恐れがあります」

「かもしれんが・・・」

 ある会合の席で、国家公安委員長の一条に声を掛けられたのは去年の今頃だった。

当時は内閣府において大小の不祥事が相次ぎ、本郷は対応に追われていた。与党内において連日の会合が持たれ、関連省庁の官僚たちも徹夜を余儀なくされる日々が続き、本郷には片時も気の休まる時間はなかった。

「国民総合管理構想」は本郷が予てから模索していたものである。概略は広範囲に及ぶ個人情報を一元管理し、将来的には民間企業も総合的に運用できるというものだった。これによって、国は膨大な量の事務手続きの簡略化が図れ、人的にも物理的にも省力化できる。さらに、かつてのように必要なデータが拡散、紛失することも防げるという。加えて、この点こそが本郷の構想の肝だが、国内の防犯カメラ映像やSNS上のデータをシステムにリンクさせようというものだった。結果、犯罪捜査は格段の早さで進捗することになるという。確かに画期的に思えるが、個人情報の保護という点も含めて思った以上にその壁は厚かった。各方面に多様な研究機関の調査を指示していたものの決定打が見い出せずにいたとき、ある〝ツール〟の存在を一条から知らされた。

 一条にとっては本郷の政策や党の体制維持に関心はなかった。唯一、不祥事や国家的犯罪に対する過激な言動が自身と僅かに共鳴する部分だと思えたに過ぎない。その一点において、本郷の「国民総合管理構想」は意に叶っていたのだ。ただし、本郷の考えはまだまだ穏健なものだった。一条に言わせれば、犯罪摘発の一助としてのツールでは物足りないと感じていた。それでも表面上は本郷の意を汲んで、構想に沿ったシステムの概要について提案した。本郷は構想の具体像が見え始めたことで、本腰を入れて法案作成に動くことになったのである。この時点で呼称は「国民総合管理システム」と正式に決定した。

 一条にしてみれば国家の行く末といった大局観は無用だった。事の大小にかかわらずルールを守らない人間が許せない、ただそれだけだった。それは正義感と呼ぶのは気が引ける、異常ともいえる潔癖症の延長線上にあった。彼にとって不正はそこら中に染みを作る汚水同様、見つけ次第拭き取らなければ気持ちが悪かった。理想は、知らないうちに自動的に染みが除去されること―――そんなことが可能な装置があればと妄想することさえあった。確かに偏屈な人物だが頭脳明晰で弁が立ち、かついかなる勢力にも迎合しない点はリベラルな政治家からは歓迎されていた。尤も、国家公安委員長というのは国務大臣でありながら、実動部隊を伴わない〝裸の王様〟的な不可解な役職であることは否定できない。それでも力が無いわけではないのだ。警察に煙たがられるくらいの影響力は有している。

 あれから一年余りが過ぎた今、本郷らが作成した草案は十分に熟成されていた。もちろん、一条も深く関わっていた。

「それに総理。一つ耳寄りなお話があります」

「何だね?」

 本郷はさしたる期待もしなかった。

「実は、あのチップにはオプションがあって―――」

一条はおもむろにブリーフケースから暗紅色のファイルを取出した。

 手渡されたファイルの表紙には堂々と〈M計画〉と明記されていた。疑念を抱いたままページを捲っていた本郷は、思わず眉をしかめた。

「何だね、これは? 以前の草案に勝手に追記されているじゃないか。こんな追加条項を私が認めるとでも? こんなものが実現すると思っているのか?」本郷の口振りは、非難というよりも自身に対する問いのようだった。「第一、〝彼ら〟が納得するはずがない」

「それはどうでしょう。それよりも、肝心なことをお忘れのようですが、総理はすでに医療特区を承認しているということです。〝彼ら〟はきっと心情を理解していると思いますよ。それに総理自身もすでに検討されていると推察しますが、〈MLチップ〉の導入が法制化されればその後は運用の問題です。『Z法』も解釈次第―――そうお考えだと」

 本郷が想定していたのはあくまでも内閣府の〝人間〟による主導権の掌握である。警察機構が持っている各種認証システムとの連携によって国民の総合管理を行うことが目的であり、運営は政府の手の内にあることが肝要だった。しかし、追加条項によれば、チップが搭載する双方向の通信機能により、ホストコンピューターと各自交信して自己完結できる能力を有しているという。つまり、人的介入を排除してもAIによって自立稼働し、犯罪の認定、判例の検索、量刑の確定―――さらには刑の〝執行〟まで完了できるというのだ。その意味を質す勇気が本郷にはなかった。

「国民総合管理システム」の稼働の為には法改正が不可欠であり、その障壁の高さは十分に理解していた。ただ、その壁の向こう側には広大な新世界が拡がっている。本郷は予断を控えていたが、国民からの〝情報〟が自動的に収集できるようになった時点で、現存の社会システムを介入させる意味は薄れるのではないかという素朴な疑問を抱いていた。だからこそ『Z法』には敢えて玉虫色の部分を残した。しかし、〈チップ〉の実現性が高まった今になってみると、退路を自ら断つ結果になりそうだった。

 今さら〝双方向〟の意味について問い質す勇気もなかった。後戻りはできない。一条の提案を受け入れることを決断したあの時、本郷はジャンプ台から飛び出したのだ。飛距離が遠大であることは予想できたが、果たしてどれほどになるのかは想像できなかった。どこまで飛距離が伸びたとしてもできる事はただひとつ、どんな形であれ無事に着地することだ。着地さえ成功させれば、観客もスタッフも拍手で迎えてくれる。そう己に言い聞かせ、本郷は小さく頷くしかなかった。

 一条の決断、実行は素早かった。実は、本郷に提案する以前に早々と開発に向けて各方面のリサーチはほぼ終えていた。総理の内諾が得られたこの時点ですでに〝機器〟の試作品は完成しており、次の段階を迎えていたのだ。開発チームから定期的に届く中間報告書の内容から、彼には確信があった。彼らは必ず期待に応えてくれる、と。


世間がゴールデンウイークに浮かれている最中だった。大学にとってもプロジェクトにとっても重大なその日、山梨中央総合病院に併設された研究棟の実験室、通称「Mルーム」には異常な緊張感が漲り、息苦しいほどだった。中央の処置台の傍らでは、執刀医の柏木と数名のオペレーションスタッフが準備を終えていた。

 医療スタッフの他にも大学の工学部研究室から応援要員が駆けつけ、さらには共同研究を進めてきた『トーホーソニック』のエンジニアたちも同席した。実験棟には五つの部屋があり、「Mルーム」と称されるここは最も広い部屋だったが、隔離された処置室の周囲はスポーツ観戦のパブリックビューイングのような有様だった。応援要員の他にも、門下の研修医や大学院生の見学が許可されていたからだ。ガラス張りの最前列という特等席に近づけない彼らのために、別室では臨時に設置された複数の大型モニターにスタッフの動き、執刀医の手元や患部のアップが映し出されるようになっていた。

 階上のモニタールームには学部長や主任教授といった肩書の幹部たちが群がり、処置台に横たわる被験者を見下ろしていた。

「では、これより〈MLチップ〉留置術を行ないます」

 すでに全身麻酔された〝患者〟の頭部に、柏木はおもむろにメスを押し当てた―――。

柏木は慣れた手順で頭部を切開し、頭蓋にドリルで三センチほどの穿孔を開けた。錯綜する神経を傷つけないよう細心の注意を払い、目的の部位をスコープ越しに確認した。

(いよいよだ)

 本人もギャラリーも一斉に緊張した。

ケースから取り出して滅菌されたそれは、傍らのトレイの上で銀色の光を放っていた。サブに回った神林が特製の鉗子にチップをセットした。柏木はそれを受け取り、慎重に目的の個所に挿入した。ギャラリーは固唾を呑んでその様子を見守っていたが、何ら劇的なことは起こらなかった。大量の出血も異常な痙攣も起こらず淡々と縫合が行われ、通常の開頭術では考えられないような短時間で手術は無事に終えた。

柏木の手技は巧みだったが、派手なショータイムを期待していた多くの観客たちは失望の色を隠さなかった。だが、プロジェクトの中心にいる人間たちにとってはこの先が本番であり、今日の手術はその端緒に過ぎないことを自覚していた。彼らが望んでいたのは確実に施術が行われることだけだった。

 露骨に不満げな表情を浮かべながら、大半の見学者が退室していった。残った主要メンバーはようやく緊張を解き、一週間後にスタートする本題というべきデータ収集に向けてのカンファレンスのために別室へと移動した

「治験第一号の今回は〈ML1〉という試作品を使用しています」

 エンジニアの畑中が説明を始めた。

 概要はすでにスタッフに周知されていることだった。施術が成功すれば、以降のタイムテーブルはきっちりと決められていて、誰ひとり暇な人間はいなくなる。研究者はそれぞれの分野のプロフェッショナルとしてフルに働くことになるのだ。

 Mルーム内に設置されたモニタールーム(観測室)は今回の臨床試験のために特別に設計した部屋で、超微弱な電波・電磁波を受信する工夫がされていた。端的に表現すれば、部屋全体が巨大なアンテナのような構造だった。ただし、通常のアンテナと決定的に違うのは、外部からの電波を集約するのではなく、内部の電波を取り込むという点であった。その為に部屋全体がシールドされ、余分な電磁波が入り込まない構造になっていた。

 一方で、受信する信号が微弱なので強大な増幅装置を必要とするため、専用の受電設備と独立した回路を有していた。ここでは東都医大のかねてからの研究課題である「視神経からの電気信号の読み取り」を含む複数の臨床実験が行われる予定である。その為に開発した「脳波測定器」が〈ML1〉並びに〈ML2〉であった。

 畑中の説明では、送信機能に特化した〈ML1〉の方が初期の試験内容においては成果が期待できるとのことであった。本格的な測定は一週間後からだったが、治験者の容態が安定すれば基礎データの測定は三日後から開始できるという。

 散会後のミーティングルームで、同じ脳外科医の指田が柏木と神林に真剣な面持ちで詰め寄っていた。

「先生。本当に問題はないのでしょうか?」

「もちろんだ。この件については国が認めていることだ。何も心配する必要はない」

「しかし・・・・」

「指田先生はこの研究に興味はないのですか?」

 相手とはさして年が違わないはずだが、神林が諭すような口調で尋ねた。

「それは・・・もちろん研究には興味があります。しかし、今回のような危険な実験を人体で行うというのはいくらなんでも・・・」

「指田君、新薬の治験から認可までにはどのくらいかかるか知っているだろう? 特にこの日本では欧米諸国の二倍から三倍の時間がかかる。もちろん費用も莫大だ。一方で、新たなオペの方法や技術というのは器材・器具の開発速度に比例して進歩している。いいかね、問題はそこだよ。医者が、中でも我々のような外科医が望んでいる機材が開発できれば、以前は不可能だった手術も可能になるんだ。しかも、トレーニングができるんだ。そのために国が法的規制緩和や助成金で後押しをしてくれている。ありがたいことだよ。現在我々が行っていることは、そうした期待に応えるための一歩なのだ。躊躇っている場合ではないだろう?」

 柏木は明らかに論点をすり替えようとしていた。

それを敢えて無視して神林が付け加えた。

「もちろん、将来的にはもっと簡便な方法も選択できるようになるでしょう。カテーテルやニードルで対応できるかもしれません。しかし、現時点ではチップのサイズ、感度や出力の問題で、この方法が最善だと結論したのです。おかげで貴重なデータが得られるんです。これまでのような限られた時間、限られた条件下ではないリアルなものが。今回は画期的なデータ収集の為のステップです。これを成功させなければ次には行けません、これまでもそうだったように」

「確かにおっしゃるとおりですが、だからといって許されることなのでしょうか・・・?」

「余計なことを考えてはだめだ。今はこのチャンスを生かすことだよ、医学界のため、そして自分のために」

 柏木は真っ直ぐに指田の眼を見て言った。

 指田の言う実験とは、政府の関連財団からの依頼で、ある電子部品メーカーと共同で開発した超小型〝脳波測定器〟を頭蓋内に直接留置するというものだった。

〈ML――メモリー・オブ・ライフ――〉と名付けられたそのチップは人の思考や感情、運動時の脳の活動がリアルタイムで測定できるというのだ。そして、このチップの最も画期的な機能が、視神経からの信号を映像化するというものだ。いわば〝生体カメラ〟である。これが実現できれば、逆に視覚障害者がカメラからの信号を脳で映像化できる可能性もある。各国で進められきたBCI(ブレイン・コンピューティング・インターフェイス)やBMI(ブレイン・マシン・インターフェイス)といった研究はその入口と言えたが、AIと連携して新世代移動通信システムを導入した〈MLチップ〉はその最先端を行くものだった。

 東都医科大学では、脳神経外科に注力し、アルツハイマーの予防という普遍的な研究から派生した、文字通りの〝脳力〟開発の研究が進められていた。多くの学者が唱えるように、人間の脳には無限の可能性、秘められた能力があるという。一般的に、人間は生涯においてその能力の三分の一も使っていないと言われている。柏木らはその使われていない能力を、外力(AI介入も含め)によって引き出す可能性について研究を続けてきた。

 未使用の能力を特異な分野で生かす、あるいは死んでしまった一部の細胞の代りになり得るのか―――すなわちアルツハイマー様の症状の改善に活用できるか。確かに夢のような話だが、解明が進めば可能性は無限に拡がる。

 脳科学とロボット工学の分野では、どの国が、あるいは誰が最初の自立型のAI(人工知能)を完成させるかというのが最大の関心事であった。そのため、世界各国が前述のような研究に力を入れてきたのだ。「技術立国」を標榜する日本としては、近年の経済情勢を勘案した時、医療分野での先駆者になる必要性を感じていた。そこで国としても全面的なバックアップを決断した。手始めに医療特区を設け新薬はもとより、あらゆる医療関連の企業の開発事業に最優先で資金援助することが決定した。当然、法的規制緩和も行われる。これにより、研究者たちはより自由な発想で各種の開発に邁進できることになった。同時に治験の速度も加速した。

 ただ近年、かつてのAI神話が崩れつつあり、多くの研究者たちが見直しを迫られている現状だとも言われている。柏木たちも世界の趨勢を意識しないわけではなかったが、長年の研究を無駄にすることはできなかった。大学もすでに莫大な研究費を注ぎ込んでいたし、ようやく国も動き始めたのだ。ここで歩みを止めるわけにはいかなかった。

「とにかく、今の研究が許されている間に少しでも先に進むことだ。現在の日本の政府に多くは期待できない。来年になったらいきなり研究の打ち切りを通告されるかもしれないのだ。我々には無駄にできる時間はない。純粋に研究に全力を注ぐしかないのだ」

 柏木の言葉は熱に浮かされたものではなく、ひとりの医師・研究者としての信念と冷静さが滲んでいた。

「何よりも私たちは、彼らを拘束したり強制したりしているわけではありません。国の後押しがあり、本人の同意も得ていることなんです」

 柏木の言葉に力を得たように、神林が補足した。

 このプロジェクトはどんなことがあっても推進しなければならない―――その思いを最も強固に抱いていたのは神林であった。リーダーの柏木の経歴や情熱には敬意を持っていたし、自身もほとんど同様の理想を持っていた。唯一違ったのは、彼の根底には特定の人物に対する憎しみが渦巻いていることだった。


                13


 畑中靖男はすでに薄暗くなったその部屋で、悄然と肩を落としていた。

フォトフレームの中で、息子の晴樹は底抜けに明るい笑顔を見せている。それは目の前の父親だけでなく、世界中の人たちに向けた無限の癒しに思えた。

利発で気持ちの優しい、本当に自慢のひとり息子だった。親バカと言われようが、晴樹の優しさと笑顔は宝物そのものだったのだ。だが、その息子は僅か十歳でこの世を去った。

 あの日、晴樹にせがまれて友だちの間で流行っているというゲームのソフトを買うために出かけた。特別な日ではなかったが、前の週に家族三人で出掛ける約束を仕事の都合で反故にしてしまった穴埋めだった。妻は母親同士の会合でこの日は都合がつかず、父と息子の二人だけだった。

「今日はお母さんが来られなくて残念だったね」

「そうだな。でも、たまには男同士もいいだろ?」

「うん。お母さんがいたら、ゲームも買ってもらえないもんね」

 晴樹の頭の中は新しいゲームのことでいっぱいだった。

 母親だけではなく、親としては畑中もあまりゲームに熱中されるのは困りものだと考えていた。だが、活況を呈しているゲーム業界の基盤を支えているハードに関しては、自身の会社の技術無くしては成立しないのだという自負もあり、実に悩ましい立場でもあった。

結局、前週の約束反故という負い目と、息子の笑顔に白旗を揚げたのだ。

 その笑顔が僅か一時間後に永遠に失われるなど、もちろん想像もできなかった。後に凄まじい報道合戦が繰り返された、あの「通り魔無差別殺人事件」に巻き込まれ、その犠牲となったのだ。

 犯人の行動は狂気でしかなかった。理由もなく、刃物を振りかざして通行人を追いまわして傷付け、殺害することが目的だった。犯人はそれこそ嵐のように人混みを駆け抜け、その間に多くの人たちを切り付け、刺し続けたのだ。

 その行為を畑中はバイオレンス映画のワンシーンのように見ていた。そのスクリーンの中で、我が息子は小さな背中に深々と包丁を突き立てられ、真っ赤なペンキを浴びた人形のように歩道に倒れ込む。その刹那、映像は唐突に速度感を失った。ゆっくりと崩れ落ちる息子の身体を畑中は支えてやることもできず、思考力を無くした空虚な両目が、モザイク模様の敷石に倒れ込む我が子の背中を凝視していた。

 間近にいながら我が子を守ることができなかった―――この時の無力感と激しい怒りは、今も消えることはない。その怒りは犯人に対してはもちろんだが、自身に対しても同様であった。その思いは妻にも伝播し、彼女もまた犯人と同時に夫を恨んだ。それが見当違いの憎悪だということを知りながら。そしてついには自分が生きていることに疑問を抱き、自身を責める日々が始まった。

 こうして、前日まで平穏で幸福であったはずの家庭はあっけなく崩壊した。畑中は総べてを忘れるために仕事に没頭した。妻の精神状態からも目を背け、研究に逃げ込んだのだ。電子機器メーカー〈トーホーソニック〉のエンジニアの彼は、ある大学の研究施設から依頼された新規格の生体測定装置の基幹部品の設計を担当していた。機器そのものには特別な新規技術は必要ではなかったが、相手の設計要件の最大の難問は、そのサイズだった。詳しいことは研究内容の漏洩につながるとして知らされなかったが、通常考え得る最小サイズが鶏卵大だとすると、それを米粒大まで縮小してほしいというのだ。これにはさすがの畑中も頭を抱えた。

 理論上のアイデアは持っていた。しかし、それを実際に〝製品〟にするとなると巨額の設備投資が必要だった。勤務しているのが業界の中堅企業とはいえ、一部門に莫大な設備投資をするのは簡単ではない。経営陣のトップを納得させるだけの根拠を示さなければならない。一介のエンジニアの彼にその力はなかった。したがって、彼の理論を形にできる部品メーカーを探し出すことが現状での最善の手段と思われた。

 部品製造の件をいったん棚上げして、畑中は要求通りの機能を擁する機器の設計を進めることにした。長年技術畑で働いてきた畑中に焦りはなかった。己の技術と経験には自信があり、理論的には自分のアイデアが最も効率的に成果を上げられる確信があった。

 現実逃避ともいえる異常な研究熱がいつしかエンジニア魂に火をつけ、純粋に研究に打ち込み始めたころ、畑中のもとを一人の男が訪ねてきた。一年ほど前のことである。

 男は文科省の役人で、畑中とクライアントである大学の双方に興味があるという。有り体に言えば、今の研究の後押しをしたいというのだ。畑中には願ってもない話だったが、決定権はもちろん大学側にある。事は予算的なことだけではなく、大学の威信にかかわることだからだ。

 だが、意外にも大学側はあっさりと提案を受け入れた。極秘裏に画期的な開発を進めるのには限界がある。まして複合的な専門分野の新規開発となると、その費用も時間も膨大なものになることは目に見えていた。そこで研究者たちは決断したのだ。国としては研究成果が将来的な国益になると確信しての判断でアプローチしてきたわけで、結果的に達成できれば双方にとって利益になるというわけだ。

 こうして三者によるプロジェクトが進められることになった。大学側はいくつもの規制緩和の恩恵に与ることになり、結果的に畑中も潤沢な資金を運用することが可能になった。

 後になって知ったことだが、実は大学側は早い時期から各種の〝後押し〟を国から受けており、申し出を断ることはできなかったのだ。ともあれ、誰もが利益を手にできる可能性のあるプロジェクトに異議を唱える者はなかった。

 

 六ヶ月後に完成した部品製作工場―――製品の大きさに比して、その製作機器は想像を超える巨大なものだった―――は無事に稼働し、研究開発に必要な部品を製作できることが確認された。これにより、畑中は短期間で試作品の製作、改良ができるようになった。

 試作、実験、改良―――その繰り返しの日々が続いた。大掛かりな機械から生まれるのは拡大鏡が必要なほどの小さなもので、両者と格闘している畑中の姿はある意味滑稽ですらあった。巨大な機械と接続しているコンピューターのキーボードを一心不乱に叩き続けていたかと思うと、午後にはマイクロスコープを覗き込みながら呻吟しているといった具合だ。それは製品の先進性はともかく、黎明期の半導体工場そのものに見えた。

 ある日、畑中はようやく最終的な試作品完成のめどが立ったというタイミングで一本の電話を受けた。

『東都医科大学病院の神林です。現在制作中の〝機器〟の件で―――』

 その週末。畑中は久しぶりに都心の雑踏に身を置いていた。ここ半年ばかりは、研究室兼製作室にこもっていて、ほとんど街中に出ることもなかった。ビルの合間から覗くぼやけた青空さえ、何だか爽やかな空気に満たされているように思えた。

 そうしたまるで上京したての中学生のような気分のまま、彼は教えられた店のドアを押し開けた。店内には落ち着いた色調のソファと重厚なテーブルが適度なスペースを取って配置されている。

 店内を見回すと、多くはサラリーマンと思しきスーツ姿の男性客だ。すでにランチタイムとあって、ちらほらと女性同士のテーブルもあった。その奥の席に目指す相手はいた。

「お待ちしていました。どうぞ、掛けてください」

 電話の声よりも心持ち低い声が促した。

 シャドーストライプの濃紺のジャケットにライトブルーのボタンダウンシャツ、ネクタイはしていない。ダークグレーのスラックスに黒のローファ。切れ長の目がやや冷たい印象を与えるが、整った顔立ちだ。髪は櫛目もなく、洗ったまま自然に乾かしたといったスタイルだ。僅かに白髪が目についたが、年齢はお互いあまり違わないだろう。

「こんなところに呼び出して、私にどんな話があると?」

「あまり他人には聞かれたくないので。何よりも研究所の関係者には」

「どういうことです? 何か問題でも?」

 プロジェクト内容については、当然ながら厳密な守秘義務が課せられている。誰ひとり研究所の外部で内容を口にすることはなかった。

「晴樹君は中学生になっているはずだったのに・・・、残念でしたね」

 唐突に、まるで親戚の叔父のような自然な口振りに、畑中は不意を突かれた。

「どうしてそんなことをあなたが?」

 思わず声が上ずり、他の客の非難めいた視線が一斉に向けられた。

「落ち着いてください。私はあのプロジェクトの一員でもありますが、言うなれば、あなたの同志です」

「同志? どういう意味ですか?」

「私も・・・大切な家族を理不尽な理由で失ったからです」

 畑中がその言葉を咀嚼する間もなく、相手は静かに語り始めた。

「―――私には弟と歳の離れた妹がいたんですが、この妹いうのがほんとに可愛くてね、両親もそうでしたが私も兄馬鹿とでも言ったらいいんですか。実際、大学では〈ミス・キャンパス〉の準ミスになったくらいで。もちろん学業も優秀で、将来は弁護士になりたいと言ってました。本当に自慢の妹だったんです。それが・・・あの男と出会ったばかりに命を落としたのです、二年前に―――」 


新宿東署は相変わらず喧騒の中にあった。

たった今、先週から新聞紙上を賑わせていたストーカー殺人の犯人が逮捕され、署に連行されてきたところだ。犯人逮捕で捜査員たちの士気が上がっているかと思ったが、実際にはどの顔も疲労一色だった。

 いかなる事件でも彼らは職務を全うすべく努力を惜しまないが、今回のような事件は後味が悪い。凶悪事件に巻き込まれて、不幸にも命を奪われた被害者の方たちを区別するつもりはないのだが、ある程度の危険性が事前に察知され、それを警察側も相談されていた経緯があったとなると、結果論とはいえ当局の対応ミスという非難は免れない。まして失われた命は、責任の所在に関わらず帰ってはこない。その意味で、犯人逮捕で一応の職務は果たせたとしても、捜査員たちは祝杯気分にはなれないのだ。

もちろん、逮捕で警察の仕事の総べてが終わりではない。事情聴取を行い、調書を作成し、送検しなければならない。

「それで、お前が神林早智子さんを殺したんだな?」

 取り調べに当たった刑事は静かな口調で質した。

「俺の言うことを聞かないから悪いんだ。俺が話してるのにそっぽを向いてるから、俺の方を見るように首を押さえつけただけなんだ。それだけなのに・・・」

「彼女はおまえの顔なんか見たくなかったんだ。散々付きまとわれて、逃げても逃げてもお前に追われ、精神的にも限界だったんだ」

「そんなはずはない。早智子は俺がいなきゃだめなんだ。早智子のことを一番知ってるの俺なんだから」

 その眼には異様な光が見えた。逮捕された悲壮感はもちろん、罪悪感といったものは一切抱いていない様子である。

 男の名前は丘本大輔。二十八歳の自称CGクリエーター。

 事件の八ヶ月ほど前、あるゲームソフトやCGアート関連のイベントに参加していた。そこに、中堅のゲームメーカーのコンパニオンとして早智子も関わっていた。コンパニオンといってもあくまでも学生アルバイトの域で、会期中の一週間だけのことだった。仕事内容は新しいゲームソフトの試用を勧め、アンケートに答えてもらうというのが主なものだった。ただ、この手の商品には恐ろしく詳しい顧客(ファン)がいて、あれこれと質問攻めにあうのが難点といえた。

 ようやく会場の雰囲気にも慣れた三日目、恐れていた〝お客〟に遭遇してしまった。相手に悪気はないのだろうが、彼らの好奇心というか探究心は並外れていて、ソフトだけでなくハードについても専門的な回答を迫られたのだ。彼女もある程度は事前にレクチャーを受け、それなりに応対できるようにしてきたつもりだったが、その相手には通じなかった。自分の疑問に完全に答えるまでブースを離れようとはしなかったのだ。折悪しく専任スタッフが食事休憩のために不在で、早智子が困り果てているところに一人の若い男が助け舟を出してくれた。男は業界の人間らしく、問題の〝客〟の質問に対して淀みなく解説し、相手が満面の笑みで立ち去るのを見送った。

その助け舟の主が丘本だった。

「僕も関係者で、会期中は会場内を定期的に回っているんだ」

 彼の甘いマスクと、優しい口調に早智子はすっかり気を許してしまった。日頃はそれほど積極的な方ではなかったのに、会場の雰囲気と普段は決して身に着けることのない派手なコスチュームのせいで、冒険する勇気が湧いたようだ。休憩時間には一緒にコーヒーを飲み、その日のうちにアドレスを交換した。

 イベントは大盛況のうちに閉幕したが、その後も二人は頻繁に連絡を取り合った。

 初めの一ヶ月は本当に楽しい、輝くような日々だった。しかし、二ヶ月を過ぎたころ、丘本の態度が急変した。というよりも、本心を見せ始めたというべきか。彼は異常に嫉妬深く、日に数十回もメールや電話をして、常に早智子の行動を知りたがった。いや、ほとんど監視しているといえた。

 それは彼の愛情の表れだと思いたかった早智子も、三ヶ月を過ぎるとさすがに異常さを感じ、次第に恐怖へと変わっていった。実際丘本の束縛はエスカレートし、彼女がカフェのウエイターに注文する事さえ嫌悪するようになった。やがて、彼の嫉妬や思い込みはお決まりの暴力となって噴出した。ようやく男の本性を知った彼女は、きっぱりと別れを告げて丘本との連絡を絶った。しかし、それからも丘本から執拗に電話やメールが送られてきた。やむなく携帯の番号もアドレスも変えたが、ついには自宅の近所で待ち伏せされるようになった。

 怖くなった早智子は最寄りの警察署に父親と兄に伴われて相談に訪れた。このところストーカー被害に対する警察の対応が度々マスコミに取り上げられていることもあり、応対した警察官は真摯に話を聞いた。

「わかりました。最寄りの交番にも連絡し、近所の巡回を強化するようにします。当人を見かけたら、厳重注意するよう指示しておきましょう」

 その言葉に父娘と兄は一安心し、家路についたのだった。

 ところがそのわずか十日後、大学のゼミの集まりで帰宅が遅くなったその夜、家からほど近い公園で早智子は遺体となって発見された。第一容疑者の丘本大輔は翌日には身柄を確保され、事情聴取の結果あっさりと犯行を認めた。彼は最寄り駅の改札口で八時間も待ち伏せしていたという。

 警官はいつもの時間に早智子の自宅周辺のパトロールを行い、不審者の無いことを確認していたが、帰宅時間が大幅にずれたことと、人目の多い駅前は盲点だった。結果的に凶行を防ぐことができなかった。

 又してもマスコミは警察の対応のまずさを糾弾したが、当然ながら一個人を二十四時間ガードすることなど不可能で、一部では警察に同情する記事もあったほどだ。

 しかし、誰がどこをどう非難したところで神林早智子という若い命は未来を絶たれたのだ。この結果は覆ることはない。

「田所さん。この仕事をしていて無性に虚しくなることはないですか?」

 別班の班長の猪木が、独り言のように漏らした。

「ありますよ、そりゃあ。だけど、我々は次の被害者を出さないために、とにかく犯人(ホシ)を挙げることに全力を尽くす―――それしかないんじゃありませんかね」

 これまた自戒するような口ぶりだ。

 凶悪犯に対する捜査員たちの胸の内は同じだ。犯人を一刻も早く逮捕する事、何よりもそれが優先する。被害者や被害者遺族に対する感傷や弁明はそのあとのことだ。職務を全うしてから人としての思いを見せればいいのだ。

「ああいう連中を見ていると、不謹慎だが裁判なんてものは無駄に思えて仕方がないよ。

いっそのこと―――ああ、これは独り言だから・・・」

 直属の部下のいないところで別班の、それも熟達の田所の前だからこその本音だった。正直なところ、田所自身も同じようなことを考えたことがある。だが、いくら情状酌量の余地のない犯罪者でも、法の下で働いている田所らは、その先の言葉を安易に口にすることは禁忌なのだ。ただ、本当に心を許せる人間の前でときには本音を漏らすことは、仕事を続ける上で必要だった。そう、人間のさまざまな感情を自覚するのも刑事の資質といえるのかもしれない。捜査員たちは一様に犯罪被害者に心を寄せている。しかし、被害者遺族にしてみれば安易な感傷に過ぎないとしか映らない。それに対して彼らは反論することはできない。だがそれよりも田所たちが最も恐れているのは、時が経っても消えることのない怨念を抱きながら日々を過ごさなくてはならない遺族たちの、いつか爆発してしまうかもしれない行き場のない感情が巷に溢れていることだった。


「―――あれからまもなく二年が経ちますが、なぜ妹がそんな目に遭わなければならなかったのでしょう? 犯人は何を考えていたのでしょう? ・・・未だに答えは分かりません。いえ、答えなんかありません。あるはずがないんです、誰にも慕われ、聡明で美しかった妹が僅か二十一歳で命を奪われるなんて―――。妹の未来を奪う権利なんて誰にもありはしない。犯人の中にあったのは身勝手な自己陶酔だけだ」

 先ほどまでの、どちらかといえば冷めた表情は一変し、そこには愛する家族を失った絶望感に打ちのめされた者の姿があった。それはかつての自分と同じだった。

 ストーカーという言葉が盛んに世間で流布されるようになっていた時期だった。中でもあの悲惨な事件ははっきりと記憶している。というのも、先に言ったように自身もある意味で〝業界人〟だったからだ。ゲーム業界と半導体関連メーカーは当然ながら深い関係にある。それにしても、まさかあの事件の被害者遺族がこんな身近にいたとは。相手の胸の内に己と同質の悲しみと怒りを抱えていることを知った畑中は、問われるでもなく、自然に自身の内部にある澱を吐露する気持ちになり、息子を失った後の心情を切々と語った。

「―――私が今日まで生きてこられたのは研究のおかげです。仕事に埋没することで、辛うじて悲しみを拡散させていたということです。もちろん、一時しのぎの自己欺瞞に過ぎませんが」

 二人はしばらくの間何も言葉を発しなかった。それぞれの胸の中の澱が底に沈むのを待っているかのような、緊張感のある時間が流れた。

 やがて、どちらからともなく呟いた。

「あいつは許せない・・・」

 ふたりのどちらの言葉かわからなかった。互いに相手の呟きだと感じ、同時に自分が漏らした声だと思った。

「そこで、畑中さんに提案があります」

 不意に神林が顔を上げて、畑中の目を見据えた。

「何でしょう?」 

 相手の眼差しの深みに再び宿った冷たい光を見て、畑中は覚悟を決めた。

(この男の話を聞いてしまったら、地獄に落ちるしかなくなる)

 はたして神林の話は途方のないものだった。

 現在開発しているチップの要件から充電リミッターを外して欲しいというのだ。それはすなわちチップの破損、最悪の場合は溶解を引き起こす。想定している直近の神経組織において、それは致命的な結果―――死をもたらす。

「どうしてそんなことを? まさかコスト削減のため、などということはありませんよね。このチップは脳神経外科、ひいては脳科学のさらなる発展のためのツールでは?」

「その通りです。我々は将来的にはアルツハイマー症の克服、あるいは脳(神経)に起因する四肢の障害に陥った人々を救いたいと考えています。すなわち脳組織や神経伝達系統に損傷を受けた場合、人工的な手段でバイパスを形成できないかという着想の下に研究を進めてきました。今回の研究はまさにそのアプローチの一つです」

「だとしたらどうして―――?」

「チップの性能は問題ないでしょう。あなた方の技術力に疑問を差し挟む気はありません。ただこの先は、今度は私たちの仕事になるのです」

「それで?」

 淡々と語る神林の雰囲気にのまれ、余計なことは言わずに先を促した。

「実は同様の研究は国内外ですでに進められてきました。BMIあるいはBCIと呼ばれるもので、AI開発の先駆けとして海外では莫大な予算が投入されました。我々が進めているプロジェクトとはスタンスが異なりますが、脳と機械との連携という基本概念は共通と言えます。当初は世界中がAIの未来は無限と考え、研究開発が過熱したのです。ところが、ここにきて急激に減速傾向となってしまいました。いわゆるハイプサイクル(技術の進行段階)の幻滅期というものです。この辺りのことは畑中さんの方がお詳しいかもしれませんが。近年の車の自動運転にしても、各自動車メーカーが覇権争いをしていますが、まだ先行きは不透明です。それでもディープラーニングを駆使することで展望があります。一方で、私たちのように生体としての人間をサポートすることを目指すグループは、人体という優れた〝パーツ〟を活かすことで可能性があるものの、特有の障壁が存在します・・・実験という」

 あっと思った。相手が人間だという基本的なことを忘れかけていた。理論上の数値の積み重ねと試行錯誤によって設計要件はクリアしているが、ここまでは物理的な実験の域を出ていない。

「無責任のようですが、その点に関しては『医学』の範疇という思いがありました。設計要件のスペックばかりにこだわって、数字だけでは解決できない部分には考えが十分及びませんでした」

「欧米諸国と日本では臨床実験に対する姿勢が大きく異なります。我が国は遅れているというか、慎重過ぎるきらいがある」

 かつてAIはロボット工学における核となる研究だった。出発点は純粋に脳という宇宙の解読だった。同時に、人工的に脳の役割を果たすことは可能なのかという科学者たちの命題になり、やがては何としても同様のモノを作り出したいと願うようになった。ただし、その先にはあらゆる倫理的な問題も発生する。脳を〝操作〟できるようになったら、いったい人間の尊厳はどうなるのかと。そうした論争の再燃もあり、確かにAI万能論は再考の分岐点にあると言われている。

「―――私たちは早くからその点については考えていましたが、厚労省から今回の実験についてはすでにゴーサインが出ていると聞かされました。私も半信半疑でしたが、どうやら他の省庁も関わっているとか。今さら感があるのはおそらく、各省庁が重い腰を上げるのが遅かったのでしょう。ともあれ、国として動き始めたのは事実です・・・医療特区において施設も用意され、第一期の被験者の候補も決まっているとのことでした」

「だとすれば、余計に安全性の担保が必要では?」

「その通りです。しかし、実際にそのリストを見せられて私は慄然としました」

「リスト・・・?」

「『治験』協力者のリストです」

「協力者?・・・」

「リストには仲村和信と丘本大輔の名があったのです」

「えっ? ・・・どういうことなんですか?」

「私も驚きました。我々がどんなことをしても忘れることのできない名前です。どういう経緯でそのリストに加えられることになったのかはわかりません。ですが、これには深い意味があると思います」

「それと先ほどの話はどう繋がると?」

「脳内の神経組織から微弱な電気信号を読み取ることができるならその逆、つまり信号を送り込むことができるのでは?」

「もちろん。双方向通信は必然です。要件の中には外部からの非接触充電という一項もありますから。ただし、制御は格段に難しい。だから試作段階でまずはカットオフ、いわゆるリミッターを組み込むことにしたわけで・・・えっ、まさか・・・?」

 ようやく核心を理解してくれたと感じたのか、神林は冷たい笑みを微かに浮かべた。

「現在進行中のプロジェクトは、脳内の微弱電波を取り出すことに注力していますが、当然ながらその先には外部からの〝補助〟を視野に入れています。ただその過程で、大学の工学部の研究者や畑中さんのようなエンジニアの話を聞いているうちに、私はある疑念を抱くようになったのです。誰もそれを口にはしませんが、私が思いついたことは想定済なのではないかと。そして、リストを見て確信しました」

 要するに神林は、このプロジェクトの発案者自身が、同様の発想を抱いたのではないか。あるいは、むしろそれが主眼だったのではないかと疑っているのだ。憎むべき犯罪者、許されざる人物―――そうした人間を遠隔操作で断罪する。しかも合法的に。

何という直情的、かつ無機的な方法だろう。そのようなことが可能なら、どれだけの人間が賛同するのだろうか。あるいは一考に値しない狂気と一蹴されるのか。

 凶悪事件が報道されると、一般人は一様に犯人に対して憤りを覚え、被害者の不運に同情する。しかし、その直後に家族とテレビのバラエティ番組を見て談笑するのだ。結局は他人事であり、自分には決して不幸な出来事は降りかかってはこないと思い込んでいる。

 たとえ犯人が逮捕されても、当事者たちの怒りや悲しみは消えることはない。より近しい人間を失った者ほどその後の人生は辛く、虚しいものになりがちだ。身勝手な殺人はもちろん、後を絶たない飲酒や薬物摂取による自動車運転事故、さらには頻発するあおり運転による死傷事件(これは断じて事故ではない、殺人だ)。弱者に対する暴力、陰湿ないじめ、執拗なストーカー行為、悪質なクレーマー等々。死に直結しなくても、被害者にとってはその精神的、肉体的苦痛は同等といえるものだ。いかなる立場の人たちにも、そうした危険は等しく存在する。ある日突然、前置き無しにその陥穽に呑み込まれるのだ。

 どんなに温厚な人間も、いかなる聖人君子といえども、どうしても許せないと感じる人間の存在を否定はできないだろう。直接自身に関わりがないとしても、日常的に発生する凶悪事件の犯人に対する憤りといったものは多くの人間が抱くものだ。

 ごく普通の人々は、自分たちの生活を脅かす存在に恐怖し、できるだけ関わり合いたくないと願う。当然の心理である。だが中には一歩踏み出して、そうした「悪」に立ち向かう人間もいる。迷惑行為を注意するという勇気の発現や、警察官という職業を選択する等々その方法は様々だが、多くの人たちの中に〝当たり前の正義〟といったものが存在する事実は否定できない。ただ肉体的、精神的、あるいは経済的な〝非力〟のせいで目を逸らせてしまう人たちが圧倒的に多数なのだ。

 しかし、法の下で公正に相手の非を確定し、確実に罰が与えられ、かつ自分には何の負担もないとしたら―――おそらくより多くの「善意」が「悪意」を駆逐することができるに違いないのだ。少年法によって未成年者が守られているように、新たな法によって被害者遺族が救われ、守られることに何の不都合があるだろう。

 誰もが、心理的肉体的に苦痛を感じることなく犯罪を告発できるシステム―――犯人と対峙して糾弾する必要はなく、犯罪を客観的に証明・摘発できるシステム。さらに法的裏付けが同時になされるシステムが構築できれば、犯人の検挙率は飛躍的に上がるはずだ。

 そんな発想はある意味自然であった。全国に一千万台あると言われる防犯カメラ、さらに一億七千万回線を超える携帯電話網。これらを駆使すれば、現在のSNSの状況を説明するまでもなく、個人の行動や発言はあっという間に共有できる。要は運用の問題なのだ。

 この考えのもとに注目されたのが〈MLチップ〉であった。〈MLチップ〉開発のきっかけは、脳が〝見ている〟映像を取り出すことができないか、というものだった。脳の〝思考〟という分野はあまりに深淵で、手探りで進むしかなかった。そこで、文字通り外界の入口である視覚と脳の関係から解明を進めることになったのだ。

 政府の要人の中に、総理の本郷が以前から「国民総合管理法案」の実現を模索していることを知る人物がいた。その人物は、そうした視覚の研究が〝総合管理〟における画期的なツールになると直感したのだ。端的に言えば、全国民の〝防犯カメラ〟化である。人々が日常生活において見聞きしている事柄をモニタリングし、AIを駆使して犯罪行為をピックアップするという、いわばビッグデータの究極の姿と言えるだろう。

実際に、関連の研究施設や企業に開発の打診は数年前からなされていた。以前から脳神経外科の分野において実績があり、優秀な医師が多く在籍していることで有名だった東都医科大学はそのひとつである。熱心な研究者でもあり、野心家でもあった柏木と彼の研究チームが〈MLチップ〉の開発に傾倒していったのは当然の成り行きといえた。

 政府側が意図しているのはあくまでも個人の情報管理であり、煩雑な届出・手続きを一元管理することが主眼である。犯罪の抑止というのはあくまでも二次的な側面だ。将来的には新たな裁判員制度のモデルになる―――そんな主旨の説明があったが、後付け感は否めなかった。だが、前のめりになっていた研究チームにはどうでもよかった。彼らの目指すものはひとつであり、得られるデータの活用は無限である。それを実現前に考えても意味がない。研究を形にすることが最優先なのだ。

こうしてスタート時点で微妙な乖離があったものの、研究者たちの探究心が勝り、プロジェクトは船出した。

 第一段階では凶悪犯罪受刑者の脳内にこのチップを埋め込み、再犯の場合は有無を言わさず過大な入力を行う。実際には単に不整なパルス信号を脳幹部に送るだけでも心不全、呼吸困難、運動神経の麻痺等が発生し、死に至らしめることができる。こうして罪人は確実に断罪される。口先だけの謝罪や改心など意味がない、反省もせず罪を繰り返すというのは結局生きるに値しない人間ということだ―――これは一部の過激な人物の描く妄想である。

しかし、理論的には可能なことだった。この件で問題があるとすればただひとつ、人道的な見地から(装着が)許されないだろうということだ。しかし、すでに非人道的行為が成された後ではいかなる反論も無意味である。不当で理不尽な死に対しては、同様に対処することでしか公平さを保つことはできない。これをナンセンス、詭弁だと声高に叫ぶ人たちのことは端から無視していい。これは議論や理屈ではない、天秤の左右の問題なのだ。釣り合うためには同等のものを載せるしかないのだ―――ほとんど狂気といえるこの論理に、神林の精神は完全に領されていた。

 何よりも肝心なことは、被験者リストに仲村和信と丘本大輔の名前があるという事実だ。裏でどのような力が働いたのかは問題ではなかった。この二人に対し、畑中と神林が〝個人的な見解〟を持ち出したとしても、誰も非難することはできない。被害者遺族である二人の感情は否定できないし、制御できるものでもない。

「正直なところ、私にとっての研究や製作というのは、悲しみや悔しさを紛らわす鎮痛剤に過ぎなかった。たとえ死刑が確定していても、心は鎮まらないんです。だから、ある時期から私もあなたと同じような妄想を抱くようになった。憎むべき相手を何とかこの手で断罪することはできないか、と。しかし、まさかあれが爆弾になるとは思いもしなかった。お話のように犯人に〝装着〟し、自分の思いの丈を込めて〝起爆〟させることができたら・・・ほんの僅かでも気が晴れるかもしれない」

 畑中に熱に浮かされた様子はなく、冷静な技術者の口調だった。

「同感です。畑中さんの製品は、性能的には問題ないと信じています。あとはしかるべき場所に埋め込むことができれば、その人物の『生殺与奪権』を手中にできというわけです。回りくどい方法ですが、安全な摘出手段はなく、一時たりとも死の恐怖からは逃れられないという意味では最良の方法だと考えています。既成の方法で断罪したのでは奪われたものの大きさに見合わない。いつ訪れるかもしれない死の恐怖に戦きながら生きるという極限状態に、人はいつまで耐えられるのか? そう考えると、この方法は死刑よりも過酷といえるかもしれず、極悪人には相応しい。もちろん、ひと思いに処刑することも自由です。こんな事を真面目に、平然と語る私を畑中さんは異常だと思いますか?」

「いいえ。我々の心情は真っ当です。当事者以外の人たちの共感など不要です」

「その通りです。しかもこれは国が認めた治験の一環であり、犯罪ではないのです。ところで、〈ML〉という名称の由来をご存知ですか?」

「は? 考えた事もありませんが・・・」

「memory of life。何だか情緒的に思われるでしょう? ですが私は、いえ、おそらく発案者も内心では別の言葉と入れ替えたのだと考えています。それはmurder license―――殺人許可証です。つまり、我々にはそのライセンスが与えられたのだと信じています」

 かくして、心の傷を癒すことのできない医師と技術者によって〈MLチップ〉は誕生し、その試験運用も二人の手に委ねられることになった。


                14


 石垣は半ば意地になっていた。

今のところ具体的な取材対象が掴めず、煩悶するばかりだ。自分がいったい何を求めているのかもわからないまま、それでもきっと何かしらの〝実体〟というやつにぶち当たるだろうと無理やり自分に言い聞かせてきた。とはいうものの、毎晩何の手土産も無しに部屋に帰って陽子と顔を合わせるのが辛くなり始めていた。

 やむなく、根拠のない方針を立ててみた。まずは一週間、東都医科大病院に張り付くことにした。何がどう動くのか見当もつかなかったが、出たとこ勝負には慣れている。それで何も引っ掛からなければ、この件からは手を引こう。そう決めた。そうやって一つの方向性が定まったことで、少しだけ気持ちに余裕ができた。

 翌日の木曜日、石垣は再び病院を訪れた。病院のスタッフがだめなら、あとはあの警備員が望みの綱だ。

 生真面目な警備員は、今日もそれぞれの駐車場に入っていく車とモニターに交互に目を配っていた。石垣が小窓越しに声をかけると、お愛想のように軽く右手を挙げて見せたが、視線はモニターを気にしている。その様子を見て入口のドアに回ろうとしたとき、一台のワゴン車が視界に入った。先日見かけたあの車だ。ナンバーを覚えていたわけではないが、車体の色とサイドの濃いスモークガラスが同一の車であることを示していた。

「こんにちは。先日はどうも」

 旧知の間柄のような笑顔で小窓に近づいた。

「あの時の記者さんか。でも、今日は何も聞いてないから」

 いくぶん警戒心を弱めながらも、業務規定に反する事は頑として受け入れないという意思表示だった。

「今日は看護師の方たちに話を聞こうと思って・・・。ところであのワゴン車、この前も見た気がするんだけど?」

「病院(ここ)の契約車両だから」

「そうなんだ。そういえば、先日は先生がわざわざ見送りに出てましたね。あの患者さん、よほどの大物なんでしょうね? どこのどなたなんです?」

「だめだめ、それは言えないよ。患者さんの個人情報だから」

「そう言わずにお願いしますよ。何か目新しいネタを持って帰らないと編集長に雷を落とされるんで」

「何と言われても教えられないよ。私もね、これが仕事なんだ」

「そうですよね、こうしたことも立派な病院の仕事でした」

 石垣は攻め方を変えた。相手によって手法を変えるのはお手の物だ。

 思惑通り、警備員は心持ち背筋を伸ばした。

「たとえ年を食ったって、臨時雇いの身分だろうと、与えられた仕事はきちんとやる。規則はしっかり守る。それが私らの、いや私の誇りだ」

 彼はさらに胸を張った。

「警備員さん、お名前は?」

「私? 佐々木だが」

「では改めて佐々木さん、あなたのお仕事についてお訊ねするのは構いませんか?」

 さも大病院における警備の仕事に興味を持ったふうに身を乗り出した。その態度に佐々木は相好を崩し、石垣を警備室内に招き入れた。

「そういうことならかまわないさ、何でも訊いてくれ。できる範囲で答えるよ」

椅子を勧めると、出がらしの茶を注いだ湯呑を石垣の前に置いた。それから自分も飲み差しの茶で唇を湿らすと、石垣が質問するまでもなく自分から業務の概要を話し始めた。

 その内容は目新しくもなく、個人的な職業観についても型通りでとうてい記事になりそうになかった。尤も、端からそんな取材をするつもりはない。あくまでも相手の懐に入るための方便だ。それでも、年配者特有のくどい言い回しにも嫌な顔ひとつ見せずに頷き、そして熱心にメモを取った。だがその実、石垣の神経は耳ではなく、視線の先に集中していた。出入りする業者や来客の名前を書き込む用紙が留めてある、グレーのバインダーに。

佐々木が話し相手に飢えていることはすぐに知れたし、業務に忠実なことは口先だけでないこともわかった。その証拠に、話をしながらもしきりに駐車場を映したモニターを気にしていた。一方、石垣自身はペンを走らせながら、受付の小窓の下に置かれたその名簿を何とか盗み見しようと躍起になっていたのだ。

 小窓の外にエンジン音が響いた。佐々木は条件反射的に顔を向けた。身障者ステッカーを張り付けた軽自動車だった。運転手が専用スペースに停めようと悪戦苦闘しているのを見かねて、佐々木はドアを出ていった。

「大丈夫ですか?」

(今だ)

 小窓に駆け寄って素早く視線を走らせると、バインダーは二枚あった。バッグから小型のデジカメを取り出し、小窓から佐々木の様子を窺いながら、大急ぎでシャッターを押した。これで良しとカメラを仕舞いかけた時、左の机の上にあるファイルが目に入った。背表紙には「特送」と記載されている。何やら気になって、つい手を伸ばしてしまった。身障者マークのドライバーはようやく切り返しを終えたところだった。石垣は大急ぎでファイルを開き、直近の二枚だけカメラに収めた。佐々木のことが気になって、手元を気にする余裕はなかった。

 直後に佐々木は戻り、また話を続ける気配を見せた。だが、初期の目的は達したので、丁重に礼を言って警備室を後にした。

 その日は病院内には入らなかった。ワゴン車も所定の駐車スペースに収まったままだった。未練はあったが、名簿の事が気になったので編集部に直行し、カメラをパソコンにつないだ。自前のカメラのモニターでは小さい文字が潰れて確認できなかったからだ。拘りがあって、仕事関係のデータはスマホに入れない主義なのだ。

二十四インチの高精細ディスプレイはだてではなかった。一、二枚目は斜めになって隅が切れていたが、内容は読み取れた。バインダーの一方は出入り業者のもので時間、会社名と個人名、納入先担当医の名前など通常通りの記載。もう片方の名簿には時間、出入りした人物の氏名、担当医の署名が記されていた。業者は別として、正面から出入りしない人物というのは何かしらの理由があるらしく、ごく少数に限られた。ファイルに納められていたのは後者だったが、慌てて手元も見ずにシャッターを切ったのでブレてしまい、辛うじて読むことができたのは一枚だけだった。

 ちなみに、五月三十日に担当医が送り出していたのは「佐藤四郎」という男だった。何とも平凡な名前だ。月並みな感想を抱きながら氏名欄を眼で追っていると、なぜか違和感を覚えた。変わった名前があったのではなく、全くその逆だったからだ。五月分に七名、六月の今日現在で四名の名前があったが、「佐藤四郎」の他に「田中二郎」「鈴木三郎」「高橋一郎」と、いかにも嘘くさい名前が所々に挟み込まれていたのだ。偽名?

 当日の光景が蘇り、ピンとくるものがあった。あの時同行していたのは警察関係者だったのではないか。患者は事件関係者―――要するに犯人の〝護送〟だったのだ。そう考えれば納得がいく。過去の犯罪にかかわった人物に対して神経過敏になっていたのだろう。毎日多くの患者が出入りする大病院ではいつ何時、かつての被害者と顔を合わせないとも限らない。そんな非常事態を回避するために、人目につかない救急搬送口から送り出すことにしたのではないか。なるほど、大病院という所はなかなか複雑なようだ。そう思いつつ、三画面をプリントアウトしてプリンターの電源を切った。

気配を感じて顔を上げると編集長が何やら言いたそうな顔を向けていたが、思い留まったようだ。これを幸いと、気が変わらないうちに編集部から退散することにした。

自宅に戻り、リビングのソファに寝そべりながら、ぼんやりと天井を眺めた。

頭の片隅に何やら明かりが灯ったような気分になっては掻き消されることが続き、すっかり自信を無くしかけていた。日誌を盗み撮りした時、最大の関心事はいわくありげに送り出された人物のことだった。特ダネの足掛かりになるかもしれないというおぼろげな期待を抱いたからだ。ところが、結果として患者の正体が想像できると、奇妙に映った病院側の対応も当然の措置だと納得してしまった。目撃したことを無理やりミステリアスな事柄に結び付けようとして、空回りしていたというわけだ。

 テーブルの上のプリントアウトを改めて手に取り、当日の光景と重ねて思い浮かべた。犯罪者でも病気は平等だ。とはいえ、世間的に問題のありそうな患者は目立たないように送り出す―――当然ながら外部には秘匿する。そこに矛盾はない。

 だが、だとしたら敢えて偽名にする必要があるのだろうか。警察官も同行しており、それなりの手順を踏んでいると思われるのに。さらに疑問なのは、犯罪者の移送なのにどうして警察車両を使用しないのかということだった。自力で歩ける人物をわざわざ病院の車両で移送する意味があるのだろうか。そもそもこのリストに記載されているのはどういう人物なのだろう。全員が犯罪者ということなのか。改めて一人一人を調べる必要があるかもしれない。ワゴン車の行き先はどこだったんだろう。新たな謎が渦巻いた。

(こうなったら、どんなことをしても行き先を突き止めてやる)

 翌日から気持ちを新たに〝張り込み〟を続行することにした。

 不信感を抱かせないために、警備員の目には触れないように注意した。患者でもない人間が待合室に長時間いるのも問題だ。といって、正面入り口付近でぼんやりしているのも不審者そのものだ。だが、それは杞憂だった。デパート並みに頻繁に人の出入りがある大病院では、誰も他人のことなど気にかける者はいない。ほとんど全員が患者であり、自分の身体こそが大事な人たちだ。当然と言えば当然だが、他人の病状など知ったことではなかった。自身の苦痛が癒えることが最優先なのだ。

 問題は例の案内係の存在だった。彼女とは取材の件で言葉を交わしている。ただし、毎日これだけの人間が出入りしている状況で石垣の顔を覚えているかは疑問だった。それでも、丈夫なだけが取り柄といわれそうな身体と、悩みとは無縁に見えるにやけた顔つきは、やはり来院者たちの中では違和感があった。

「わたしの車、使っていいわよ」

 収穫もなく疲れ切って帰った三日目の夜、陽子がキーを投げて寄越した。彼女お気に入りの、赤い軽自動車のものだ。「しばらく張り込みだ」そんな冗談を真に受けたのか、刑事ドラマの見過ぎか、張り込みには車がつきものだと決めてかかっていた。その発想の単純さと、あまりに可愛らしい車に気恥ずかしさはあったものの、彼女の優しさに素直に甘えることにした。

 そんなわけで、四日目以降はこうして軽自動車の車内から、病院の建物の出入り口と駐車場の出口に目を凝らしているというわけだ。無為な日々の連続だが、それもあと二日だ。懐には厳しかったが、自身に言い聞かせた一週間は何としても続けるつもりだ。というのも、病院の一般車両の駐車場は地下で、肝心のワゴン車の出入を確認できなかったからだ。幸い、道路を隔てた少し離れた場所に民間のコインパーキングを発見した。距離はあるが、駐車場の出入口は辛うじて目視できる。料金はそれなりだが、病院の関係者に見とがめられる心配もない。好位置を確保するためにいつもより三時間も早くベッドから抜け出したのも、持久戦を覚悟のことだった。

 腰の痛みがピークになり、今日も無駄足だったという徒労感に気が重くなり始めたころ、思いがけず例のワゴン車が駐車場入口に向かうのが見えた。今日は何としても行き先を突き止めてやる。石垣はシートを起こし、心拍数が上がるのを感じながら身構えた。

三十分後、ワゴン車が出てきた。先日のシルバーの車は見当たらなかった。石垣は手早く料金の精算を済ませると、慌ててその後を追った。だいぶ距離を離されていたが、相手が信号につかまっている間に何とか四台ほど後方に着けることができた。

 ほどなくして中央道に入った。受刑者ということなら、医療刑務所のある八王子に向かうのかもしれない。目立つことを避けてか、ワゴン車は流れのままに走行車線に居座っている。おかげで石垣も安心して追尾することができた。幸いガソリンは十分にある。どこまで行くのか見当もつかないが、とことん食らいついてやる。そう自分に言い聞かせると、汗ばんだ掌を気にしながら改めてステアリングを握り直した。


                15

     

 比較的平穏な午後だった。田所は生まれついての性分と諦めてはいたが、一息つくとつい過去の事件を思い返してしまう。それでも、今日は辛うじて踏み止まった。深呼吸してから昔ながらの薄荷パイプを咥えて、机に向かっていた森田の傍らに立った。

「主任、また禁煙ですか?」

「うるさい。それより報告書、まだ上がってないのか?」

「どうも雑念ばかりで・・・」

集中力を失った森田は、あっさりとボールペンを投げ出した。

「おまえさんはいつだって雑念だらけじゃないのか?」

「ひどいですよ、それは。あっ、雑念といえば・・・仲河和信、憶えてますか?」

「もちろん。思い出したくもないがな」

「その仲河が先月、緊急入院したらしいです」

「入院? 理由は?」

「それが、詳しいことは何も。でも割り切れませんね。奴は死刑が確定してるんですよね? そんな奴を入院させて治療するなんて、無駄な気がしますけど」

「ふん。俺だってそう思うさ。だが、法律ってやつは筋が通ってるのかどうか理解できないことがある。死刑だってそうだ、死刑執行命令書に法務大臣が署名して初めて執行できる。それ以前に死んでしまったら、法律上は刑が執行されなかったことになる。だから、その時までは何とか生かしておかなくてはならないってわけだ。当人が死んじまうことに変わりはないのにな」

「ええ、考えると頭が痛くなります」

「まったくだ。こっちは忙しくて病院にも行けないのに、あいつらはご親切に国が面倒を見てくれる。不公平なこった。それにしてもおまえ、どうしてそんなことを知ってる?」

「同期の連中が優秀なもので、いろいろ教えてくれるんです。自分は優秀な刑事だとは思いませんが、仲間がいい奴ばかりで」

 いくぶん照れながらも、同期の仲間を誇りに思う気持ちは隠さなかった。同時にそれは、相手も彼のことを信ずるに値する仲間だと考えている証だった。

「教場の同期というのは特別だからな」

 初心を思い返して、ベテラン刑事は一瞬だけ感傷的になった。

「ひとつ気になることがあって・・・これも伝聞なんですが、四月の中ごろに弁護士が面会に来ていたとか」

「弁護士が? 確かに今さらという気もするが、まさか―――」

「話の内容はわかりませんが、その面会の翌日、急に体調を崩したということです」

「よっぽどショックな内容だった? まさかそんなことで精神的に音を上げたわけじゃないだろ。そんなタマじゃあるまい」

 弁護士の面会にどのような意図があったのかわからない。まして、仲河の入院との因果関係があるとは思えない。それでも、気になるタイミングといえた。

 薄荷パイプを咥えて考えを巡らせていると、森田の机の上に拡げられた書類にふと目がいった。

「おい、その報告書―――」

「わかってます。すぐに書き上げますから―――」

 森田が慌てて書き進めようとしたのを田所が取り上げた。

「こいつは偶然か?」

 その手には書きかけの報告書と一緒に加藤の身上書があった。

「ああ、そいつはいつだったか組対の応援に駆り出されたときの資料で・・・うちの署で逮捕(あげ)たはずです。それがどうしたんですか?」

 不思議そうに言った。

「こいつの出身校なんだが、水上と同じ高校だ」

「それが何か? S県立東山高校。県内でも目立たない高校です。共学のマンモス校ですし、出身地が近くなら不思議はないでしょう」

「これで三人だぞ。ライターの石垣も含めて」

「だって、彼は同級生の犯行が気になって事件に首を突っ込んできたわけですから、偶然というわけではないですよ」

 確かに言うとおりだ。だが、あの事件に引っかかりを持っている田所には素直に頷けなかった。こじつけと責められても、気になることを放っておくわけにはいかなかった。

「悪いが、加藤の高校時代の交友関係をそれとなく当たってみてくれないか?」

「高校時代ですか? わ、わかりました。調べてみます」

 上司のいつになく丁寧な口振りが逆に薄気味悪くて、森田は逃げ出すように席を立った。


 後日、部屋の片隅で森田は調べがついた範囲で報告した。

「高校時代、加藤と関わり合いのあった人物がひとり浮かびました―――」

名前は堀田善行。当時、加藤と連(つる)んでいたのがその堀田だった。二人とも勉強嫌いで、よく授業をさぼっては盛り場で遊び歩いていたらしい。一方で、水上と石垣は目立たない生徒で、加藤と堀田たちとはほとんど接点はなかったようだ。加藤と堀田のふたりは親しく、それも素行不良で意気投合していたらしいことは、地元の交番の補導記録にも残っていた。万引き、恐喝、婦女暴行未遂―――。スケールはともかく、当時からすでにいっぱしの悪党予備軍といえた。

 加藤は高校二年の冬に中退し、お決まりの極道の道へ。堀田は何とか卒業し、親戚の電気工事店で働くことになった。見習いの身分で、専門学校に通うことが条件だった。

 手先が器用だったので技術はすぐに上達した。資格を取得するのに二年かかったが、何とかひと通りの仕事ができるまでになった。更生して真面目な社会人になったというわけではない。もともと加藤の腰巾着に過ぎなかった彼は、本物のヤクザになる度胸はなく、ひとりでは何もできなかったに過ぎない。ただ相変わらず女にはだらしなくて、気に入った女性を見つけると手当たり次第に口説いていたという。不思議なもので、そんな堀田に惚れた女も何人かいたようだ。尤も、付き合ってしばらくするとたちまち底が割れ、愛想を尽かされるのがお決まりだった。どちらから別れを切り出すかはともかく、女がらみのトラブルは数え切れない。飲み屋の付けの踏み倒しや小金を貢がせる程度は可愛い方で、無理やり中絶させられた女性や、結婚詐欺まがいの言動に踊らされて仕事を辞め、新居を準備しようとした女性もいたという。女にだらしのない小悪党のどこに魅かれるのか、つくづく女の気持ちは不思議である。

「―――というわけで、同窓という以外に水上とは特に接点はありません。堀田という人物も誉められた人間じゃありませんが、高校卒業後は加藤と接触したことはなかったようです。飲み仲間という人物に聞き込んだ限りですが。ただその人物も、最近は堀田を見かけないと言っています」

「そうか・・・ご苦労さん」

 何かしら手掛かりの欠片でも、と期待していた田所は力なく肩を落とした。

 その時、部屋の奥が騒がしくなった。

「どうした?」

 田所が顔を上げると、受話器を戻しながら古参の池内が疑問符だらけの声で告げた。

「仲河が、仲河和信が・・・急死したらしい」

 

                16 

 

 木々の上部の枝が激しいダンスのように揺れている。横殴りの雨はときおりガラスに礫のように叩きつけ、まるで台風の最中のようだ。季節外れに思える低気圧の通過が、春の嵐となって列島を縦断しているのだ。

 しかし、部屋は静まり返っていた。亜美が病室を訪れた時、そこにはふた月前と同じ状態で母が眠っていた。それはその三ヶ月前、さらに半年前と何も変わっていなかった。

 ベッドの脇にパイプ椅子が置いてあった。留美は何かの用事で病室を出たばかりのようだ。すぐに戻るだろう。

「お母さん・・・」

 亜美は椅子に座り、横たわる母の手にそっと触れた。その手はすっかりやせ細ってはいたが温もりがあり、間違いなく生きていることを伝えていた。それを確かめただけで亜美は安心し、気持ちを強く保てる気がした。

 背後に気配を感じた。

「留美?」

 振り向くと、そこには車椅子の滝口がいた。

「お母さんとのお時間を邪魔して申し訳ない。亜美さん?」

「はい、そうです。貴方は確か・・・滝口さんでしたね?」

「ええ、滝口です。覚えていてくれてありがたい」

「留美がお世話になっているようで、ありがとうございます。それで、わたしに何か?」

「実は、その留美さんの件で―――」

 滝口は、最近の留美の様子が気がかりなのだと言った。

「それはどういうことなのでしょう?」

 そもそも滝口がなぜ妹の行動を監視するようなまねをするのか。むしろそちらのほうが奇異に思われた。

「年寄りのおせっかいと思われても仕方がないが、留美ちゃんとは〝仲良し〟でね。彼女のことが心配なんだよ」

「妹のことを心配していただくのはありがたいのですが―――」

 言いかけたところに留美が戻ってきた。

「姉さん。来てくれたの? 連絡してくれればよかったのに」

「ごめん。急に時間が空いたから・・・。メールすればよかったね」

「ううん、帰って来てくれて嬉しい。お母さんも喜んでるよ、きっと」

「そうね・・・。あ、これ。留美にお土産。前に欲しいって言ってた服よ」

「嬉しい。ありがとう」

 二ヶ月ぶりの姉妹の再会を目の当りにして、滝口は退散することにした。

「留美ちゃん、良かったね。お姉さんとゆっくり話すといい」

 それだけ言って車椅子を反転させ、滝口は自室へと戻っていった。

「滝口さんと何を話してたの?」

 姉と久々に会えたことで留美の気持ちは珍しく昂揚していた。普段は母の容態を常に気にかけ、祖父母の前では気丈に振る舞ってはいても、彼女はまだ高校生なのだ。唯一甘えられる、頼れる姉の存在は大きかった。たとえ一時でも肩の力を抜くことのできる時間は貴重だった。何よりも若い女同士で話題を共有できることが楽しみだった。

「あなたの事よ。いつもお母さんの世話をしていて感心だって」

「だって、姉さんは仕事で頑張ってるのに、わたしはおばあちゃんたちにお世話になりっぱなしだもの。そんなの当然じゃない」

「ごめんね。留美にばかり面倒掛けて」

 二人は母親の寝顔を見やりながら、お互いを労い合った。

 その夜、亜美は久々に祖父母の家に泊まった。半年ぶりに四人で食卓を囲み、束の間とはいえ家族の団欒を味わった。前回は母の見舞いの帰りに挨拶に寄っただけだった。でも今回は留美の笑顔を見ることができ、祖父母とも語り合うことができた。その二人とも健康体であることに安堵した亜美は、翌日の昼前の列車で東京に戻ることにした。

「姉さん、今度はいつごろ帰れるの?」

 寂しさを隠せず、懇願するような口振りだった。

「わかったら、今度はちゃんとメールする。おじいちゃんもおばあちゃんも、留美のことお願いします」

 そう言いながら亜美はタクシーに乗り込んだ。

 当初、最寄駅までと運転手に伝えたが、妹たちの姿が見えなくなったのを確認すると、行き先の変更を告げた。

「運転手さん、ごめんなさい。附属病院に行ってください」

 地元の運転手には「附属病院」といえば〈東都医科大学付属山梨中央総合病院〉だと通じるのだ。本当はもう少し妹たちと過ごしたかったが、昨日の滝口の話が気がかりだった。話が途中になってしまったので、余計に不安が増幅していたのだ。母の容態はもちろん気に掛けてはいるが、滝口の話が頭から離れなかった。母については、ひたすら待つだけしかできないもどかしさにようやく慣れてきた。一方で、妹のことは自分がどんなことをしてでも守らなければと心に決めていた。だからこそ、消化不良の解決を優先する気になったのだ。

 病室を訪れると、滝口は予期していたようで、フランネルの縞のシャツにウールのカーディガンを羽織り、車椅子に座って彼女を迎えた。

「留美が、妹が何をしたというのですか?」

 気持ちの優しい、真面目な妹への気遣いが語気を強めた。

「いや、今のところは。でも、これから何かをするかもしれない、と私は恐れているのですよ」

「何を恐れているというのです? いったい何の話ですか?」

 亜美は相手が病人で、しかも高齢であるということを忘れたように問い詰めた。だが滝口は泰然と、これ以上はない重大な話を打ち明けるように声を低めて告げた。

「留美ちゃんに話してしまったんだ。・・・もとはと言えば私の責任なんだ。軽率だったと反省している」

 何を話しているのだろう。相手の話がまったく見えない。

「・・・加藤昭次」

 衝撃だった。一瞬たりとも忘れたことはない、姉妹にとっては憎んでも憎み切れない男の名前だった。父を死に追いやり、母が昏睡状態になった原因を作った男だ。だがすでに複数の詐欺容疑で逮捕され、服役中のはずだ。

「その男がどうしたのです?」

「この病院にいたんだ」

「な、何ですって? どうしてここに?」

 話の核心はもちろん、滝口の言葉の何もかもが理解不能だった。

 この山間の病院で、受刑者とその犯罪被害者が偶然出会うなんてことがあるのだろうか。

第一、なぜ服役中の人間が都心から離れたこの病院にいるのだろう。受刑者の日常や法的な決まりは知らないが、もし病気になったとしても警察病院とか近くの病院で治療するのだろうと亜美は思っていた。

「・・・ともかく、時間が無いので聞いて欲しい―――」

 亜美は考えるのを諦め、放心状態のまま勧められたパイプ椅子に腰を下ろした。

 しばらく彼女の表情を見据えた後、改めて滝口は口を開いた。

 滝口は留美に話したように、自身の境遇や余命について簡略に語った。さらに、自ら治験の被験者になったことも。

「―――彼らは別のグループで、普段は顔を合わせることもなかった。だが、一週間ほど前、研究棟の廊下ですれ違ったことがあったんだ。それが、とても違和感があってね。彼らは三人だったが、それぞれ傍らに白衣を着た男が付き添っていた。だが、どう見ても看護師ではなかった。いかつくて、どちらかというと柔道着が似合いそうな手合いだった。そう思って改めて検査着の三人の顔を思い浮かべた時、何となく見覚えがある気がした。すぐには思い出せなかったが、絶対にどこかで見た顔だった。その確信はあった。で、後日ようやくそれを思い出したんだよ。中のひとりは加藤昭次に間違いなかった。テレビや新聞のニュースで見たからね。こういう(入院)生活をしてると、テレビや活字だけが楽しみなんだよ。それはともかく、治験の内容については口外しない事という誓約書があったんだが、それは自身のことだから、その三人については気にしていなかった。もちろん、彼らの行なっている治験の内容は知らない。だから、次の日に何気なく留美ちゃんに話したんだ、ニュースで見た人物を見かけたと。それが加藤昭次という名前だということも。その時彼女はものすごく驚いて、青ざめた顔をしていた。私はニュースになるような人物が近くにいたら確かに怖いだろうな、くらいに思っていたんだ。ところが、この近くでも大掛かりな詐欺事件が発生していたことが後でわかった。被害者について具体的な記述はなかったが、概要から留美ちゃんの家族ではないかと想像できた。まさかとは思っていたが、次の日から彼女の様子がどうも妙なので気になっているというわけなんだ。・・・総べては私の軽率なひと言が原因だ。申し訳ない」

 一気に事情が呑み込めた。自分たちの生活を滅茶苦茶にした張本人が母親と同じ病院の敷地内にいるというのだ、平静でいられる方がどうかしている。憎しみの対象を間近にした留美は、感情の赴くままに何かしらの〝罰〟を自分の手で与えたいと思っても不思議ではない。

 昨夜、いつもと変わらずに明るく振る舞っていたが、それは姉を安心させるための演技だったのだろうか。そう考えると、亜美は胸を締め付けられる思いだった。そんな妹の心情もわからなかった自分が情けなかった。自分は思い込むと突き進んでしまう性格だと自覚しているが、妹もまた一途な、人一倍正義感の強い人間だということを思い出した。同時に、何とも嫌な胸騒ぎが湧き上がるのを感じていた。

 

                 17 

 

 田所の班が当直だったその日は、奇跡的に平穏な夜だった。

 酔客同士の喧嘩で近くの交番から警官が駆けつける程度のことはあったが、署に詰めている田所のもとに持ち込まれるほどの事件は起こらなかった。

「主任、今夜は無事に終わりそうですね」

 欠伸を噛み殺しながら、森田がコーヒーを入れるためにソファから起き上がった。

「だといいがな。まあ、こんな日があってもいいさ」

 田所も少しばかり安心したように表情を緩めた。この当直が終われば二週間ぶりの非番だった。

 そうして、穏やかな朝がやってきた。他の署員たちも順次姿を見せ始める。

「さて、顔でも洗ってくるか」

 田所はネクタイを外し、タオルを手に洗面所へと向かった。

班の誰もが心なしか優しい顔をしている。犯罪がなければ自分たちもこんな顔をしているんだ、と誰もが思った。もちろん口にする者はいない。

だが、そんな空気は、早朝に現れた二人の男たちによってあっさりと吹き飛んだ。

「署長は?」

 挨拶もなく、高圧的な物言いだった。

「先ほどお見かけしましたが」

 通りかかった交通課の婦警が告げると、男たちは無言で署長室へと足を向けた。

「何者です、あの連中は?」

 刑事二年目の中越が不快感を露わにしながら訊ねた。

「以前、どこかで見たな」

 池内が額を指で掻きながら目を細めた。

「本当ですか、池さん。どこで?」

「ちょ、ちょっと待ってくれ。・・・ええと・・・、ああ、思い出した。三年ほど前の経産省の機密漏えい事件の時、記者会見の会場で見かけた。公安の人間だ、あいつら」

「公安?」

 中越と森田が顔を見合わせた。

 二人の声を聞いて、洗面所から戻った田所が怪訝な表情を見せた。

森田が説明しようとするとちょうど署長室のドアが開き、身長差のある二人の男が出てきた。いずれも細身で、嫌味なほど濃紺のスーツが身体に合っていた。彼らは周囲に誰も存在していないかのように無表情のまま、階段を下りていった。

後を追うように出てきた課長と田所の目が合った。

「課長。あの二人は・・・? 用件は何です?」

 藪蛇かと思ったが、気になって口に出てしまった。

「公安部の人間だ。君が余計なことをしてくれたおかげで、署長にも嫌味を言われたよ」

「公安? どうして連中が?」

「知らんよ。とにかく面倒を起こさんでくれ」

 不機嫌さを露わにして言い捨てると、階下の出入口に足早に向かった。

 課長とそりが合わないことは以前から自覚してはいるが、これほど露骨に顔に出されたのは初めてだった。よほど手厳しいことを言われたようだ。それにしても公安の連中がどうして出張ってくるんだ。

 最近のヤマで公安が関係するような事案はない。例のホステス殺しもしかりだ。およそ連中が気にかける要素は見当たらない。いったい何が気に食わないというのだろう。

 田所は突然思い出した。あの二人のうちの背の高い方、なぜか気になったがその理由がわからなかったのだが、ようやく記憶と重なった。過日、張り込み先で石垣を拉致しようとした二人組の片割れだ。薄明かりの中だったのではっきりと顔が見えたわけではないが、背格好や身のこなしが同一人物だと示していた。この点は刑事の嗅覚で確信があった。しかし、公安があのライターにどんな用があるというのか見当もつかない。彼がテロや国家機密に関わっているとはとうてい思えない。

 だが、彼と自分の接点はあの事件しかないのだ。やはり、あのヤマは痴情のもつれによる突発的な殺しという単純なものではない。裏に何らかの事情が隠されているのは確かだ。自分が漠然と抱いていた違和感がその正体なのかもしれない。田所は確信した。真相は全く見えないが、美津江殺しの犯人は水上ではないと。

 では、真犯人は誰か。鑑識が掴んでいた事実、最後にドアノブに触れた人物、その人物こそが真犯人ということなのか。やはり、再度水上の交友関係を調べ直す必要がありそうだ。さらに、公安が目立った動きを見せていることが不穏な気配を漂わせている。石垣がどう関わっているのか見当もつかないが、疑念が生じてしまった以上じっとしているわけにはいかなかった。

署長や課長の渋面を思い浮かべながら、田所は肚を決めた。

「森田。あのライターの居所を確認しろ」


 ワゴン車は急な坂道を車体を左右に傾けながら登っていく。石垣は懸命にステアリングを操りながら、何とか見失わないようにと前方に目を凝らした。辛うじて舗装されているとはいえ、行き交うこともままならない山道だ。脇道もなく、とにかく進むしかない。

 ひたすら前車のテールランプを追うこと二十分。ようやく辺りが少しだけ開け、道幅も拡がった。やがて右手の小高い丘のような場所に、山村に不似合いな白い長方形の建物が見えてきた。校舎のようにも見えるが、役場かもしれない。鉄筋の三階建の外観だけでははっきりしない。

 ワゴン車は吸い込まれるようにその建物の敷地内へと入っていった。それを見届けると石垣は車の速度を落とし、路肩に寄せて停車した。

(さて、どうする)

 いったんエンジンを切って思案していると、当の建物から人が出てきた。身なりはごく普通で、年齢は七十を超えたあたりか。

 その年配の男性は、石垣の赤い車を珍しそうに一瞥したものの、特に不信感を抱いた様子もなく、ゆっくりと通り過ぎた。

「あの、すみません」

 思い切ってその背中に声をかけた。

「何じゃ?」

 少し驚いたようだったが、深い皺の刻まれた柔和な顔で振り向いた。

「あの建物は何ですか?」

「ああ、この村の病院だ。東京から偉い先生が来てくれて、皆喜んどる」

「病院ですか。その・・・道に迷ってしまって」

「そりゃ難儀だったな。この道はここで終いだ。上まで行けば、広い場所があるから後戻りできるだろ」

 石垣のでまかせを疑うこともなく、親切にそう教えてくれた。

 スロープを登っていくと、〈東都医科大学付属山梨中央総合病院〉と記された金属板の嵌った門柱が見えた。そこを過ぎると左右は手入れの行き届いた花壇と植栽で、中庭には数本の白樺の高木が枝を拡げ、涼しげな木陰を作っていた。その高木を左手に見ながら奥に進むと、右手に広々とした駐車スペースがあった。さらに奥の左側にもカラータイル敷きの数台分のスペースがあるが、そちらは関係者用らしい。例のワゴン車はその左端に停まっていた。

 石垣は車の向きを変え、ひとまずワゴン車が見える位置に軽自動車を停めた。一度は持久戦を覚悟したが、空腹感に負けてあっさり方針転換を決めた。考えたら朝から何も口にしていなかった。まさかこんなロングドライブになるとは思ってもみなかったので、早起きした勢いのまま、朝飯も食べずに部屋を飛び出したのだ。

(陽子の言うことを聞いておけばよかった)

 彼女が車のキーを投げて寄越したとき、冗談半分に言ったのだ。

「張り込みにパンと牛乳はつきものよ。持っていく?」

 石垣は車を降り、病棟の入り口に向かった。この際理由は何でもいい。建物内に入る口実ができたことで、気持ちは落ち着いた。

 病院関係者に何か言われても、飲み物を買うだけだと答えればいい。自動販売機くらいはあるだろう。

「どうされました?」

 通りかかった看護師にいきなり声を掛けられて動揺した。

「いいえ。今日は付添いです」

 とっさにそう答えていた。いつのまにか平気で出まかせを口にできる人間に成り下がったようで胸が痛んだ。

 だが、それだけだった。以後は看護師も患者も誰ひとり石垣に特別な注意を向ける者はなかった。都会の病院と同じだ。患者の数が少ないとはいえ、この構図に変わりがあるわけではない。ただ、あまりに無関心でいられると、何だか自分が透明人間になったような錯覚を憶えたりもする。まったく人間というやつは勝手な生き物だ。

 改めて目的を確認する。診察を待っている患者の中にワゴン車で連れてこられたと思われる人物は見当たらない。根拠があるわけではなかったが、見渡したところ、目に映るのはどう見ても地元民といった身なりの老人ばかりだ。

 彩奈と清美が教えてくれた転地療養先がこの病院だとすると、特に変わった様子もない。誰かにチェックされるわけでもなく、地元住民が通ってくるごく普通の病院だ。ここに何かの秘密があるとは思えない。気になるのは、東都医科大学病院から患者を送り出す際の、人目をはばかるような一連の状況である。特に転地療養が必要とも思えない患者の転院、意味ありげな偽名が散見されるという事実。そして例のワゴン車。石垣がこれまで見てきたことはどれも謎めいている。だが、今実際に目にしている光景には何の不自然さもないのだ。失礼ながら、土地柄に似合わない豪華な病院という点を除いては。

 石垣がそうした感想を抱いたのは当然だ。ここの施設は国の肝いりで建設されたものだったが、この時点では、彼はこの病院建設の経緯を知らなかったのだ。

 待合室の前を抜けると、奥に簡単な休憩スペースがあった。見舞い客や付添いの人たちのためのものだろう。さすがに煙草はなかったが、清涼飲料の自販機が三台並んでいた。実際喉が渇いていたので、ミネラルウォーターのペットボトルを買った。横のベンチで喉を潤していると、八十代と思われる老婆が五十がらみの女性に付き添われて診察室から出てきた。手を貸しているのは娘さんなのだろう。どこでも見られるありふれた光景である。

 見回すと、向かい側の大きなガラス扉の向こうに同じようなスペースが見えた。実際にはかなり離れた扉の向こうは入院棟で、あちらは患者同士の語らいの場になっているらしい。自販機やベンチの並びも似たようなものだが、集まっている人たちの多くはパジャマ姿で、ある者は包帯が痛々しく、ある人は松葉杖である。

 診療棟と入院棟はガラス張りの連絡通路でつながっている。渡り廊下のような通路の出入口のホール横が、それぞれの憩いの場所になっているようだ。通路の途中に中庭に出られるドアがある。そこには小さな庇があって、申し訳のようにスタンド型の灰皿が置いてある。本来なら全廃したいところだが、見舞い客もいることだし、病院側としても最大限の譲歩をしたのだろう。いわば喫煙者の最後の砦だ。

 ひとりの男が足早にそのドアに向かった。男は砂漠でようやく水を得た旅人のように、ポケットから取り出した煙草に火をつけると、一息で灰にしかねないほどの勢いで煙を吸い込んだ。

 その様子を遠目に眺めていた石垣には、その男の気持ちがよくわかった。自分もつい一年前まではけっこうなヘビースモーカーだったのだ。それが陽子の再三の忠告に根負けした形で禁煙をすることになった。きっかけは風邪をこじらせたことだったが、彼女があれこれと病気の話を持ち出すのに閉口して、捨て台詞のように宣言したのだ。

「癌だ、高血圧だと毎日うるさくて、ちっともタバコがうまくない。やめたやめた」

 以来、なぜか陽子は機嫌が良くて、以前に増して美味い料理を作ってくれるようになった。おかげで最近少しばかり腹の周りが気になり始めたが、編集部では幸せ太りじゃないか、と冗談交じりに揶揄される日々だ。

 ふとそんなことを思いながら、改めて周りを観察する。本来の目的を忘れたわけではないが、あまりに見慣れた光景に、自分がどこにいるのかわからなくなりそうだった。受付の前を通り、開放的なエントランスを抜けると、そこには車の騒音と表情のない多くの人たちが足早に歩いている・・・のではなく、緑の木々と書き割りのような山肌が映るばかりだ。

 勢いでこんなところまで〝尾行〟してきたが、ワゴン車の主さえわからないのだ。もちろんこれは運転手ではなく、〝転院〟のために同乗してきた人物のことである。それさえわからないのに、何をどう探るつもりだ。我ながら情けない。

 そう思いながら無意識に連絡通路に足を踏み入れていた。通路の先にある入院棟の談話スペースには何人かの人の姿が見えたが、途中の喫煙所の人影は消えていた。石垣はさらに歩を進めた。職員に聞かれたら見舞いだと言えばいい。とにかく何かしないではいられなかった。

 辿り着いた談話スペースには三人の患者が椅子に掛けていた。五十代と思われる男性の隣に、同年代の男が腰を下ろすなり、得意そうに話し始めた。

「知ってるかい? 人体実験でついに死者が出たらしい」

「本当ですか? 何だか怖い実験だという話は聞いてましたが」

(人体実験で死者? 何だ、その物騒な話は?)

 突然のことで石垣も驚いた。

 通常、治験は専用の施設で行われる。どうやらここには研究用の建物が別にあるらしい。その場合、かなり大規模な施設になる。場合によっては一般病棟とは別に治験者用の宿泊、入院施設を用意しなくてはならない。したがって、通常では一般の患者と治験者が顔を合わせることはない。ただまれに、一般の診療部門の検査機器を使用することもないわけではなかった。今回はそのまれなケースに遭遇したのかもしれない。それにしても、死亡したというのは穏やかではない。

「すみません。その亡くなられた方というのは?」

 石垣は世間話の仲間に加わることにした。

「確か田中・・・、あんた誰だい?」

 噂話を聞き込んできた男は、見慣れない闖入者に警戒感を抱いた。

「あ、申し訳ありません。私、こういう者ですが」

 いくつかある名刺の中から雑誌名の入っている一枚を差し出した。

「ふうん、雑誌の人か。こんな病院のこと書くの?」

「興味深い話なら」

「俺、辻っていうんだけど名前は出る?」

「いえ、匿名なので安心してください」

「なんだ、名前は出ないのか・・・ま、いいや。死んだのは田中二郎ていう奴だ。ひと月くらい前から〝あそこ〟にいたみたいだな」

 男は自分の仕入れた噂話を披露したくてたまらないようだ。ただし、治験の内容も含めて何ひとつ具体性のある話ではなかった。その後も、近くにいた患者たちに同じ話を繰り返し吹聴し始めたのを潮に、石垣はその場を離れた。

「あれ、私は鈴木三郎さんだと聞きましたが」

「違う、違う。佐藤なんとかだよ」

 何やら新たに話に加わった患者同士で揉めているようだ。

(それって、例の偽名じゃないか)

 我ながら間が抜けていた。今耳にしていたのは例の名簿に記載されていた名前だった。そう思った瞬間、ふとした疑問が湧いた。

(治験で必要なのは統計的なデータであって個人名など不要なのだ。いかにも偽名臭い個人名が、患者たちの耳に入っているというのはどういうことなのだろうか?)

 ようやく陽子の話していた「治験」と「施設」が浮かび上がってきた。場所はおそらくここを指していたのだろう。経緯を考えれば、東都医科大学病院から〝転院〟してきた患者が治験に関わっている可能性が高い。問題は、死者が出たと噂される治験の内容だ。この土地で、一流の医師たちの手でいったい何が行われているというのだろう。

「鈴木って、あの鈴木さんだろ?」

「きっとね、三郎さんでしょ?」

 中年の女性が井戸端会議の口火を切り、先ほどからの話題を蒸し返した。

「そうそう。ここへ来て一ヶ月くらいじゃなかったかねぇ」

 傍らの老婆が答えた。

「でも、本名は違うみたいですよ。確か、丘本さん。丘本大輔さんです」

 全員が声の主を振り返った。そこには車椅子に乗った男性がいた。

「滝口さん。あんた、どうしてそんなことを?」

 誰もが同じ疑問を抱いた時だった。

「誰だって? 丘本って言ったか? 丘本大輔っていうのは確かか?」

 背後から低い、威圧的な声が飛んできた。石垣がどこか聞き覚えのある声にハッとして振り返ると、はたして田所だった。

「田所さん、どうしてここへ?」

「それは・・・いや、詳しい話はあとだ。今はその『丘本』の件について話を聞きたい」

 いつになく真顔だった。

 田所の〝尋問〟に対し、滝口は自分も治験に関わっていることや本名を知った経緯などを淡々と語った。亜美に留美の一件を話した後、さらに調べて丘本の名前もわかったのだ。しかし、敢えて加藤の名前は伏せておいた。余計なことを口にして姉妹に迷惑が掛かってはならない。

 田所はその後も看護師たちにあれこれ聞き回り、ようやく小沢という担当医に辿り着いた。

間もなく診察が終えた医師が姿を現した。

「小沢です。いったいこれはどういうことですか? 我々に何か落ち度でもあったと?」

 銀のフレームのメガネをかけた医師が、憤慨した口調で切り出した。

「いえいえ、そういうわけではないんです。少々お話を伺いたくて・・・適当な場所があれば・・・」

 刑事の態度に気圧されて、やむなく近くの相談室に誘った。

「恐縮です。実はたまたまある事件で聴取をしたいと考えていた人物だったもので・・・」

 もちろん出まかせだった。丘本はすでに逮捕済みである。その人物がどうしてここにいたのかが問題なのだ。

「それでしたらお力になれませんね。患者のプライバシーに関してはお答えできません」

「そうおっしゃらずに。因みに地元の警察にこの件は?」

「いいえ。あくまでも病死ですから―――」

 慌てて口を噤んだが遅かった。

「病死? そんな重病だったのですか?」

「い、いや、前日までの検査ではこれといった異常はありませんでした。しかし、診察(一般病棟内の死亡診断のため、検視ではない)の結果は急性心不全でした」

 諦めたように、最低限の事実を告げた。

「そこなんですよ、問題は。前後の状況を考えると不自然に思えましてね。ぜひともお話を聞かせていただきたい」

「話と言われても、『鈴木さん』のことはよくは知らないんですよ。何しろ、担当してまだ二週間ほどですから」

「そうは言っても、担当医ではないんですか?」

「その件については少々複雑でして・・・、あまり詳しくはお話しできませんが、いえ、これは隠すということではなくて、本当に詳しくは知らないということでご理解いただきたいのですが」

「もちろん、それでけっこう」

「それではお話します。実は今年の初めに学部長からお話があって―――ご承知かどうか、当院は東都医科大学の系列病院でして・・・」

小沢は反応を待って、言葉を切った。

「わかりました。どうぞ続けてください」

「で、大学からあるプロジェクトに参画するために若干名の治験者を受け入れるよう指示がありました。他にも何件かの治験が進行中ですが、鈴木さんは最新のプロジェクトに協力してもらうことになった方のひとりです。昨日までは指示通りの〝検査〟を行っていました」

「検査? どのような?」

「それは・・・個人情報に関することなので申し上げられません」

「ですが、すでに故人です。故人情報は大目に見ていただきたいですな」

 おやじギャグとも取れる軽口ですり寄ってみたが、相手は頑なだった。

「申し訳ない。私の口からは何も言えません。そもそも私は助手で、主導はあくまで脳神経外科の柏木教授ですから」

「そうですか、先生の口からは言えない、と。わかりました、そこは目を瞑りましょう」

 田所は僅かに表情を緩め、口元を微かに引き上げた。この先生、思ったよりも苦労人のようだ。確かに検査内容は明かさなかったが、わざわざ教授の専門分野を持ち出したのだ。ある程度の内容は知れるというものだ。

「では丘本が、いや『鈴木さん』が転院してきた経緯は今伺った通りとして、そのプロジェクトとやらの内容はお聞かせ願えますか?」

「申し訳ないが、お答えできかねます。医療特区における研究の機密に属することなので。付け加えると、人選については総て大学側によるもので、こちらではわかりません」

 一転、評価を下げざるを得なかった。結局、我が身が可愛いということか。確かに大学病院で教授連中に睨まれれば、医師としての将来はないと聞いている。だがそれよりも、医療特区という特殊性の壁の方がさらに高そうだ。

「それに刑事さんは先ほどから『丘本』と言ってるが、彼は鈴木三郎さんです」

 ダメ押しの言葉だった。徹底した秘密主義ということのようだ。いや、もとより本名など知らされていないのかもしれない。彼らはあくまでも実験の〝材料〟なのだろう。

 担当医や大学側がそういう姿勢である以上、看護師たちも右へ倣えをするしかない。とうてい有力な情報を得ることはできそうもない。滝口がたまたま本名に辿り着いたのは奇跡といえた。

「さて、今度はあんたから話を聞きたいね」

田所が目を細めて石垣を見据えた。

「僕も何も話せることはないですよ」

「そんなことはないだろう。現にこうしてはるばる他所の県まで足を運んでいるんだから」

「そういう刑事さんは・・・えっ、まさか、僕を尾行していたんですか?」

「突き止めた経緯は秘密だ。あんたが捜査の邪魔をしないように気を付けていたんだが、まさかこんなところまで付き合わされるとは思わなかったよ。おかげでこっちは上から大目玉だ。幸い大きなヤマがないから嫌味だけで済んだがな。それにしたって、何かしらの報告ができないと立場がない。経緯だけでも聞かせてもらいたいもんだな」

 ベテラン刑事の演技だったかもしれないが、その人の好さそうな表情に促されて、石垣は例のワゴン車のことや張り込みの件を話して聞かせた。

「なるほど。面白い話だ。だが、私には嫌な話に思えてきた」

「どういう意味です?」

「あんたが知ってるかどうかはわからんが、丘本の出身校がおたくたちの隣の甲南工業高校だと言ったら?」

「えっ、甲南工業―――?」

「そうだ。こいつがどんな意味か分かるかね? 同じ地区の高校出身の人間が、僅か一ヶ月の間に二人も死んだ。もちろん、事件の当事者とまでは言わんが、無関係とは言えんだろう」

「それは考え過ぎじゃないですか。いくら出身校が同市内だからって、一方は交通事故だしもう片方は病死でしょ?」

「確かに死因はそうかもしれんが、あんただって友人の死が納得できなくて、こんな探偵ごっこをやってるんじゃないのか?」

 田所の言い方には抵抗があったが、同棲中の彼女に背中を押されたという方がさらに格好が悪い。

「そこまで言うなら、プロの仕事を見せてくださいよ。僕が追ってきたワゴン車の主、もちろん患者のことですが、そいつを調べてください」

 端から素人の限界はわきまえていたが、面と向かって言われるとさすがに癪に触って、つい売り言葉に買い言葉になってしまった。

「おっと、そうきなすったか。さてな、困った。ここは管轄外だし、病院の先生がああもはっきりと証言してるんだから。事件にもならんよ」

 両者の間に険悪な空気が流れた。その背後に人の気配が近づいた。 

「あなた方が警視庁の?」

 制服警官を伴ってやってきたのは長身の、隙のない身なりの人物だった。年齢はせいぜい三十代半ばだが、メタルフレームのメガネの奥の眼差しは自信に満ちている。日常的に人を動かすことを職務としていることが知れる。

「失礼ですが、そちらは?」

 田所はその佇まいからおおよその見当をつけて、言葉遣いに配慮した。

「山梨県警本部の小山内だ。彼は最寄りの派出所の菊池巡査」

「私は新宿東署の田所。こっちは森田。そして、石垣です」

 相手の方が階級は上だと判断しながら、あえて自分の階級は名乗らなかった。これで石垣の身分も不問になる。向こうがどう取るかは勝手だ。こちらは詐称はしていない。

「その新宿の刑事がどういうわけでこの病院の医師や患者に訊問しているのか、聞かせてもらいたい」

「尋問だなんてとんでもない。こっちのヤマに関連して、ちょっとお話を伺っただけです」

「あくまでも世間話だと? 第一、その事件についてもそちらの上からの話は聞いてない。明らかに管轄外の捜査活動で、問題ではありませんか?」

 歳に似合わない不敵な口ぶりだ。完全な縦社会の警察組織の中では階級が唯一絶対である。警視庁といえども所轄の平刑事は、所詮は兵隊なのだ。

「それは失礼しました。自分としては上に報告はしてあったのですが、マルタイの動きが突発的だったもので、そちらへの連絡が遅れてしまったようです」

 報告を入れたのは事実だが、それはつい三十分ほど前のことだ。理由については曖昧にしてある。もちろん、田所はそれを正直に話すつもりはない。

「ま、正式な要請が来るのでしたら、目を瞑りましょう。ですが、あくまで私の指示に従っていただきたい」

「わかりました。こちらは事件に関する情報さえ拾えれば文句はありませんので・・・」

「よろしい。差し当たり、何が訊きたかったのでしょう?」

「この石垣の話では、つい先ほど東京の大学病院から患者が移送、いや転院というというのですか、とにかく新しくこちらに入院された人物がいるということなのですが」

「それが何か?」

「ええ、その人物とこちらで探している容疑者が都内の病院で接触したという話を聞き込んだものですから・・・。で、お訊ねしたいのはその新入り、いや失礼、新しい入院患者の身元が知りたいんですがね」

 石垣は胸の内で拍手喝采した。このベテラン刑事さんは見かけによらず切れ者らしい。策を弄さず、直球で勝負とは。

「その人物が東京の事件に関係していると?」

「いえ、あくまで参考までに。わざわざこちらに移ってきたのにはそれなりの理由があるのではと・・・。病院の先生方は守秘義務とやらで何も話していただけないので、せめて身元がわかれば我々の方で調べさせてもらおうと思いまして」

「なるほど。・・・いいでしょう、こちらで調べて報告するということで構いませんか?」

 慇懃無礼な態度は変わらないが、規則通りの手順を踏みさえすれば正当な対応をすることにやぶさかではないようだ。相手が立場をわきまえていることが確認できれば、子供じみた虚勢を張る必要もないことを理解している。まあ本心は器の大きさを誇示したいだけなのかもしれないが、言葉尻だけは長年の現場経験者に一応の敬意を表してみせた、というところだろう。

 三十分後。予想よりも早く小山内が報告にやってきた。

「院長に確かめましたよ、今日の入院患者の件」

「恐れ入ります」

「名前は近藤正輝。銀座の宝石会社の役員だ。詳細は明かさなかったが、肝臓疾患ということだ。それと・・・もちろん、前科(まえ)もなし。まったくの一般人というわけだ」

「そうですか、わかりました。ところで、そんな患者がわざわざこんな所まで? 都内の東都大の附属病院で済むことでは?」

「かかりつけの医師が現在はこちらの病院に出向していて、患者本人のたっての希望とのことだ。事務長の〝紹介状〟も持参してたよ」

「なるほど、VIPというわけですか。いや、さすがに仕事が早くて抜かりがありませんな」

 何のことはない、守秘義務と言いながら地元警察のキャリアに対しては口が軽くなるというわけだ。

「納得いただけたら、早々にお引き取り願いたい」

 田所の皮肉に対して、眼鏡の奥の眼は笑っていなかった。

「患者が話していた〝不審死〟についてはどうお考えで?」

「病院内のことで、担当医の『診断書』も出ている現状で何も言うことはありませんよ。それに、その件に関してあなた方は関係ない」

「そうでしたな。失礼しました。では、退散します」

 田所は顎でふたりに合図すると、素直にエントランスに向けて歩き出した。

「ほんとに戻るんですか? 不審死した人間がいるというのに」

 石垣が堪えきれずに田所に食い下がった。

「ああ、管轄外じゃ手も足も出せん。それに、他人様の仕事に首を突っ込むほど我々も暇じゃない。おたくも、これ以上厄介事に巻き込まれる前に東京に戻ることだな」

 そう言いながら車のドアを開けると、むっつりとした表情のまま助手席に乗り込んだ。石垣と同様の思いを抱いていた森田もやむなく運転席に収まり、ルームミラーを気にしながら車をスタートさせた。

「いいんですか? あのライターを放っておいて」

「やむをえん。我々は手出しできないんだ。だいたい話が奇妙過ぎる」

「といいますと?」

「県警本部のキャリアが丘本の素性を知らないわけがない。本来、奴がこんなところにいることはあり得ないんだ。特区だか何だか知らんが、上の方の連中がやりたい放題ってわけだ。あのキャリア様も事情を知った上でとぼけたのさ。だからいくらか後ろめたさがあって、今日転院してきた患者のことを我々に教えてくれたんだろうよ」

 皮肉を込めて吐き捨てると、田所は腕組みをして目を閉じた。

石垣は取り残された格好になったが、彼には制約があるわけではない。小山内は田所の言葉で石垣を部下と思ったかもしれないが、警察関係者と紹介も自称もしていない。一般市民である彼はどこで何をしようが自由である。このまま周辺を〝観光〟するのも自由ということだ。それでも、今日は引き上げるべきだと感じた。前のめりになると碌なことはない。

 ひとり納得して、軽自動車のエンジンをかけ、サイドブレーキを外した。セレクトレバーをドライブに入れ、駐車場から緩やかな下りのスロープへ向かう。だが、走り出してすぐに不審死のことが蘇った。当然だ。どう考えても妙な具合だ。自分が追ってきたのは一般人で、水上の事件に関わりもない。だが、たまたま耳にした事件(病死?)の被害者は自分たちの母校と同市内の高校出身だという。この長閑な村にそぐわない病院に転院してくる患者が、自分と同市内の高校出身だという確率はどのくらいなのだろう。そんなことを考えていると、周りの緑あふれた風景もまったく視界に入ってこない。

 何気なくカーナビの画面を覗くと、自車を示す矢印は何もないブルーの画面の中を移動していた。カーナビのデータが古いのか、データに無いほどの田舎道ということなのか。来るときには前車を追うことに神経を集中させていたので気付きもしなかったが、距離の割には山奥に入り込んでいたということなのだろう。ひょっとしてと思って携帯を取り出したが、案の定圏外だった。なるほど、まだまだこうした場所もあるのだと、妙な感心をしてしまう。

 曲がりくねった村道をノロノロと下っていくと、少しずつ道幅が拡がり、比例して緊張感が薄れていく。そうして十五分ほど経つと、唐突に幹線道路に突き当たった。カーナビの画面は何事もなかったように、交差した道路を映し出している。まるで白日夢でも見ていたような、不思議な浮揚感が全身を包んでいた。石垣はいつにも増して慎重な運転になった。見知らぬ土地というよりも、異空間を彷徨している気分だった。だが、時間の経過とともに車の量が増すと、地表に引き戻されたように、いつもの日常が返ってきた。さて、目まぐるしい今日一日のことを陽子にはどう話せばいいだろう。

 東京に戻ると、辺りは薄暮に包まれていた。マンションと胸を張れるほどの建物ではないが、見た目だけはアパートに毛が生えた程度の体裁を保っているその三階の部屋には、すでに明かりが点いていた。

「お帰り」

 いつもと変わらない陽子の声が迎えた。

「途中でガソリンは満タンにしといたから。今日は助かったよ」

 石垣は礼を言いながら軽自動車のキーを返した。

「何かわかった?」

「それが・・・訳が分からなくなってきた。話がどんどん妙な方向へ進んでいくようで・・・」「そう。何があったのか話してよ。あっ、でもその前に夕飯の用意するね。お腹すいてるでしょ?」

 エプロンをしながらキッチンに向かうと、下ごしらえをしてあった野菜と豚肉を手際よくフライパンに落とし込んだ。

 食欲をそそる音と匂いが部屋に漂う。わけもなく幸せを感じてしまう一瞬だが、自分にその資格があるのか不安になる瞬間でもある。陽子は見かけはもちろん気立てもいいし、聡明な女だ。そんな彼女が自分みたいな男と一緒にいていいのだろうか。不満はないのだろうか。つい一時間前までは不審死のことで頭がいっぱいだったのに、今は居心地のいい自身の生活に疑問を抱いている。身の程をわきまえていると言えば聞こえはいいが、要するに自己中心の小心者の典型というわけだ。その証拠に、食卓に料理の皿が並んだとたんにそれまでの疑念は霧散し、空腹にまかせて料理を胃袋に詰め込むことに没頭している。考えてみたら、結局病院では水しか飲んでいなかった。だからというわけではなく、掛け値なしに旨かった。陽子の料理は絶品なのだ。

胃袋が膨れ始めたところで、ようやく今日の出来事を話す余裕が出てきた。というよりも、自身の中で少しずつ整理ができ始めたということか。何よりも、陽子に聞いて欲しかった。

「そのワゴン車を追って辿り着いた山の中の病院というのが―――」


                18 


 すでに処理済となった報告書のファイルが刑事課長のデスクに積まれていた。

 このところいつにも増して変死事件が発生している。解剖の結果、事件性なしと判断されているものが殆どなので、正確には〝事件〟ではないが。

 それ以前に、検視の段階で事件性が希薄な場合は事故、あるいは病死で処理されてしまう事案が多いことも事実である。正直なところ、想像以上に都市部における変死体は多く、一握りの監察医や解剖医では全件の解剖は不可能なのが実情だ。些細な疑問から積極的に遺体を解剖し、事件を解明するというのはドラマの中だけだ。稀にベテランの監察医が違和感を感じて詳細に検査した結果殺人が立証された例がないではないが、それは本当に数少ないケースと言える。

 監察医の木下は淡々と職務をこなすだけだが、時折疑問符が浮かぶ遺体に出会うことがある。先日の遺体もその一例だった。だが、手元の検案書を書き上げたら、次の遺体が待っている。余計な意見を書き加えて捜査陣を混乱させてはならない。ただでさえ多忙な彼らにこれ以上の激務を強いることはできない。そう考えると一度止めかけたペンを持ち直し、病死の判定を下して署名した。

「あんたにだけは話しておいた方がいいと思ってね」

 別件で顔を見せた田所を呼び止め、木下は数日前のある中年女性の遺体について話した。

「新しい開頭手術の痕があってね、それは見事なお手並みだ。かなり手慣れた先生が執刀したんだろう。問題はそこなんだ。死因はその切開した場所の少し奥にあった動脈瘤の破裂によるものだった」

「それのどこが問題なんですか? 間違いなく病死だったってことですよね?」

「そう、所見通り病死であることに間違いはないんだ。ただ、あれだけの腕を持った脳外科医があんな大きな脳動脈瘤を見逃すはずがない。まして開頭してるんだ、目視できたはずなんだよ。普通ならあり得ない」

「それはつまり・・・?」

「画像診断のミスならともかく、故意に見逃したとしか・・・医師としてはあり得ない行為だ」

「しかし、それは・・・」

「そうなんだ。証明のしようがない。第一、罪に問えることでもない・・・法的には」

「・・・」

 田所は言葉に詰まった。確かに答えようがなかった。

「話だけはした。だが、報告書の内容に変わりはない。あとは・・・そっちで考えてくれ」

 挨拶もそこそこに、木下は再び解剖室のドアの向こうに消えた。

 並みの医者なら穴だらけの報告書を挙げて知らん顔を決め込むところだが、木下は違った。医学的根拠に基づき、断定すべきは断定し、疑問があれば解明にやぶさかではない。だからといって、無闇に捜査陣を混乱させるような記述には慎重だ。ただ、気心の知れた捜査のプロに〝欄外〟の事実を伝えておこうという生真面目さと、背中合わせの自己防衛本能は抑えられなかったようだ。

 このところ〝荷物〟を投げ渡されてそれきりという状況ばかりだ。誰もが忙しく、自分の領分の仕事はきっちりとやるが、その先は他人任せ。やむを得ない現実だが、投げつけられた方はたまったものではない。毛色も形も違った難問を押し付けられ、しかも誰もその答えを手元に持ってはいない。呻吟して答えを出したところで、模範解答がない以上、納得もできないのだ。これほど欲求不満が募ることはない。

 田所は自問した。そもそもこの仕事に解答があるのだろうか。犯人逮捕はひとつの解ではあるが、複雑に絡む人間関係においては、それぞれの立場によって答えの見え方が違うのだろう。また、答えが出たからといって、総てがリセットされるわけではないのだ。失われたものは帰ってはこないし、壊れたものは元には戻らない。それが形あるものであろうと、形のない心や絆であろうと、だ。 

 毎日多様な事件に追われながらも、田所の頭の片隅には例のホステス殺しの一件が引っ掛かっていた。彼の中では、ホステス殺しの真犯人は水上ではないという結論に傾いていた。第一に、関係者の語る水上の人物像である。田所が違和感を抱いたのがまさにその点で、被害者との関係も曖昧であり、当日ふたりが会っていたという目撃証言もない。被害者が水上と名乗る人物と同伴したという証言もあったが、それが本人であったという物証はない。ふたりに接点があったとすれば被害者の美津江が池袋の店に勤めていた時期で、店の人間が見ていないというのは不自然である。どちらが気に入っていたにせよ、店に顔を出さず、全くの商売抜きで盛りあがっていたというのは無理がある。

解剖の結果、被害者には情交の痕跡はなかった。これは水上にとっては不運だった。もしも体液が付着していれば白黒がはっきりしたはずだ。そして、アパートのドアノブに残されていた水上以外の指紋。さらに、これは非公式な伝聞によるものだが、水上が盗んだとされる軽トラックのハンドルからは彼の指紋が採取できなかったというのだ。

 軽トラックの前面は大破しており、衝撃の大きさを物語っていた。心理的にシートベルトを締める余裕もなく、それが結果的に命取りとなった―――情況的にはどれも整合性があり、現場検証においても矛盾点は見当たらなかった。ただ当初はありふれた交通事故として扱われていたので、複数の人間がドアやハンドルに無造作に触れたことはやむを得ないことだった。加えて、商用車ということで多数の指紋が重なっていてもともと鮮明なものが殆ど無く、特定に至らなかったのだ。

 とはいえ、水上本人は現場から病院に搬送されており、結果として死亡が確認された。これは紛れもない事実である。水上が何もしていないのなら、軽トラックを盗む必要もない。交通事故、車両盗難、水上の部屋のホステスの死体―――と遡っていくと、行きつくのは「水上が犯人である」という結論にならざるを得ないのだ。

 頭を過る疑問の循環に終止符を打ったのは森田の声だった。

「主任。署長がお呼びです」

 その硬い表情で、おおよその見当はついた。

「そうかい。じゃ、久しぶりに顔を拝んでくるか」

 署長室のドアを入ると、思った通りの渋い顔がそこにあった。

「お呼びとのことで―――」

「理由は言わなくてもわかっていると思うが・・・、なぜ山梨県警の管轄まで踏み込んだ?」

「決してそんなつもりでは・・・行きがかり上とはいえ、申し訳ありません。ですが、奴がどうしてあそこにいたのでしょうか?」

「もちろん、治療のためだろう」

「わざわざ山梨の病院で? あり得ない話です。それに、例のホステス殺しの関係者と出身高校が同じ市内で―――」

「その件は終わったことだ。蒸し返すな。まして、他所の部署の人間に足元を掬われたくはない」

「それはどういう―――」

「きみは規律違反を犯したんだ。しかもよりによって医療特区で。それだけでも十分問題だ。本来ならそれなりの処分をするところだが、今回だけは不問に付す。以上だ」

 言うべきことは伝えた。これ以上煩わされるのはごめんだとばかり、田所を一瞥してから机上の未決済書類に目を落とした。


この日、都内の別の場所でも硬い表情をした人物が顔を合わせていた。

先日の会合の補足説明だということだったが、出席者は本郷の他は警察庁長官の皆藤と厚労省大臣の滑川の二人。是永と一条の姿はなかった。

「この計画のどこが問題なのでしょう。要は医療特区の法整備で、格段の相違があるとは思えないのですが?」

 滑川の手元にあるファイルは、先の「国民総合管理法案要綱」とは異なり、あくまでも医療特区運営の概況報告に過ぎなかった。

「大臣には申し訳ないが、それはこの計画の一面に過ぎない。医療関係者にとっては額面通りの内容で問題はない。だが、肝心なのは別項でね。法整備は多岐に渡っている」

「国家戦略特区とも異なると?」

「全くの別物だ。将来的な呼び方は『国家特区』だ」

「何ですかその『国家特区』とやらは?」

 冷ややかな視線を向けたのは皆藤だった。

「言ってみれば国内における独立国家ということになるだろうか。つまり、あらゆる規制の呪縛から解放されるということだ。規制緩和というレベルではない、自由な法整備が可能なのだ」

「それはまた・・・しかし、総理自身がそのような発言をされるというのは大いなる矛盾では?」

「確かに。だが、将来的な観点からこれも一つの選択肢として想定しておく必要があるのだ」

「結果的に単なる独裁、いえ独善になってしまうのではないですか?」

「それもまたやむを得ないと考えている。日本という国家が消滅してしまうよりは、僅かながら希望が残る」

「それはいささか大げさすぎませんか?」

 皆藤の表情に危機感はなく、口元には黄ばんだ歯が覗いていた。

「いや、真剣に考える時にきているんだ。私自身も決して清廉潔癖な人物とは言わないが、赤絨毯を踏んでいる大半の連中は無能だ。仮にも総理の席にいる人間の発言ではないが、言い過ぎなら想像力が無いとでも言い換えよう」

「総理・・・?」

 前回の会合に同席していなかった滑川にとっては雲を掴むような話で、全容がまったく見えなかった。

「このまま〝救世主〟が現れなければ、この国は間違いなく崩壊する。これまで技術力と経済力で世界と伍してきたが、マネーゲームに奔走するあまり、実体のない繁栄に胡坐をかいている輩が多過ぎる。我が国の過去のバブルや中国の経済成長の低迷を目の当たりにしても、一向に学習しない。誰もが自分だけ、あるいは自分の身内だけが富めばそれで良しという連中ばかりだ。地球温暖化も環境汚染も、自分たちの世代だけやり過ごせればそれでいいと考えている。嘆かわしいことだが五十年先、百年先を見据えて政治を考えている人間は皆無といっていい。現時点ではその責任は私にあるといえる。だからこそ、この計画だけは実現させたいのだ。百年後の我が国の存続を確定させるために」

「そんな・・・あのチップにそんな力があるというのですか?」

「希望だよ。我々の希望があの中に詰まっているんだ。財政改革はその端緒に過ぎない。各省庁間における事務経費の削減に始まり、企業間の共通インフラの確立。さらに犯罪の劇的な減少で犯罪による人的、物的損失の削減。何よりも淘汰されて残った人々は有能で善良な人間なのだ。彼らが外圧を気にすることなく自身の能力を発揮できれば、生産性の向上は計り知れない。有能な人間が無能な人間のためにエネルギーを使うことは最大の無駄だよ。結果は良いことづくめというわけだ」

「そううまく運ぶでしょうか? それに、善人だけの世界というのはどうなのでしょう?」

 警察官僚の、いや、ごく常識人の皆藤には想像もできなかった。

「不満かね? 誰でも敵は作りたくはないだろう。その煩わしさから解放されるということはこの上ない幸せだと思うのだが」

 言いながら、本郷は自身の言葉自体が矛盾に満ちていると感じていた。

「いずれにせよ、このシステムが実現可能かどうかという評価が確定しないことにはどうにもなりません。まずはレポートの詳細な分析が必要かと」

「その通り。だから彼らには慎重かつ精緻な報告を義務付けてある。助成金の継続の為にも、彼らは努力を惜しまないだろう。すでに入口部分の問題はクリアされている。これだけモバイル機器が浸透している現状ではほとんど問題はない。〈情報ツール〉という名目さえ与えれば、誰もが首を縦に振る。既に稼働しているNシステムやFRS(顔認証システム)も大手を振って活用できる。防犯カメラと称しているが、実際には監視カメラであることもオープンにできる。たとえ後者を総べて放棄したとしても、今後は全国民一人一人がそれらの代りになるのだ。これほど心強いことはない。違うかね、長官?」

「しかし、やはり信じられません。そんなSFもどきの話が実現するとは。確か海外の映画に、個人が衛星によって監視されるとかいう作品があったような・・・」

 研究の成果よりも、先日とは違って話の雲行きが怪しくなったことに危機感を覚えた皆藤は、構想自体を否定したい気分になっていた。

「先見の明だね。ほんの四半世紀前に現在のモバイルツールの普及が予測できたかね? パソコンにしてもたかだか半世紀のことだ。GPSや広い意味でのAIの恩恵に浴していない人間がいるかね? 自動運転もそれなくしては実現しない。人間の英知には今さらながら感心させられる。・・・実際、滑川大臣の許にも研究データの一部が届いているはずだが」

「確かに事務方から資料の説明は受けましたが、私には何のことかさっぱりです」

 あっさりと専門知識のないことを認めた。

「確かに専門的でかつ画期的な技術なので、我々素人には理解し難い部分が大半だ。だが現状はともかく十年、いや五年後にはそちらの省に大仕事をしていただくことになると考えている。私は、我が党はそのために次の選挙も勝たなければならない」

「本気でお考えなんですね?」

 皆藤は懐疑的な表情のまま、相手の真意を質した。

「もちろん。党内にも私のことを排斥したいと思っている者がいるのは承知している。だが、これはそんな派閥抗争といった次元の話ではない。近い将来、必ず訪れる危機に対する防衛策の一つなのだ。国内に限らず、国際的な問題の」

 本郷は毅然と言った。

「しかし、未だに現実感がない」

「失礼ながら、それは想像力の欠如と言わざるを得ない。今や地方都市においてさえ無数の防犯カメラが設置され、市民は絶えず監視の目に晒されている。そのおかげでどれだけ警察が助かっていることか。さらにSNSの普及が後押しをしてくれている。それは実感されていると思うが」

「それは認めざるを得ません。要は、その監視網をさらに広げようというわけですね?」

「うむ、言い方は難しいね。〝カメラ〟を増やすという発想には違いないが・・・この案が画期的であることは誰もが認めてくれるだろう」

皆藤はなぜか追いつめられている気分になった。

「確かに同時性、機動性の点では画期的です。ですが、運用面では多くの問題があるのでは?」

 必死に我が身を守る術を探っていた。

「その点は認めよう。だが、ここは踏み出さねばならない。まずは始めることだよ。運用についてはその後に議論すればいい。この件に関しては、アセスメントやコンセンサスは忘れてほしい」

「そんな無茶な話が議会で通るはずもありません。実証すらできないのに・・・」

 いつの間にか己の周囲に見えない壁が築かれているような息苦しさを覚え、思わず批判的な口調になっていた。

「実証? それは、できるよ。すでに医療特区内で一部検証済だ。先ほど滑川大臣も言っていたように」

「そんな・・・人体実験ではないですか」

 驚愕と非難の眼差しを厚労大臣に向けると、相手は気まずそうに視線を逸らせた。

「臨床試験だよ。まあどう呼んでも構わないが、現時点では正当な医療行為だ。本人の了解も取っている。何より、その為の特区なのだから」

 平然と本郷は言い放った。

「信じられません。そんな危険な実験に同意するなんて・・・そもそも倫理的に―――」

「世の中には献身的な人間が存在するんだよ。他人のために我が身を投げ出そうという高邁な精神の持ち主がね」

「まさか・・・で、成果はどの程度上がっているのですか?」

 皆藤は同席していない是永の顔を思い浮かべ、〝献身的な人間〟なる該当者に思い至り、ようやくのことで最後の部分だけを言葉にすることができた。

「データ集積という点では上々のようだ。現段階では限定的な条件下における成果ということだが、近い将来には解決される問題だ」

「ですが総理、開発者自身も真の目的を知らされていないのでは?」

 本郷の腹の底に幾層もの欺瞞が見え隠れし、前回とは一転して皆藤は懐疑的だった。

「ふむ。研究者たちには雑念を与えたくないからね。純粋に脳科学の研究に邁進してほしいと願っている」

 その表情からは本音なのか冗談なのか窺うことができなかったが、本郷は本気で日本の未来を危惧していた。金権まみれの政治を浄化するとか、大国べったりの従属国家からの脱却といった理想を掲げたわけではない。ただ、誇りと潔さを失った愚か者の集団に堕ちたくはないと考えていた。彼もかつては皆藤同様に楽観視していた。日本の経済力や国民性を過大評価していた。しかし、某内閣時代にあまりに多くの不正が露見し、国が提示するあらゆる数字が疑問視されるようになってしまった。経済状況も、一部の富裕層がさらに富を増やしただけで、格差が拡がる結果となった。そんな時、一条の提案を聞かされて大きな衝撃を受けた。ある〝ツール〟によって資産の透明性や統計数字の正確性が担保され、さらには犯罪の抑制にも寄与できるというのだ。

 法治国家と言いながら、その実不正を行なっても平然と生活を続けられる人間が存在することは、明らかに間違っている。自己中心的な考えで他者を傷つけ、自身は何の痛みも感じない人間は存在してはならない。それらは、過激ながら正論と言わざるを得ない。

 一瞬眉をしかめたくなるが、現実的には多くの人たちが無意識に抱いている感情だ。自分は他人に危害を加えたりすることはない、誰にも迷惑をかけずに正しく生きている。だから誰からも非難されたり、不当な扱いを受けることは耐えられない。もしもそうしたことがあれば、断固として抵抗する―――こんな馬鹿正直な正義感がすんなりと受け入れられる世界ならどんなに素晴らしいことだろう。

 そんな夢のような〝ツール〟が存在するとは俄には信じ難かったが、もし本当なら自身の政治生命を賭ける価値があるのではないか。具体像が判然としないまま「国民総合管理構想」を描いていた本郷には天啓に思えた。以来、構想の実現に向けて着々と歩を進めてきたのである。ただ、牽引する立場のはずだった自分が、いつの間にか背中を押されている気分になっていた。そう、ジャンプ台を飛び出した我が身に出来るのは着地することだけだったのだ。横風が吹いたり風が突然止んでしまったとしても、もはや身を任せるしかなかった。


                 19  

 

 石垣はぼんやりと窓の外の雨を眺めていた。

 風はなく、真っ直ぐに灰色の糸が地表に吸い込まれていく。銀色の糸と言いたいところだが、今の気持ちと向かいのビルの辛気臭い壁を前にして、それは無理というものだ。

 取材対象ということでやむを得ないが、ここひと月ほどは病院との往復ばかりだ。自身の診察や治療のためでも積極的にはなれないが、幾重にも覆われたベールの向こう側が一向に窺い知れないというのも、精神衛生上好ましいものではない。

 時間と労力、さらには結構な出費を重ねた挙句、手元には疲労感と無力感だけが残された。〈真実の目〉編集部に顔を出したところで、今は手持ちのネタは皆無の状態だ。編集長に嫌味を言われるくらいなら、しばらく出入りしない方が得策だ。こんな時、臨時雇いのフリーライターという身分はありがたい。

 そんなふうにできるだけお気楽に構えようと努めていた石垣だが、実際はこれ以上ないくらい落ち込んでいた。水上の件は自ら進んで関わったはずなのに、何ひとつ解決の糸口が見えず、己の軽薄さが際立っただけだ。最近は陽子もその件には触れないよう気を遣っている。それがかえって失望感が全身から滲み出ているようで、自己嫌悪に打ちのめされていた。

 不意にスマホが鳴った。驚いて相手を確認すると、看護師の彩奈だった。

「もしもし、どうしたんです?」

『先日はご馳走様でした。何だか申し訳なくって』

「いえ、こちらこそ。いろいろ面白い話が聞けて、楽しかったです」

 石垣は辛うじて大人の対応を見せた。

『お礼といっては何ですが、ささやかながら情報をお伝えしようかと思って』

「そんな。気にしなくていいですよ。とはいうものの、ちょっぴり興味があるな。ぜひ聞かせてください」

 彩奈は自宅近くのカフェの名を告げ、一時間後にと言って通話を切った。石垣はざっと時間を計算して、ゆっくりと身支度を整えた。

 自分はいつもと同じ時間に目が覚めたが、深夜に帰宅した陽子はまだ熟睡していた。今日は作家先生の仕事場に直行すると言っていたので、久しぶりの朝寝坊を黙認し、静かに部屋を出た。

 雨が止んでくれたおかげで、指定された店には少し早く着いてしまった。相手はまだ来ていなかったのでコーヒーだけをオーダーした。店内は予想と違って喫茶店の趣を残している。

すぐにコーヒーが運ばれてきた。ブックスタンドから新聞を取り、ぱらぱらと捲りつつコーヒーを啜る。何だかいっぱしのビジネスマンになったような気分だ。しかし現実は、三十を目前にして未だにフリーター同然の臨時雇いのライターだ。

 紙面には相変わらず不安定な経済情勢やら複雑な外交問題、関西地区で起きた凶悪犯罪などの見出しが躍っていたが、不思議と実感は湧かなかった。政治や経済は専門外という拒絶反応もあったが、犯罪に関しては日常化しすぎて感覚が麻痺していた。それ以前に、身近な人物や土地に直結していないと人は無関心になってしまうようだ。

 空気のようになってしまった自己嫌悪を吹き払いつつ新聞の最終面に辿り着いたとき、ドアの開く気配があった。

 初夏を思わせるマリンブルーのボーダーのシャツ、白いパンツという若々しいファッションで彩奈が現れた。今日もまた印象が違う。

「すみません、遅くなってしまって」

「いいえ。夜勤明けでお疲れでしょう。僕の友人の編集者も結構徹夜とかあって、休日は昼まで寝てるみたいですよ」

「友人て、カノ女でしょ?」

 彩奈は冷やかすように言って、笑った。

「ま、そういうことにしておくよ。で、さっきの話だけど―――」

 石垣は平静を装って、早速本題を持ち出した。

 アルバイトのウエイトレスがオーダーを聞いて下がるのを待って、桂子は話し始めた。

「じつは最近、転地療養というか転院推奨の頻度が増えているみたいなんです。それも、脳神経外科が特に」

「それは必然なのかな? つまり、僕は素人でわからないんだけど、その分野の患者さんには有効な治療のひとつとか?」

「いいえ。よく混同されるけど、心療内科とは別物で、よほど特別な理由がなければ」

「ふうん、つまり一般的じゃないんだ。でも、それだけじゃわざわざ僕に電話をくれたりしないんじゃないかな」

 初対面から感じていたように、彼女は医療現場の倫理についてはきっちりと遵守するタイプだ。だから、よほどのことがなければ外部に内情を話したりはしないだろう。

 彩奈が答えようとしたところへ、フレッシュジュースが運ばれてきた。

「石垣さんを信じてお話しするんですが、最近柏木先生の所に来る患者さんに、その・・・何ていうか、怖い感じの人が多くて。あ、これは決して差別とかじゃなくて、つまり・・・」

 彼女の戸惑いはよくわかった。病気は平等だ。だから患者が金持ちでも失業者でも、善人でもヤクザでも病院は受け入れる。そこに問題はない。ただ、ある種の人間に偏るのは不自然だということだ。

「つまり、意図的に受け入れている、あるいは何かしらの事情があるのでは、と?」

「ええ、そうなんです。それも先生の様子からすると、何だか秘密めいていて、気味が悪いというか怖いんです」

「何かしら不正に関わっているかもしれないと思ったんですね? 貴女らしいな」

「そんな・・・」彩奈は自分が悪いことでもしているかのように伏し目がちになって続けた。「いつか話した役人、どうやら法務省の方らしいんですけど、先日もその方が見えたんです。帰られた後に、翌日のオペのカンファレンスの件で外科部長の部屋に伺ったんですが、姿が見えなかったので奥の部屋で着替えでもされているのかと思って少し待っていたんです。そのときふとデスクの上の書類が目に入って―――何かの名簿らしくて、そこには数名の名前が並んでいました。その中に記憶のある名前があって、後でようやく思い出しました。あの仲河和信だったんです」

「えっ? 仲河って、死刑が確定したあの?」

 いつかテレビで特集していた例の事件の犯人だ。死者五名、重軽傷者八名という凄惨な無差別殺傷事件で死刑判決が下された。弁護士は控訴したが、棄却されて刑が確定した。無辜の五人もの命を奪ったのだ、検察側の死刑求刑は当然だった。世論も含め、このケースが死刑でなかったら、法における正義に疑念を抱かずにいられなかったろう。それほど事件そのものも悲惨だったし、犯人の仲河は一貫して、反省や悔悟の言葉を口にすることはなかったのだ。死刑によって何ひとつ報われるものはないが、少なくとも「大切な人の命を奪った人間が平然と生きているのは許せない」という叫びにだけは応えられるだろう。

「少し前に新聞で見たことがあったのでびっくりしました。どうしてそんな死刑囚の名前が部長の手元にあるのかと」

「まあ、受刑者も病状によっては近隣の病院に入院ということもあるみたいだけど、リスト化する事じゃないし・・・。何より、問題の来客が法務省の役人という点が引っ掛かるな。詳しくはわからないけど、受刑囚ということで法的な手続きが必要ということなのか、あるいは他に事情があるのかも」

「そう考えると、これまでの柏木先生の奇妙な行動が説明できます。他の先生に隠れて何やらこそこそと・・・でも、事務長は知っていたみたい」

 それはそうだろう。役所がらみの患者の受け入れや転院について事務長抜きで事を進めることはできない。いや、むしろ主導は事務長でその柏木という先生は従っているだけかもしれない。いや、考え過ぎか。いずれにせよ、やはり東都医科大学病院には裏の部分があるようだ。あのワゴン車は〝特別な人間〟の移送に使われていることは間違いない。

「何か重い病気だったのかな?」

 彼女を刺激しないよう、能天気を装って訊ねた。

「わたしも重篤な症状だと思ったのだけれど、後日当人を見かけた際には病人には見えなくて。しかも、翌日には病院にはいなかったのです。つまり、検査入院でもなかったんです。私には何が何だかさっぱり・・・」

「確かに妙な話だな。検査入院さえないなんて・・・何のために東都医科大病院に?」

「わたし、どうしていいかわからなくて、つい石垣さんに電話してしまったんです。すみません」

「いや、貴重な情報ありがとう。僕の方で可能な限り調べてみる。彩奈さんは余計な心配はしない方がいいよ」

 食事を辞退した彼女に再度礼を言ってから送り出した。せっかくの休日をつぶしてしまうのは気が引けたからだが、ひとりでじっくりと考えてみたかったのだ。

 高校の同級生の水上が殺人事件の容疑者となり、直後に交通事故で死亡した。新たな取材対象にした東都医科大学病院では〝特別な患者〟の不可解な〝転院〟が行われている。両者には今のところ関連性が見い出せないが、そのくせどうしても切り離して考えることができない。

 彩奈の言葉を引合いに出すまでもなく、頭の中では混沌と疑問が渦巻いていた。残念ながら石垣には解決の糸口さえ見えないが、目を瞑って放り出すこともできない。才能もないのにスケッチブックを拡げ、対象のデッサンに苦戦している学生のようだ。美大を目指すわけでもないのに、描き上げなければ単位が貰えず進級もできない。どんなにへたくそでも、他人に笑われても描くしかない。何としても形にしなければ何も進まない。そんな心境だ。

 しかし、いくら頭を捻ったところで素人の自分に出来る事は限られている。思考を中断して、無意識にスマホを取り出した。好ましい習慣ではないと思いつつも、ライターとしての最低限の情報源だと言い聞かせている。

 そういえば昨夜遅く、何だか慌てた様子で森田刑事が電話してきた。再三電話したがつながらなかったので心配していたという。その少し前に山梨の病院に顔を出していたので圏外だったのだ。そのことを告げると相手は心から安堵したように、良かったとだけ言って切ってしまった。いったい何事だったのか、石垣には見当もつかなかったが深く考えることもなかった。だが、向こうが気にかけていてくれるのなら、その気持ちに甘えてもいいかなと勝手に解釈した。そこで軽い気持ちで、今度はこちらから森田に電話する気になった。

 ワンコールで電話口に出た相手に、仲河の名前を出して、何でもいいから教えてほしいと懇願した。すると電話の向こうで何やら問答があり、別の声ががなり立てた。

『何でおたくが仲河のことを調べてるんだ?』

「えっ? ああ、田所さん」

『気安くするな。それにしても、いつもおたくにはどきっとさせられるよ。行き当たりばったりで動いているくせに、何かしらの鉱脈にぶつかるらしい。それはともかく、何で奴のことを?』

 警察側の状況を知らない石垣は、その名前がどう関係するのかわからなかったが、正直に桂子から聞いた話をそのまま伝えた。

『なるほど。しかし、残念だがネタにはできないな。奴は死んだよ』

「えっ? 死刑が執行されたんですか?」

『呆れたな。それでもジャーナリストのつもりか? 新聞読まないのか? 刑の執行を待たずに病死したんだ』

 石垣は絶句した。ネットニュースさえも見落としていたとは。いつもながらの詰めの甘さを恥じた。

『いいか、これだけは忠告しておく。もうこれ以上関わるな。さもないと身の安全は保障できない』

「どういうことなんです、身の安全て? 何かわかったんですか?」

『いや、まだ何も。だが、単純な事件ではないことだけは確かだ。とにかく余計なことはするな。ただでさえ厄介事ばかりなのに、おたくの面倒までは見られん』

 その声の調子は緊迫していて、冗談ではなさそうだ。石垣はすがるように再度質問をぶつけたが、無言のまま電話を切られた。

 やれやれと田所が受話器を戻した途端に、電話が鳴った。

 いい加減しつこいなと思いながら、渋々受話器を取ると意外な人物からだった。

『小山内です。その節は失礼しました』

「ああ、山梨県警の。で、今日はどういう用向きでしょう?」

『実はちょっと困った事態が起きてまして・・・、力を貸していただきたいと』

相手の声音があの時と変わっていることに違和感を覚え、僅かに身構えた。

「ほう。今日はずいぶんと低姿勢ですね。事と次第によっては考えないでもありませんが、裏がありそうですな」

『あなたに駆け引きをするつもりはない。実は山梨の例の病院で仲河和信を目撃したという情報がありまして・・・死亡の二日前に』

「何ですって? あの仲河がですか?」

『先日報道されたのでご存知とは思いますが。要するに、このひと月足らずの間に仲河和信と丘本大輔が相次いで〝病死〟し、しかも二人ともあの病院が関わっていたということになります。残念ながら病院側は認めていませんが』

「ふむ、何ともモヤモヤする話ですな。そもそも、死刑囚が他県の病院に移送されること自体が考えられない。・・・で、私にどうしろと?」

『彼らが転院してきた経緯、あるいはその事実を調べていただきたい』

「それはまたずいぶんな難問をあっさりと口にしますな。第一、それはあなたの権限でいかようにもできるのではないのですか?」

未だに水上の事件に拘っていることを口外できない田所は、敢えて鷹揚に応じた。

『それが・・・あの総合病院に関しては我々も踏み込みにくい面が・・・地域医療の問題がありましてね。最大のネックは医療特区ということで、政界がらみという点でして。本来ならこの二名の名前を出すことも憚られるのですが、あなたに隠すわけにもいきません』

「なるほど。キャリアのあなたには上からの目が厳しいが、本家の東都医大のお膝元の警視庁なら何とかなるかもしれない。そこで私に火中の栗を拾えと、そういうことですな」

『勝手な頼みだということは承知していますが、どうにも寝覚めが悪くて。あなたなら動いていただけるのではないかと、一縷の望みを賭けてこうしてお話しした次第です』

 電話の向こうで姿勢を正している小山内の姿が目に浮かんだ。規律や形式を第一と考えてはいるが、それ以上に警察官としての矜持を軽んじてはいない人間のようだ。

「・・・わかりました。だが、こいつは大きな貸しですな」

『ありがとうございます。私に出来る事があれば・・・』

「そうですね・・・甲州といえばワインでしょうが、自分は日本酒党なので〈太冠〉で手を打ちましょう」

『〈太冠〉ですか。当然、大吟醸ですね?』

「そろそろ新酒の時期だし、楽しみですな」

 お互いに顔は見えなかったが、二人は揃ってにやりと笑った。


                 20


 田無南総合病院に急患の受入れ要請の電話が入ったのは、間もなく通常診療が終了する時間だった。

 他の三ヵ所の病院で受入れを断られ、救命士は藁にもすがるような気持だった。

「頭を強く打っていて、意識レベルが低下しています。何とかお願いします」

「わかりました。まだスタッフが残っているので、何とか対応できると思います」

 電話口でオロオロしている新人ナースから受話器をもぎ取り、神林はそう即答した。

 田無南総合病院は救急指定病院ではないが、週に一度、東都医大から医師が出向している。木曜日の今日はたまたまその日だった。

 神林は東都医大の脳神経外科医で、患者にとっては幸運といえた。

 五分後に救急車が到着し、患者はすぐに処置室に運ばれた。

 看護師がきびきびと手順通りに各種の計測器を身体に取り付ける。神林の指示に従って手術器具が用意され、緊急オペの準備は整っていた。

「下山先生、助手をお願いします」

「は、はい。ですが、私の専門は小児科で・・・」

「そんなことを言ってる場合ではありません。それに、専門外といっても一通りは研修済みでしょう。とにかく時間がないんです」

「わ、わかりました。指示をお願いします」

 下山は引きつった表情を隠すように、慌ててマスクをした。

「皆さんもお願いします」

 神林はスタッフの顔を見回した。

 マスクのせいで目の表情しか読めないが、一様に緊張感に満ちている。だが、ただひとりだけ異質の反応をみせていた。それは驚愕とも嫌悪とも取れるものだった。

「先生・・・」

「どうしたんだ?」

「わたし・・・知ってるんです、この人」

「だから何だ? 今は一刻を争う―――」

「できません。だって・・・お義父さんはこの人に殺されたんです」

 その場の全員が凍りついたように動きを止めた。


 田所はそのナースの話にじっと耳を傾けていた。

「その急患が梶原さんだったんですね?」

 監察医の木下が懸念していた件が気になって、田所は律儀に調べていた。不審死とされた女性は梶原辰子といい、田無市在住だった。そこで消防に問い合わせたところ、該当の救急要請があったことが判明した。

「・・・それが何か・・・?」

「その患者さんが先日亡くなられまして」

「えっ、本当ですか? それが病院のせいだと?」

「いえ、決してそういうことでは。念のために手術との因果関係の確認をしたいだけです。これも我々の仕事でして、ご容赦ください。・・・ところで、今伺った〝殺された〟というのはどういうことなんでしょう?」

 あくまでも事務的な調子で尋ねた。

「それは・・・」

 彼女は言い淀んでいたが、何かを決意するように続きを話し始めた。

「わたし、来年結婚することになっているんです。相手は米沢尚樹さんという真面目な方です。ご実家がコンビニを経営されていて―――」

 彼女の話によると、婚約者の父親が経営するコンビニ店にひとりの女性客が来店し、些細なことにクレームを付けたのが発端だったという。たまたま消費期限切れの牛乳パックを見つけたその客は、散々店主を罵倒した挙句、代わりの新しい牛乳を他所の店で買って来いと要求した。店主は困り果てたが、やむなく言われるままに近くのスーパーで商品を調達した。やれやれと思ったのもつかの間、その女は翌日から毎日のように来店し、理不尽な要求をし続けた。「ビニールの袋を十枚寄越せ」「家に帰ったらホットコーヒーが冷めていたから返金しろ」「思っていた内容と違ってたので、次の号の雑誌と交換しろ」等々。およそ言いがかり、強要でしかなかった。

 人の好い店主は最初のうちはできる限り対応していたが、エスカレートする相手の要求にさすがに応えることができなくなった。それでも辰子は毎日のように来店し、延々とクレームを言い続けた。これにはほとほと困り果てた。彼女の対応もだが、常連客が関わりを恐れて来店しなくなり、SNSや口コミで広まると他の客の足も遠退いてしまった。おかげで経営は一気に傾いた。何よりも精神的に追い込まれた店主は鬱状態になり、店に立てなくなった。妻とアルバイトで奮闘したものの、二ヶ月後に閉店を余儀なくされた。

 さらに悲劇は続いた。ほとんど引きこもり状態になった夫を妻は懸命に支えていたが、ある日買い物から帰ると夫の姿が見えなかったので慌てて辺りを探し回った。途中の踏切付近で救急車やパトカーが忙しく行き交うことに不安を覚え、無意識に足を向けた。そして、その先に恐ろしい現実を見てしまったのだ。辺りは血の海で、異様な臭気が漂っていた。警官、救急隊員、鉄道関係者が入り乱れ、まさにそこは修羅場だった。その傍らに見慣れたサンダルが落ちていた。それを見た瞬間、彼女はこの悲惨な現場の主を知った。

「あなた―――」


 聞き終えた田所は首を折るようにうな垂れた。

「何とも痛ましい話ですな。・・・それで梶原さんのことを憶えていたんですね?」

「ええ。業務妨害として警察に届けるために、証拠の防犯カメラ映像と写真を残してある、と尚樹さんが言ってたので。わたしも見せられたことがあります」

「そうでしたか。それで・・・大変伺いにくいのですが、その手術の時あなたはどうされたんです?」

「わたしが何かをしたというのですか?」

 いかにも心外だというふうに眉を上げた。

「いえいえ、そういうわけでは。ただ、心中は穏やかでなかったことはわかりますよ」

「助からなければいい―――正直そう思いました。でも、神林先生に一喝されたんです。『今は目の前の命を救うことだけを考えるんだ』と」

「ほう、素晴らしい先生ですな」

「ええ。尊敬できる先生です。大学病院の偉い先生なのに、少しも威張らないし」

「で、手術はどうでした?」

「わたしは何も考えないようにして、先生や先輩の指示に従いました。神林先生の手術はとても手際が良くて、下山先生も懸命にサポートされて。結果的に予想よりも短時間で終わりました。わたしは大きな手術に何度も立ち会ったわけではないけど、さすがは脳神経外科のエキスパートだなと思いました」

「先生もあなたも自分の仕事をきっちりとこなした。そして、手術は成功したんですね?」

「はい。ICUから移った後も容態は安定していました。実際、二週間後には無事退院したんです。その後は会っていません」

「わかりました。ご協力感謝します」

 診察室の一隅を借りて聞き取りをしていた田所は腰を上げた。帰り際に改めて頭を下げてから、穏やかな口調で尋ねた。

「それで、結婚の件はどうなりました?」

「義父(おとう)さんの一周忌の後、予定通り式を挙げることに」

 心なしか、表情に明るさが戻ったかに見えた。

「それは良かった。お幸せに」


 小山内からの電話の後、田所はすぐにでも東都医科大学病院に出向くつもりだったのだが、先日の木下の言葉が妙に引っ掛かっていた。そこで、どうせ医師連中に話を聞くなら、ついでに監察医の疑問も専門医にぶつけてみよう―――そんな安易な気持ちだった。そのために、まずは辰子が手術を受けた病院に当たることにしたのだ。だが、問題の急患の執刀医は東都医大の当番医だった。そこでひとまず看護師の話を聞いたという次第だ。当日の当番医の神林の専門は脳神経外科で、急患にしてみればまさに僥倖であったわけだ。

 その辺のところを木下に伝えると、思いもかけず怒声を浴びせられた。

「そんな馬鹿なことがあるか。きちんと確認したのか?」

 田所はもちろん素人で知る由もなかったが、木下に言わせれば脳神経外科における東都医科大学の評価はトップレベルで、神林という医師の名前も有名だという。その有能なドクターが問題の動脈瘤を見逃すはずがない。木下はそう力説した。

 想定外の荷物が増えてしまったような気分になったが、田所はやむなく東都医科大学病院を訪ねた。事務長という人物に対し、辰子の件は棚上げして、刑の確定したふたりの転院の経緯を質問した。ところがそんな事実はないし、個人情報に関する件については回答できないと突っぱねられた。当然と言えば当然だった。ふたりの受刑者が相次いで死亡したのは事実だとしても、そこに客観的な事件性が確認されたわけではない。まして仲河については、系列病院で見かけたという情報があるだけだ。残念ながら、それ以上の追及はできなかった。というのも、石垣から聞いた名簿の件は入手方法が不適切で、しかも偽名の羅列とあっては何の証拠能力もなく、何よりもこの捜査はあくまでも田所の個人的なものだったからだ。

 しかし、いくら系列病院とはいえ、都内の拘置所から警視庁の管轄外に移送するのは異例だ。本人が重大な生命の危機にあったとしても、通常では考えられないことである。犯罪者の命をないがしろにする気はないが、それでも特別扱いの必要も感じないのは事実である。とすれば、政治的な思惑としか考えられなかった。そこには医療と特区という二重の壁が立ち塞がっている。それは、一介の所轄刑事には到底越えられないものだった。


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 東都医科大病院の件では完全に行き詰っていた。とはいえ小山内と約束した手前、半端にはできなかった。こうなったら多少の火傷は覚悟せねばならない。

 田所は机の電話を引き寄せ、おもむろにある番号を押した。

「・・・ああ、山根課長。ご無沙汰しています、田所です」

 山根は本庁の二課の課長である。

『おまえか―――。何の用だ?』

 電話の相手はいかにも不機嫌な様子だった。

「実は折り入ってお願いしたいことがありまして・・・」

『頼みだと? なぜ私がおまえの頼みを聞く必要が?』

「たいしたことじゃないんですが、課長の人脈が頼りでしてね」

『だから、なぜ―――』

「五年前の貸しを返していただきたいだけです。頼みを聞いていただけたら、総べて忘れます」

『ふん、そういうことか・・・。いいだろう。で、私に何をしろと?』

「公安の須藤課長、確か同期でしたよね? 彼に会わせてもらいたいんですがね」

『須藤に? どうして捜一のおまえが? 事件がらみならそっちの課長か刑事部長を通せばいいだろう』

「それができないからこうしてお願いしてるんです」

『なるほど。相変わらずの正義漢気取りか。その独りよがりがどれほど組織に迷惑をかけているかわかってるのか?』

「説教はけっこう。やってもらえますか、それとも―――?」

「・・・いいだろう。だが、これはあくまでも貸し借りの話だ。内容は聞かん。須藤にも何も言わん。奴と会う時間と場所を後で知らせる、それでいいな?」

「ありがとうございます。恩にきますよ」

『もう二度と電話をするな』

 荒々しく電話が切られた。

 

 広大な公園内には季節ごとに様々な花々が咲き競っている。チューリップが終え、この時期はポピーが見頃だ。家族連れやカップルが楽しそうに語らいながら、遊歩道を巡っている。青い空には所々に白い雲が見えるが、春の盛りの陽射しを遮ることはなかった。

 池の周りの花畑には赤や白、オレンジ色のポピーが海原のように模様を描いている。アマチュアカメラマンが真剣にファインダーを覗き込み、その倍の数のスマホがカラフルな花々に向けられていた。その向こう側に休憩所を兼ねた四阿があり、年配の婦人たちが花を観賞しながら弁当を広げていた。実に長閑な、平和そのものの光景である。

 そんな人々から少し離れた場所、ちょうど花壇が途切れた区画にぽつんとベンチがあり、ひとりの男が新聞を広げていた。こんな場所でわざわざ新聞を読んでいることもだが、その服装も違和感があった。濃紺のスーツにきちんとネクタイを締めている。

 その横に、いくぶんくたびれ感のある上着と折り目の消えたズボンの人物が無言で腰を下ろした。田所だった。

「時間には正確らしいな」

「そちらはお忙しいご身分ですから。最低限の礼儀ですよ、須藤課長」

「で、私に何の話だ? 昨日の電話では、山根は何も言わなかったが」

「ほう、本当に何も言わなかったんだ。ですが、こんな場所を指定したということは、ある程度の予想は付いているということですね?」

「さあな。私はただ、お前に会ってやってくれと言われただけだ」

「まあそれはどうでもいい。こうして会ってもらえただけで感謝すべきなんでしょうな」

「無駄話はいい。用件を聞こうか」

「盗聴機の心配はしなくても?」

「おまえもそこまで馬鹿じゃあるまい。時間の無駄だ、用件を言え」

「ずばり、あんたら何を動いてるんだ? 上の命令なのか?」

「おいおい、何年警察の飯を食ってるんだ? そんなこと答えられるわけがないだろう。そもそも、お前に答える必要はない」

「・・・東都医科大学病院、山梨中央総合病院、仲河和信、丘本大輔、水上修・・・」

「む、どこまで知ってる?」

 僅かに須藤の目の奥に光が宿った。

「正直なところ、断片だけで詳しいことは何も。繋がりがあるのかどうかもわからない。上層部は知っているのかもしれないが、そちらや議員先生に気を遣ってだんまりだ。だが、これだけは言っておく。おたくらが上とつるんで何を企んでいるか知らんが、殺しの実行犯がいる以上は必ず逮捕してみせる。それが我々の仕事だ。あんたらがその道のプロであるように、我々もプロなんだ。そいつを忘れないでくれ」

「だが、それも組織があってのことだ」

「かもしれん。しかし、正義を貫くのに組織も個人も関係ないと思うがな」

「刑事ドラマの見過ぎか? そんな青臭いことを本気で言ってるのか? 恩給を棒に振る覚悟があるとは思えんが・・・まあいい、そんな愚か者に免じてひとつだけ教えてやろう。その件には国のプロジェクトが関わっている。長年引き継がれているものだ」

「引き継いだ・・・プロジェクト? それは―――」

「以上だ。今日のことは忘れろ。私もお前には会わなかった」

「わかった。だが改めて言っておく。俺はそっちの仕事に興味はない。あんたらは与えられた仕事をしっかりやればいい。だが、本分を忘れないでくれ。市民を守るため、国を守るために警察があり、我々がいるっていうことを」

「もちろん国を守っている。だが、お前たちにはわかっていない。市民を守ることと国を守ることは別のことだ。おまえたちはせいぜい〝街のおまわりさん〟として雑魚どもを捕まえていればいい。我々は日本の未来のために働いている」

「何様のつもりだ? 一市民を守れなくて、何が日本の未来だ?」

 胸ぐらをつかむ勢いで詰め寄った。

 だが相手は表情を変えることもなく黙って立ち上がり、

「その愚直さに敬意を表して、今回は無礼な言動に目を瞑ってやる。だが、次は許さん。我々の邪魔をするな」

言い捨てると、田所の反応を見ることもなく背を向けた。

 詳細は一言も口にしなかったが、公安部が一連の事件や出来事に関わっていることは認めた。しかも彼らの独断ではなく、政府の要職者が背後に存在するという確信を田所は得た。だからといってやるべきことに変わりはない。自分の言葉通り、実行犯を逮捕することだ。

 背中に憎悪にも似た視線を感じながら、須藤は頭の中で一度中断した予定を改めて組み直していた。その中には山根への報告も含まれていた。

(田所は具体的なことは何ひとつ掴んではいない。あいつが拘っているのは事件の表面的な部分だけだ。好きにさせておけばいい)

「噂通りのアナクロか・・・・」

 須藤は歩きながら独り言のように呟くと、手近のごみ箱に新聞紙を投げ入れた。


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 新宿東署捜査一課の部屋の中程で、田所は森田を相手に自説を披露しようとしていた。

 公安の関与を確信したことで、八方ふさがりのジレンマに陥っていた昨日までが嘘のように、糸口が見えたように思えた。まったく別の事件、出来事に見えて、実はどれも関連しているのではないか。そんな大胆な仮定で見直してみると、出発点の水上の件を〝正しい位置〟に嵌め込めば、他のピースも自ずと正しい場所に収まるのではないか、と。

「捜査本部が押さえている事実はこうだ。十九日午後十一時ごろ、美津江が待っていた部屋に水上が帰宅。その後何らかのトラブルで水上は彼女を殺害。これが日付が変わったころだろう。その後、死体運搬に使う車を盗むために水上は部屋を出た。午前一時ごろ、軽トラを盗み出した水上は部屋に戻る途中で運転を誤り事故を起こした。一時六分に一一九番に入電があり、一時十五分に現場に救急車が到着、すぐに東都医科大に搬送された」

「時間的に矛盾はありませんね」

「ただ、ほぼ同時刻に近くで事故らしき現場を見かけたという証言がある。水上の事故現場から五〇〇メートルほどの場所だ。殺しの件とは無関係ということで気にもしなかったが、目撃者の話だとその時見たのは軽トラと黒っぽいセダンだったらしい。暗がりの中で走行中に数秒間見ただけだが」

「軽トラなんていくらでも走ってますからね」

 要領を得ない話に森田は苛立った。

「それにタクシーの件を合わせると、あの晩あの付近でほぼ同時刻に三件の事故が起きていたことになるんだ。さすがに偶然過ぎるだろう?」確かにと森田が同意したことで勢いづいた田所は続けた。「事故の程度はわからんが、目撃された軽トラとセダンに関しては警察にも救急にも連絡は入っていない。当事者間で示談が済んだということかもしれないが、いろいろ考え合わせると気になって仕方がない」

「さすがに考え過ぎですよ。都心の夜中の交通事故がどれだけ多いことか。交通課の連中も言ってました。事故を起こしても、車両だけの少々の傷なら示談で済ませることも少なくないそうです。というのも、相変わらず酒気帯び運転が減らないからだとか。要するに、どちらの立場にせよ警察を呼ぶのが躊躇われるケースです」

 田所はやれやれというふうに首を振った。

「監視カメラは?」

「軽トラに関してはいずれの現場もカメラが設置されていません。確認できたのはタクシーの接触事故だけです」

「その映像は見られるのか?」

「ええ、可能ですが。不鮮明で相手もわかりませんよ」

「かまわん。とにかく見せてくれ」

 森田がコピーしたDVDをパソコンに挿入した。

 カメラは歩道側から幹線道路方向に向けられたもので、手前の車線では右方向から左手(画角としては斜めだが)に向かって車が通行している。深夜にもかかわらず、その頻度は高い。すぐに問題の場面だった。右手から走ってきた車両が画面から消えかかる寸前、画面下から唐突に黒っぽい車が現れ、相当な速度のまま強引に左折していく。その刹那、件のタクシーの後部に激突した。だが、その車は速度を落とすことなく猛然と走り去った。その時すでにタクシーも画面からは消えていたが、衝突の衝撃でコントロールを失いガードレールに激突していたのだ。

 同じ画像を三回ほどリピートさせた後、田所は再生をストップさせた。

「もういい。付き合わせてすまなかったな」

「この画質なので、ナンバーはおろか車種も特定には時間がかかりそうです」

「そのようだな。しかし、こいつは何をこんなに急いでいたんだろう? 深夜とはいえ、いくらなんでも無謀過ぎる。この大通りに出るのに信号無視して一時停止もしないなんて、ほとんど自殺行為だ」

「まったくです。酔っぱらいか、ヤクでもやってたんですかね」

 不意に田所の脳裏に閃くものがあった。

「おい、この付近の地図あるか?」

「えっ? どうして・・・いえ、あると思います。ちょっと待ってください」

 森田は壁際の資料棚を漁り、使い込んだ市街地図を引っ張り出してきた。

 田所はひったくるようにして地図をデスクに拡げ、道路をボールペンのノック部分でいくつかなぞっては頷き、あるいは首を傾げ、考え込む素振りを繰り返した。やがて、ようやく得心したように顔を上げた。

「ここでタクシーにぶつけた奴はまだ捕まってないんだな?」

「ええ、交通課の方で探してますが。道交法違反は間違いありませんが、幸いタクシーの運転手の怪我は軽微だったので、おざなりの感はぬぐえません」

「盗まれたという軽トラはどうした?」

「それなんですが、そいつも事件の発覚が遅れた理由だったようです」

 盗まれた車両は近日中に廃車が決まっていたので、キーを付けたまま倉庫の脇に放置していたという。以前からキーを付けたままのことが多かったらしい。盗難の時点ではすでに新車が納車されていたので仕事に支障はなかったとのことだ。当然、さすがにその新車のキーは事務所に保管していたという。そんなわけでオーナーもバイトたちも古い軽トラに注意することもなかったので、届けが遅れたと釈明した。

要約すると、こうした状況も加わって警察内の情報共有が成されなかったということだ。

「その後、窃盗犯(=殺人犯)が死亡したことで、速やかに廃車したらしいです。店側としても最小限の被害で助かったというところですかね」

「そうか・・・証拠がなくなったか・・・。あとは当て逃げの犯人次第だな」

「どういうことです?」

「これは全くの想像だがな、三件の交通事故の発生時刻と位置関係を地図上で検証すると、こんな仮説が成り立つんだ」

 そう言いながら、田所は地図に赤と青のサインペンで線を引いて見せた。赤い線は酒屋の駐車場から事故の目撃証言があった地点を経由して、軽トラと負傷した水上が発見された地点まで。青い線はその手前の交差点からタクシーに接触した交差点まで。

「これは? 救急車が駆けつけた時に現場にあった軽トラと、それ以前に目撃された軽トラが同一車両だということですか?」

 森田はすっかり混乱していた。同じ軽トラが時間を置かず二度も事故を起こすなんてあり得ない。

「と言って、別の軽トラが時間を置かず近くで事故るというのも無理がある。だから考え方を変えてみた。ポイントはここだ」

言いながら赤と青の線が重なった部分を指でなぞっていく。

「脇道に入った地点から五、六十メートルほどですね。これが何か?」

「本部が何と言おうと、水上が犯人というのは疑わしい。で、彼が犯人でなかったとして推理を組み立ててみるとどうなる? 犯人でなければ軽トラを盗む必要もない。したがって事故を起こすはずがない。そこで重要になるのがこの青い線の車―――タクシーに当て逃げした車だ」

 森田ははっとした。突拍子もない話だが、地図と二本の色違いの線を眺めているうちに漠然とした映像が浮かんだ。

「水上は徒歩でアパートに向かっていた。週末の深夜、それも出張帰りということで酒も入っていた。そこに一台の車がやってくる。広くはないが信号も無い深夜の住宅地だ。ここを走ってきたドライバーは無意識にアクセルを踏み込む。水上のほうも不用意に道路を横断しようとしたのかもしれない。そこに車が突っ込んだ―――総べては仮説だがな」

「この先は例の交差点ですね。つまりあの黒い車の主は人身事故を起こして現場から逃走中だった。当然頭の中は真っ白で、信号で一時停止する余裕もなかったでしょう」

「そういうことだ。その車両の運転手〝X〟が見つかればはっきりするだろう」

「では、軽トラの件は?」

「そっちは問題だ。今言ったように、轢き逃げの方は状況証拠から可能性はある。だが軽トラの方は不確定要素が多過ぎる。直前に目撃されたのは事故ではなく、ちょっとしたいざこざだったかもしれん。パターンは二つ。その一は話が付いて真っ直ぐ幹線道路に向かった。その二は、左折して脇道に入った軽トラ(盗難車)が路上に倒れている人間に驚いてハンドル操作を誤り、街路樹に激突した・・・」

「いずれにせよ、そのドライバーは水上ではなかった」

「そうだ。だが、その場合、その運転手はどうする?」

「どうって・・・そいつは犯人ですから、ひどい怪我でなければ死体移動を諦めて逃げますよね」

「そうして、事故った軽トラと別の車に轢き逃げされた水上が現場に残された。そこに到着した救命士にとっては一つの事故現場としか見えない・・・あまりにご都合主義だが、辛うじて辻褄は合う。証明するには、やはり当て逃げ犯を何とか見つけてもらうしかないな」

 このとき田所にはもうひとつ別の仮説があった。ただそれはあまりに突飛で、なおかつ不快なものだったので森田には話さなかった。

 地図の赤いラインの車両はやはり同一のものだろう。まず先に目撃された事故については〝真犯人〟を追っていた何者かが故意に、あるいは必然的に起こしたのではないか。その後、軽トラを問題の現場に移動して事故現場を偽装した―――何が目的だったかはわからないし、証拠もない。だが、あの事故が人為的なものだとすれば、これまでよりもまともな〝事件の構図〟が浮かぶのだ。

 それでも〝真犯人〟と公安の関連がわからない。さらに、なぜ水上を殺人犯に仕立てる必要性があったのだろうか。そんな暴挙がどうして許されたのか。そして、〝真犯人〟はどこに消えたのか。

 救急要請の入電から九分後には救急車が到着している。事故現場に急行した救命隊員の証言によれば、軽トラックが立ち木にめり込むように止まっていて、運転席から投げ出されたと思われる男性が頭から血を流して道路上に倒れていたという。その場に通報者の姿はなかったが、男性が瀕死の状態だったため、東都医科大学病院に緊急搬送したのだ。

 その後、到着した警察官によって形式的な現場検証が行われた。深夜だったために目撃者もなく、裏道ゆえに防犯カメラもなかったので確認はできなかったものの単独事故と判断され、ひとまず車両を管内の保管場所にレッカー移動した。

 その頃病院では緊急手術が始まっていた。この時、もう一件の受入れ要請があったが、緊急性が低いということで他の病院に回すことになった。客を降ろした後のタクシーの接触事故で、運転手が軽い脳震盪を起こしたという。むちうちの可能性はあるが、救急車内で意識を取り戻した後は会話もしっかりしているというので、医師の診断を受ければ入院の必要もないだろうとの判断だった。

 こうしてチーム一丸となって目前の重傷者の救命に注力した結果、辛うじて一命は取り留めた。しかしながら危険な状態は続き、意識が戻ることなく五日後に死亡が確認された。救命医たちの努力は報われなかった。だが、これが彼らの日常だった。常に目前の命に全力で向き合うだけだ。救える命もあれば救えなかった命もある。それらはいずれも平等で、肩書きや名前で左右されるものではない。非情に思えるが、命を落とした男の名前も生存中は判明していなかった。

 実際、事故当日は身分証明書の類が見当たらず、どこの誰かも不明だった。翌日以降も家族が名乗り出ることもなく、病院側では困惑の色を濃くしていた。ところが死亡翌日になって、拾得物として受付に財布が届けられていたことがわかり、入っていた免許証によってようやく身元が判明したのだった。

 水上は危うく「行旅死亡人」になるところだった。たまたま拾得物に紛れていたのが見つかって幸いだった。ただ、姿を消した通報者の厚意は無駄になったが―――。

(待てよ、それも引っ掛かるな。いやいや、考え過ぎだ)

 田所にとっては不可解なことばかりだ。しかも、身内でありながら実体の知れない公安の関与の可能性が高くなったことで、いささか気勢が削がれるのはやむを得なかった。


 交通課では、数名の係員が連日パソコンの画面と格闘していた。

 数日前に突然、軽微な事案についてもきっちりと処理すべしとの上司からの通達があった。どうやら最近の検挙率の低下を指摘され、慌てた上司が部下に当面の〝ノルマ〟を課したというのが真相のようだ。

 もちろん、日常的に職務怠慢ということではない。都内であまりに杓子定規に交通違反を摘発していたら大変なことになる。駐車違反など厳密に取り締まっていたら物流は停滞し、聴取に時間がかかって余計な渋滞を誘発しかねない。そのあたりは現場の警官の胸三寸という部分も少なからずあるのだ。一方で、実際の被害者の救済はというと、その件数の多さからおざなりの感があるのも事実だ。

 とはいえ、現場の警官たちは懸命に業務をこなしていた。それは内勤の彼らも同様で、違反や事故車両の特定や照会のために、膨大な量の監視カメラ映像やNシステムの画像に不眠不休で向き合っていた。

 そんな中、ひとりの係官が解析を進めていたのは、タクシー当て逃げ事件の該当車両の割り出しだった。彼は該当車両の逃走経路を推察し、事故発生時刻から可能性のあるNシステム画像を片っ端から検証していった。その結果、事故現場から目白通りを西落合方面に向かった該当車両と思しき数台の候補車両を特定した。

 報告を受けた警官が車両の各所有者宅を当たることとなった。最初の三人は空振りに終わったが、四台目の所有者の小柳悠介が逃走を計ったので緊急逮捕した。

 署に連行して事情聴取を行うと、小柳は予想外の供述をした。

「人を撥ねてしまって、怖くなって逃げました。酒を飲んでいたのでヤバいと思い、無我夢中でした。途中で車をぶつけた気がしたけど、どこをどう走ったかもよく覚えていません」

 二十一才のまだ少年の名残のある痩せた男を見据えながら、担当官はあきれ顔で聴取を進めた。

「撥ねた時、確認もしないで逃げたのか?」

「怖くって、とてもそんな・・・。でも、次の日の新聞やニュースでもやってないし、たいした怪我じゃなかったんだと少し安心してたら、今日になって警察が来て・・・」 


当日の夜。小柳はほろ酔い気分のまま、駐車場に辿り着いた。

 躊躇うことなくドアを開けて車内に乗り込み、エンジンをスタートさせた。意識ははっきりしていたし、うろ覚えながら以前走ったことのある道路だったので不安はなかった。ところが、脇道に折れたとたんに怪しくなった。一方通行に従ううちに方向感覚が狂い、行き先案内の標識のある道路に出られなくなった。

 幹線道路から少し外れただけなのに、この時間帯になるとほとんど人影もない。自動車の往来も稀で、とても二十三区内とは思えなかった。街灯はまばらだが一定の間隔で灯っていた。幅員はやや狭いものの信号もなく、気が付けば五十キロ近い速度が出ていた。標識の制限速度は三十キロだったが、まるで自分の専用道路のような気分だった。

 うっすらと見覚えのある交差点を右に折れ、他に通行車両が無かったのでアクセルを踏み込んだ。その時だった。不意に黒い影が前方を横切った。

「えっ? 何だ? 人か?」

 余計な思考が反応を遅らせた。さらには本人の意識とは関係なく、アルコールのせいで明らかに反応が鈍っていた。ブレーキを踏むべきタイミングが一秒遅かった。鈍い衝撃音とともに、金属ではない重量物がバンパーとボンネットに弾き飛ばされる感触がステアリングから伝わってきた。

一気に酔いが引くのを感じた。犬か猫だったかもしれないと言い聞かせてはみたが、車から降りて現実を確認する勇気はなかった。ウインドー越しに辺りを見回したが、事故を聞きつけて人が出てくる気配はなかった。

(やばい、轢いちまった。酒も飲んでるし・・・)

 そう考えた時には車を急発進させていた。ルームミラーに車や人影は見えなかった。小柳は前方に目を凝らし、無我夢中でアクセルを踏み続けた。

 住宅街の狭い道路を猛然と走り抜けて突き当たったのは目指す幹線道路だった。信号は赤だったが、それを無視してアクセルを踏みつつステアリングを左に切った。鼻先を緑色の車体が横切ったが、ブレーキは踏まなかった。次の瞬間、左のヘッドライト部分が緑色の車の左後端に接触した。フロントに重い衝撃が走り、ライトの破片が飛び散った。相手はバランスを崩して左側のガードレールに激突して止まった。それを横目で見ながら、片眼になった車のアクセルを強引に踏み込むと、深夜の間延びした闇の中に紛れ込んだ。


「きみの容疑は差し当たり公務執行妨害だが、我々はタクシーの当て逃げ犯として捜査していた。まずは道交法違反と運転手に対する運転過失傷害ということになるが、今の話ではさらに罪状が加わることになりそうだな」

「そんな・・・ニュースにもなってないってことは、その人たいしたこと無かったってことですよね?」

「馬鹿野郎。怪我の程度は関係ない。事故を起こした時点で相手の救助と警察に通報する義務があるんだ。そもそも飲酒運転自体が言語道断だ」

 暗澹たる気持ちになった。こんな連中に免許を与えている現実が嘆かわしい。あおり運転等が絶えないのも頷ける。だが、小さな疑問も湧いた。小柳の供述した事故の被害者からは届けが出ていない。本当にたいした怪我もなく、寛容な精神の持ち主だったのなら問題はないが。

 ここでもまた職務に対する忠誠が仇(あだ)となった。もちろん、人身事故の被害届が出ていれば詳細を追及するのは当然だったが、そのような報告はなかった。いたずらに事案を増やすことは望ましくない事だった。現状でも未決の案件が山積しているのだ。担当官は上司から指示された事案に沿った調書の作成に注力し、余計な文言は挟まなかった。


                 23


 老舗の看板が残っているかと思えば、目新しい店舗が居心地悪そうに見えたりもする。銀座もいつの間にか様変わりしたが、通い慣れた通人には夜の景色の変化には一抹の寂しさを覚えるらしい。ネオンが消えて久しい店や、知らないうちに店名が変わっていたりと、厳しさもまた一級ということなのだろう。

 そんな中にあって、加代の店は上質の客が付いているおかげで堅実な売上を維持していた。ホステスたちの質は当然ながら、誰からも慕われるママの人柄が何よりの売りだった。

 その加代を前にして、亜美は店を辞めたいと切り出した。

「急にどうしたのアミちゃん? 何があったの?」

 彼女を気に入っていた加代は懸命に慰留した。

「申し訳ありません。ママには本当に良くしていただいたのに」

「そんなことはいいのよ。それより、良かったら話してくれないかしら? お母さんのことなの?」

「いいえ。・・・そう、それもありますが、妹が気がかりで傍にいてやりたいんです」

 亜美は深々と頭を下げた。それを見た加代は相手の決意の固さと、裏に隠した真意があることを悟った。それを追及するのは野暮というものだ。

「わかったわ。じゃあ、こうしましょう。亜美ちゃんは長期休暇を取ることにした。ね、それでいいでしょ? 気が変ったらいつでも帰ってきなさい」

「ママ・・・」

 亜美は改めて深々と頭を下げた。

 本当のことだった。何よりも妹が心配だった。今妹を一人にしておいたら何か恐ろしいことが起きてしまうような予感があった。母親の入院費のことも頭を過ったが、金銭では取り返しのつかない何かがあると思えた。理屈ではない何か、自分たち姉妹にしかわからない強い思いが彼女を動かしていた。

 翌日、亜美は妹との約束を破って、何も伝えずに山梨へ向かうことにした。

機動性を考慮してレンタカーを借り、高速に乗った。病院までは二時間足らずだが、ある考えがあって途中のサービスエリアに立ち寄った。自販機で缶コーヒーを買い、すぐに車に戻った。スクリューキャップを開けて一口飲み、おもむろにスマホを取り出してメールを打ち始めた。文面を慎重に考えながら、五分ほど時間をかけて完成させると、意を決したように送信ボタンを押した。

返信を待つこともなく、レンタカーをスタートさせた。ロードノイズと風切音だけが同じリズムで続く。小淵沢で高速を降り、二十分ほど走ってホテルにチェックインした。今夜はここで今後のことをじっくり考えるつもりだ。急に仕事を辞めて帰郷したとなれば妹が妙に思うだろう。当面は「リフレッシュ休暇」ということで通すつもりだ。限られた時間の中で妹の感情が収まる状況になればいいが・・・。

 夕食前に返信があった。相手は滝口だった。先日の対面の際に携帯の番号とアドレスを交換した。妹の様子をそれとなく見てもらえれば―――そのくらいの気持ちだった。滝口は現役時代から使い慣れていて、スマホの操作に何の問題もなかった。病室内では通話はできないが、メールは許可されているとのことだった。

 戦場に赴く気分だった。それほどの覚悟が必要だと亜美は感じていた。孤立無援の戦い―――そんな思いだった。そうした状況の中で、唯一頼ってもいいと思えたのが滝口だった。彼に何かをしてもらうつもりはなかった。ただ精神的な拠り所としたかったに過ぎない。こちらの勝手な都合だが、滝口なら総べてを受け止めてくれると信じていた。余命宣告を受けた人間にそんな負担をさせるのは心苦しかったが、妹を守るために必要な頼れる味方は彼しかいなかったのだ。後日のために、まずは滝口に亜美の帰郷が一時的なものだということを支持してもらわなければならない。さらに、何よりも滝口には治験者であることを活かして何かしらの情報を期待していた。その点だけは外部の人間にはどうにもならない事だった。

 この一年半ほどの間、亜美の中にあったのは母の回復を願う気持ちと妹の生活を支えることだけだった。父親の借金の件もあってやむなく夜の世界に入った。それまで考えた事もない別世界で自分にはとうてい勤まらないと思っていたが、現実の前にはそんな甘えは許されなかった。大学は休学状態だったが、そんな女性がごく普通の会社で働いたところで給料は知れていた。結局、若い女性が手っ取り早く高収入を得る道は限られていたのだ。

 以来、彼女は自分を押し殺し、家族の為と割り切ることにした。出発は池袋にあるキャバクラだった。半年ほど経ったころ、ある雑誌の記事がきっかけで銀座のクラブから声が掛かった。深く考えることもなく、条件の良さに魅かれて店を移った。オーナーママの加代は四十代に思われたが年齢は非公称。だが、二十年前はどれほどの美人だったのだろうと想像させる美貌は、今でも息を呑むほどだ。一方で面倒見が良くて、姉御肌の面もあった。だから店のホステスたちは一様に加代を慕っていた。

 そんな加代に不義理をするようで心苦しかったが、加藤の名前が出たことであらゆる時間が巻き戻されてしまった。半年ほど前に加藤が逮捕され、ひとつの区切りがついたような気持になった。これから姉妹で力を合わせて前を向こう。母もきっと回復する。そう自分たちに言い聞かせていた矢先だったのだ。複数犯による犯罪だったが、主犯の加藤には当然憎悪を抱いていた。けれども、刑務所という文字通り塀の中に入ったことでお互いに分断された。それはある意味で亜美たちに幸運だった。もし加藤が逮捕されずにいたら、何としても探し出して自分たちの手で断罪したいと念じ続けたに違いない。ところが、その加藤が唐突に目の前に現れたのだ。互いの世界を分かつ塀のない自分たちの目前に。

 亜美には容易に想像できた。妹が滝口から加藤の名前を耳にした瞬間の、血が逆流するような憎しみが全身を駆け抜けた衝撃を。同時にそれは、亜美の押し殺していた感情を甦らせることになった。

(やはりあの男を許すことはできない。刑務所で数年隔離したところで何も変わることはない。父を亡くした悲しみも、この憎しみも消えることはない)


 ここ数日、雲の少ない好天が続いている。八ヶ岳の峰々もくっきりと見えた。いつものお気に入りの場所で、滝口は深く息を吸った。午後の検査までまだ時間があったので、医師の許可を得たうえで看護師についてきてもらった。今日は体調も良く、執拗な疼痛も和らいでいた。看護師はいつものように少し離れたベンチに腰掛け、滝口の車椅子の背中に一度視線を向けてから、読みかけの文庫本に目を落とした。

 車椅子から二メートルほど離れたところにひとりの女性が立った。

「やっぱりこの景色は素晴らしいですね」

「確かに。せいぜい目に焼き付けておこうと思っているよ」

「すみません。無理なお願いを・・・」

「いいんだ。留美ちゃんとあなたのためだ。短い間でも、この命が役に立つならいくらでも使ってくれてかまわないよ」

「ありがとうございます。お願いしたいのは―――」

 二人は目を合わせることなく、彼方の峰に向かって話しているように見えた。それは、時折滝口の様子を窺っている看護師にも同様に映った。


                 24


 複数のモニターをチェックしながら、チームリーダーの柏木を始めとする複数の人間が忙しく立ち働いている。大学の研究室からの応援者たちがあらゆる装置のコンソールの前に張り付き、機器の調整やプログラムの最終チェックに余念がない。技術者の間で医学や電子工学などの専門用語が飛び交い、部外者には何一つ理解できなかった。

 二時間ほどすると部屋の喧騒が鎮まり、人の数も半分ほどになった。さらに三十分が過ぎると、部屋には四人だけが残った。柏木、神林、指田、そして畑中である。

「この画面を見ても、先生はまだ疑問をお持ちなんですか?」

 モニターの一つを示しながら、神林が指田に迫った。そこに映し出されていたのは同じ研究棟にある実験室の内部であった。何の変哲もない殺風景な部屋の中程にテーブルがあり、その上に色鮮やかな原色の積み木が並んでいる。ただそれだけのものだった。

「確かに信じられないほど鮮明です。何重にもカラーフィルターや補正ソフトを駆使した賜物でしょう。ですが、これでは真の生映像とは言えないのではありませんか?」

 指田は懸命に反論したが、論点は映し出された映像自体ではなかった。

「被験者が積み木を積み上げる過程の映像とリンクした筋電図、神経伝達細胞のパルス信号―――これらの総合的なデータを同時に取ることができたんだ。この画期的な成果が不満だというのか?」

 怒りを露わに、柏木は声を荒げた。

「教授のおっしゃるとおりです。モニターに映し出したものはあくまでも確認の為の映像で、光信号が正確に受信されていることを証明するものです」

 システムのトータルプランニングにも携わっている畑中が補足した。

「わかっています。ですが、このデータを得るためにすでに二人の人間が命を落としている。いくら承認済みの臨床試験とはいえ、こんな暴挙は許されるべきではない」

 一度は研究の進捗に歩を向けたものの、日毎に良心や倫理観というものが頭をもたげ始め、指田はその狭間に苦しんでいた。

「先生。言葉に気を付けてください。臨床試験におけるリスクはお互いに納得しているはずです。それに、二人の死亡の原因は臨床試験ではありません。一人は持病の悪化、もう一人は心筋梗塞です」

「そんな・・・」

 その説明がいかに説得力のないものか、指田にはもちろんわかっていた。治験者の死亡の件は事後に口頭で知らされただけで、死因の究明が成されたという話は聞かなかった。とはいっても、柏木と神林の手元にはしかるべき報告書が残っているはずだ。それはさすがに医師としての当然の責務だろう。いかに医療特区といえど、何もなかったというわけにはいかない。むしろ後々のためにきっちりと記録しておかねばならないはずだ。それこそが治験の意義でもある。

 研究棟の実験室ナンバー「M2」。通称「Mルーム」ではここ数年、極秘の国家プロジェクトが進められていると噂されていた。都内から交代でやってくる医師たちは、通常の医療行為もこなしていたが、専ら研究に注力できる環境にあった。病院での受診は原則として地域住民限定で、特別な紹介状のある患者のみを例外的に受け入れていた。これは国が特区として指定し、土地を収用する際の条件であった。

 住民の六割が六十五歳以上の、いわゆる限界集落では医療・介護問題は深刻である。財政難の自治体では住民のケアもままならない。そうした状況の中、山梨県のこの町では国の要請を受け入れ、大学の研究施設を併設する総合病院の建設を承認したのである。

 勤務する医師はいずれも優秀で、さらにスーパードクターと呼ばれるその道の権威も定期的に診療に加わるということで住民は歓喜した。実際、住民たちは高度な医療を享受できるようになった。受診までの待ち時間も短く、優秀なドクターに診てもらえるのだからまさに天国の如くだ。ただし、住民たちには研究施設の実態については知らされなかった。そこには医療の闇といえる黒い影が横たわっていたが、彼らは関心を持つこともなかった。

 研究室のデスクで無力感と罪悪感を抱きながら、指田は真剣に今後の身の振り方を考えていた。

(これ以上このプロジェクトに関わることはできない。大学を辞めて、故郷の病院で働くのも悪くないかもしれない)

 そんな結論に行きついたとき、同時に妙な正義感が芽生えた。辞める以上、大学側に義理立てする理由もなくなった。守秘義務以前に、疑問の多い臨床試験の実体を公表するべきではないかという思いが膨れ上がった。そのためにはまず研究データを手に入れなければならない。実験内容やタイムスケジュールは指田も把握していたが、個人情報を含む詳細なデータはリーダーの柏木とサブリーダーの神林、そしてエンジニアの畑中の三人が管理していた。原則、当初から一般スタッフのパソコンからは主要なデータにアクセスできない設定になっている。残念ながら、指田の権限ではメインサーバーのデータファイルにアクセスすることはできないのだ。


 病棟の夜は物悲しい。面会の家族の姿も消え、消毒液の匂いが漂う建物に常夜灯の仄かな明かりだけが灯っている。

 大部屋の患者たちも、隣のベッドの寝息を複雑な気持ちで聞きながら眠りにつく。誰にもわからない痛みや苦しみを抱えながら、晴れて病室を出られる日を待ち望んでいるのだ。

 個室の患者はさらに孤独だ。他人の寝息が聞こえないのと同時に、自分の声も届かない。時間の経過が退院へのカウントダウンにならない患者もいるのだ。

 研究棟に隣接した特別入院棟の一室で、滝口は緊張感に身体を強張らせていた。消灯後の最初の警備員巡回が終えたところだった。

「大丈夫。もう真夜中までは見回りはありません」

「こんなにドキドキするとは思いませんでした」

 ベッドの陰で身を潜めていた亜美が、腰を伸ばしながら低く呟いた。昼間とは打って変わって目立たない、グレーの長袖のサマーニットにデニムのパンツ姿だった。念の入ったことに、足元はゴム底のテニスシューズだ。

「本当にこんなことをする必要があるんですか?」

 滝口は困惑した表情で問いかけた。

「巻き込んでしまってごめんなさい。でも大丈夫。この先はわたしの責任ですから」

 亜美が知りたかったのは加藤昭次が本当にこの施設にいるのか、もしいるとしたらその期間はいつまでかということだった。妹の心配というよりも、いつからか自身の加藤に対する憎悪の深さを意識するようになっていた。人間の深い憎しみや怒りは、いつになっても消えることはないのだと思い知った。当たり前の生活をしていれば決して考えもしない大胆な、法に触れる行為も抵抗なく受け入れられる自分がいた。犯罪者の多くはこうして次第に壁を乗り越えていくのかもしれない。

 滝口の病室を出た亜美は、常夜灯だけの廊下を息を殺して進んだ。すぐ右手に研究棟への連絡通路があった。

 思いがけずドアハンドルに抵抗はなかった。恐る恐るハンドルを引くと、強化ガラスの嵌ったスチール製のドアが静かに開いた。不思議な感覚を抱いたままさらに進んだ。前方が明るい。三つ先の部屋のドアから光が洩れていた。

(誰かがいる?)

 呼吸が止まりそうだった。まさかこんな深夜に人が残っているとは思わなかった。すぐに引き返そうと思ったが、緊張と不安とで足が動かなかった。落ち着けと自分に言い聞かせ、深呼吸をした。

(よし、引き返そう)

 だが意に反して足はその部屋に向かい、気付けばドアの前に立っていた。ドアには「柏木」というネームプレートがついていた。好奇心に負けてドアの隙間から中を覗くと、デスクの前に人影が見えた。パソコンに向かい、一心にキーボードを叩いている。

「誰だ?」

「あっ」

 我に返って、頭の中が真っ白になった。この状況は言い訳のしようもない、明らかな不法侵入である。心臓が早鐘のように高鳴った。

「申し訳ありません。勝手に入ってしまって」

 観念して、声の主に頭を下げた。

「きみは誰だ? どうしてここに?」

 白衣を着た男の声が少しだけ上ずっていた。どことなく落ち着きがない。亜美は怪訝に思った。確かに深夜、見知らぬ人間が突然部屋を訪れたのだから驚くのは当然だ。しかし相手は女性であり、抵抗のそぶりも見せていないのだ。違和感は他にもあった。デスクには電話もあり、警察なり警備なりに通報することができるはずだ。だが、彼はそんな気配すら見せない。さらに、よく見ると男のIDカードのネームは「指田」となっていた。つまりこの部屋の主ではない。

「まさかここに金目のものがあると思ってはいないだろうけど」男も疑念を察したのか、少しだけ落ち着いた口調になった。「ただの泥棒というわけではなさそうだ」

「あなたも訳ありということですか・・・指田さん?」

 亜美も次第に冷静さを取り戻した。

「見知らぬ〝泥棒〟に話すことはない。気が変らないうちに出て行ってくれ」

 指田は興味を失ったように背を向け、再びパソコンに向き合った。

 一連の状況から、亜美はある仮説のもとに賭けに出た。

「取引しませんか?」

「何のことだ?」

「わたしは言い訳しませんが、あなたも何かを盗むつもりだったんじゃありませんか?」

「・・・」

虚を突かれて指田は明らかに動揺した。

「わたしの望みは簡単です。加藤昭次という名前が治験者の中にあるかどうか。もしあれば、彼はいつまでここにいるのか。それが知りたいだけです」

「そんなこと、部外者に教えられるわけがないだろう」

「今更そんな忠義心を持ち出す必要はないと思いますが。わたしには治験の内容なんてどうでもいいんです。研究とか機密とかにまったく興味はありません。もちろん、欲得の話ではありません。人としての正義の問題です」

「正義・・・それは立場や状況でいくらでも変わるものだ。だが・・・どうしても許されないことは確かにある」

「でしたら、どうかお願いします。それさえ教えてもらえれば、わたしは何も見なかったことにします。でなければ、このまま警察に出頭します」

 不法侵入で出頭したところで、おそらく不起訴で片が付くだろう。一方の指田は、何を目論んでいるかは不明だが、不法なデータアクセスの行為自体によって失うものが遥かに大きいことは確かだ。

「・・・わかった」

 指田は観念したように改めてパソコンの前に座り直し、キーボードを操作した。

「お望みのものはこれだろう?」

 そう言いながら、ディスプレイを指さした。

「ありがとうございます。・・・でも、これは・・・?」

 覗き込んだ画面には氏名、年齢等、名簿らしきテンプレートが映し出されていたが、肝心の「加藤昭次」の名前はなかった。

「ここでは個人の名前など意味はない。被験者はあくまでも研究の対象でしかない。したがって、ここに出ている名前というのは記号と同じなんだ」

「そんな・・・」

 漠然と抱いていた研究者のイメージが鮮明になり、一瞬背筋がぞっとした。自分の目的を棚に上げて、勝手な言い分だが。

「で、どうする?」

「どれも本名ではない?・・・困ったわ。・・・では、調べてみるのでとりあえずプリントアウトしてもらえますか? この部分だけで結構です」

「わかった。ちょって待ってくれ」

そう言って、小さな紙片を見ながらキーボードにいくつかのコマンドとパスワードを打ち込んだ。

 問題の治験報告書のファイルは柏木と神林のパソコンでのみ開くことができる。それぞれのパソコンに各自がパスワードを設定しており、それも毎週変更しなければならない決まりだ。工学方面でも知識のある神林はともかく、柏木は意外にも現場意識の強い職人肌の医師で、システムのソフトそのものには関心のないタイプだった。立場上、日常的な事務作業は助手たちに任せている。この手の人物は往々にして余計なことを憶えない。毎週変更するパスワードはその最たるものだった。一般の会社でも頻繁に目にするが、パソコンのディスプレイや本体にパスワードのメモを堂々と貼り付けている者がいる。柏木はそうした人種と同類だった。

 指田は目的のファイルを見つけ、デバイス制限解除のコマンド―――ご丁寧にこれもまたPC本体にメモが貼り付けてあった―――を打ち込んだ。

「プリントよりもデータの方が良いだろう」一瞬だけ躊躇ったが、彼女の望んだファイルをUSBメモリーにコピーした。「これで共犯ということだ。しかし、これきりだ。お互い会わなかったことにして欲しい。きみがどんな方法でここに入ったかは詮索しない。私が研究棟の出入口の電子ロックを解錠するので、素直に出て行ってくれ」

 メモリースティックを渡しながら、懇願とも命令とも取れる口調で言い放った。

その後、別のUSBメモリーに複数のファイルを自分用にコピーした。さすがに全テストの詳細な数値データはメインサーバー内に格納され、二重のプロテクトがかかっていてアクセスできなかったが、使用機器や臨床試験の進捗状況は把握できた。

 政府の思惑とは別に、東都医科大の研究者たちにとって、このプロジェクトは大きなチャンスだった。潤沢な補助金に加え、医療特区における法的規制緩和の恩恵を受けることができるのだ。彼らが勢い込んだのも頷ける。別路線の有望株として再生医療が浮上してきたことも一因だった。IPS細胞に始まった再生医療の進歩は目覚ましく、応用範囲が徐々に拡大していた。最近ではついに脳の分野にまで及ぼうとしているのだ。

 脳神経外科分野で後れを取ることが許されない東都医大としては、国の後押しのあるうちにできるだけ研究を進めようと躍起になっていた。研究者も臨床医たちもそうした大学側の期待の大きさに焦燥感を募らせていたことは否めない。したがって、柏木や神林が時期尚早の臨床試験に踏み切ったことは成り行きといえた。しかし、実際に立ち会った指田には衝撃的だった。治験とは名ばかりの〝人体実験〟に他ならなかったからだ。尤も、医療現場において両者の線引きは誰にもできないのかもしれないが。

 それでも指田は、たとえ医療特区として国が認可した治験だとしても、到底容認されるものではないと思った。健康体の人の頭蓋内に〈MLチップ〉なる電子機器を装着するなんて―――たとえそれが犯罪者だとしても。

この電子機器は脳内の多岐に渡る微弱な電波を受送信できる。ただしその出力は極めて弱いため、現段階では受信側の設備が巨大なものとならざるを得なかった。それでも一定条件の下で成果は上がっていた。初期の目標であった〝生体カメラ〟については、映像エンジンの飛躍的な進歩により物体の色や形の認識は可能になっていた。

 実験は次の段階に入っており、非接触給電の課題解決に腐心していた。技術者たちは対処療法的な技術開発に心血を注いでいたが、そもそもそこに身体的負担や生命そのものに対する危機感というものはなかった。指田にはそれが恐怖だった。そしてその危惧は現実となった。相次いで東都医大から送られてきた治験者のうち、二名が命を落としたのだ。この時点で研究者としては未練もあったが、さすがに人としては踏み止まるべきだと自身に言い聞かせた。自身が拒むだけではなく、この研究の進め方を改めなければいけない。不本意ながら、告発してでもこの実験は止めるべきだと決意したのだ。

 大学における自分の居場所はなくなるだろう―――その覚悟を持って行動に移そうとした矢先に、亜美と鉢合わせしてしまったのだった。彼女の目的は知らないが、お互いに公にできる事ではなかった。彼女がしばらくの間だけでも口を噤んでいてくれれば、指田の目的は達せられる。彼にしても彼女の違法行為を敢えて口外する気はなかった。

 柏木と神林にはそれぞれ個室が与えられていたため、柏木は部屋の施錠には神経質だったがその他には気を遣わなかった。それはスタッフへの信頼感の表れでもあったが、危機管理に対する怠慢と言われても仕方がない。神林自身は注意していたが、先任教授の柏木には遠慮があった。加えて、神林も施設全体のセキュリティーには信頼を寄せていた。そもそもこの研究室の存在自体がほとんど知られていないはずだし、施設内は専用サーバーによってイントラネットで繋がれてはいるものの、外部とは切り離されているからだ。ハッキングを始め様々なデータの流失に対する予防措置が施されていると自負していたが内部の人間、それも研究者自身によるデータの不正持ち出しについては最低限のバイアスしか掛けられていなかった。

 当然、閲覧や制限解除の履歴が残るので、本人以外の人間がPCを操作したことはいずれ発覚するだろう。しかし、しばらくは時間が稼げる。指田にとってはそれだけで十分だった。

(これで一時的でも現状の臨床試験を中断することができるだろう)

 彼は手にしたメモリースティックを握りしめ、決意を新たにした。亜美のことはすでに忘れ去っていた。    

 妹のことで冷静ではいられなかったとはいえ、あまりに無謀な計画だった。いや、計画ともいえない衝動的な行動だった。セキュリティーのことなど頭になかった。冷静に判断すれば、研究所と名のつく施設に素人が簡単に忍び込めるはずがなかった。治験参加者の滝口が特別病棟に移っていることで過大な期待を抱いてしまったのだ。滝口を説得して彼の病室に潜んでいるというところまではともかく、その先はノープランだった。もとより犯罪覚悟だったので、いざとなったら鍵を壊しても―――そう考えていた。しかし、現実はきっちりとセキュリティーが施されており、もし鍵を壊したりすればたちまち警報が鳴り響き、警備会社か警察が駆けつけることになっただろう。指田が何らかの意図を持って他の研究者のパソコンを開いている現場に遭遇したことが幸いした。当の指田にしてみれば最悪のタイミングといえたが、月に一度の単身での宿直日の今夜が唯一のチャンスだった。

 外は月明かりがきれいだった。済んだ夜空に星々が煌めいている。その薄明かりの中を歩いて、駐車場のレンタカーに辿り着いた。ドアを開けて運転席に身体を沈め、ドアをロックした。そこで初めて亜美は深く息を吐き出した。


                25


「主任。ようやく三人の共通点が見つかりました」

 勢いよく森田が一課の部屋に駆け込んできた。

「おお、そうか。で?」

「水上と加藤は東山高校、丘本は甲南工業高校でそれぞれの市は隣接しています。そこまでは先の報告通りですが、その先が苦労しました。まずは地元の所轄から始めて、終いには地域の交番までしらみつぶしに聞き込んだんです」

 森田は得意げに鼻をひくつかせたが、田所は黙ったまま先を促した。

「そうしたら古株の巡査部長が加藤のことを憶えていまして、古い日誌を持ち出してきたんです。何度か補導したことがあったとか。確認すると、確かに加藤の名前がありました。高校二年の八月のことで、傷害事件でした。まあこの時は相手の怪我もたいしたことがなかったので、停学処分で済んだらしいです。その日誌にはつるんでいたという堀田の名前もありました」

「腰巾着だったという?」

「はい。堀田はわいせつ行為と万引きでしたが、さらに調べると丘本の名前もあったんです。こちらは暴行未遂です。まあ十七の血気盛んな年頃ですから、ありがちなことですが・・・。いや、不謹慎でした」

 森田は慌てて頭を下げた。

「するとなにか、事の大小はともかく、三人とも同時期に補導されて、同じ交番の世話になったということか」

「そういうことです。十年以上前のことですが、奴らにはそんな共通点があったということです。要するに、今も少しも変わってないということですかね」

「根っからのワルというのがいるもんさ」

 田所は数多の犯人たちの顔を思い浮かべた。

森田と同僚たちは、課長の目を盗んで被害者の過去を詳細に調べていた。交友関係はもちろん、有形無形の被害を蒙った人物たちのことも。

 その中身は顔を背けたくなるようなものばかりだ。その結果の重大さに比べ、彼らの処罰は信じられないほど軽微なものだった。彼らによって奪われた、あるいは失われたものは取り戻すことができず、受けた心の傷は生涯癒すことの叶わないものであった。

 そうした多くの被害者の中に神林、柄本の名前があった。

「神林?」

「あの丘本の起こした事件の遺族で、東都医科大の脳神経外科の先生です」

「ああ、あの時の」

 遺体確認の時、霊安室で呆然と立ち尽くしていた男性の背中を思い起こした。同時に自分の迂闊さに腹が立った。田無南病院で聞き込んだときに看護師が話してくれた、あの担当医ではないか。

「高校卒業後も、丘本と堀田はいずれも女がらみでいろいろ問題を起こしていました。堀田の方は辛うじて犯罪には至ってませんが・・・。そういえば、加藤が絡んだ詐欺で、山梨に住んでいた一家が離散したケースがあったようです。夫婦が心中を図り、夫は死亡。妻は一命を取り止めたものの、現在も入院中とのことです。起訴後に二課の人間が嘆いていたとか」

「そいつはまた・・・で、家族は?」

「娘がふたりいます。姉の柄本亜美と妹の留美です」

「その娘たちはどうしてる?」

 娘を持つ親として、どうしても気になった。

「ええ。妹は山梨の祖父母のもとで暮らしています。姉の方は大学進学を機に上京。現住所は中野です。大学は休学していて、ホステスのアルバイトをしているようです」

「ホステスか?」

「父親の借金の肩代わりをして、二年生になった頃水商売に入ったとか」

「なるほど。孝行娘というわけか・・・」

「ですね」

「被害者遺族らに接点はないのか?」

「はい、亜美は高校卒業後に都内の大学に通うために上京。文系のごく普通の大学です。妹の方は高校生で地元を出ていません。一方の神林は、都内の私立高から東都医科大学医学部に進学。医師免許取得後、同大学病院に医師として勤務しています」

「姉妹の実家は山梨といったな? だとすると、例の附属病院が関係してるかもしれんな」 

「偶然ではないと? いつもの勘ですか?」

「そう言われると困るが・・・」

 奇妙な点が次々につながっていくように思えた。 

 張りつめた空気が流れる中、顔馴染みの鑑識課員が何やら報告書を手にやってきた。

「森田さん。頼まれていたもの、照合できたよ」

「相沢さん。ありがとうございます。早かったですね」

「あんたに、主任のご機嫌が悪いからと急かされたからな。じゃ、これ」

 相沢は田所に頭を下げると、軽い足取りで部屋を出て行った。

「いったい何のことだ?」

 怪訝な顔で森田が手にした報告書を見やった。

「・・・主任。とんでもないことが・・・例のドアノブの指紋が一致しました」

「いったい誰と?」

「堀田善行です」

「何だと? どういうことだ?」

「交番の補導記録の件ですが、しっかり指紋を取られていたんですよ。さすがにデータベース化はされていませんが、ふとした思いつきで記録のコピーを鑑識に持ち込んだところ、例の指紋と一致したというわけです」

「でかした。おまえの先走りも時には役に立つじゃないか」田所は相好を崩した。「妙な具合に二人が繋がったというわけだ。で、報告は上げたのか?」

「鑑識に依頼した件だけは、一応課長に。迷惑そうな顔をしてましたよ」

「だろうな。だがこうして物証が出た以上、無視はできないだろう」

「そうですね。それに、他の連中もあの時の捜査打ち切りには納得していなかったので後押しをしてくれたんですよ」

 そう言って晴れやかな顔を仲間たちに向けた。つられて田所が見回すと、それぞれが笑顔を見せていた。

 先輩たちのやり取りを聞きながら、内線を取った中越が声を上げた。

「交通課からの情報です。水上の血液型と一致する血痕の付いた車両が発見された、と」

「どういうことだ? 話が見えん。説明しろ」

「先日逮捕した当て逃げ犯の供述をもとに車両の鑑識を行なったところ、当該タクシーの塗料と血痕が検出され、DNA鑑定の結果、水上修の血液と断定されたということです」

「そんな重大な情報を交通課は黙っていたのか? 俺たちに無駄足をさせやがって」

 池内が吐き捨てた。

 その怒りを納めるべく、ほどなく書面で捜査状況の概略が一課にもたらされた。

 交通課としてはあくまでもタクシーの当て逃げ犯の検挙のために捜査していたのだが、車両の当て逃げ以前に人身事故を起こしていた事実が判明し、結果的に捜査一課の事案にまで飛び火したというのが真相だった。

 軽トラックの事故現場の検証についても、後日の一課の見解と矛盾が無かったので、それに合わせた報告書を作成したのだ。しかし、軽トラの運転手とされた水上が人身事故の被害者だったと判明した以上、前提が総て覆ることになる。

「これで主任の仮説が完全に立証されましたね。軽トラの運転手はやはり水上ではなかった。そして、あの部屋のドアノブに最後に触れたのは堀田。やつが本ボシということで間違いないですね」

 森田が上気した顔を向けた

「そういうことになるんだろうが、そうなると軽トラの問題に戻っちまう。一一九番通報があってから九分後には救急車が到着している。その時、現場には間違いなく水上が倒れていて、軽トラもあった。一方で、小柳は車を見ていないという。その短い時間に現場にやってきた軽トラが事故ったということになる」

「そいつが堀田だったんですよ。動転してたし、道路上の〝障害物〟を避け損なったに違いありません」

 若い連中が勢い込んだ。

 さすがにその展開には無理がある。声には出さなかったが、田所の表情は曇ったままだ。

「とにかくその堀田という奴を見つけましょう。そうすれば総べてがはっきりしますよ」

 声の主はもちろん、それは捜査員全員の総意だった。田所にも異存はない。不可解な軽トラの動きと事故の不自然さを解明し、身内の関与という不快な懸念を払拭するためにも。

 捜査員が一斉に部屋を駆け出そうという時、ドアの傍らに渋面の課長が立っていた。その横を田所が黙って通り過ぎようとすると、聞き慣れた濁声が背中を押した。

「必ずそいつを押さえろ」


                 26


 ここに来るのは何度目だろう。石垣にはすでに都内も山梨も区別ができなかった。受付の前に立てば、どちらの病院も同じようなものだ。待合室の密度で辛うじて両者の差がわかるだけだ。

 今日も消毒液の匂いと白衣の行き交う様を散々見続け、いい加減うんざりし始めていた。それでも何かしらの〝痕跡〟を見つけ出そうと意気込んだのだが、気合は空回りするばかりで、すでに診療時間も過ぎてしまった。見舞い客の面会時間はもう少しあるが、どのみち研究棟には関係者以外は入ることができない。

 失望感にうな垂れていると、若い女性の脚が視界を過った。無意識に顔を上げると、すらりとした都会的な美人だった。ぶしつけだとは思いながら、じっと顔を見てしまった。

「あれ、もしかして、ルナさん?」

 声を掛けながら自分でも驚いた。

「えっ?・・・石垣さん? お久しぶりです。今日はお仕事?」

「まあ、そんなものかな。でも、どうしてここに?」

「実家がこっちなの」

「そういえば、あの時・・・じゃあ、お母さんが入院しているというのが―――」

 石垣が生活のために風俗ライターの真似事をやっていた時、取材対象のひとりだったのが池袋のクラブで働いていた彼女(店での名前はルナ)だった。父親を亡くし、母親も入院生活が長く、やむなく夜の世界に身を投じたという。今にして思えばカビが生えそうなありふれた話だったが、当時は何を勘違いしたのか、悲劇のヒロインにやたら肩入れするような記事を書いてしまった。思い出すと赤面してしまうが、その時は渾身のルポを書いたような気になっていたのだ。

「では、まだ入院されているんですか?」

「ええ。意識が・・・眠ったままなんです」

 石垣は言葉を失った。当時は薄っぺらな同情心から彼女の境遇を気遣うような記事を書いたが、本人の心情はそんな他人の上辺だけの言葉などでは万分の一も語ることはできなかったのだ。

「あの記事のおかげで、今は銀座に移ったんです。今のお店での名前は本名の『アミ』。わたしのことを気に入ってくれて、ママがお店に引いてくれたの。おかげで客筋もお給料も段違い。石垣さんにはお礼を言いたいと思ってたんですよ」

 申し訳なさそうにしている石垣の心情を察してか、彼女は明るい口調でそう言った。もちろん、自分の記事にそんな力があったなどとは信じていないが、相手の気遣いに石垣は助けられたように思った。そんな気持ちが彼を饒舌にした。水上の件や、この病院まで足を運んできたわけを一気に話していた。

 ふと我に返って、大いなる自己嫌悪に陥った。たった一度取材をしただけの相手に、なぜそんなことを話してしまったのだろう。いくら同業者ではないとはいえ、取材中の事柄について他言するなどライターとしては失格だ。美人ホステスに気を許してネタを明かした軟派なダメ男―――そう揶揄されても仕方がない。

新たな後悔に苛まれていると、亜美は思いもかけないことを口にした。

「ここの研究室に東都医科大から〝協力者〟が送られてきているのは事実。それも特別な人物のようです。仲河和信も一時この研究室にいたらしいという噂が」

「それは本当ですか? どうしてそれをルナ、いえ亜美さんが・・・?」

「患者さんたちの間ではあれこれ話題になっているそうです。あくまで噂ですけど」

 勢い込んでさらに質問しようとする石垣を制して、彼女はとある病室へ彼を誘った。

簡素な造りだったが、きちんとした個室だった。窓際のベッドにはバイタル検出のコード、酸素吸入や点滴のチューブを装着した年配の女性が横たわっていた。

「母です。ずっとこの状態なの」

 亜美の口調に悲壮感はなかった。とはいえ、石垣はどう返していいのかわからなかった。

「話の続きをここで?」

 勧められるまま、パイプ椅子に腰を下ろした。

「大丈夫です。ここなら誰にも聞かれませんから」

 石垣はどきりとした。彼女は達観を装ってはいるが、内心ではすでにぎりぎりの所まで来ているのではないか。もし自分の身内だったとしたら、一年以上も意識が戻らない状況を受け止められるだろうか。そう考えると、彼女の抱えている現実は想像を絶するものに違いなかった。

 辛うじて感傷を排し、改めて質問した。

「先ほどの件だけど、噂というのは・・・?」

 石垣には信じられなかった。仲河の死は田所に聞かされたあと新聞で確認した。だが、そこには刑の執行を待たずに病死したという事務的な記事があっただけで、具体的な記述は皆無だった。その点はマスコミ人としては歯痒さがあった。つまり、それほど厚い報道規制が敷かれた証であり、各方面に不都合が及ぶ事柄だったに違いないのだ。たとえ一時的にしてもこの山梨の病院にいたことが発覚すれば、それは大スクープとなり得る。

「妹とよく話をする年配の方がいて、その方も治験に協力しているそうです。その方は定期的に実験棟に出入りしているので・・・」

 亜美は二日前の〝暴挙〟を思い返しながら言葉を選んだ。翌日には何事もなかったように留美に連絡し、祖父母の家に泊まった。妹の少し戸惑ったような笑顔が眩しかった。その顔が目の前の石垣に重なった。その瞬間なぜか心の戒めが解かれたように思い、石垣の話に呼応するかのように滝口から聞いたままを語った。

 彼女の話を聞いて、石垣の中ではいくつかの点が次々とつながっていく昂揚感が膨らんでいた。この山梨中央総合病院に辿り着くきっかけとなった謎のワゴン車と、彩奈が知らせてくれたリストの件が見事につながったのだ。

「そうだったんですか。でもその話をなぜ僕なんかに?」

「あなたの目」

「僕の目?」

「あの時と同じ目をしてたから。曇りのない真っ直ぐな目。とても風俗記事を書いてるようには見えなかった。さっきの話でも、お友達のために真実を必死になって知ろうとしてることが伝わってきたわ。損得勘定ではなくて」

「そんな・・・」

 顔が熱くなるのがわかった。何年経っても相変わらずの単細胞だと言われているようなものだ。確かに、未だに駆け引きや策を弄することは苦手だが。

「見てほしいものがあります」

 そう言いながら、バッグの中からA4判の一枚の紙を取り出した。

「これは?」

 それは名簿らしきものだった。罫線で区切られた升目に八人の名前、その後に専門用語が並び、実験室ナンバーと開始・終了の日時が記載されていた。指田に渡された例のデータの一部を亜美がプリントアウトしたものだ。

「この半年間に、ここの研究室で受け入れた治験者のリストらしいです」

 リストの入手経路や方法については触れなかった。

「半分は偽名みたいだ」

 そこには患者たちが話していた田中、鈴木、佐藤、さらには高橋といった名前があり、彼らの実験室はいずれも「M」、他は「1」あるいは「2」となっていた。名前については東都医科大病院で手に入れたものと同じだ。あくまでも機密保持の一環ということなのだろう。となると、単なる記号にしか過ぎないそれらの名前は何の手掛りにもなりそうになかった。ただ、開始・終了欄の日付に記憶のあるものがあった。

《鈴木三郎 M 開始・5月15日 終了・6月5日》

 六月五日。滝口が本名は丘本だと話していた「鈴木三郎」なる人物が死んだと噂が飛び交った、あの騒動の前々日だ。

 実験室「1」「2」の治験者が無関係だという確信はどこにもないが、東都医大のリストと合致している「M」と記述のある四名がさし当たっての対象者と判断して良さそうだ。その前提で整理すると、五月二十九日終了となっている「田中二郎」がすでに死亡している仲河和信ではないかと想像できた。消去法でいけば、残る二名の一方が加藤昭次ということになる。残念ながらそれを特定できる材料はなかった。

「それで、どうするつもり?」

「本音を言えば、事件のことは思い出したくないんです。でも・・・妹が妙なことを考えないように、しばらく傍にいてあげたいんです」

「それがいいかもしれない。二人のどちらかは特定できないけど、リストの隅に(最終検査・六月三十日)となってるから、今月中に終了するということじゃないかな」

「なるほど。だったらあと十日くらい頑張ればいいわけね」 

 亜美は得心したように少しだけ明るい顔になった。

 身じろぎもしない彼女の母親の病室を出た石垣は、改めて自分の仕事に戻ることにした。いや、彼女の話を聞いたのも仕事の一環だ。ただしその言葉とは裏腹に、当初想像していたのとは違う不穏な気配を感じた。親しみと遠慮が微妙に交錯しているような口振りが、彼の中で不協和音を発していた。まさか、彼女自身が過激な行動に出なければいいが。


                27


 すっかり見慣れた部屋のいつものベッドで二人は余韻に浸っていた。

「今夜のきみはいつにも増して情熱的だった。何かあったのか?」

「ずっと願っていた事が実現できそうだから」

 シーツを引き寄せながら、ルナは男の耳元で囁いた。

 定期的に逢瀬を重ねていたが、男は相変わらずミステリアスな人物を装っていた。お互いに本名も名乗らない。私生活には触れない。初めにそう取り決めた。

 だが実は、この時点でお互いに相手の素性を知っていた。ルナは相手を詮索するつもりは無かったが、あるときテレビ画面に映った男の顔を見て驚いた。何やら堅苦しい会見の席の中央に立ち、テロップには国家公安委員長の肩書きが流れたのだ。一条孝則、それが男の本名だった。まさかという驚きに暫くは頭の中が真っ白になったが、相手には伝えなかった。彼女の前で彼は権力を振りかざすようなことは無く、普通の一人の男だったからだ。もとより、仮の名前もそう振る舞うためのものだったのだろう。その立場からすれば、ルナの素性を調べることなど造作も無いことだったが、一条もまた、純粋に魅力的な一人の女性として接していた。

 互いの思いは合致し、理想的な関係が続いていたのだ。しかし、ルナは初めてその関係を自ら壊すような言葉を発した。

「貴方にお願いがあります」

「どうしたんだ? 初めてだな、きみが私に頼み事なんて。何かな?」

「実は―――」

 ルナの話を聞いた一条は珍しく返答に詰り、表情を曇らせた。


 七月の初め、あるニュースが日本中を駆け巡り、大騒ぎとなった。

《不透明な政府補助金の行方》《大物議員の収賄疑惑浮上》《又してもデータねつ造か?―――功を焦った大学の勇み足》といったニュースが新聞、雑誌、テレビ番組で大きく報道されたのだ。

 遅れること三日。それ以上にセンセーショナルに取り上げられたのは、《美人ホステスの復讐劇》と題した殺人事件だった。柄本亜美というホステスが、詐欺被害に遭ってその後死亡した父の敵討ちと称して、すでに起訴されていた加藤昭次を刺殺したというものだった。加藤は脳梗塞の疑いで緊急入院していた東都医科大学病院を退院して拘置所へ移送されることになっていたが、その駐車場が凶行の現場だった。彼女は黙って加藤に近づき、所持していたナイフで犯行に及んだという。警察は、意表を突かれたとはいえ警護の警官の目の前で犯行を許したことを猛省し、重大な不祥事だったと謝罪した。

 政府の補助金に関しては、その行き先と目されていたのが東都医科大学だったが、よりによってその関連施設で違法な治験が行われていた可能性があるという内部告発が同時に噴出した。告発者によれば、同施設は政府の補助金を継続的に得るために違法な治験を行い、しかもそのデータを改ざんして報告していたという。この告発によって国民の目は大学や病院に向くことになり、間接的な被害者が自分たち納税者であるという感覚になった。結果的に、国も被害者だという論調が大勢を占めるに至った。

 ニュースの鮮度の問題もあったが、国民の関心は毎度繰り返される国会での不毛な与野党の揚げ足取りよりも、犯罪者が被害者家族に殺害されるというドラマのようなストーリーに向けられた。おかげで、図らずも矢面に立たされた警察によって政府は守られることになった。

 当事者である東都医大の柏木は一連の報道に対してまともな釈明が出来ず、曖昧な説明に終始した。情報の漏洩はもちろんだが、データの改ざんについても罪の意識は希薄だった。長年の基礎研究がようやく実を結び、国の認可も取り付けることができたことで本筋を見失った。画期的なテクノロジーに対してあまりに地道な臨床試験というステージがもどかしくて、希望観測的な数値や結果を恣意的に選択してしまった。それが研究者にとってどれほどのタブーであるかを知らないわけはなかったが、悪魔の誘惑に抗えなかったのだ。

 一方で不思議なことに、柏木とともに中心メンバーである神林は泰然と構えていた。研究が頓挫するかもしれないという危機感や悲壮感は感じられなかった。研究スタッフの面々は事の成り行きを神経を尖らせながら窺っていたが、神林は冷静にこのふた月ほどの出来事を振り返っていた―――。


 田無南総合病院で救急の受入れ要請があった日。

駅の階段からの転落ということだったが、一見して頭部外傷の深刻さは明白で一刻を争う状況であった。専門分野でもあり、穿刺ではなく開頭の決断に躊躇いはなかった。看護スタッフの思いもかけない告発に驚いたものの、救命の職務はきちんと果たした。ただし、処置中に発見した動脈瘤の処置は見送った。瘤の場所と大きさから判断して、今後半年以内に瘤が破裂する確率は五分五分といえた。一ヶ月後かもしれないし、一年以上持つかもしれない。発症の有無は本人の運次第だ。看護師の言ったような人物なら、神は相応しい道を選択するだろう。

 この時の決断は医療従事者としての倫理に反するものだったかもしれないが、神林にとっては翌週に控えた大仕事に対する決意を固めるきっかけとなった。畑中との約束もあったし、自身の決意も揺らいではならなかった。自分は神ではない。それでも、自分たちにはかけがえのない肉親を理不尽に殺害された遺族として犯人を恨む権利があり、犯人は正当な対価を支払う義務がある。そう確信していた。

やがて、あの問題の日が訪れたのだ。異常な緊張感の中で、柏木は見事に治験者第一号に対する施術を成功させた。そしてさらに一週間後、治験者二号は神林が執刀することになった。この時は見学者もなく、スタッフたちも落ち着いた雰囲気の中で淡々と手術は進められた。二件目ということもあり、施術は初回よりもさらに短い時間で終了した。

 ほどなくして予定通りのデータ取りが始まった。畑中が危惧した初期トラブルもなく、受信システムが順調に機能することが確認された。こうしてMルームが本格稼働し始めると、スタッフはルーティン作業に追われ、計器類から送られる厖大なグラフや数字が表示されるディスプレイとひたすら格闘する日々が続いた。この間にさらに二件の手術が行われた。その先に何があるかとか、そもそも人体を対象にしていることさえ忘れ去られた。何よりもデータの収集が優先事項とされた。

やがて、ついにその日がやってきた。

「神林さん。ようやくこの日が来たんですね」

「はい。ひと通りのデータは取ることができました。奴も多少なりとも世間に貢献できたし、十分でしょう」

 警護の警官に付き添われて治験者一号の田中二郎こと仲河和信がMルームにやってきた。

「こんな時間にどういうことなんだ? もう寝る時間じゃないのか?」

 仲河はふたりに対して不満をぶつけた。確かに時刻は二十二時を過ぎており、神林と畑中の他にスタッフは誰も残ってはいなかった。警官に促されるままに仲河は観測室に押し込まれた。モニタールームには研究者との仕切りに透明な特殊ガラス窓が取り付けられている。この窓には音響センサーが組み込まれていて、内外で会話ができる。

 ドアのロックを確認すると、警官は黙って姿を消した。彼は事情を把握しているわけではなく、上司からの命令を順守しているだけだった。呼び出しが無い限り、誰も研究室に立ち入ることはない。

「田中二郎、いや、仲河和信。おまえは死刑囚だ」

 特殊ガラス全面がスピーカーとなっているせいか、肉声とはかけ離れているように響いた。

「ああ、改めて何だっていうんだ?」

 畑中の言葉にふてくされながら、顔を逸らせた。

「これから死刑を執行する」

「はあ? 何を言ってるんだ?」

「あと少しだけ時間をやる。だからゆっくり考えるんだ。畑中晴樹という名前を憶えているか? 三年前の無差別殺傷事件でおまえに殺された小学生の名前だ」

「知るかよ、そんなこと。そのガキがどうしたっていうんだ?」

「その子は私の息子だったんだよ」

「ほう。だから?」

「罪の意識はないのか? 謝罪の気持ちは?」

「ふざけるなよ。謝罪も何も、俺は死刑と決まってるんだ。頭を下げれば娑婆に出られるならいくらでもそうしてやるが、馬鹿馬鹿しいだろ。執行当日まで好きにさせてもらうさ」

「そうか・・・決まりだ。残念だが、のんびりする時間はない。おまえはもうすぐ死ぬんだ。今日が執行日だ」

「何を馬鹿な―――」

 初めて仲河の表情が変った。あの手この手で裁判を引き伸ばし、一時は精神鑑定まで行なったが、それも詐病と判定されて裁判員の印象を悪くした。結局、求刑通りに死刑が確定した。それでも本人は、当分刑の執行はないだろうと多寡を括っていた。通例では数年から十年は先だと読んでいた。

「は、話が違う。臨床試験に協力すれば執行が伸びるというから、痛い目に遭っても我慢したっていうのに」

「確かに伸びたよ。おまえの死刑執行は一ヶ月前に決まっていた。だが、データ収集のために今日まで生かしておいただけだ。そして、もうお前は必要なくなった」

「そんな。執行命令は出たのか?」

「そんなものはいらない。私が決めたんだ」

「じょ、冗談だろ? 拘置所に戻してくれよ。頼む」

「息子の晴樹も他の人たちも死にたくなかった。だが、訳もわからずおまえに殺された。未来を奪われたんだ。おまえの未来に価値があるとは思わないが、それでも一秒でも長く生きることは許せない」

 畑中の目に狂気を見た仲河は、冗談ではない事を悟って青ざめた。仲河は無意識のうちにドアにすがりついた。自分の身に何が起こるのか想像もできなかったが、取りあえず今は相手とは隔離されている。自分が部屋から出ない限り、相手を部屋に入れない限りは安全なはずだ。とっさにそう判断した。

 しかし、畑中は不敵に笑った。

「最後にもう一度だけ訊く。息子に詫びる気はないんだな?」

「そんなに謝ってほしいなら、まずは俺をあそこに戻せよ。話はそれからだ」

 強がってみせたが、表情は引きつっていた。

「最後までクズだな、おまえは。仕方がない、せっかく楽に死なせてやろうと思ったのに・・・長く苦しむことを選ぶとは」

「・・・?」

「では、先生。これが最後のデータ取りです。準備はよろしいですか?」

「どうぞ」

「では、最終実験を行います」

(晴樹の仇だ)

 胸の内で宣言すると、畑中はその指にあらゆる感情を込めて、コンソールの赤いボタンを押し込んだ。それから仲河の表情が見える位置に回り込み、その顔を覗き込んだ。ガラス越しのその顔には戸惑いが一瞬浮かんだが、直後に苦悶と恐怖が取って代わった。

「く、苦しい・・・何だ・・・?」

 仲河は頭を抱え、次に胸を鷲掴みにして床を転げまわった。顔面は紅潮し、こめかみと首筋には血管が浮き出ていた。眼球が飛び出しそうに見開かれ、毛細血管がはっきりと見えた。呼吸することができず、喘ぎながら両手で宙を何度も掴もうとした。その間も彼は床を転がりながら、今度は自身の首のあたりをしきりに掻きむしった。指先が血で真っ赤になり、次第にその動きが緩慢になった。そして二分ほどが経ち、全身から力が抜けた。

こうして仲河和信は絶命した。その形相はとても正視できるものではなかったが、畑中だけは真顔で凝視していた。傍らの神林は無表情のままちらりと畑中を見やったが、すぐにデータを確定し、田中二郎のファイルを閉じた。

「ようやく終わりました。ありがとうございました、先生」

 畑中は神林に向かって深々と頭を下げた。

「いいえ。これは長い間苦しんでこられた畑中さんの権利です。この実験棟の中での行為は総べて合法です。柏木先生の執刀の際に、チップを〈ML2〉と入れ替えたことも含めて。我々は国から正式な許可(ライセンス)を得ているんですから」

「そうでした。次は神林さんの番ですね」

「はい。こちらもデータ収集は再来週までです。そして最終実験となる運びです。・・・ところで、正直なところどんな気分ですか?」

「さんざん聞かされていたものとは違いますね。犯人に対する復讐なんて無意味だ、そんなことをしても死んだ人間は返ってこないのだから虚しいだけだ―――そんな無責任な他人の言葉など端から気にもしていませんでしたが、実際、ようやく平穏な気持ちになることができた気がします。満足感とか達成感とは違います。あいつが消えたことで、初めてひとりの人間として、父親として素直に息子の死を悲しむことができる気がしているんです。そして仲河の行為を憎むことも。これまでは同じ感情を抱きながらも、あの人間が存在する限り総てが底なし沼に呑み込まれていくような感覚だったのです。私の憎しみが誰にも見えず、息子の死を悼む気持ちも無いことにされているような感覚だったんですよ。仲河の命を絶ったところで息子が生き返るわけじゃない、そんなことはわかっている。だけど、心から息子の死を悲しんでいること自体を無かったことにされるのは耐えられない。その一点で、今回のことはどうしても必要なことでした。これは断言できます」

 ダムの水を放流しても、上流から川が注ぎ続けている限りダムの水位が下がることはない。ダムを空にするためには川の流れを絶つしかないのだ。

 畑中の言葉は神林にも理解できた。理系の彼らにとっては事象の帰結は数学のような部分があった。数式の左右はイコールでなくてはならない。一方が存在し常に数値が増え続けていては、他方は数字を固定することはできないのだ。

 治験者二号も術後の経過に問題はなく、工程通りにデータの収集は進められていた。田中二郎の死によるスタッフの動揺はなかった。神林の気持ちにも何の迷いもなく、畑中に続いて彼の思いも順調に遂げられるはずだった。

畑中と神林は前回の立場を代え、最終実験装置のボタンの前には神林が立っていた。そして実験室「M」の中では丘本が不安気に歩き回っている。

「きみのしたことは死刑に値する。法廷では懲役十七年とされたが、私は認めない。そこで求刑を変更した。やはりきみには死刑が相応しい」

 ガラス面から届く神林の声は、天からの啓示のように響いた。

「何を訳のわからないこと言ってるんだ?」

 ガラス窓の向こうで丘本が怒鳴った。

「わかってもらわないと困るんだ。妹を、早智子を殺した罪をきちんと償わなければならないということを。命の代償は命しかないということを。そして、私の悲しみと憎しみを」

 丘本の顔が恐怖に歪み、懇願するような眼差しを向けた瞬間、神林は力を込めて赤いボタンを押し込んだ。

 だが、この時は想定外の展開となった。三十秒ほど経ったが、部屋の中の丘本には何の変化も起こらなかったのだ。

(チップの不具合?)

 神林と畑中は顔を見合わせ、僅かに困惑の色を見せた。畑中はモニターを眼で追い、そこに既定の数値が示されていることを確認した。

「チップは正常に作動しています」

 丘本はといえば、何事も起こらないことに安堵し、薄笑いさえ浮かべていた。

観察者の二人が息を詰めたまま、さらに一分が経過した。すると別のモニターに表示されていた波形が大きく乱れた。丘本の身体がぐらぐらと揺れ、真っ直ぐに立っていることができない様子だ。どうやら運動神経の麻痺が遅れて始まったらしい。彼はとっさに腕を伸ばすこともできず、部屋の中程で前のめりに倒れ込んで顔面を強打した。その際に声を上げることもなく、うつ伏せになった身体はしばらくの間小刻みに痙攣を繰り返した。床に赤い血の染みと嘔吐物の黄色い液体が拡がっていく。やがて痙攣が止み、ピクリとも動かなくなった。チップから送信される信号を確認するまでもなく、丘本は死んでいた。

 神林は医師らしく冷静にその亡骸を仰向けにし、確認のために脈を取った。丘本の吐瀉物に塗れた顔は粘土細工のように無様に歪み、両目は何も映さなかった。

「なるほど。心から憎んだ相手が目の前で死ぬというのはこういうことなんですね。畑中さんのおっしゃっていたことがわかりますよ。晴れ晴れということではないが、雑念が消え、真っ直ぐな気持ちで妹のことを偲ぶことができそうです。この感覚というのは昨日まではありませんでした。詭弁ではなく、胸を張って罪悪感はないと言えるからでしょう」

 この時点で畑中と神林の目的は達成された。しかし、ここでの行為は総べて臨床試験という名目で認可されたものであり、被験者は他にも存在した。第一次の被験者はあと二人いる。施術済みの彼らについては既に進行中の試験も含め、さらなるデータ取得のスケジュールが組まれている。神林と畑中は研究者の一員として引き続き任務を果たさなければならないのだ。

 先に施設内で死亡した仲河については、柏木が臨床試験との因果関係はないと結論付けた報告書を作成済であり、遺体は速やかに拘置所へ送致した。対外的に公表されたのは、脳梗塞による緊急入院後に容態が急変して死亡したというものだった。法制上は死刑の執行が成されなかったことになるが、世間的には〝死亡〟の二文字で同じ結果だと納得していた。丘本の場合は死刑囚ではないが、その生死に関心を持つのはごく限られた人間だろう。公式発表は急性心不全だったが、被害者遺族の神林を除けば、おそらく丘本の名前さえ人々の記憶には残っていないに違いない。それは神林にとってはある意味望ましいことだった。早智子のことは家族がしっかりとそれぞれの心の中で思い続けていればいい。他人が、殺人犯の丘本の名前とともに思い出して欲しくはなかった。

 ここからは純粋に医療研究者として、エンジニアとして臨床試験の成り行きを見守ることができるだろう。二人の胸の中には、そうした嵐の後の凪にも似た穏やかさが訪れていた。

 この研究施設には実に多くの人間とその思惑、そして国家規模の巨額の研究費が投じられていた。にもかかわらず全国的には知られていない施設だったが、一研究者の内部告発によって衆目を集めることとなった。もとより地域住民限定診療だったことで病院自体はメディアに取り上げられることもなかったが、研究施設の存在は様々な憶測を呼んだ。

 それでも、マスコミで報じられた告発というのは国からの補助金の不正流用にフォーカスされ、〝違法な治験〟の具体的な内容についての記事やコメントは皆無だった。当然、告発者の名前や肉声も公開されることはなかった。一連の報道で国民が知り得たのは、国からの補助金の一部がある議員に流れていたらしいという憶測と、運営されている研究施設で臨床試験が行われ、そのデータが改ざんされていた―――それだけだった。そもそも、医療特区ということを知る人間はごく一部に過ぎなかった。さらに、母体の大学病院の名前が誌面や画面に出ても、お決まりの派閥争いや政治献金絡みという構図に納得し、他人事だという範疇を出ることはなかった。

なによりも、美人ホステスによる殺人事件の舞台になったというインパクトの前に霞んでしまい、国民の興味は専らそちらの人間模様に向けられた。テレビのワイドショー番組でも、報じられたのは専らその事件だった。

 

                 28


 その日は薄曇りの、盛夏の前の過ごしやすい気温だと気象予報士は伝えていた。

 シルバーの地味なセダンに続き、グレーのワゴン車が病院の通用口に横付けされた。ほどなく、スーツ姿の男に先導されて捕縄に繋がれた加藤昭次が姿を現した。傍らには制服警官が控え、病院関係者らしき人物も同道していた。最後尾のその人物が、建物内から現れた職員に抱えていたボードを渡した。受け取った人物は事務的にペンを走らせた。その時僅かに加藤と警官の距離が離れた。そこに黒いワンピースの女が駆け寄った。

「何だ?」

 一瞬の出来事だった。職員が署名をし終わって顔を上げた時には女が加藤の胸元に飛び込んでいた。

 慌てて警官が女の肩口を抑えて身体を引きはがした。その手にはナイフが握られ、鮮血が滴っていた。加藤の腹部に巨大な赤い染みが拡がり、流れ出た血が衣服からコンクリートの地面へと幾筋もの赤黒い模様を描いていた。

「誰か、先生を呼んでくれっ」

「な・・・ぜ、こんな・・・」

 加藤自身は何が起きたのか理解できないでいた。

「あんたに生きている価値はないわ。たった数年で自由の身なんて許さない」

 女は冷徹な表情で言い放った。柄本亜美だった。

「そ、そんな・・・」

「でも、もう少し時間はある。たっぷりと痛みを味わうがいいわ。父も苦しんだわ。家族四人で平穏に暮らしたかっただけなのに、あんたに総べて壊された。もっともっと生きたかったのに、未来を奪われた。それがどういうものか、今ならあんたにもわかるでしょう? 新たな希望ができたのに、それが突然断ち切られてしまう無念さ、理不尽さ―――父は悔しくて悔しくてどうしようもなかったと思うわ。そして命までも絶たねばならなかった、しかも最愛の人を道連れにして。それに対する償いは、あんたの命で贖うしかないのよ。たとえクズのような人間だとしてもね」

 身柄を拘束されながら、彼女は蹲った加藤に思いの丈を投げつけた。

「・・・」

 加藤は声を上げることもできなくなった。火のような激痛が押し寄せる波のような疼痛に変わり、意識が朦朧とし始めた。だが、再び腹の中に焼けた鉄棒を挿し込まれたような激痛に襲われて意識が覚醒し、死の恐怖が足先から這い上がってくる。

(死にたくない・・・)

 生まれて初めて切実にそう思った。他人のことなどもちろん、自分の命についても考えた事などありはしなかった。不思議な感情が湧きあがった。それはなぜか自身に対する憐憫だった。かつて一度も抱いたことのない感情だった。

 場所もわからない痛みが押し寄せて身体を突き破った時、彼の目に一筋の涙が流れた。激痛のせいか生への未練かは知る術もなく、やがて閉じられた両目からは二度と何物も生じることはなかった。

 そこに白衣の人間が数人駆けつけた。ドクターが進み出て脈を取り、両眼を覗き込んで小さく首を横に振った。その様子を凝視していた亜美は、ようやく荷物を降ろしたように表情を和らげ、心の底から湧き上がる満足感を噛みしめた。

 この場面は実際には二分足らずの出来事だったはずだが、亜美には鮮明に、スローモーションの映像のように見えていた。スーツの男と制服警官の二人に取り押さえられたまま、コンクリートの地面に横たわる加藤を見下ろして亜美は微かに笑みを浮かべた。


 亜美の供述を聞いて、田所は暗澹たる気持ちになった。

彼女は〈MLチップ〉の存在を聞かされていた。しかし、それに託すことは考えなかった。思いを形にすることは行動することだ。己の手足を使うことなのだ。思いだけで結果が目の前に転がってきても、達成感は生まれない。あくまでも個人の感情で、最終的には妹の犯行を未然に防ぐことだけしか考えられなかった。そう彼女は供述した。

「人間なんてそういうものじゃありませんか? 本当の悪人にはいなくなってほしいけど、それで総べてが報われる人ばかりじゃないのかもしれない。そもそも、自分の憎む人間と他人が憎んでいる人間は別。個人で勝手にすればいいわ」

 捨て台詞のように言い放ったが、悪女を装っているだけに見えた。

「それにしても、あの場所に加藤が現れるとどうしてわかった?」

「事前に知ったわけじゃないわ。ただ、ある人に東京ナンバーの黒っぽいワゴン車を山梨の付属病院で見かけたら連絡して、とお願いしておいたの。前々日にも連絡があって東都医大病院で待ち伏せたけど、加藤じゃなかったわ。二度目で幸運にもあいつに出会えたのよ」

 目的を知らずに患者同士が協力し、滝口を通じて情報を送ってくれたのだが、もちろん名前は口にしなかった。

「たいした執念だな。それはともかく、私には未だに信じられないが、あの研究施設ではそのM何とかいう機械を使って人体実験をやっていたっていうのか?」

「〈MLチップ〉。犯罪抑止に有効な、画期的な機器という話だった」

「それを知ってるあんたなら、どうしてそいつを利用しなかった? 男を刺し殺そうなんて、危険すぎる」

「一瞬だけ考えたわ。だけど、そのチップについて具体的なことは何もわからないし、何よりあいつには思い知らせてやりたかった。自分が誰に殺されるのか。なぜ殺されるのか。それを理解したことを見届けたかった。個人の悲しみや恨みは、犯人が死んだという活字や伝聞では晴れることはないのよ。たった今まで生きていた憎むべき相手が、目の前で死んでいく過程が必要なの。理屈じゃないわ、それが正直な被害者遺族の感情だわ」

「だからといって殺人は正当化できない。新たな被害者遺族が生まれることについてはどう思う?」

「復讐なんて無意味、報復の連鎖は断ち切るべきだ―――そんな正論は聞き飽きてるわ。何と言われても、加藤を殺したことは後悔していない。私の権利よ。世界中の総べての人が間違っていると言ったとしても、わたしは正しかったと胸を張るわ」

 彼女の表情は、その言葉通り凛とした晴れやかなものだった。あくまで外見は。

 やりきれない思いはあったが、彼女の言うことを否定することはできない。被害者遺族の気持ちは結局のところ、当事者以外には決して理解されることはないのだろう。同じように大切な人を失った人たちも、その感情は唯一無二であって、他人と比較することなどできるわけがないのだ。

 どんなに凶悪な犯人でも、同じように家族がいて、犯人を殺せば同じように悲しむ人間を生む―――そんな正論は意味がない。だったらなぜ自分の大切な家族は、恋人は命を奪われたのか。その答えがない限り議論は空しい。それでもなお、いかなる凶悪犯も法の下に裁かれるべきだと主張するなら、法を変えるしかないだろう。単純と言われようが短絡的と非難されようが、納得できる、いや納得はできないにしても近似値としての解決策は〝等価交換〟しかないのだ。その質に疑問や不公平感があったとしても、〝最大公約数〟として命の代償は命でしかないのだ。議論や悔恨の情で失われた命が取り戻せるのならば、話は別だが。

 亜美が、僅かに感情を滲ませたのはこの時だけだった。その後の事情聴取に対しては原稿を読み上げているような、淡々とした語り口に終始した。

 取り調べを終えた田所は、深い徒労感に襲われた。実際ここ数日は不眠不休で裏取り捜査に駆けずり回っていたせいもあるが、亜美の口から語られた内容があまりにも衝撃的、かつ特異なものだったからだ。同時に、彼女に対する憐憫も覚えたのは歳のせいだったか。

 亜美のしたことはいかなる理由があっても許されることではない。しかし、自分も唾棄すべき犯人を目の前にしたとき、法の無力さや過剰な寛容を呪ったことが幾度となくあったのだ。警察官という衣が、辛うじて理性的な人間を演じさせていたに過ぎないのかもしれない。

 ところで、問題は残っていた。亜美の供述が事実だとしたら、果たしてどこまでを犯罪として立証できるのか。誰が罰せられるべきなのか。それ以前に犯罪として立証できるのか。そもそも〈MLチップ〉の効力、仲河と丘本の死亡との因果関係を誰が実証できるというのだ。それができない以上、〝事件〟は存在しないことになってしまうのだ。

 東都医科大学では、純粋に医学的見地から研究を進めていた―――という大義名分が存在する限り、専門家如何に関わらず因果関係は証明できないだろう。開発に協力していた〈トーホーソニック〉にしても、要求された性能を有する〝測定機器〟を製品化させただけで、落ち度はない。包丁が凶器に使われたからといって、製作した職人が罪に問われるわけではないのだ。

 では発案者はどうか。これもまた、あくまでも政治的な構想の一環であって、殺人を意図したものではない。死刑を容認、推進する思想の持ち主であったとしても、それ自体は罪ではない。

 最大の問題は、いずれも医療特区における臨床試験という〝二重の密室〟に閉ざされていることだった。受刑囚の山梨への移動の証拠は無い。あるのはすでに死亡した老人の目撃証言と偽名の人物が複数存在したということだけだ。さらに、臨床試験のマスターデータの開示請求も却下された。こうしてあらゆる方策の芽は摘まれてしまった。仮にそのチップが実在していたとしても、警察にできる事は何ひとつなかった。

 結果として、直接的に手を下した亜美だけが〝明確な犯人〟ということになったのだ。はからずも田所が明言した通り、実行犯は逮捕した。しかし、これほど後味の悪い結末は予期しなかった。彼女の妹思いが災いした。家族を思う気持ちが強く、行動力もあった。その家族愛が思わぬ方向に屈折していったのだろう。彼女は持ち前の行動力を発揮して滝口まで巻き込み、加藤の移送日の情報を得た。そして無謀かつ大胆な犯行に及んだ。病院から拘置所へ移送する僅かなチャンスに賭けたのだ。

 しかし、亜美の供述は真実なのだろうか。まず加藤の移送日や警備体制などの情報を、素人が簡単に手に入れられるものだろうか。もちろん、加藤を殺害したのは事実だ。だが、その動機は本人が語ったような憎悪だけだったのだろうか。彼女の両親や妹に対する愛情はもちろん真実で、犯人に対する憎しみは半端ではなかったことに疑いはない。それでも、家族思いの彼女がその感情だけで殺人を犯したとはどうしても思えないのだ。彼女は悪女を装っていたが、実際は分別のある聡明な女性に違いない。でなければ、容姿だけで銀座のホステスが勤まるはずがない。野暮な田所でもその辺りは心得ている。だが、衆人環視の中での現行犯であり、何ら異議を挟む余地はない。殺人の実行犯がいる限り必ず逮捕してみせる―――再三公言していたように、手を汚した犯人はきっちりと逮捕した。それでもなお、彼女は総べてを語っていないという思いは消えない。胸の内は厚い霧の向こう側に横たわっているが、決して素顔を見せることはないのだろう。

 ただ、亜美が事件を起こしたことで水上の容疑は晴らすことができた。もしも彼女が動かなければ、堀田も生きていなかった可能性がある。その意味では彼女は恩人ということになるのかもしれない。だからといって、殺人の罪が消えるわけではないが。

こうした疑問を抱いても、結果に変わりはないのだ。大いなるジレンマだが、ひとりの刑事が、いったいどこまで真実を見極める必要があるのだろうか。犯行に関して犯人が語った内容が事実で、それによって犯罪が立証されれば、それは警察にとっては百パーセントの〝真実〟となり、語らなかった部分に意味はないのかもしれない。

 そんなことを思いながら、田所は供述調書に再度目を通し、何かを断ち切るように署名をした。


                29


 補助金の不正受給や治験に関する報道が下火になりかけたころ、先のキャバクラ嬢殺しの新たな容疑者として堀田義行が逮捕された―――とのニュースが小さく報じられた。

堀田を確保したのは新宿東署の田所とは別の班だった。田所が亜美の事情聴取を行っているちょうどそのころ、郊外のウイークリーマンションにそれらしい人物が潜伏しているとの情報があり、捜査員が急行して確保した。その際、堀田はすでに観念していたようで、一切抵抗をしなかったという。

堀田自身は、意識の無いまま病院に搬送され、都内に移送された際も完全に車窓の景色は遮断されていたと証言した。すなわち、彼は逮捕されるまで自分がどこに居たかもわからなかったのだ。

署に連行して聴取を行った際も、終始素直に応じた。唯一、凶器の遺棄場所だけは記憶にないと供述した。


水上と思わぬ場所で再開した堀田は、酒の勢いのままに馴染みの店に連れていった。

 堀田の顔を知っている程度だった水上は戸惑ったものの、同窓という一事で強く拒むことができなかった。もとより友人の少ない水上にとっては、顔見知りというだけでも近しい存在に思えたのだろう。日頃から仕事の話はできないという強迫観念が、その反動として微妙な解放感を誘発したのかもしれない。

 同窓生というだけで何の利害関係もない、昔話を交わす程度の束の間の間柄―――おそらく何を話しても、総べては懐かしさという包み紙に包まれたまま翌日にはゴミ箱に直行するか、あるいは戸棚の片隅に置き忘れられるに違いない。水上はそう考えていたのだろう。

 堀田はといえば、少しだけ相手に対する思いが違っていた。同窓生という以外に水上と接点が無いことは同じだったが、自分とは別世界の秀才だということはしばしば耳にしていた。だから今や有名企業の社員として確固たる地位があり、優雅な生活を満喫しているのだろう、と羨望とも嫉妬ともつかない感情を抱いていた。

 そんな歪んだ劣等感と嫉妬心が、堀田につまらない邪気を抱かせた。本人にしてみればどうということもない、ささやかな変身願望に過ぎなかった。水上から受け取った名刺を財布に入れていた堀田は、ひとりで酒場に出かけた夜、出会った女にその名刺をちらつかせたのだ。たいした意味はなかった。ほんの小さな見栄だったかもしれないが、名刺を一見した女の反応が明らかにこれまでと違うことに驚いた。やはり、有名企業の社員というのは自分とは別世界の人間らしい。

 数日後。味を占めた堀田は、別の場所で居合わせた女に乞われて名刺を渡した。するとどうだ、それまで胡散臭そうにしていた態度を一変させ、進んで誘いに乗ってきたではないか。自分という人間ではなく、名刺の肩書きにそそられたらしい。そう思ったら、急に水上という男が憎らしくなった。幼稚な嫉妬だった。ついこの前までは、会社の名前など借りなくとも、自分の男としての魅力で女性に不自由することもないと自負していたが、現実はそうではなかった。あの時、あの女は名刺を見て、初めてそこに男が存在していたことに気付いたような態度だった。堀田のプライドは傷ついたが、女をものにするという目的の前ではさほど問題ではなかった。

しかし、目的を達して冷静になってみると、屈辱感が蘇った。しかも、ベッドの外では何ひとつ魅力のない女だった。これで多少なりとも感情を表したり、演技でも女らしさを見せたなら救いもあったが。

最初にアパートを訪れた時、女は失望したように言った。

「あの大崎電子の社員が、どうしてこんな安アパートに住んでるのよ?」

「ここは隠れ家みたいなものだ。本社に近いから、たまに使うだけだが、ホテルより自由が利くから借りてるのさ。普段の住まいは研究所の近くのマンションだが、ここからだと電車で四十分もかかる」

 水上から聞いていた話を適当に脚色し、見事に女を煙に巻いた。

「ふーん、そうなんだ。独り身じゃたいした家具も要らないし、安っぽい部屋でも関係ないか」

そのくせ、女はまるで同棲相手と暮らしている部屋のように我が物顔に振る舞い、その大雑把な性格そのままに散らかし放題だった。安普請の部屋に気を遣う必要もないと思ったのか、汚れた食器類も片付けることなく、ゴミもゴミ箱から溢れるままだった。

その様子にさすがの堀田も顔をしかめた。

『月に二、三回しか使っていないから、近くの現場で遅くなったら、使ってもいいよ』

 ほろ酔い気分の水上が言ったことを真に受け、ホテル代を浮かそうとしたことが間違いだった。

 教えられていた郵便受けの裏側の合鍵を取り出すのを女が憶えていて、事件の前日も勝手に上り込んでいたのだ。その日は郊外の現場だったので堀田がアパートを訪れることはなかったが、女からはメールがきていた。

『どこでお楽しみ? 明日は来る? でも、わたしはどこかで楽しんでるかも』

 気を引くつもりのようだが、無視して仕事を片付けた。

 ところが、一人で飲んでいる最中に突然思い出した。

(しまった。今日は金曜日。奴が出張から戻ってくる日じゃないか)

『本社に報告後、研究所の同期が慰労会をやってくれるらしい。あまり気は進まないけど、たまには付き合わないと。たぶん遅くなるのでアパートに帰るつもりだ』

だから、今週末だけは遠慮してくれと言われていたのだ。

妙な見栄が頭をもたげた。好きに使っていいと言われていても、女に部屋を散らかされたままにはできないと思った。そこには、相手から低く見られることへの畏れ、劣等感の裏返しの感情も内包していた。とにかく、本人が帰宅する前に女を追い出し、部屋を片付けなくては。堀田の頭にあったのは、何よりもその一点だった。

嫌な予感は的中した。鍵のかかっていないドアを開けるとテレビの音が溢れ、そこに女の下品な笑い声が重なった。部屋に入ると、テーブルの上にはビールの空き缶やスナック菓子の空き袋が散乱し、さながら学生の下宿のようだ。

 その様子を目の当たりにして、唾を吐きかけたい衝動に駆られた。初めから双方が遊びと納得ずくのことだったはずだ。堀田は女に不自由しているわけでもなく、たまには毛色の変わった女もいいかなと思って声をかけたことを悔やんだ。あの夜はどうかしていたのだ。寝物語の仕上げにお互いの身の上話をするうちに、近くまた一緒に飲もうということになった。

 まさかと思ったが、女の方から電話があった。あまり気乗りはしなかったが、取りあえず欲望を満たすには都合が良かった。幸い水上のアパートの部屋の鍵の在りかは知っている。ホテル代もかからないし、実害はない。

 堀田は気軽に考えていたが、女はそうではなかった。

「ここ、気に入ったわ。たまに遊びに来てもいいわよね?」

 その口振りには悪びれたところは微塵もなく、懇願の気持ちも皆無だった。

 正直に事実を話せば済むことだったかもしれない。だがこの期に及んで、つまらない見栄のために真実を話すことができなかった。

 結局、女はその後も二度ばかりアパートを訪れた。留守中に勝手に部屋に上がり込み、堀田の帰りを待っていたこともあった。選りに選って今夜も。

「あら、お帰り。遅いじゃない」

 すでにだいぶアルコールが入っていた。

「今夜はこれから友人がくる。悪いが帰ってくれ」

 一刻も早く部屋を出て行ってくれることが堀田の願いだった。だが、女の反応は予想外のものだった。

「そんなこと言って。出て行くのはあんたじゃないの?」

「なぜ俺が?」

「あたしが知らないとでも思ってるの? あんたは水上っていう人じゃない、ここもあんたの部屋じゃない」

「何言ってんだ。どうして俺がそんな・・・」

「なめるんじゃないよ。あたしがどれだけいろんな店で苦労してきたか知らないだろ? そりゃ中には惚れた男もいたけど、ほとんどはあんたみたいな屑だった。最初の夜は本気にしかけたけど指を見てすぐにわかった、研究室にこもっている人種じゃないって」

 堀田は思わず自分の指をじっくりと見た。

「だったらなぜ・・・?」

「退屈だったのよ。しばらくあんたの嘘に付き合ってあげただけ、それだけよ。あんた、いい気分だったでしょ? 感謝しなさいよ」

 女は空になったビールの缶を目の前で振りながら、勝ち誇ったように言い放った。

「とにかく出て行ってくれ」

 女のバッグを投げつけ、腕を掴んで引っ立てると、ドアに向けて突き飛ばすように背中を押した。

「ふん、出て行くもんか。嘘つきの見栄っ張り男のくせに」

 その瞬間、堀田の中で何かが弾けた。部屋の片付けが気になってやってきたことも、そもそも自分の部屋ではないこともすっかり消し飛んだ。

彼は女に襲いかかった。女はバッグを振り回し、さらに手近のものを手当たり次第に投げつけた。ひょいと避けた拍子に上着のポケットの硬いものが脇腹に触れた。無意識に手を入れると、仕事で使っている電工ナイフだった。今日は気が急いて、工具箱にしまい忘れていたのだ。女は一瞬顔をこわばらせたものの、挑むように男に掴みかかった。彼は反射的にその手を払った。女は完全に逆上していた。堀田は無意識にナイフの刃を引き出していた。女は一瞬恐怖の表情を見せたものの、夢中で腕を振り回しながら突進していった。堀田はそれを振り払おうとしたが、自分の手にナイフが握られていることを忘れていた。横に払った右手に握られていた電工ナイフが、掴みかかってきた女の腕を掠め、横一文字にその首筋を掻き切った。その瞬間、凄まじい勢いで鮮血が吹き出し、女はギャッという悲鳴とも嗚咽ともつかない声を上げて昏倒し、数秒間痙攣した後絶命した。

 事態は唐突に終焉を迎えた。震えが止まらなかった。所詮は弱い者に対してしか虚勢の張れない小心者だ。これまで多くの女性の心を傷つけ、暴力を振るったこともあったが、殺人となると次元が違う。

 頭の中にぽっかりと空洞ができて風が抜けるような感覚だった。思考という回路は絶たれ、その空間を客観的に眺めている自分がいた。そう、眺めているだけの、目だけが存在する自分―――。

 どれくらいそうしていたのだろう。ぼんやりと、次第に冷たくなっていく女の死体を眺めながら、ようやく肉体の感覚が戻ってきたのを感じた。やがて、脳細胞が一つずつ目を覚ますように働き始め、目の前の事態を何とかしなければと思った。

 まずは押入れから毛布を引っ張り出し、死体をくるんだ。女の肉体が毛布に覆われたことで、急に罪悪感が遠のいた気がした。勝手な言い草だとわかっていながら、死に顔をまともに見るのが躊躇われたのは事実だ。

 とにかくこの死体をどこかへ捨てなければ。どこへ運ぶ? どうやって? まずは車を調達しなくては。

『週末はフル回転ですよ。遅番者と交代の時、忘れるとまずいんで軽トラのキーはつけっぱなしです。以前、キーを家に持って帰ってしまって、店長にどやされたから』

 酒店のアルバイトがこぼしていたことを思い出した途端、次々とプランが浮かんだ。まずは身元がわかるものを処分しなくては。そう思ってバッグから現金と携帯、名刺やカードを抜き、バッグと靴をゴミ袋に押し込んだ。次は車だ。自身に言い聞かせ、部屋を飛び出した。ゴミ袋はアパートのごみ捨て場の奥に押し込んだ。

 酒店の駐車場の入り口にはチェーンが渡してあったが、支柱を地中に落とし込むタイプのもので、ロックもされていなかった。支柱を九十度回転させると、あっさり穴に収まった。チェーンの音が派手に響いて、思わず辺りを見回した。幸い人影はない。

 軽トラックは店舗脇と裏にそれぞれ停めてあった。脇の一台はロックされていたが、裏の一台は店員の話し通りキーが付けっぱなしだ。オーナーの杜撰さ、いや大らかさに感謝するしかない。だが、問題はこれからだ。アパートの部屋にとって返し、大仕事をしなくてはならない。行き先もほぼ決めてある。土地勘のある丹沢方面の山中に遺棄するつもりだ。明るくなる前に片付けてしまいたい。とにかく急ごう。

 頭の中では、これから数時間の行動がめまぐるしく反芻していた。冷静さを失うなと言い聞かせつつ、速度を出し過ぎないように注意しながら夜の街を走った。八百メートルほど先の信号を左折して、しばらく走ればあのアパートだ。そう思ったとき、後方から接近してきた車が不意に対向車線に躍り出て、猛スピードで横をすり抜けていった。交通量の少ない深夜とはいえ、無謀な運転だ。自分の犯した大きな罪を忘れ、ふとそう思った。次の瞬間、信じられない光景が目に飛び込んだ。追い越して行った車がはるか前方でUターンし、こちらに向かってきたのだ。それも対向車線ではなく、正面の走行車線を。

 いったい何がしたいんだ。対向車のライトは上向きで、明らかな意志を持って突進してきていた。強烈な恐怖が全身を貫いた。

(まさか・・・)

 眩い光芒が視界を覆い、無意識にステアリングを切っていた。直後に身体中の感覚と思考が激しい衝撃の波に飲み込まれて、一瞬の後には何もわからなくなった―――。

 気が付いたときには病院のベッドに寝ていた。頭に強烈な痛みがあり、事故が予想外にひどいものだったのだと思った。手足は僅かな打撲だけのようだったが、頭部には包帯が巻かれており、激しい痛みは途切れなかった。

「良かった、意識が戻って」年配の女性看護師が意味ありげな笑顔を向けた。「しばらく入院して頂きますからね」

 一週間ほどすると頭の痛みも和らぎ、普通の生活に戻ることができた。とはいっても、あくまでも病院内においてである。堀田にとって初めての入院生活だったが、次第に普通ではないと思い始めた。というのも、ベッドから起き上がれるようになると、毎日のように別棟の奇妙な部屋に連れて行かれてあれこれと〝作業〟をさせられるようになったからだ。担当の医者曰く、頭にダメージを受けた可能性があるのでそのリハビリだとのことだった。納得できなかったが、改めて自分の立場に思い至った。事故の衝撃で記憶が飛んでいたが、あの時強引に車を停めようと突っ込んできたのは覆面パトカーだったかもしれない。

(そうか。俺は逮捕されたのか。そういえば、看護師の他にいつももう一人が付き切りだ)

 そう理解したとたん、この入院生活が優雅なものに思えてきた。おそらく、拘置所での暮らしと比べたら天国と地獄の差だろう。ベッド付の個室なのだから。

根っからの楽天家である堀田は、それ以降すっかり入院生活を満喫しているようだった。同じように作業部屋に押し込まれる別の人物たちも自分と〝同類〟だと直感した。注意深く観察するまでもなく、彼らに付き添っているのが警官だと知れたからだ。

 日が経つにつれ、そんな仲間も一人、二人と姿を見なくなった。いつのまにか退院したのだろう。だが、何となく医者や他の連中の様子がおかしいことに気付いた。何かまずいことが起きたのか、どの顔にも険しさが漂っている。ただし自分の立場に変わりはない、所詮は〝籠の中〟なのだ。そうだ、余計なことは考えないに限る。堀田は総べての疑念を捨て去り、優雅な入院生活を満喫することにした。

 しばらくは、まるで幼稚園児のお遊びのようなテストが繰り返された。時には脳疾患の回復期に行うリハビリや体操までさせられた。それらにどのような意味があるのか考えもしなかったが、さすがに馬鹿馬鹿しさが募り始めた。

 そんな気持ちが通じたのか、ひと月ほど経った六月の下旬に突然通告された。

「ここでの検査は終了だ。明後日には別の施設に移ってもらう」

 堀田にとってはどうでもいいことだった。いずれ塀の中に入らなければならないのだと覚悟していたので、その日が来たのだと思った。

 当日は、警護の警官と看護師が同行してワゴン車に乗り込んだ。運転席とは小窓のついた金属板で隔離されていた。サイドの窓もバックドアのガラスにもスモークフィルムが貼られ、さらにカーテンが引かれていて外の風景を見ることはできなかった。

 二時間ほどのドライブの後に降ろされたのは、築二十年は経っていると思われる三階建ての建物の前だった。警官は無言のまま、堀田を三階のとある一室に連れていった。

「ここは?」

「しばらくここで過ごしてもらう。ただし、部屋からは出るな。当面の生活必需品は揃っているはずだ」

「刑務所行きじゃないのか?」

「慌てるな。そもそもお前はまだ起訴されていない。厳密に言えば、まだ逮捕もされていない。しかし、罪は確定している。いずれ迎えが来る。それまでおとなしくしていろ」

 どうしてこんな異例の扱いをされるのか見当もつかなかったが、居心地は良さそうだ。言われるままにのんびりしてやるさ。

「ただし、逃げようなんて考えないことだ。二十四時間体制で見張りがついている」

 言われるままにそこで一週間ほど寝起きした。何もない部屋で、いい加減うんざりしていた。そこに突然、数人の刑事が押し入ってきて有無を言わさず手錠を掛けられた。


 堀田の供述はざっとこのようなものだった。

 結局、ひと月余り過ごした病院がどこなのか堀田自身は答えることができなかった。凶器については取り調べた刑事から、アパートから百メートルほど離れた植え込みに遺棄されていた、と聞かされた。彼には記憶が無かったが、どうでもいいことだった。

 これは新宿東署の凶行犯係が聴取した内容だが、実は非公式に別の報告書が署長宛てに届いていた。それは公安部からのもので、その内容はあまりにも常道を外れたものだったが、重大な国家機密に関する案件であるとの一文で総べての追及は断ち切られることとなった。実際、命令系統を辿るのが憚られるほどの錚々たる幹部の捺印が並んでいた。

 その〝別の報告書〟に書かれていた事件の経緯というのは以下のようなものだった。


 あるプロジェクトに従って、公安部に命令が下されていた。それは長きにわたって引き継がれていたもので、ある時点では三人の観察対象者が存在していた。加藤昭次、丘本大輔、そして堀田善明である。彼らは同地域の同年代、そして素行不良という条件下で選ばれた。これはある別の研究とリンクしており、ランダムに選んだ全国各地で同様に実施され、成人後も十年ほどの間公安部の監視下に置かれることになった。

 あの日も堀田には影のように二人の男が張り付いていた。さらに別働隊が二班あった。

 馬鹿馬鹿しいほど気の長い話だが、実際、十年以上に亘って観察が続けられていた。その間、法律的に著しく悪質な行為はほとんどなかった。ただし、人としてどうかとなると首をかしげたくなることは多々あった。女に関してだらしないというかいい加減というか、とにかく相手の気持ちには頓着せず、己の欲望のままに生きてきた男だ。法律には触れないにしても、多くの女性たち、とりわけ純真な女性を不幸にしてきたことは非難されて当然だが、この日までは警察が介入する案件はなかった。

 二人の男たちは辛抱強くアパートの近くの路上の車両の中で部屋の様子を窺っていた。正確には、部屋に仕掛けた盗聴器で傍聴している音声に耳を傾けていた。

 彼らの任務は、対象となる人物を二十四時間体制で監視する事。その中で悪質な犯罪行為があった場合は即座に身柄を確保せよ、との厳命を受けていた。男たちは理由を尋ねることはしなかった。彼らは命じられたことを、国益のためという信念のもとに実行するだけだ。任務の遂行に際してはいかなる手段も厭わない。それが鉄則である。

 対象者は午後十時半過ぎにその部屋に入っていった。それを見届けてからおもむろに受信機のスイッチを入れたが、その時すでに部屋には先客がいた。というのも、彼がドアを開ける前に窓には明かりが点いていたからだ。

部屋に入ってから五分が経ったが、先客の女の声と微かにテレビの音がヘッドセットに流れてくるだけで特に変化はない。隣の部屋と階下の二部屋に明かりはなかった。

 ふいに男女の言い争う声が聞こえてきた。細部は聞き取れないが、女がより激しく相手に言葉を浴びせているようだ。そんなことが二、三分続き、その後短い女の悲鳴が響き、そして静かになった。

「何があった?」

 これまで互いに口を開くことのなかった二人の一方が、さすがに緊張した口吻で言った。

 十分後、部屋の明かりが消え、男が慌てた様子で飛び出してきた。待機車両を降りて、アパート近くで見張っていたふたりは躊躇した。しかしそれは一瞬のことで、彼らは直ちに状況を把握すべく行動した。

 ひとりは男の後を追い、もうひとりは部屋に急行した。

 慣れた様子で手袋を嵌め、鍵のかかったドアを専用の器具で解錠して中に滑り込み、懐中電灯の光でざっと部屋の中を観察した。毛布にくるまれた〝物体〟と床に落ちている血まみれのナイフを見て、状況はすぐに呑み込めた。とっさにナイフを回収し、併せてコンセント型の盗聴器を外してポケットに納めた。部屋をひと渡りライトの光で確認したのち、男はドアノブのボタンを押しこんでから静かに部屋を出た。車に戻ると本部に連絡し、善後策を講じるよう要請した。

次に犯人を追っていた仲間に連絡を入れ、部屋の状況を伝えた。

『―――了解した。これより確保する』

 別働隊と合流していた片割れは運転席の男に目で合図した。運転手の男は小さく頷くと、猛然とアクセルを踏み込んだ。

 この時、ゲームの最終ステージの幕が上がったのだ。彼らにとっては、今日までの日々はとてつもなく長い鬼ごっこのようなものだった。あるいは際限なく広いテーマパーク内での、終わりのないかくれんぼのような。

 二十分後、彼らの車のヘッドライトの先には酒店から盗まれた軽トラックが走行していた。鬼である彼らは、実際には相手を捕まえることは容易かった。しかし、計画の主旨のために、適切なタイミングを見計らっていた。

 対象者に必然的な罰を与え、己の人生を後悔させるため、彼には少々痛い目に遭ってもらわねばならない。合法的に手術台に横になってもらう必要があるのだ。そこには国家の治安維持に関わる画期的な計画遂行の為、という大義名分があった。とにかく、恐ろしく気の長い「臨床試験」の第一段階のゴーサインが出たのだ。今はまさに絶好の舞台設定といえた。

 男の運転は巧みだった。国産のありふれたミドルセダンだったが、その走りはスポーツカーのように感じられた。イヤホンからは別班から逐一報告が入っていた。男もまた小型のマイクに向かって自車の位置や周囲の状況を細かく伝えながら、小刻みにステアリングを操作している。

 やがて予定の場所に差し掛かった。ドライバーは躊躇することなく軽トラックを追い越し、そして十分な距離を取ってからスピンターンして軽トラックと正対して再びアクセルを踏んだ。素人相手のチキンレースを仕掛けたのだ。この時肝心なことは、自車をセンターラインに寄せ、相手に左側に逃げるスペースを与えることだ。

 結果は思惑通りだった。軽トラックは道路標識のポールに衝突して止まった。損傷は前部の破損だけで済んだようだが、相手の肉体的ダメージは予想よりも大きかった。しかし、それは任務遂行の妨げにはならない。予定通りの手順を進めるだけだった。

 セダンの助手席から一人の男が降り立ち、軽トラックを運転していた男の様子を窺った。その間、何台かの車が横を通過していったが、見慣れた交通事故の場面だと思ったらしく、速度は落としたものの停車することはなかった。

僅かに車の流れが途切れた時、運転席からもう一人の人物が降りてきた。二人は失神状態の運転手を急いでセダンまで運び、手際よく後部座席に横たわらせた。その直後、一方の男の携帯のバイブ音が車内に低く響いた。


 堀田と接触していた「二次対象者」の監視チームの目前で思いがけないアクシデントが発生した。徒歩で帰宅途中だった対象者が暴走してきた車に撥ねられたのだ。

轢き逃げしたその自動車のテールランプが小さな赤い点になったころ、歩道の植え込みの陰から別働隊の男が道路に横たわる人物に向かって走り寄った。血まみれで反応はないが、微かに胸が上下しているように見えた。それを確認した男は一瞬躊躇ったものの、携帯を取り出してある番号をコールした。

『どうした?』

「問題が起きた」

 状況を短く伝えると、後は無言で指示を聞いた。

「―――了解。救急に連絡する・・・三分後に」

 腕時計の文字盤を睨みながらそれだけ告げ、通話を終えた。


 想定外だった。別働隊の監視下にあった対象者が交通事故に遭うなんて。

その事故の被害者が水上だった。彼は以前からの対象者であった堀田と接触し、アパートの部屋を使わせていたということで、最近になって観察対象者に加えられたのだ。ただこの時点では、ふたりの接点であるアパートの惨状を知られてはならなかった。刑事部に堀田の存在を察知されることは避けたかった。十年越しで巡ってきた好機なのだ、これまでの労苦を無にするわけにはいかない。

仲間からの連絡を受けた彼らは、堀田の収容を済ませると前部の潰れた軽トラックを現場に急行させた。三分ほどで現場に到着した。数メートル後方についていたセダンからドライバーが降りてきて現場を一瞥した。その男は瞬時に思考を巡らせると、軽トラックの運転をしてきたドライバーに指示して、近くの立ち木に激突させた。ゴツンッという鈍い音が響いたが、周辺からは何の反応もなかった。

「救急には?」

「連絡済みだ。所持品も回収してある」

「よし。では撤収だ」

 三人の男たちはセダンに乗り込むと、静かに闇の中に走り去った。やや遅れて、屋根に複数のアンテナを立てた黒っぽいバンが後に続き、入れ替わるように救急車のサイレンが近づいてきた。

こうして二人の犯人、二人の被害者が存在したにもかかわらず、表面的には水上修と橋本美津江という二人の名前だけが浮上し、殺人犯と被害者になったのだ。


                 30


 腕時計を見やりながら一条は大きく息を吐いた。

 JALのボストン行きの直行便は定刻に成田を出発したようだ。

「彼は無事に日本を発ちました。あちらの施設で研究を続行してくれるはずです」

「だといいが」

 本郷は不信感を消せなかった。

「例の事件の真犯人が判明したことで、警察は冤罪疑惑で苦しい立場になりますが・・・?」

 同席していた是永が、不安げな面持ちで本郷の様子を窺った。

「警察にはきちんと謝罪させるつもりだ。先々、彼らにはさらなる痛みを甘受してもらわねばならない。その前説と理解してもらうよ。マスコミが騒ぐのも一時だ。犯人として報道されてしまった彼には申し訳ないが、近親者もないということで長く火種が残ることもあるまい」

「政治的なダメージは?」

「ほとんどないだろう。多額の研究費の拠出については、浪費していたのはあくまで大学だ。彼らが研究、あるいはその成果のためにどう資金を運用していたかは知る由もない」

「なるほど、確かにそうです」

「研究成果の捏造のために、不適切な実験やデータの改ざんがあったことが表面化したが、総べては大学側、それも特定の個人が行ったことだ。政府が直接関与したわけではない」

「しかし、チップの存在が公表されれば―――」

「誰がそれを実証できる? 開発の当事者である大学が、研究成果の捏造を認めてしまったんだ。つまり、チップ自体の信憑性が失われたということだ。そんな〝絵空事〟に誰が関心を持つというんだ? いつかの『STAP細胞』の二の舞だ」

「その通りです。ですが、それも取り越し苦労でしょう。お二人とも肝心なことをお忘れでは?」

「何を忘れていると?」

 本郷が不機嫌そうな顔のまま一条を睨みつけた。

「いったいどこに〈MLチップ〉の名前が出たというのですか? ニュースでも週刊誌でも、一切具体的な報道はされていないはずですが」

「そうか・・・そうだった。我々が治験の報告を受けていたので、てっきりチップの存在が公表されてしまったと早合点していた」

「その通りです。その為に指田の告発を遅らせたのです、工作の時間が必要だったので」

「しかし、だったら告発そのものを封印すれば良かったのでは?」

 是永は不満そうだった。

「いえ。残念ながら今回は想定外の要素が重なり、指田の告発を強硬手段で潰すことは危険だと判断しました。これは結果論ですが、データの一部は彼だけでなく柄本亜美という女性を介して石垣という雑誌記者にも渡っていたのです。そしてその亜美が、よりによって被験者のひとりである加藤昭次を殺害しました。この件は公共の病院の敷地内で発生したもので目撃者も複数おり、隠蔽は不可能でした。仲河の件は秘密裏に処理したものの、丘本は研究施設内で目撃され、死亡の事実も噂として広まってしまった。しかも、なぜか警視庁の刑事が首を突っ込んできて話を複雑にしたのです。そこへ指田の一件です。彼はある出版社に話を持ち込んだことがわかったので、私の方で対処しました。指田の決意は固く、強硬策は回避すべきと判断したので、時間の猶予を提案しました。その交換条件がボストンの施設での研究員の席でした。こうして時間を稼いで、その間に加藤の身柄を都内に戻したのですが、それがあのような結果になってしまい、残念です」

「結局、あなたの責任ということでは?」

 総理との距離が近いことが鼻についていた是永は、一条に苦言を呈する機会を待っていた。

「それは否定しません。ですが、危機管理は常に先手を打つことでしか成立しません。善後策のバリエーションをいくつ持っているかがカギなのです。ひとつの失敗を咎めて立ち止まっていれば、それは死を意味します」

「委員長の言うとおりだ。彼が告発を遅らせていなければ、事はさらに大きくなっていただろう。それこそ『国民総合管理構想』自体が瓦解したかもしれない。今回は最小限の傷で済んだというべきだ。ドミノ倒しの連鎖を止めるには、途中の駒を取り除くことだ」

「恐れ入ります。その時間稼ぎの間に残りの一人も山梨の施設から引き揚げたのです。あのままあそこに留めておくと厄介なことになりかねませんので。その後、敢えて治験のデータ改ざんと助成金の件をリークしました。これもまた結果論ですが、そこに加藤殺害というニュースが加わったことで焦点は完全にぼやけたと判断します」

「それにしても、加藤の件は絶妙なタイミングだった。まさか、それも・・・?」

「その辺は詮索しない方がよろしいかと」

 一条はルナの顔を一瞬思い浮かべたが、無表情で是永の追求を受け流した。

「しかし、助成金の件を持ち出す必要があったのか?」

 何とか相手にマイナス点を付けたくて、是永は食い下がった。

「実は野党側が与党議員の収賄の事実を掴んでいるとの情報があり、時間の問題だったのです。なので、それを利用することに。治験の件があまり表面化するのは歓迎できませんが、大学が矢面に立つ分には我々は〝被害者〟になれますからね」

「その通り。政府としてはあくまでも医学の進歩の為に資金援助をしたのだ。助成金の運用に関しては大学側の責任であり、我々の関知することではない。収賄も個人の問題だ。とはいえ、相変わらず足を引っ張る無能な輩がいるのは情けない限りだ」

 他でもない総理が一条側に付いている状況では、是永は矛を収めるしかなくなった。

「ところで正直なところ、システムは実用化できるのでしょうか?」

 死刑執行命令の重圧から逃れられると期待していた立場としては、婉曲に研究の継続の希望を伝えるしかなかった。

「ふむ。ここで躓いてしまったことで厳しい現実が待っているだろう。同様のシステムを他の国が先行して完成させるかもしれない。そうなったら、我が国はそれを莫大なパテント料を支払って輸入しなくてはならなくなる。結果、当初の主眼であった経費の削減は棚上げとなってしまう。そうならないためには、現状の駒で既成事実を作ってしまうしかない。すなわち『M計画』の序章だけに注力し、早々に導入してしまうことだ」

「しかし、それも難しくなったのではありませんか? 今回のことで総理の構想に疑念を抱き、追い落としを画策する古参や離党を企てている若手もいるようです。党の結束が弱まれば、今後の路線の舵取りは不透明になります」

「その点は理解している。だが、本気で将来を見据えるならば、これは是が非でも(法案を)通す必要がある。そのために私はどんなことをしても選挙では勝つつもりだよ。造反分子も、選挙で勝てなければ張子の虎だ。勝つためには足並みを揃えるしかない」

 本郷の言うことは尤もだった。自身の本音とは矛盾しているが、肝心なのは毎回の選挙に勝つことだ。何事にも数が物を言うこの世界では議席が総べてだ。政権を維持するためには、唾を吐きかけながらも握手するしかない。


 壁にかかった時計を見やりながら神林は小さく頷いた。

 彼もまた、ボストン行きの直行便の出発時刻を気に掛けていたひとりだった。

「指田先生、向こうで研究を続行してくれるといいのですが」

「あなたという人がよくわかりません。思いを遂げた後とはいえ、どうして他人のことを考えられるんですか? 私にはそんな余裕はありませんでした」

「余裕なんて、決してそんなものはありませんよ。本当に丘本のことは憎かった。それに間違いはない。ただ、世の中の他の凶悪犯に興味はありません。他人の憎しみの代行を買って出る気はないということです。そんな思い上がりはありませんよ。私に与えられた許可証(ライセンス)は限定的なものです、丘本大輔を抹殺すること―――それだけです」

「気持ちを切り替えて、研究者に戻ったということですか。なるほど、研究を守るためにお仲間を見事に利用したんですね」

「どういうことですか?」

 神林はとぼけたが、畑中には少しずつ見え始めていた。指田が内部告発に動くであろうことを、神林は察知していたのだ。そして、その際には必ず臨床実験のデータを持ち出すことも。だから柏木の杜撰なパスワード管理やセキュリティーの甘さも敢えて追求しなかった。指田が単独で宿直になるようスケジュールを調整したのも神林だった。亜美の件は想定外だったが、機密データの持ち出しという目的は達成された。 

「ある程度の想定はされていたんでしょうが、正直、どう考えているんですか?」

「〈MLチップ〉のことですか? 純粋に研究として続ける価値があると思っています。ですから、指田先生には是非とも新天地で研究を続けてもらいたいと思っています。ただし、政治に利用されるのは問題です」

「全国民が裁判員になるのは無理だと?」

「ええ。勝手な言い分ですが、自分で立ち会ってみてわかりました。ゲーム感覚でひとりの人間を抹殺することは危険です。相応の覚悟が必要でしょう」

「私も同感です。自分の欲求は満たしたくせに何をと揶揄されるでしょうが、システム化は現実的ではないと思います。少なくとも時期尚早と考えます。それはそうと、マスコミでは治験の具体的な内容には触れていませんが、これはどういうことなんでしょう?」

「やはり国からの圧力では? もしくは何らかの取引があったのかもしれません」

「まさか、指田先生は最初からそれを・・・?」

「わかりません。彼の告発が正義感から生じたものなのか、あるいは自分の思い通りに研究を進めたかったのか」

「でも、神林さんはそれを責めるつもりはないというんですね?」

「はい。おそらく畑中さんも同じ気持ちだと思いますが、犯罪抑止のツールという考えには素直に頷けないでしょう。初心通り、医療分野に特化した開発を進めるべきです。私たちがここまで来たのは、あくまで個人的な憎しみの昇華のためでした。使途を誤ったのは私個人の責任です。それは一生背負っていく覚悟です。ですが、開発者たちには自分たちの志は正しいと胸を張ってほしいと願っています」

 畑中も同じ気持ちを抱いていた。

「確かに政治家たちの思惑はどうでもいいことです。我々は理論通り〈MLチップ〉で脳の機能にアクセスできるということを証明したに過ぎません。ただ、同時に大きな危惧を抱いたのも事実です。今回は敢えて人為的に〝断罪〟のスイッチを入れましたが、インフラを含めたシステムが完成すれば、神林さんの予想通り自動的にそれが可能になります。ピックアップした〝情報〟はいかようにも利用でき、かつ個人にフィードバックができるからです。一方で情報の中には被害者感情すら含まれ、量刑に反映されて、将来的には我々のような煩悶を抱かずに済むかもしれません。ですが、技術者が運用について想像しても仕方がない。結論として、我々は当初の信念に則って物作りをするしかありません」

「私も医者として研究の価値は認めています。当初の発想通り、身体的ハンデを機械で補うことができるかもしれません。脳から出された命令を身体機能補助装置に送り、四肢の運動をコントロールするといったことが可能になるはずです」

「そこにAIを介在させるというわけですね。人体と機械との融合、いかにも未来的な絵です」

「その方面にこそAIを活かすべきです。そうしたことで健康寿命を延ばすことが幸せかどうかはわかりませんが、時代は、テクノロジーはそうした方向へ向かっていくでしょう。人の思考や感情がそれに追い着くかは疑問ですが」

「それでも科学者、技術者は進むしかありません。新しいものを造り出せなければ、次のステップを考えることもできませんから」

 二人の表情は、それぞれ紛れもない医師と技術者のものだった。


 昨日との切れ目のないどんよりとした朝だった。

 疲れ切った顔つきと、それを鏡のように映した皺だらけの上着。申し訳程度に剃刀を当てた顎の先には剃り残しの無精髭が斑模様を描いている―――仕事ぶりとは似つかわしくない、田所のいつもの姿がそこにはあった。

「おはようございます。それにしても、いつもながら酷い格好ですね」

 森田が冗談まじりに挨拶した。

「格好でホシが挙がるなら、いくらでもパリッとするさ。そうでなけりゃ黙ってろ」

 これまた悪態で応戦した。もちろん肚はない。昨日の上層部からの通達がどうにも納得がいかなくて、つい悪酒をしてしまったのだ。そんな自分が情けなかった。

 同僚たちも同じ気持ちなのだろうが、何事もなかったように仕事に掛かっていた。

 この仕事は何年続けていても心が晴れることがない。一つの事件が解決しても、また新たな事件に臨まなくてはならない。その度に被害者は替り、新たな痛みや悲しみが生まれるのだ。捜査員の多くはそのことを肝に銘じて日夜働いているが、ときにはぽっかりと胸に開いた穴に自らが呑み込まれてしまいそうになる。

 自戒と決意の際限ない繰返しである―――その轍(てつ)を守るべく、田所は机の上の電話に手を伸ばした。相手に意向を伝えると、冴えない表情のまま部屋を出た。

 その足で監察医務院を訪れ、解剖室の前で目を閉じたままじっと待ち続けた。

 そうして三十分後。ようやく扉が開き、木下が出てきた。

「ああ先生、お疲れのところ申し訳ない。ひとつ確認なんだが・・・」

「どうしたんです?」

 額に汗を浮かべながら、木下は怪訝そうに言った。

「加藤の遺体だが、何か不審な点は?」

「いや特に。検案書の通りだよ。問題でも?」

 木下の表情が一瞬曇った。自分の検案に疑問を持たれることは心外だった。

「とんでもない。検案書については何も言うことはありません。お聞きしたいのは、それ以外の身体的異常についてです」

「脳梗塞の病歴があり、手術痕があった。これは東都医大のカルテでも確認している。しかし、警察官の目の前での犯行だったんだろ? 私は監察医として直接の死因の特定をしただけだ。いったい何が言いたい・・・まさか―――」

「ええ、そのまさかってやつで」

「すまん。解剖待ちの行列が続いているので、そこまでは調べなかった」

「当然ですよ。先生が謝ることじゃありません。ただ、また先生が奇妙だと感じたことでも見つかれば調書の内容も変わってくると思っただけで―――」

 田所はさしたる失望の色も見せず、木下に頭を下げて背中を向けた。

(今さら何が出たって何も変わらない。調書に何を書き加えるっていうんだ?)

 すっかり慣れっこになった徒労感を払い落としながら出口に向かった。

「まだ間に合うよ、田所さん」

 木下のやや上ずった声が、田所の襟首を背後から掴んだ。

「どういうことです?」

「遺体はまだ冷蔵室に収まっている。正式に解剖する時間も権限もないが、レントゲンなら撮れる。CTというわけにはいかないが〝異物〟の有無の確認くらいはできるだろう」

「ありがたい。先生、恩にきますよ」

 結果、頭部のレントゲン写真には小さな楕円形の影がくっきりと映っていた。

「こいつはいったい・・・?」

「やはり彼女の供述は真実だったようだ・・・」

「えっ?」

「いや、こっちの話です。時間を取らせて申し訳ありませんでした」

 改めて木下に礼を言って、監察医務院をあとにした。

「田所さん・・・」

 〝異物〟の存在は木下自身も気になったが、田所があっさりと引き上げたことが意外だった。しかし、木下は解剖待ちの行列を減らすべく踵を返し、解剖室のドアを押し開けた。

 問題の〝異物〟を摘出してもらいところだが、順番待ちの遺体が列を成している現状では無理な話だった。まして正式な解剖についてはすでに検案書が提出されている。死因は確定し、刺創から凶器の形状に至るまで鑑定が済んでいるのだ。その結果に基づいて起訴状も作成される。そんな状況では、死因に無関係の部位のレントゲンを撮っただけでも問題になる可能性がある。自身が責任を問われることは気にはしていないが、木下を巻き込むことはできない。信頼できる監察医を失うリスクを冒すわけにはいかなかった。

 残る駒は堀田だが、奴の頭部CT撮影の令状は取れそうにない。手詰まりだ。

(柄本亜美の狙いは何だったんだ? 俺を、警察を動かすためか?)

 だが、残念ながら根っこは変わらない。亜美の供述が真実だとしても、臨床試験の内容が怪しげなものだとしても、証明する術はない。いくつものピースを手にしながらも、欠けたピースが手に入らない以上は絵が完成することはない。全体像を頭の中に描くことができたとしても、それは作品にならない想像の産物でしかないのだ。

 これで何度目になるのだろうと田所は深く嘆息した。それでも、ある人物にだけは掻き集めたピースを見せようと思った。部分的に欠けてはいても、自分と同じ完成形を描いてもらえるのではないかと期待してのことだ。それがせめてもの彼の矜持だった。


              エピローグ


 特別病棟の一室で、留美と祖父母がうな垂れていた。

 つい一時間ほど前、滝口が息を引き取ったと報せがあった。唯一の近親者であるひとり息子には連絡がつかなかったという。

「滝口さんに頼まれていたの。自分が死んだら、留美ちゃんに感謝していると伝えてほしいと。それからお姉さんを信じなさい、とも」

 担当の看護師が控えめに声をかけた。

「そんな・・・わたしは何もできなかった。滝口さんにはいつも励まされて・・・わたしこそお礼が言いたかった・・・」

「滝口さん、最期は穏やかでしたよ。治験に参加することで、生きている意義を感じられていたようです。おかげで、宣告よりも・・・二ヶ月ほど頑張られました」

 担当医が厳粛な表情のまま告げた。祖父母は黙って頭を下げた。

「またひとりいなくなっちゃった―――」

 留美は泣くことも忘れて虚脱状態だった。無理もない。父母の件に加えて、頼りだった姉までがあんな事件を起こしてしまったのだから。姉の犯した罪は世間的には糾弾され、留美の生活にも影響が及ぶ可能性があった。しかし、留美自身は少しだけホッとしていた。滝口の危惧は当たっていた。姉が行動を起こさなければ、自分が同じことをしたかもしれなかった。何より、加藤が死んだことで胸底の黒い雲が消え去った気がしていた。世間の中傷よりも、そちらの安堵感の方が遥かに大きかった。それに、彼女の周囲で一家の事情を知らない人間はいなかったので、加藤の死は因果応報だと一様に姉妹に同情的だった。

 滝口の亡骸に最期の別れを告げ、三人はお互いに支え合うようにして家路についた。

 居間で祖母とともに悄然と座り込んだ留美の前に、祖父が茶色の封筒を差し出した。

「お姉さんから預かっていたんだ。自分に〝何か〟があったら妹に渡して欲しいと」

「姉さんから?」

 封筒を奪うようにして封を切り、中身を引っ張り出した。

 中には留美に宛てた手紙と祖父母宛ての手紙、そして留美名義の預金通帳と印鑑が入っていた。

 手紙には犯行に至る経緯も簡潔に書かれていたが、ほとんどは留美に対する謝罪と、妹を思う気持ちで溢れていた。祖父母にはもちろん感謝と、成人までの留美の養育を懇願する主旨の言葉が綴られていた。同封されていた通帳は父の清二が、留美が小学校に入学した際に作ったものだった。毎月の額は決して多くはなかったが、清二が亡くなる直前まで欠かさず積み立てられていた。驚いたのは、一旦途切れた入金が翌月から再開されていることだった。しかも、残高は一千万円を超えていた。

 手紙の最後にはこう書かれていた。

『―――留美、傍にいてあげられなくてごめんね。十分ではないかもしれないけど、このお金はあなたが希望の大学に行くために遣ってください。それがお父さんの願いだったから。おじいちゃん、おばあちゃんを大切に。母さんのこと見守っててね  亜美』

「姉さん・・・わたしのためにこんなに無理してたなんて・・・知らなかった。ごめんなさい、ほんとにごめんなさい」

 通帳の金額の意味する事は高校生の彼女にもわかった。姉が話してくれた、単なる夜のアルバイトで稼げる額ではないということが。しかも、姉はこの間に少なからず残っていた父の借金も完済していたのだ。

 留美は手紙を抱きしめて泣き崩れた。その肩に祖父がそっと手を置いた。

「今日は好きなだけ泣くといい」

   

「部長。奴らに手柄をくれてやって良かったんでしょうか?」

前日まで警察内部の確執は相変わらずだったが、予定調和の範疇で刑事部、公安部双方が相手の非を糾弾することで溜飲を下げていた。

 公安部は申し送り事項を忠実に守り、指定された〝対象者〟の監視を続けていた。それは実に十年に及ぶ、長く単調な仕事だった。その間にある者は他人を欺き、ある者は傷つけ、そしてある者は人命を奪った。

 何人かは逮捕され、現行法によって刑が確定していた。だが、一部の者は巧みに法を掻い潜り、あるいは幸運にも発覚せずに済んだ。それらをつぶさに見てきた公安の連中だが、彼らの任務はあくまで監視であり、身柄の確保は上司の指示があった場合に限られていた。しかも、刑事部の追及が及ぶ前にという付帯条件があった。凶悪事件の多くは刑事部の捜査員たちの努力によって早晩解決され、公安部としては歯痒さを押し殺すこともあった。彼らの任務と目的は刑事部のそれとは必ずしも符合しないのだ。

 そんな公安部にとって、堀田の件はまさに十年越しの好機だった。プロジェクトの基礎技術の確立、対象者の重大犯罪行為、その後の行動が刑事部に先んじた事―――総べての条件が揃ったのだ。公安の実働部隊は昂揚し、任務遂行に全力を注いだ。結果として堀田の身柄を刑事部に気取られることなく確保し、しかるべき処置を施すことに成功した。今後の革新のための第一段階がスタートしたのである。だがその代償として、水上修という一市民が殺人犯の汚名を着せられ、柄本亜美に殺人を犯させることになってしまったのだ。

「やむを得ん。計画通り総べてが秘密裏に片が付いていれば何の問題もなかったが、想定外の事象が重なった。さらに、一部の政治屋さんがミソを付けてしまった。そうなると我々のもとにも火の粉が及びかねない。そこに冤罪やら人権問題やらが絡んでくるとさらに面倒なことになる。そうした追求が内閣府や警察組織全体に及ぶ前に〝真犯人〟を差し出した方が得策と判断しただけだ。凶器という決定的な証拠品をこちらが押さえておいたのは賢明だった」

「なるほど。刑事部としては回り道をしたことになっても、冤罪よりはましということか。水上の家族はもう誰もいないし、マスコミの追及も尻すぼみにならざるを得ない、と」

「彼ら刑事部としても、凶器の出所を明かすわけにはいくまい。現場近くの植え込みに凶器が落ちていたなんて、初動捜査で見落としたことを認めることになるからな。最小限の痛みでこの難局を乗り切るためには、総べてを呑み込むしかないだろう」 

     

「課長?」

 田所は問い詰めるような眼を向けた。

「おまえに言われなくてもわかってる。さすがにやり過ぎだとは思うが、傷口を広げないためには致し方ない」

対立することがあっても現場を知る課長の胸の内を思うと、板挟みの苦悩は田所にも理解できた。だからといって、公安の横暴が容認できるというわけでもなかったが。

「まあ、本ボシが判明し、きな臭い話も立ち消えになったようですから、我々もひとまず矛を収めるしかないですな」

署長室で署長以下数名の幹部連中が渋面を突き合わせて公安のやり方をひとしきり非難した後、刑事部長が幕引きを宣言した。

それが昨日のことだった。確かに警察内部の権力闘争、縄張り意識といった低い次元の構図そのままだ。しかし、今回はその裏にさらなる暗部が存在することをお互いが知っていた。但し、それは決して公にはできないことだった。公安部に対する憤懣についても沈黙するしかなかったのだ。

そんな不透明な空気は部下にも拡がっていた。

「本当にこれで良かったんでしょうか?」

 森田も納得がいかない様子だ。

「本当も何も、総べては事実だしな。だからこそ水上の濡れ衣も晴れたわけだ」

「本気で言ってるんですか?」

 森田の目は真剣だった。上司が真実に目を瞑ったことに激しい憤りを感じていた。他の人間ならともかく、日和見主義とは無縁と思っていた田所の言葉とは信じられなかった。

「おまえの気持ちはわかる。俺も殺しの実行犯なら有無は言わせない。しかし奴らがしたことは、おそらく事故状況の差し替えに過ぎなかったのだ。轢き逃げされた被害者と逃亡中の殺人犯では百八十度立場が違うが、奴らが殺したわけではない。時間差があったとはいえ、救急車も要請している。石垣の拉致未遂の件も、奴らにとっての公務執行を妨害されないための措置だったのだろう。弁護するつもりは毛頭ないが、いくらでも口実は付けられる。初動捜査で躓いたのは我々だ。上は知らされていたかもしれんが、いずれにしても警察内部では何も変わらん。水上の関係者にしても、冤罪が回避されたこと以上に望むことはないだろう。いや、あるかもしれないが、失われた命に値するものではないだろう」

 その表情には苦渋が滲んでいた。無責任に幕引きを歓迎しているわけではなかった。ただ、物言えぬ死者としては、何よりも殺人犯という汚名を雪ぐことが肝要なのだ。それさえできれば、後は心ある人々によってしかるべき評価が与えられるだろう。

「それに、あのお人好しのライターにしても、自分が今回どれほどの役割、立場にいたかを本当の意味で理解していないだろう。一歩間違えば彼もどうなっていたか。だが、敢えてそんな裏話を知らせる必要もない。彼には総べてがうまく収まったと思わせておきたい」

 上司の苦労人らしい思いに、森田はもう何も言うまいと決めた。

 そんな捜査員たちの気持ちが天に通じたのか、気味が悪いほど平穏な一日だった。規定の時間は過ぎていたが、森田は汗をかきながら報告書を仕上げている最中だった。その目の前に田所が湯呑を差し出した。

「晴れ晴れとは程遠いが、俺たちの仕事は無駄じゃないさ。きっちりと約束を守る真面目な警察官もいるしな」

 その手には〈大冠〉の大吟醸があった。

「主任。ここではまずいですよ」

「罰当りなことを言うな。これが〝不味い〟なんて」

 田所は片目を瞑った。

 

 新聞の紙面では、水上さん犯人説は誤報だったとの記事が載り、警察発表でも「事実誤認」であったと、非を認めた。しかし、水上に家族が残っていないことで被害を訴える人物もなく、一ヶ月以上経過していることで事件自体が現実感を失いつつあった。また事件発生当時、水上を犯人とする報道をした経緯もあり、各マスコミは敢えて大きく取り上げることはなかった。そんな中、〈現代の目〉という大衆誌だけが数ページを割いて、事件の詳細をレポートしていた。ただし、それは堀田が真犯人だった事実と犯行の経緯についてであり、背後にあった複雑な警察内部の駆け引きや空白の一ヶ月についての詳細は明かされなかった。まして、治験との関連については一切触れられてはいなかった。

亜美が現行犯逮捕された翌日、石垣のもとに一通のメール便が届いた。差出人は「ルナ」となっていた。中にはUSBメモリーが入っていて、先日彼女に見せられた治験者のリストの他に、臨床試験の概要の一部が納められていた。犯行を決意した亜美が、石垣に恩返しのつもりでデータを託したのだろう。その内容は素人目にも驚愕すべきものだったが、証明する術はなかった。それでも公表すればスクープとなり、世論を扇動することはできたかもしれない。しかし、編集長からゴーサインは出なかった。どうやら何らかの圧力があったらしい。その代り、水上の冤罪事件についての記事にページを割いてくれると確約をもらった。石垣にとってそれは願ってもないことだったので、スクープには目を瞑った。

残念ながら、マスコミに真実の全貌は伝えられなかったし、警察も政府も公にする意思はなかった。それどころか、当初は記事にすることさえ認めないという姿勢だった。そんな圧力が大手を振ってまかり通るご時世ではないにしても、各社はそれほどのリスクを冒してまで紙面・誌面を割く内容ではないと判断し、報道はしましたという既成事実の為の内容に終始した。唯一〈現代の目〉だけが、水上の名誉回復を前面に打ち出し、警察側と双方で最大限の譲歩をすることで何とか記事にすることができたのだ。その記事には石垣の署名があった。

本人は知る由もなかったが、編集長が警察関係者や他社の政治記者のコネを使って交渉し、治験の詳細に触れない代わりに、水上が犯人だとする発表が誤認であったことを公式に認めて取り下げるよう迫ったということだった。その際、例のUSBメモリーが少なからず影響力を発揮したことは言うまでもない。

「終わったわね」

 特集記事の誌面を感慨深げに眺めながら陽子が言った。

「ああ、ようやくな」

 少しだけ晴れやかな表情で石垣が応じた。

「ケンタには感謝してる。水上君の名誉を守ってくれてありがとう」

「よせよ。彼はもともと無実だったんだ。当然のことさ」

「でも、知らない人は水上君の名前を殺人犯として記憶してしまうところだった。それはひどすぎる、あってはならないことだわ」

「もちろんさ。俺たちマスコミに多少なりとも関わっている身としては、決して見過ごしてはいけないことだ」

「ケンタはそれをりっぱに証明したのよ」

「そんな偉そうなものじゃないさ。好奇心に駆られて暴走しただけだ、それも空回りばかり。でもルナさん、いや亜美さんが証拠となるデータの一部を託してくれた。それ自体は公表できなかったけど、交換条件の一手にはできたから許してもらえると思う」

「やっぱり美人のことが気になる?」

「そんなんじゃないよ。ただ、罪を償ったら、今度は妹さんたちと一緒に暮らせればいいなと思うよ。だけど結果的には最も根深い部分は闇の中のままだし、一部の政治家が関わっていた疑いもうやむやというのは、やはり釈然としないな」

「でも、それはわたしたちにはどうすることもできない事よ。無責任ということではなく、しかるべき人たちが考えることだわ。それに、一時的にせよ臨床試験は中断したみたいだし、ケンタは少なくとも身近な友人を汚辱から救った。それこそが大事なことよ」

「そうだといいけど。でもそれにしたって、もとはといえば陽子に背中を押されたからだし、終始彼の無実を信じていたのは陽子だった」

「関わりのあった同級生が殺人犯だなんてやりきれないもの。とにかくわたしたちにできることはやったのよ。冤罪を回避できた、それで十分。それにしても怖いわ、身体の中にマイクロチップを埋め込むなんて。まるでSF小説の話よね」

「たしかにぞっとするよな。でも、近い将来現実になるかもしれない。法治国家という名の下に法こそが総べて、しかもその管理をAIが担うなんていう時代が来るかもしれない」

「まさか・・・でも、自信を持って否定できないわ。時代が変わり人が変っていく中で、社会にとって何が必要で何が正しいかなんて安易に決められない」

 そう語る彼女はすっかり編集者の顔だ。

「そうだな。ひとりひとりが真剣に、この国のことを考えなければいけないんだ。いや、そんな大げさなことではなく、自分の家族や大切な人のことを思う気持ちが大事ってことだな」

 石垣は悦に入って、自分の言葉に頷いた。

「今日はずいぶん真面目ね」

「俺だっていつもいい加減なわけじゃないさ」

「そう。だったらこれも真面目に考えなさいよ」

 リビングのチェストの抽斗を開けて二つ折りにした紙片を取り出すと、陽子はその用紙を石垣の鼻先に突き付けた。水上の事件を知った時、願掛けのつもりで役所に出向いたのだ、一枚の書類を手に入れるために。

「お、おい、これは・・・」

 石垣はしどろもどろになって、吹き出した汗を慌てて拭った。目の前にあったのは婚姻届だった。

「どうなの? 気持ちが大切なんでしょ?」

 陽子は悪戯っ子のような笑顔で、石垣の慌てふためく様を眺めていた。


                     (了)                                              


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