シというもの
塩砂糖
シというもの
死にたいと思った。
きっかけはよく覚えていない。
入学したばかりの高校での勉強が想像以上に難しかったとか、期限が間近まで迫った課題が終わってないとか、新しい人間関係を構築するのが大変だとか、始めたばかりのバイトで失敗してしまったとか、漠然とした将来への不安だとか、お母さんと喧嘩をして家に帰りづらいとか、なんとなく毎日が辛いとか。
この中のどれかが理由なのかもしれないし、全てが理由なのかもしれないし、理由なんてないのかもしれないし、理由なんて必要としてないのかもしれない。
ただ、不意に、死にたくなった。
なんだか、その方が楽になれそうだったから。
明日の授業の心配も、本心かどうかも分からなくなった誰かとの会話の憂鬱さも、特に理由なく始めてしまったバイトへの倦怠感も、訳もなく泣きたくなる自分への怒りも、何もかも、考えなくて良くなりそうだったから。
いつも通りの日々が終わる。
昨日に続いて今日が始まって、今日が終わって明日が来る。15年間ずっとそうだった。結構頑張った方なんじゃないだろうか。
でも、死ぬにしても辛いのは嫌だ。
出来るだけ楽な方法がいい。
首を吊るのは苦しいって、いつだったか聞いたことがある。だから出来るだけ辛くない方法で。そして出来れば、あまり他の人に迷惑がかからない方がいい。電車に飛び込むなんてもってのほかだ。
気がついた時には、私は学校の屋上にいた。
屋上へと続く扉には立ち入り禁止と張り紙がしてあった。けれど、鍵は掛かっていなかった。
元から掛かっていなかったのか、壊れてしまったのか、誰かに壊されてしまったのかは分からない。ただ、都合は良かった。
初めて入る屋上への感慨は特になかった。
花壇のようなものが数カ所あり、その周りにはベンチが置いてある。漫画の中でよく見るような学校の屋上だった。
ベンチまで置いてあるなら生徒に開放すれば良いのに、と思いながら屋上の端へと歩いていく。
屋上の端には1メートルほどの壁と、その上に手すりが設置されていて、万が一転んだとしても落ちないようにはなっている。けれど、乗り越えようと思えば乗り越えられる高さだった。
足をかけようとしたところで、スカートだったことを思い出す。
でも、どうせ誰にも見られていないわけだし。
乗り越えようという意思の前には、その壁はあまりにも低すぎた。
壁の向こう側には、人ひとりがギリギリ立てるだけのスペースしかなかった。
手すりを後ろ手に掴んで、下を覗いてみる。
高い。ただただ高かった。
陸上に住む生物がなんの安全確保もなしに存在していい高さではなかった。
人間がどうしたら死ぬかなんて、知識としてきちんと知っているわけではないけれど、この高さから落ちれば死ねると思った。
一歩踏み出せばそれで全ておしまい。
必要なのは飛ぶ勇気だけ。
それだけで、後戻りはできない。
一歩、踏み出そうとした。
その時だった。
「飛び降りないの?」
不意に背後から、男の人の声が聞こえた。
屋上の入り口からは死角になる位置に置いてあるベンチ。そこに寝そべっていたらしいその人は、むくりと体を起き上がらせてこちらを見ていた。
着ているのは学校の制服。ネクタイの色から3年生だと分かった。
「飛び降りるなら、早くしたら?」
再び彼がそう急かす。
その言葉に、何故か腹が立った。
例えるなら、そろそろ宿題をやろうとしていたところで、お母さんから早く宿題をやりなさい、と言われたような。
そして決まって、今やろうとしてたところ、と返す。
こんなやり取りが行われる時、ほとんどの場合自分に宿題をやる気などないことを、この時の私は都合よく忘れていた。
飛び降りる勇気のために使われていた感情が、急激に彼への苛立ちへと変化していく。
彼はベンチから立ち上がると、公園を散歩するような足取りで私の元へと歩いてきた。
そして、私の隣まできた彼は壁に寄りかかりながら再度問うてきた。
「ねえ、飛び降りないの?」
「……今、飛び降りるところだったんです」
「そっか。じゃあ、どうぞ」
一体、彼は何がしたいのだろう。
見ず知らずのあなたに言われるまでもなく、私は飛び降りる。
なのにわざわざ隣に来てまで急かしてくるなんて。見られていたら出来るものもやりづらい。
というより、そうだ。普通はこうじゃないはずだ。
普通、屋上から飛び降りようとしている人を見たのなら止めるのが常識的な行動ではないのか。
意味が分からない。
けど、今の私には都合がいい。
都合がいい、はずだ。
一度深呼吸をして、下を見る。
何故か、さっき見た時よりも少し高くなったような気がした。
「あ、ちょっと待って」
再び彼が口を開く。
「なんですか?」
ようやく普通の人のように止める気になったのかと思えば、そうではなかった。
「飛び降りる前に、やり残したことはない?」
「……やり残した、こと?」
「そう。例えばお金とかさ。全財産は幾らぐらい? もしお金が余ってるなら死ぬ前に美味しいものでも食べた方が得じゃない? どうせあの世にお金は持っていけないんだからさ」
財布の中身を思い返してみる。
バイト代が入ったばかりなので、数万円は入っていたはずだ。
確かに、それだけあればなんでも食べにいけそうだ。
でも、もうここまで来たんだから、食べ物のためには引き返せない。
「……大丈夫です」
「あ、そう。だったら――」
「まだ何かあるんですか?」
「あるよ。沢山ある。どうせ君は死ぬんだし、最後の時間を知らない人との会話に使ってみるのも一興じゃない? 無駄かもしれないけど、これから死ぬ君がその無駄で損をすることはないんだから」
「…………」
本当に、何がしたいのか分からない。
そもそも、彼はどうして立ち入り禁止の屋上にいるんだろう。
もちろん私が人のことを言える立場じゃないけど、私にはちゃんとした理由があった。飛び降りて死ぬためという理由が。あった、はず。
取り敢えず、早く会話を切り上げるために、黙って彼の話を聞くことにした。
「一つアドバイスをしておくよ。飛び降りる時は頭から行くこと。この学校はそれなりに高いけど、足から落ちると死ねないかもしれない。確実に死ぬなら頭から飛び降りること」
「……」
「それと、本当にやり残したことはない?
お世話になった人への挨拶はした?
定額サービスは全部解約した?
自分の部屋に誰にも見られたくないものは残ってない? ちゃんと全部捨てた?
そうそう、携帯のデータも消した? まあ、見られても困らないならいいけど」
「…………」
「まあ、例えやり残したことがあっても君には関係ないよね。だって君はここで死ぬんだから。
でも、いい? これだけは理解しておくんだ。
君が死んだからって、君の存在が消えるわけじゃない。君が残したものは残り続ける。勝手に消えてはくれない。
君が死んだあと、残された人は一生君の死を背負って生きていく。例えば、君の家族や、君の友達や、君ことを知っている全ての人は、一緒に消えてはくれない。
ずっと、君のことを覚えてるよ」
「……………………」
「それが理解できたら、後は飛ぶだけだよ。
大丈夫、君の死体も、誰かがきちんと処理してくれる。俺も、通報ぐらいはしてあげるよ」
不意に肩を掴まれる。
「さあ、それでも君は飛ぶか」
地上は、気が遠くなるほど遠かった。
「…………いやだ」
少し遅れて自分の声だと気づいた。
それがきっかけだったのか、急速に現実に引き戻されていく。
自分が今立っている場所が、どれだけ危険で、心許ない場所なのかを、今更ながら理解した。
「いや……いや、嫌だ……っ」
足から力が抜けていく。
なのに手すりを掴む力だけは、自分でも驚くぐらいに強かった。
「……死にたく、ない」
瞬間、体が宙に浮いた。
それが、後戻りのできない空中へ飛び込んだからではなく、彼の手によって屋上へと引き戻されたことによるものだと気づいたのは、屋上で尻餅をついてからだった。
涙でぐしゃぐしゃになって、周りもよく見えない。
それでも。
「おかえり。君はまだ生きてる」
そう言って抱きしめてくれた彼の頬にも涙が伝っているのは、確かに脳裏に焼き付いている。
◇◇◇◇◇
泣いて、泣いて、泣き終えて。
二人きりの屋上で、私と彼はベンチに座っていた。
ようやく落ち着いて、大切なことを言い忘れていると気が付いた。
「その……助けてくれて、ありがとうございました」
自殺しようとしているところを止められたのだから、普通は邪魔をされた、なのかもしれないが、私はあまりにも簡単に自殺という手段を選んでしまった。
いや、よく考えてみれば、彼は一度も自殺を止めなかった。ただ、死ぬということの意味を教えてくれただけだ。
それでも、助けられたことに変わりはない。
「どういたしまして。まあ、俺はもともとそのために屋上にいたんだけど」
「どういうことですか……?」
「最初から、自殺を止めるために屋上にいたってこと。もちろん、君が来ることが事前に分かっていたわけじゃないけどね」
それはなんというか、私のような人にとっては凄くありがたいことだったけれど、意味が分からなかった。
もしかしてこの学校は、思いの外自殺未遂者が多かったりするのだろうか。
「自殺しようとする人が来るかもしれないから、ずっと待ってた。もし来たら止めようと思って。まあ、ほとんどが悪戯で忍び込んでくる人ばかりだったけど。
君が、俺がこんなことを始めてから来た自殺志願者第一号だよ」
「そう、だったんですか」
「でもいざそんな状況に直面すると、どうやって止めればいいか分からなくてさ。あんな風に、恐怖を自覚させる方法しか思いつかなかった。ごめんね」
言って彼は小さく笑った。
「謝らないでください。あなたは確かに、私の命の恩人です。
……私、死ぬことの意味を全然分かってなかった」
死ぬ、とか、死にそう、とか、殺す、とか。
日常に溢れてる言葉なのに、いや、日常に溢れている言葉だからこそ、何も分かっていなかった。
死は、日常の至る所に潜んでいて、でも、普段それを自覚することはない。
けど、方向性を持って探してみれば、死ぬ方法なんていくらでも見つけられて、少し勇気を振り絞れば実行できてしまって、なのに、取り返しはつかない。
改めて、自分の行動を恐ろしく思った。
自分が死にそうになっていたことも、体験した恐怖も確かに現実のものなのに、そんなことをした数分後に、助けてくれた彼とベンチで話をしているこの状況は、どこか現実味がなく、夢のような感覚だった。
もしかしたら自分は既に飛び降りてしまっていて、今のこの光景は死ぬ直前に見る夢のようなものなんじゃないか、とか。
少し怖くなって、私は彼に質問した。
少しでも、会話が長く続くように。
「その、どうしてそんなことを? 入学した時から、屋上で自殺者が出ないように待ってるんですか?」
「いや、違うよ。俺がこんなことを始めたのは、屋上が立ち入り禁止になってからなんだ」
「元々は、立ち入り禁止じゃなかったんですか?」
私はまだ、入学してから数ヶ月だけれど、入学した時から屋上は立ち入り禁止だった。
「立ち入り禁止になったのは、去年の10月からなんだ。ほら、ここって立ち入り禁止のくせにベンチが沢山置いてあるでしょ。元々は生徒に開放されてたんだよ」
「じゃあ、立ち入り禁止になったのって……」
「――自殺者が出たんだ。屋上から飛び降りてね」
つまり、私と同じような人がいたわけだ。
いや、もしかしたら、私なんかよりもっと深刻な何かを抱えていたのかもしれないけど。
でも、例えそうだとして、彼が屋上で来るかも分からない自殺者を止めるために待ち続ける理由が分からなかった。
そう。分からなかった。
「自殺したのは、俺の妹だった」
「え…………」
「理由は分からない。人間関係のトラブルも調べた限りはなかった。唐突に、何の前触れもなく、俺の妹はこの世からいなくなった」
もし。もし、彼の妹さんが、私と同じだったのなら。
特筆するような理由もなく、絶望するほどの事柄もなく、ただただ平穏な毎日が続いていて、だからこそ些細なことを不幸だと思えるような、そんな普通の子だったのなら。
止めてくれる彼がいた私と違って、止めてくれる誰かがいなかった彼女は。
飛び降りてから、近づいてくる地上を見て。
取り返せなくなってから、遠ざかる日常を振り返って。
後悔しただろうか。
「妹が何故自殺したのかは分からない。
……でも、悲しかったから。辛かったから。同じような思いをする人を、少しでも減らしたいと思った。
もし死にたいと思う人と会ったのなら、あなたの死で悲しむ人がいるということを、直接伝えたかった。
だから、ずっとこんなことをしてたんだ」
何も、言えなかった。
ついさっき、大した覚悟もなく命を捨てようとした自分に、彼を慰める権利はなかった。
不意に、電子的な鐘の音が聞こえてきた。
午後5時を知らせるため、市内に流れる鐘の音。
飛び降りていたら、聞くことができなかった音。
「さて、もうこんな時間だし、君は帰りなよ。親御さんが心配する」
「あなたは帰らないんですか?」
「最終下校時刻は6時だからね。それまでは屋上にいるよ。俺のこんな行動も、無駄じゃなかったみたいだから」
本当は無駄な方がいいんだろうけど。
そう言って彼は、また、小さく笑った。
◇◇◇◇◇
昇降口で靴を履き替えて、外に出る。
まだ日は長く、空は青い。
あれだけ遠かった地上に、生きたまま立っていることが少しだけ不思議で、同時に安堵した。
校舎を振り返る。
人気の無い校舎は少しだけ不気味で、けれど、それに安心した。
怖いと思えるということは、死からは十分に距離を取れたということだから。
死が近ければ近いほど、恐怖が薄れていくことを、私は彼に教えてもらったから。
校門を出て、思い出す。
「あ……名前、聞くの忘れてた」
それどころか、名乗ることすら忘れていた。
「でも、いいや」
私は生きている。
今日やり残したことは、また明日にすればいい。
私には、明日があるんだから。
シというもの 塩砂糖 @shiozatou
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます