八、ありか

 夫の魔の手から美月を守ろうと努めなくてもよくなった加代にとって、素晴らしい時間がやってきた。首を吊られて命の危機に晒された美月は地下室から救出されたあと数日の間は絶対安静を余儀なくされたが、加代は梅に雅文と松田の世話をするよう命じ、自分はいそいそと美月の枕元に陣取った。美月が引き取られてきた当初から、加代は〈娘〉と和やかに過ごすことをひそかに夢見ていたのだ――敢えて厳しく接するのは辛かったと、彼女はそっと雅文たちに打ち明けた。


 松田は打ち身をいくらか負っただけで済み、〈人食い鬼〉事件の顛末を報告するためにすぐ現場復帰した。誠三は地下室に閉じ込めた少女たちを拷問するために用意した酸をみずから浴びて生きているのが奇跡というほどの大火傷を負い、松田の手続きによって速やかに病院に送られた。ここまでの重傷でなければすぐに逮捕されて厳罰を受けるところだったが、残りの生涯を病室で過ごすことを余儀なくされた現状を思えば、健康体で終身刑に処された方がまだマシだったかもしれない。


 肉体的な損傷もかなりのものだったが、誠三の精神は完全に破壊され、病室では半開きにした口から涎を垂らしながら日がな何かを呟き続けるという廃人同然の状態にあった。周囲からの呼びかけにはほとんど反応を示さないが、そうかと思えば〈若い女性〉には生身だろうがそうでなかろうが過剰なほどに怯えた。言葉にならない恐怖の叫びを上げて暴れる誠三は何度となく寝台に縛りつけられ、もはや現実世界のものは何も映らない濁った瞳いっぱいに涙を浮かべて、誰に向けるでもなく許しを乞うのだった。


 その様子が地下室で彼が突如怯えて錯乱しはじめたときと似ていたため、警察では彼の〈罪悪感〉と〈なけなしの良心〉がみずからに事件の幕を引かせたのではないかという結論に至った。誠三は薬物の過剰摂取による幻覚に襲われ、彼がその手にかけた少女たちの幻影を見て錯乱したのではないかと。〈人食い鬼〉にも、わずかとはいえ人の心が残っていたのだろうと。


 雅文は左足を刺されたことに加えて誠三の暴力にさらされたために、美月と同じように数日を安静のうちに過ごした。刃物で容赦なくひと突きされたときは今後のことを考える余裕もなかったが、幸いにも怪我は日一日と快方に向かい、やがて元通りに動くようになりそうだった。


 五人もの娘が犠牲になった〈人食い鬼〉事件はこうして幕を閉じた。


 「わたし、橋本さんがジェスターだったらいいなって思っていたの」


 あるとき、雅文は肩掛けにくるまった美月と暖かい縁側に並んだ。雅文が彼女を見舞うと加代も梅もなぜか席を外してくれ、結果として雅文は回復した美月とこうして言葉を交わす機会によく恵まれた。


 美月の原稿はまだ完成していないらしかったが、彼女は雅文にどんな物語を手がけているのかを詳しく話してくれた。自分にとっては想像上の登場人物が突然目の前に現れたようなものなのだ、と美月は楽しそうに言った。


 「ジェスターが関わった事件では、必ず誰か助かった人がいるみたいだから。清廉な優しい人だと信じていたの。結局、最初の直感が正しかったのよ……だって、わたしのことだって助けてくださったんだものね」

 「僕が出てきてしまったことで、君の美しい想像が裏切られてなきゃいいんだけど」


 雅文は美月の表情を観察しながら穏やかに相槌を打った。美月は加代がつききりで世話をしたためにほどなく元気を取り戻し、心の翳りが取り払われたことで以前よりも明るく笑うようになっていた。この変化は雅文にとってなによりの報酬といってよかった。


 「想像は、いつだって現実の上をいくものだ――小説を書いている君には今さら言うまでもないだろうけどね」

 「想像力の及ぶ範囲のことでならね。事実は小説より奇なりともいうし、本当の怪盗ジェスターにお会いできるなんて想像もできなかったもの。それに――あなたはわたしが思っていたよりもずっと………」


 美月は残念ながら、つつましく続きを言いさした。小野寺家の庭先を柔らかな風が吹きすぎていった。


 「……さて、僕の仕事はこれで終わりじゃない」


 と雅文は言った。


 「君がこれから安全に、何の心配もなく生きていかれるようにすること。それが僕の一番重要な仕事だ」


 美月がこれを聞いて不安げに眉を寄せた。まだ何か、身の回りに恐ろしい魔の手が潜んでいるのだろうかと訝しんでいる顔だ……無理もない。雅文は首を振った。


 「君の家の――宮園家の遺産のことさ。君は心当たりがないみたいだったけど、他人から見て〈ある〉と思われている限り、また君をつけ狙う輩がどこかから現れるかもしれない。遺産が実在するなら君がそれをしっかり把握して、その上で世間的には〈そんなものはなかった〉というふうにもっていければ最高だね。……勝手なことをして申し訳ないとは思ったんだけど、帝都の友人に頼んでお屋敷を見てもらっていたんだ」

 「でも、何もなかったでしょう? 」


 美月が愁眉を開かずに言った。


 「わたし、本当にそれらしいものは見たことがないのよ。母さまは手がかりを残してくれたけど、結局――答えが何なのかきちんと聞く前に、亡くなってしまったし」

 「へえ。ちなみに、お母さまは何ておっしゃってたんだい」

 「ええと……〈その宝、星の数ほど多い。誰にも見えるが見えない〉っていうの。小さい頃はよく聞かされたものだけど、いまだに何のことだか……」


 雅文はこれを聞いて思わず頬を緩めた。


 「星の数ほど多くて、見えているのに見えない、か――言いえて妙だね。何を指している言葉なのかが分かれば、こんなにふさわしい言い回しはない」


 美月は大きな目をさらに見開いた。考えていることが素直に浮かぶその表情は、聡明で愛らしい。愛すべき善良な少女だ、と雅文は思った。安全と幸福。彼女の両手には、それこそがふさわしい。


 「……なにか見つけたの? 」

 「見つけたよ。多分、君のおうちで代々その〈宝〉を所有し続けていたんじゃないかな。宮園家は昔から大きな庭園を敷地に持っていることで有名だったからね。そのことを思い出して、ようやくそれらしいものを見つけたってラウール団長――友人は言っていたよ」

 「庭園……屋敷の裏手の、花壇がしつらえてある? 」


 あんな場所になにか特別なものがあっただろうかという顔で美月は首を傾げた。屋敷で生まれ育った彼女ですら、思い当たるものがないのだ。〈宝〉を探し出そうと屋敷に踏み込んだとしても、目的のものを奪取することはできまい。


 そう。宮園家の〈宝〉は、一見したところ庭の風景に完全に溶け込んでいるのだ。


 「加代さんからお許しが出たら、一度お屋敷を見に行こう。そうしたら、君にもお母さまが何を伝えようとしていたかが分かるはずだよ」


 

 数日後、雅文と美月は〈それいゆ〉で松田とラウール団長と落ち合った。身なりのいい少女に青年がふたり、さらに謎の貴族風の異国人という取り合わせは実によく目立ったが、彼らはハルに歓迎され、おのおの好きなものを注文してほしいと彼女じきじきに案内を受けた。


 「松田さんから聞きましたよ――弥生ちゃんのこと、解き明かしてくれたんですってね。さすがは探偵さんだわ」

 「……へえ。彼女は、マサフミが探偵以外の顔を持っていることは知らないんだね」


 ハルの背を眺めながらラウール団長が呟いたので、雅文はそっと首を横に振った。ただでさえ、今回の件ではジェスターの正体を知るものが増えすぎたと彼は思っていた。ジェスターの秘密が漏洩すれば、雅文だけでなくこれまで彼に救われてきた人々にも厄介ごとが降りかかりかねない。今回の関係者たちがみな誠実な人々だったというのは幸いだった。


 本来ならば怪盗とは相容れない立場であるはずの松田は、雅文の正体を知ってからも彼に対する態度を変えなかった。むしろ、かつて美月が見立てたとおりに〈世を忍ぶ仮の姿〉を持っていた雅文に対して畏怖的な感情を抱きつつある節があり、彼にとっては積年の英雄だったのだから当然といえば当然だが、以前よりも敬意を払うようにすらなっていた。


 「君はマサフミを捕まえなくていいのかい? 帝都中に模倣犯が出るくらいの怪盗だ、お手柄になると思うけどね」


 薫り高い紅茶を楽しみながらそれとなく尋ねたラウール団長に、松田は真剣に言った。


 「命の恩人を犯罪者扱いするのはおれの信条に反するので」

 「でも、警察官としては窃盗が行われたという事実に基づいて判断するべきじゃないかな? 」


 雅文が進言しても、松田は涼しい顔をして自分のコーヒーを啜った。


 「理由は三つある。ひとつ、あなたみたいな人が簡単に捕まるとは思えない。捕まったとしても簡単に抜け出せるだろうしな。ひとつ、おれを餓死から救ってくれたのは法ではなくあなただ。そしてひとつ、美月お嬢さんに泣かれたくない。……それはともかく、今は宮園家のことだろう。いざというときお嬢さんが〈表立って〉頼れるようにってことでおれが呼ばれたのは分かるが、本当にそんな驚くようなものが見つかったのか? 」

 「ああ、もちろん。しかもマサフミにも持ち出しきることは難しそうな代物だよ」


 ラウール団長がそう請け合ったので、美月と松田は揃って目を丸くした。


 宮園家の屋敷は事件後に捜査員以外の人間の立ち入りが制限されたままになっており、刑事である松田の立会いのもと、美月が要りようのものを取りに戻るという体で四人は屋敷の門を入った。松田が正面玄関に取り付けられた南京錠を外し、さらに正面扉を解錠した。


 宮園家には門から玄関までの間に噴水つきの広い前庭があり、さらに屋敷の裏手にも美しい西洋風の庭園が造られていた。裏の庭園には居間の扉から行くことができた。この中でただひとり宮園家の遺産をじかに目にしたことのあるラウール団長は勝手知ったる顔で一同を先導し、中庭に続くガラス戸に手をかけようとした美月を呼び止めた。


 「おっとお嬢さん、待った――中庭に出る前にここから外を見てごらん。我々の目には、すでに君が引き継ぐべき宝が映っているんだよ」

 「ここから? 見えているんですか? 」


 美月と松田が並んで窓に張りついた。雅文はすでに〈宝〉の正体を聞かされていたが、実物に対する好奇心から一緒に外を覗いた――なるほど、確かに聞いていたとおりだ。


 美月はしばらく我が家の庭を眺めていたが、やがて不思議そうに首を傾げた。松田がせっかちに尋ねた。


 「お嬢さん、何か変わったものがあるかい? 」

 「いいえ……お庭を手入れしてくれていた人もやめてしまったから、前より荒れているってことくらいしか……」

 「それは由々しき問題だ。だが君がいずれこのお屋敷に戻ることになったら、そのとき元通り美しく仕立てれば解決さ。今はひとまず……」


 ラウール団長は愉快そうに言い、庭を指差した。植え込みと敷石の間を埋める、無数の粒石を。


 「ところでお嬢さん、あの庭砂利。大粒で多彩だし、遠目にも光をよく弾いて実に美しいね」

 「あれはこのお屋敷を建てたときから、色違いの石を代々外国から買いつけて増やしてるって父さまが――」


 美月は言いかけ、ふと思いついたようにラウール団長と雅文を見つめた。ラウール団長は実に優雅な仕草で懐からハンカチに包んだ〈庭砂利〉のひと粒を取り出し、美月の手のひらに乗せた。


 「マサフミから話を聞いてここにお邪魔したとき、あの庭砂利がどうも気になってね。正式に鑑定もしてもらったよ――思ったとおりだった。あの庭に撒いてある庭砂利は、全部ダイヤモンドの原石だ。白、黒、青、ピンクに黄色……素晴らしいね。原石の状態で庭に敷き詰めてあるというのが実に大胆だ。よほどの鑑定眼を持った人物でなければ、手に取って眺めたとしてもこの庭砂利の真の価値に気づくことはできないだろう」

 「庭砂利全部って、あんた簡単に言うけどな……」


 松田は恐れをなしたように窓越しに庭を広く見回した。


 「これ、全部でどのくらいあるんだよ……ひと掴みやふた掴みなんて話じゃないぞ」

 「千回掴んでも残りの方が多いよ」


 雅文はガラス戸を開け、美月を促した。美月はラウール団長に返されたひと粒をそっと近くの庭砂利の中に置き、別の粒を手に取った。薄青の石は研磨されていないために透明感こそ引き出されていないが、母岩から粗く切り出されただけの今の状態でさえきらきらと光を含んで見えた。


 「驚いたわ。なんとなく、ただの庭砂利にしてはきれいだな、とは思ってたんだけど。まさかダイヤモンドだったなんて」

 「宮園家のご当主が子孫のために代々買いつけてきた歴史ある遺産……もちろん、全部君のだ。――君にとっては、価値があるばかりのものではないかもしれないな。このことを打ち明ける相手は、きちんと見極めなければならない。金銭的に価値のあるものは人間の善性を歪めることがあるから」

 「あら、本性を照らし出すものだと思っていたわ。だって、わたしはそのおかげでとんでもない人と結婚せずに済んだのよ――わたしを誘拐しようとしたあの人は、わたしの夫になったかもしれない人に雇われてたんだもの」

 「なるほど……実に説得力があるね」


 何を話しているのかと寄ってこようとした松田が、ラウール団長に


 「野暮天! 」


 と止められている、そんな声を背景に、美月はおずおずと雅文に手のひらいっぱいのダイヤモンドを差し出してきた。


 「橋本さ………いいえ、怪盗ジェスター。あなたみたいな誠実な人にとってダイヤモンドがお礼になるか分からないけど、受け取ってもらえるかしら? 」

 「僕は贈り主の気持ちがきちんとこもったものはなるべく受け取るようにしてるんだ。ありがたくいただ――」


 雅文は美月の手から慎重にひと粒を選んだが、間を置かず頬に温かい唇の感触を感じてうっかり受け取った原石を落としかけた。美月のはにかんだ表情は、雅文には手の中の石の何十倍もまばゆいものに見えた。


 やっぱりこれは返すよ、とダイヤモンドを庭に置くと美月は不思議そうな顔をしたが、雅文は譲らなかった。〈受け取りすぎる〉のは彼の信条に反することだったからだ。



 橋本雅文の探偵事務所に、このところ新たな噂が囁かれるようになった。以前からよく見かけた謎の異国紳士に加えて、最近やけに厳しい顔をした刑事らしい青年と……さらに朗らかなご令嬢がよく訪ねてくるというのだ。


――どう見たって、そのへんにいる娘じゃないよ。


――にこにこして、かわいい人だった。


――おれなんか挨拶されちまったよ!


――橋本さん、一緒にどこかへ出かけていったよ。腕なんか組んでさ。


――どういう関係なんだろうねえ。


 近隣のものたちはひそひそ、にやにやと言葉を交わした。これまで〈噂〉以上の情報を周囲に悟らせずにきた橋本雅文のこと、今回も明確な真実を関係者以外の誰かに掴ませることはなかったが、それでもほのぼのとした春らしい気配は誰の目にも明らかだったのだ。

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怪盗ジェスターと人食い鬼 ユーレカ書房 @Eureka-Books

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