第七章
手術を受けると決めてからは、あっという間に時間が過ぎていった。術前の検査や説明、同意書など、しなくてはいけないことがたくさんあった。
「お疲れさま」
その合間合間に、凪人は病室まで顔を見に来てくれていた。
「頭は? 痛くない?」
学校帰りに病室に顔を出しては、他愛のない話をして帰る。
今日もベッド横の椅子に座ると、詩月の顔色を見るように覗き込む。心配されていることが今ではどこかくすぐったい。以前までは、頭痛に悩んでいることに気付かれたくなくて頑なな態度を取っていたけれど、こうやって知られてしまえばそれはそれで気が楽だった。
「薬、効いてるから大丈夫」
詩月の答えに、凪人は安心したように息を吐いた。
「そっか、ならよかった。あ、クラスの連中から色々預かってきた」
凪人は大きな手提げ袋をベッドの上に持ち上げると、中身をひっくり返した。
「わ、何これ」
「そろそろ恋しくなってる頃じゃないかって」
ベッドの上には、購買で売っている限定パンにジュース、それから詩月が読んでいた漫画の続き、スライド式のパズルにルービックキューブ、あと申し訳程度に授業でやったであろうプリントが広げられた。
「普通に病院でご飯もおやつも出るからパンはちょっと」
「賞味期限、明日までだから頑張ってね」
「無理だって! それからパズルは二日前に持ってきてくれた知恵の輪がまだクリアできないままそこにあるんだけど」
テレビボードの上には、知恵の輪だけでなく病室では暇だろうとけん玉やミニゲーム機まで所狭しと飾られていた。これ以上はさすがに置く場所がない。
「まあそう言わないで。みんな詩月のために何かしたくて仕方ないんだよ」
「……うん、わかってる」
詩月が入院する、と担任から聞いた教室ではちょっとした騒ぎが起きたと話してくれたのはその日に見舞いに来た凪人だった。本当の病名を告げるわけにはいかないので『盲腸の手術』ということにしたはずなのに、放っておけば千羽鶴と寄せ書きまで作り始めそうな勢いだったそうだ。
「愛されてるねえ」
「普段私が休まないから、物珍しいだけだよ」
「そんなことないよ。詩月はみんなから好かれてる。俺が保証する」
真っ直ぐに言葉を届ける凪人に、少し照れくささは感じつつも「ありがとう」と素直に頷いた。
「――いよいよ、明日だね」
「うん」
まさかこんなに早く手術することになるとは思わなかった。それほどまでに悪いのかと不安に思う気持ちもあるけれど。
「頑張ってくる」
「まあ頑張るのは広瀬先生だけどね」
「呼んだかい?」
いつの間に来ていたのか、開けっぱなされたドアの枠にもたれかかるようにして立つ広瀬の姿があった。
「女子の部屋なんだから、ノックぐらいした方がいいと思いますけど」
「したけど話に夢中で気付いてもらえなかったからね」
そう言うと、広瀬は凪人が座っているのとは反対側のベッド横に立った。
「具合はどうかな」
「大丈夫です」
「検査とか色々あったけど疲れは出てない?」
「少しだけ。でも、わりと元気です」
広瀬は安心するように頷くと、何気なく凪人の方へと視線を向けた。
「君は?」
「俺、ですか?」
「そう。インフルエンザとかそろそろ流行ってくるからね。詩月ちゃんに余計な病気を持ってきちゃ駄目だよ」
一瞬、どうして凪人に? と不思議に思ったけれど、続く広瀬の言葉に納得した。
「大丈夫ですよ。熱もないし頭も痛くない。あと、ちゃんと寝てますし」
「ならよかった」
ふっと微笑む広瀬に、詩月は思わず笑ってしまう。
「先生、私と凪人どっちの主治医なのかわからないじゃないですか」
「えっ」
「え?」
驚いたように広瀬が言うから、詩月の方が困ってしまう。
「冗談、ですよ?」
「あ、そ、そうだね。わかってるよ」
苦笑いを浮かべる広瀬に、凪人がわざとらしくため息を吐いた。
「詩月、駄目だぞ。いくら広瀬先生が医者らしく見えないからって、そんな『私の主治医には見えないですね』なんてこと言ったら失礼だろ?」
「ち、ちが! そういうつもりじゃなくて!」
「あ、そういうことだったんだね……」
「だから違いますって! もう! 凪人のせいで、広瀬先生に勘違いされちゃったじゃん」
慌てて詩月が否定するけれど、広瀬は「はぁ僕なんて……」と背中に哀愁を背負って病室をあとにしようとする。
「まっ、先生! 何か用があって来たんじゃあ」
「ああ、明日が手術だから今日は大人しくしておいてねって言いに来ただけなんだ。ああ、凪人くんも今日は早く帰るんだよ、詩月ちゃんに無理させないようにね」
「わかってます」
「あ、先生!」
詩月は病室を出ようとする広瀬を呼び止めた。
「明日、よろしくお願いします」
「……こちらこそ、よろしくお願いします。最善を尽くします」
そう言って頭を下げる広瀬の胸元はもう光っていなかった。
広瀬が病室を出るのを見送ると、詩月と凪人は顔を見合わせた。
「広瀬先生、めっちゃショック受けてたじゃん」
「凪人のせいでしょ!」
「俺? なんで? 詩月が変なこと言うから」
「えー、私のせいなの?」
詩月の言葉に凪人は笑う。そんな姿を見て、胸の奥が熱くなる。こんなふうに笑い合う日々を、これから先も過ごしていきたい。手術のあとも、こうやって凪人と二人一緒にいたい。
「……私、大丈夫、だよね」
思わず本音が口をついて出る。不安そうな表情を浮かべる詩月に気付いたのか、凪人はそっと手を握りしめた。
「きっと広瀬先生がなんとかしてくれる。安心して任せよう」
「うん……。ねえ、凪人」
「どうした?」
「……目覚めたとき、そばにいてね」
詩月の言葉に、凪人はふっと優しく微笑んだ。
「約束しただろ。詩月が目覚めたとき、そばにいる。絶対に」
「うん」
いつもの笑顔で、いつも通り光らない胸もとの凪人が言う。大丈夫、きっと大丈夫。
自分自身に言い聞かせるように、何度も何度も呟いた。
翌日、手術は午後十三時時から行われることになっていた。けれど。
「なんでいるの」
病室には、両親、そして学校にいるはずの凪人の姿があった。なんなら凪人は両親よりも早く、面会開始時間の十時には詩月の病室にいた。
「なんでって、そりゃ詩月の手術だから」
「学校は?」
「詩月が手術してるのに、勉強なんてできると思う? 逆だったら詩月はできるの?」
「できる」
即答する詩月に、凪人はわざとらしくベッドに突っ伏した。
「酷い! でも、言ったな! 逆のときはちゃんと授業を受けろよ」
「当たり前でしょ。授業を受けて、なんなら放課後にクレープまで食べに行っちゃうんだから」
「……そっか」
詩月の言葉に、凪人は寂しそうに呟く。言い過ぎただろうか、と心配になってしまう。
「冗談、だからね?」
恐る恐る言う詩月に凪人は笑う。
「それぐらいの方がいいよ。俺に何かあって、隣で詩月が辛そうな顔してるより、どっかで楽しいことしてくれてる方がずっといい」
「凪人……?」
「なんてね。ってか、風邪引いたときに俺んち来たりなんかしたら、ちゃっかり移って帰りそうだし」
「ちゃっかりってどういうこと?」
笑っているはずなのに、胸の奥がざわつくのはどうしてだろう。
しばらくそのまま過ごしていると、広瀬が病室にやってくる。
「じゃあ、申し訳ないけど」
広瀬に退室を促され、凪人は頷く。
「凪人!」
思わず呼び止めた詩月に、凪人は優しく微笑んだ。
「目覚めたとき、絶対そばにいるから安心して」
そう言うと、病室をあとにした。
凪人のいなくなった病室で、もう一度広瀬は今日の手術の流れを説明する。六時間ほどかかる予定だが、もしかしたらもう少し長くなることもあるとのことだった。
「術後は集中治療室に入っていただきます。そのため、こちらの部屋に帰ってくるのは早くて明日以降となる予定です」
広瀬の説明に、詩月は声を上げる。
「集中治療室って、家族以外は……」
「原則的には入室して頂けません。ですが――」
「凪人くんの入室を、私たちが許可すれば入れるんですよね」
広瀬の言葉を遮ったのは、詩月の母親の声だった。
「お母さん……?」
「説明の時にね、集中治療室への入室の件を聞いていたの。……詩月が、目覚めたときに凪人くんにそばにいて欲しいって言ってたって聞いて」
「聞いてたって、誰から」
「凪人くんから。詩月が望むことだから叶えたいんだって。家族以外の自分が入らせてもらうなんて図々しいことはわかってるけれど、どうしてもって。……詩月、あなた凄く大切に想われているのね」
知らなかった。そんなふうに凪人が頼んでくれていたなんて。そんなにも想ってくれていたなんて。
「まさか」
ふと思い当たって、詩月は広瀬を見る。詩月の視線に、広瀬は微笑みながら頷いた。
「僕のところにも来たよ。どうしても目覚めたときにそばにいたいんだけどどうしたらいいのかって」
「そんなの……」
「知らなかった? でもきっと知られるつもりなんてなかったと思うよ。彼の中ではきっと特別なことでも何でもなくて。詩月ちゃん、ただ君の願いを叶えたいってそう思っただけだから」
気付けば頬を涙が伝い落ちる。拭っても拭っても溢れてくる涙に、嗚咽が混じる。
「詩月ちゃん、僕たちも手術を成功させるよう全力で頑張る。だから君も、生きたいって思って欲しい、患者さんの生きたいと思う力は何よりの特効薬だから」
「は……い……」
詩月は涙でグチャグチャの顔で何度も何度も頷いた。
必ず目覚めて、凪人と一緒にいる未来を作ろう。二人で笑い合って、喧嘩して、仲直りして、当たり前の日常を当たり前に過ごすために。
――眩しい光に、恐る恐る目を開ける。ぼんやりと見えるのは真っ白の天井。聞こえてくるのは機械の音。ここは――。
「詩月」
漸くおぼろげながらも回復した視力で捉えたのは。
「な、ぎ……」
「おはよう」
「あ……」
詩月に向かって微笑む凪人の姿だった。
「ほ……ん、とに……」
「当たり前だろ、約束したんだから」
「うれし……」
もっと話をしたいのに、どうしても目が閉じていく。
かろうじて残っていた意識で、詩月は必死に伝えた。
「ま、た……一緒、に……おま、つ……り……」
「うん、一緒に行こう。約束」
そう言って微笑む凪人を見つめながら、もう一度詩月は眠りについた。
再び目覚める頃には、詩月は元の病室へと戻ってきていた。ベッドのそばには両親の姿があった。
「詩月!」
「よかった……!」
「手術は……?」
「無事成功したって! 本当に良かった!」
涙を流しながら詩月を抱きしめる二人の背中越しに、詩月は凪人の姿を探していた。けれど、何度見ても病室にはいない。昨日は休んで来ていたけれど、今日は普通に学校に行ったのだろうか。
「詩月? どうかしたの?」
「あ、えっと。その、凪人がいないなって思ったんだけど、今日平日だもんね」
「あ……」
詩月の言葉に、両親は顔を見合わせる。
「あのね、詩月。凪人くんは――」
「俺が、何ですか?」
「凪人!」
声のする方を見ると、病室のドアのところに凪人は立っていた。
「いないから学校に行ったんだと思ってた」
「ちょっと広瀬先生に話があって出てたんだ」
「広瀬先生に?」
何故、凪人が? そんな疑問が詩月の脳裏を過る。けれど尋ねるより早く、凪人は詩月の両親に向かって言った、
「五分でいいんです、二人で話をさせてもらえませんか」
「五分で、いいの?」
「……はい。多分、五分しか持たないので」
凪人の言葉に、両親は悲痛な表情を浮かべる。けれど、三人の話している内容は、詩月には理解ができなかった。
「ねえ、なんの話……?」
「二人になったら話すよ」
ベッド横の椅子に凪人は座ると、詩月の両親が病室を出て行ったことを確認してから口を開いた。
「手術、成功してよかった」
「うん、起きたときそばにいてくれてありがと」
「約束したからね」
「……凪人、私――」
「詩月、話があるんだ」
真っ直ぐに詩月を見つめる凪人は、怖いぐらいに真剣な面持ちをしていた。こんな凪人、見たことがない。返事をしようとしたけれど、緊張で喉が渇いて上手く声が出ない。
詩月は唾を飲み込み喉を濡らすと「なに」と掠れるような声を出した。
「……詩月さ『眠り姫』って病気、知ってるかな」
「眠ったまま目覚めなくなる病気、だったっけ」
「よく、知ってるね」
詩月が答えたことに凪人は驚きを隠さない。詩月だって、以前開きっぱなしだった凪人のスマホの画面を見ることがなければ今もそんな病気知らないままだっただろう。
けれど、そんな病気と今、何の関係があるというのか。
「俺、さ。その病気なんだ」
「え……」
言葉の意味が上手く理解できない。
「誰、が」
「俺が」
「な、に言って……冗談、だよね?」
「冗談だったら、よかったんだけど」
悲しそうに微笑む凪人の胸もとは光っていない。けれど、そんな能力がなくても、今目の前で話す凪人が嘘を吐いているようには見えなかった。
「でも、今こうやって起きて……」
「うん、今日までは薬で眠りを抑えてきた。でも、もう身体が限界なんだ」
「どういう……」
「この病気はね、身体から出る毒素を眠っている間に中和してくれる。だからこうやって起きていればいるほど毒素が身体に満ちていくんだ」
理解したくないのに、わかりやすく噛み砕いて説明してくれるせいで、今の凪人がどういう状況なのか、否が応でも理解させられていく。
「この、まま……起きてたら、どうなるの……?」
「毒素が回って死ぬ」
「そんな……!」
「でも、毒素を中和するために眠り続けたとしても、やがては中和量を毒素が上回るんだ」
「それじゃあ、どっちにしても……」
凪人は静かに頷いた。けれど、詩月には凪人の行動が理解できなかった。
「どう、して……」
「ん?」
詩月の言葉に、凪人は首を傾げた、そんな凪人に感情をぶつけるように詩月は口を開く。
「どうして起きて、こうやって……今だって……」
「もう二度と詩月との約束を破らないって誓ったんだ」
「私の、せい……」
「違う。俺が、どうしてももう一度詩月に会いたかった。会いたかったんだ」
「凪人……」
微笑みながらも、凪人の身体はフラつくように揺れたかと思うと、そのまま上半身から詩月のベッドに崩れ落ちた。
「凪人!? 大丈夫!?」
「う、ん。でも、もうタイムアップ、みたいだ」
どんどんと凪人の目が閉じていく。途中なんとか抗おうとするけれど、眠気を我慢することは難しいようで、どんどん瞼が落ちていく。
「凪人!」
「ご、めん……もう……」
「やだよ! 来年もお祭り一緒に行こうって言ったじゃん! ナギのことだって見に行くんでしょう!? 映画だって一緒に……!」
完全に目を閉じてしまって凪人は、それでもなんとか聞こえてはいるようで、時々頷くのか頭が小さく揺れる。
「しづ、き。好き、だよ。だいすき……だ、」
「凪人!! 凪人!!」
もうどれだけ名前を呼んでも、凪人が詩月の呼びかけに答えることはなかった。
一か月後、詩月は病室にいた。ベッドの上には、点滴に繋がれた凪人の姿があった。一か月前のあの日から、凪人はずっと眠り続けている。
あのあと詩月は広瀬から凪人について説明を受けた。詩月の再発の少し前に凪人が発病したこと、ずっと薬を飲み続けて詩月の隣にいたこと、ただ詩月の願いを叶えたかったこと。
「馬鹿みたい」
制服姿の詩月の手にはクレープがあった。ここに来る前に買ってきたものだ。凪人の望んだ通り、詩月は自分の生活をきちんと送っている。
「嘘ついたのに、胸もと光んなかったじゃん」
そもそもあの日以来、誰かが嘘を吐いたとしても、胸もとに光が見えることはなくなっていた。今思うと、手術前から光は見えなかった。もしかしたら、気付かなかっただけでいつの間にか能力は失われていたのかもしれない。
あの能力がなんだったのかは今もわからない。けれど、あんなものなくてもわかる。凪人は詩月に嘘を吐かないと言うことは。
「待ってるから」
たくさんの約束をした。
「お祭り、一緒に行くって言ったもんね」
凪人は必ず詩月との約束を守るから。
「待ってる。目覚めるのをずっと待ってる」
だから、ここで今度は凪人が目覚めるのを待ち続けよう。
いつか眠り姫が目覚めるその日まで。
眠り姫は君と永遠の夢を見る 望月くらげ @kurage0827
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