第3話 海を臨む温泉 中二病の後輩との夜

 私、渡良瀬歩は珍しく穏やかな金曜日を過ごしていた。

 もうすぐ定時だ。今日は定時前に仕事を押しつけてくる上司もお休みで静かな時間が流れていた。定時までにこの資料を作り上げて気分よく週末を迎えよう。ラストスパートだとばかりに仕事に勤しむ。集中していた私は、背後の妙な気配に全く気付いていなかった。

 首筋に手が伸ばされる気配を察したときには遅かった。髪の毛を触られる感触に鳥肌が立つ。

 

「先輩、トリートメントはしてますか?」


 耳元で吐息多めの声がして、私は飛び上がった。


「莉子ちゃん! なんだ、驚かさないでよ!」


 私の髪の毛先を投げながら薄ら笑いを浮かべて立っていたのは、入社二年目の後輩、上山田莉子ちゃんだった。背は低いけれど顔立ちは整っていて、良く動く大きな瞳が可愛らしく黒髪のボブがよく似合う、最近人気の若手女優さんにちょっと似てる女の子だ。喋らなければ万人に愛されるはずの子なのだけれど、発言が時々不思議なのだ。ついていけないというか、何を考えているのか良く分からない時がある。


「手入れは十分にした方がいいですよ。人間はいたみやすいですから」

「え? ああ、最近忙しかったから毛先痛んでたかな?」


 この子ちょっと変わってると思ってたけど、もしかして人間じゃないのかしら? 荒唐無稽なことを考えつつ顔を上げると、理子ちゃんは優しく微笑んでいる。

 やばい、この子が何を考えているのか分からない。私は困惑し、距離をとって警戒しながらも、相手を不快にさせないように言葉を選びながら返事する。


「一体何の用かな?」

「先輩、一緒に温泉に行きませんか? 私今日お勧めのトリートメントを持ってきてるんですよ」


 ヘアケア商品を餌にして私を温泉に連れ出そうという魂胆か。そんなことしなくても可愛い後輩からの温泉のお誘いなんて二つ返事で乗っかるのに。


「いいね! どこに行く?」

「ちょっと一足伸ばして少し遠くの温泉に行きませんか。私、海を見ながら温泉に浸かりたいんです」


 莉子ちゃんは、彼氏にデートをせがむ彼女のように小首をかしげて笑顔で言った。


「海か。ここからは遠いんじゃない?」

「大丈夫、ターミナル駅から送迎バスが出ていますからすぐですよ」


 期待のこもった眼で私を見つめる愛らしい莉子ちゃんを見ているととても断る気にはなれない。変わってるけれど、とっても可愛い女の子なのだ。


「そうだね。今日は金曜だし、定時あがりできそうだから行っちゃおうか」

「やったあ! じゃあ定時ダッシュですからね!」


 莉子ちゃんはくりくりとした瞳を輝かせて飛び跳ねる。帰る準備しますね、などと行って部屋を出ていった莉子ちゃんを、私は温かい目で見送った。

 もう、そんな可愛く喜んじゃって。まんざらでもない気分の私に、隣に座っていた塔子さんが話しかけてきた。


「莉子ちゃんと出かけるの?」

「はい! あ、良かったら塔子さんも一緒に行きませんか?」


 塔子さんも一緒に行けたら女三人でさぞかし楽しいことだろう、と思って誘ってみたが、塔子さんは申し訳なさそうに答える。

 

「せっかくのお誘いだけど、今日中に終わらせたい作業があるから」

「それは残念ですね……。塔子さん、いつも莉子ちゃんと一緒に仕事をしているからさぞかし話も弾むと思ったんですけれど」

「ごめんね。また今度行こうね」

 

 塔子先輩はやんわりと答えた後に、声のトーンを落として私に話しかけた。


「ところで、あのね、莉子ちゃんのことなんだけど……」


 塔子さんらしからぬ歯切れの悪い口調に、私は首を傾げる。


「何ですか?」

「あの子は良い子よ。だから私もできるだけ寄り添いたいとは思ってるんだけど……」


 どうも様子がおかしい。塔子さんに向き直ると、彼女は言いにくそうに口ごもった。


「何というか、中二病? っていうのかな? どうしても話についていけない時があって。多分、ちょいちょい漫画のネタを挟んでいるみたいなんだけれど、私漫画を読まないでしょう? だから話についていけなくて……」


 塔子さんがこんなに気遣っている場面なんて、今まで出会ったことがない。それだけ莉子ちゃんは塔子さんに大事にされているということだろう。


「でも歩ちゃんだったら莉子ちゃんと年も近いし、もしかしたら彼女の話にもついていけるかもしれないと思って」


 塔子さんの目は潤んでいる。莉子ちゃんとの会話についていけないことを心から申し訳なく思っているのだろう。莉子ちゃんへの思いやりを感じ、私は思いがけなくも胸がきゅんとするのを感じた。


「分かりました。莉子ちゃんのことは私に任せてください。漫画はあまり詳しくないですけれど、精一杯頑張ります!」

「ありがとう、歩ちゃん。莉子ちゃんのことよろしくね」


 二人の間でがっつりと握手が交わされたところで、終業のチャイムが鳴った。


「渡良瀬先輩! 行きますよ!」


 部屋の入り口から莉子ちゃんがひょっこりと顔を出して急かしてくる。私は塔子さんを見た。塔子さんは控えめに親指を立てて見せる。


「……頑張って、歩ちゃん。貴女ならきっと出来るから」

「塔子さん……!」


 二人で目配せをしていると莉子ちゃんは怪訝げな顔で私達を見て首を傾げた。


***


 莉子ちゃんに促されて慌てて会社を出た後、早足で電車に飛び乗る。

 会社の最寄り駅から数駅先のターミナル駅から出ている送迎バスに何とか間に合い、私は息を切らしながら安堵の溜め息をついた。隣では莉子ちゃんがけろりとした顔で立っている。年齢の差かしら。少々へこみながらも私は後ろの方に空いている席を見つけて莉子ちゃんと一緒に座った。

 バスは平日とは思えない混み具合で、私達の後からもぞくぞくと人が乗り込んで来る。


「人気なんだね」


 莉子ちゃんに話しかける。


「そうなんです。平日の夜でも受付に並ぶこともしょっちゅうだし、特に今は旅行支援とかお得なプランがあるので余計に混んでますね」


 会社帰りに行けない距離ではないが、近場で事足りてしまうのでものぐさな私はなかなか足を伸ばしたこともない。テンション高くおしゃべりする人達に少し気圧されながらも、どんなところなんだろうと心を高鳴らす。


 バスに揺られて十数分ほど。夕暮れ時のちょっとした渋滞をうまく回避しつつ、バスはやがて大きな施設のエントランスに停車した。

 大勢の人達が降りる列の後に続き、私たちもバスを降りた。建物に入りエレベーターに乗り、上層階にあるフロントへと向かう。なるほど、莉子ちゃんの言う通り、受付も長蛇の列ができていて人気のほどをうかがわせる。

 ようやく予約手続きをして入館した私達は館内用の浴衣の前に立ち止まった。


「先輩、どれにしましょうか?」


 莉子ちゃんがどの柄を選ぼうか迷っている。浴衣だけでなく作務衣もある。選択肢がたくさんあるというのはいいことだ。結局莉子ちゃんはピンクの柄の入った浴衣を手に取った。私も迷いながら水色の柄の入った浴衣を選んだ。


「まずはお風呂に入ろうか」


 仕事終わりで身体の節々が痛い。まずは温まって凝りを解すのが先決だろう。

 浴室に入って莉子ちゃんと隣同士の席に座る。一人一人の間に区切りの壁があり、落ち着いてシャワーが利用できるようになっている。

 

「先輩、これ」


 間仕切りの壁から顔を覗かせて莉子ちゃんが持参のトリートメントを差し出した。本当に貸してくれるんだ。


「ありがとう」

 

 私は大人しくそれを受け取り、シャンプーをした後にそれを念入りに髪の毛にすり込んだ。バラの香りのするトリートメントだ。身体を洗ったりしてしばらく置いた後に洗い流すと髪の毛の手触りがつるつるになっている。

 嬉しくなって髪の毛を弄っていると、背後から莉子ちゃんの両手が私の毛先に伸びる。

 

「トリートメントはしましたね?」

「うわっ、莉子ちゃん驚かさないでよ!」


 不意に、塔子さんが言っていた『莉子ちゃんは中二病』の言葉を思い出す。ははあ、これってもしかして漫画のセリフだったりするのかも。人間がどうのこうのと言ってたし、きっと人間以外の知的生命体も共同生活を送っているような世界でストイックな美容師さんが活躍するような漫画なのだろう。


「トリートメントしたよ。ありがと。いい香りだね」


 礼を言いながらトリートメントの小さな容器を返すと、莉子ちゃんは薄く笑いながら言った。


「ふっ。バラの香りで洗われたこの部屋であなたの妖気はひどく臭う」


 えっ……。これって強烈にディスられてるよね? 加齢臭? いやいや、まだそんな年齢ではないはずだよね。これも美容師が言う台詞なのかしら。いくらなんでもそんなこと言ったら一発で客が来なくなるんじゃないかしら?


「……莉子ちゃん、他の人にはそんな失礼なこと絶対言っちゃダメだからね?」


 大いに困惑した私だったが、辛うじて莉子ちゃんに注意の言葉を投げかけるに留まった。

 この子は悪い子じゃない。ただまだ中二臭さが拭えていないだけなんだ。私がこの子を理解してあげなきゃ。私は使命感のようなものを莉子ちゃんに対して抱きつつあった。


 莉子ちゃんを熱い目で見つめると、また薄ら笑いで返された。私の想いは全然伝わっていないようだけれどそれでも大丈夫、と自分に言い聞かせる。

 私は親がつけてくれた名前の通り、莉子ちゃんに歩み寄ってみせる。歩み寄り、それが私の唯一の強みなのだから。


***


 身体を洗ってすっきりしたところで、私達は露天風呂へと向かった。程よい広さのスペースに、いくつもの浴槽が置いてある。ぶくぶくと水の泡を立てる岩風呂や檜風呂など趣向を凝らした浴槽群の中で、莉子ちゃんは迷わず一番外側の浴槽へと足を運んだ。


「船ですよ、先輩!」


 はしゃぐ莉子ちゃんの後ろから外を見ると、夜の月明かりの下で穏やかに広がる海と、きらびやかな無数の電球の光をまとって悠然と船着き場に入ってくる観覧船が見える。汽笛の音が旅情気分をかき立てる。

 これは確かにいい気分転換になる。莉子ちゃんの今日の提案に私はようやく会心がいった。海って夜に行っても真っ暗だろうし、海が見える温泉に行って楽しいのかしらと少し疑心暗鬼だったのだが、船や建造物、外灯など意外に様々な光が海の周りや中やらにちりばめられていて美しい。

 女風呂はマジックミラーやら植栽やらで外の視線から隠されていることがほとんどだから、こんな風に海を眺められるのは街中では結構珍しい。海際の温泉でも露天風呂からは何も見えずにがっかりさせられることも何度かあったため、感動はひとしおだった。


 会社からちょっと足を伸ばしただけでこんな旅行気分を味わえるなんて最高だ。莉子ちゃん、良く誘ってくれた。隣で肩までお湯に浸かって目を細める莉子ちゃんに目をやって私はほっこりした気分になった。

 受付で待ち行列に並んでいたときは少し心配だったけれど、中に入ってしまえば浴場はそこまでの混雑は感じない。夕食時だからむしろ食事処が混んでいるのかもしれない。私たちはしばらくゆっくりと湯を楽しんだ。


***

 

「先輩、そろそろサウナに行っちゃいますか?」


 十分に湯を満喫したところで、無類のサウナ好きである莉子ちゃんは目を輝かせて話しかけてきた。よし来た、とばかりに私も立ち上がる。


 サウナ室に入るとそこは結構広い空間で、板張りの階段状になっている。入り口にシートが置いてあり、一人一枚薄いビート板のようなそれを取ってお尻の下に敷いて利用することができる。乾式サウナだと自分の座っていた場所を水で流すこともできず、些細なことではあるが意外と気になっていたので、最初にこのサービスを始めた人は偉いと思う。

 サウナにはテレビが備え付けられていて、ちょうど歌番組が流れていた。


「おっ、先輩が推してる人達ですね」


 莉子ちゃんのコメント通り、私が最近推しているアイドルグループが画面の向こうから手を振っている。


「では歌っていただきましょう! 新曲の……」


 紹介と共にイントロが流れ始める。推しのアイドル達がポーズを取って歌い出す。とても良いタイミングではあるが、それと同時に私は感じ始めていた。


 このサウナ、結構温度高いな……。


 女風呂の乾式サウナの温度が高いのは非常に喜ばしいことなのだが、哀しいかな、私はまだ初心者で、長時間高温サウナに滞在することがまだ出来ない。

 ちらりと隣を見ると、莉子ちゃんは平然とした顔でテレビ画面に見入っている。サウナには結構な人数の人達がいたが、みんな涼しげな表情で、画面の向こうで歌う彼らの美声に聴き惚れている。

 ファンばかりが集う場ではなく、一般市民の集まるこの場で皆が静かに推しを鑑賞してくれるのはとても嬉しかった。サウナというものは大抵誰かがお喋りしていて、曲の途中での人の出入りもあるのが通常で、こんなに静かな時間が訪れることなんて滅多にない。まさに奇跡の瞬間だった。私は素直に感動していた。

 しかし暑い、というのも素直な気持ちだった。


 どうしよう。我慢できるかな……。


 でもせっかくの奇跡の瞬間なのだから、最後まで聴きたかった。それに静かに歌を鑑賞している皆さんの邪魔もしたくはない。

 私は決心した。曲が終わるまでは耐えよう。だって推し達が画面の向こうで頑張っている。私のこんなささやかな苦労など比べるべくもない困難を乗り越えて、今彼らは輝かしい舞台に立っているのだ。それを最後まで見守らずして、ファンと名乗るなど言語道断だ。


 むしむしと全身に侵食してくる熱さを感じまいと、肌の感覚を無にする。今の私に必要なのは聴覚と視覚だけだ。他の感覚はシャットアウトしてしまえ。


 皆、相変わらず静かに鑑賞している。サウナ室を出ていく人もいない。嬉しい。熱い。熱い。嬉しい。額から汗が流れ落ちる。目に入らないように瞬きをしながら、私は画面を見つめた。

 意外に長い曲だった。熱さの苦しみと画面の向こうの彼らの笑顔のまばゆさとを交互に感じながら、私は永遠にも一瞬にも思える奇跡の瞬間に身を浮遊させた。

 そして曲は終盤へと向かう。名残惜しくも待ち遠しくもあるその瞬間が訪れた。


「ありがとうございました! さてお次は……」


 アナウンスが入ってカメラが切り替わると同時に私は立ち上がる。

 無言でサウナ室を出て真っ直ぐ水風呂へと向かう。軽く体の汗を流した後に水風呂へと足を踏み入れた。そのまま水の中にしゃがみこむ。

 普段は腰までしか入れない水風呂だったが、極限まで熱くなった今は肩まで入れそうだった。思い切って腰を下ろすと、ひんやりと冷えた水が全身に染み渡った。

 

 やったあ。肩まで水風呂デビューだ。私は一人静かに喜びに震えた。これで半人前のサウナーから一歩踏み出せた気がする。

 染み入る冷たさに耐えられずすぐに立ち上がったが、それでも私の心は満ち足りていた。


 軽く身体をタオルで拭いた後、外に出て寝椅子に寝そべる。トクトクと心臓が大きな音を立てて脈打っているのが良く分かる。生きているんだなぁと思いつつ、私は脱力して寝椅子に身を預けた。ひんやりとした外気が、サウナで極限まで暖まった身体を優しく冷やす。


 極楽だ。私はうっとりと目を閉じた。

 幸せとはこんなにも近くにあったのか。


***


 風呂から上がり、私たちは浴衣を身につけた。


「莉子ちゃん、何だかチマチョゴリみたいになってるよ」


 巻いた帯がちょっと上過ぎるのか、莉子ちゃんの浴衣姿はちょっと変だった。莉子ちゃんは何故か得意げに答える。


「この巻き方は、忌呪帯法を使っていますから」

「はいはい、そうなんだ。かっこいいね」


 莉子ちゃんの言うことは相変わらず分からないが、そういうことに疎い私にも分かり始めていた。この子は塔子さんの言う通り、きっと中二病なのだ。まあこの子の自由にさせようと諦める。


 髪を乾かした後に、私達は屋上へと向かうことにした。莉子ちゃん曰く、そこでは足湯と夜景を同時に楽しめるらしい。

 階段を上ってドアを開く。


「うわあ」

 

 これはすごい! 私はしばしその場に立ち尽くした。そこには街と海の夜景が広がっていた。

 もう辺りはすっかり暗くなり、立ち並ぶ高いオフィスビルにはまだ煌々と灯りがついている。きっとまだ仕事に勤しんでいるのであろう見知らぬサラリーマン達に向けて、遅くまでお疲れ様ですと頭を下げる。

 

「先輩、足湯に入りましょうよ!」


 莉子ちゃんは嬉しそうにぴょんぴょんと飛び跳ねている。私とここに来られたことを喜んでくれているのだと思うと微笑ましい。感情表現が子供みたいで大変可愛らしいが、あまりに激しく動くものだからその帯が解けかかっていることに気付く。


「莉子ちゃん、帯解けてるよ」


 莉子ちゃんはまじまじと視線を自分の帯に落とした後、にやりと不敵な笑みを浮かべた。

 

「もう後もどりはできんぞ。巻き方を忘れちまったからな」

「いやいやいや! 莉子ちゃん、こっちに来なさい!」

 

 慌てて莉子ちゃんを物陰へと引っ張り、帯を直してあげる。もう、まったくこの子ったら手がかかるんだから!

 帯を結び直すのも待ちきれない様子で、莉子ちゃんは私の手を引く。腰を下ろして足湯に足を浸すと、まだ肌寒い空気の中でその温かさが私の気持ちを再び緩ませる。隣では莉子ちゃんが満足げに足を前後にばたつかせてぴちゃぴちゃさせている。

 夜景の前で二人並んでしばらく足湯を楽しむ。

 

「先輩」

「ん? なあに?」

「また一緒に来ましょうね」


 珍しくまっとうなことを言うものだから私は思わず顔を上げた。莉子ちゃんは首を傾げてこちらを見上げている。ほんのり染まった頬で微笑むその表情がなんとも愛らしくて、私は照れてそっぽを向いた。


「そだね」


 この子はずるい。このタイミングにこんな可愛い顔で健気なことを言うんだから。

 莉子ちゃんから被った迷惑のこともすっかり忘れて、私は舞い上がりながらそんなことを思ったりした。


***


 金曜の夜といえばやはりこれだろう。

 私たちは下のフロアに降りて餃子を肴に一杯やった。陣取った窓際の席からは先程足湯で眺めていたのと同じ夜景が広がっている。こんな良い目に遭っていいのだろうかと思いながらビールジョッキを傾けて黄金色の液体を飲み干す。


 小腹が膨れた後に休憩スペースにいくと、莉子ちゃんは早速本棚から漫画を選んで私に手渡した。


「先輩はこれを読んでください」


 私はおとなしくそれを受け取った。リーゼントで気合いの入った髪型の青年を背景に少女がこちらを見上げるような構図の表紙だ。私はぴんと来た。ははあ、例のストイックな美容師さんが出てくる漫画ね。

 きっと真ん中の女の子が主人公なのだろう。よく見ると青年の頭には白い三角巾がついている。青年はもう亡くなっているのか。これはどういうことだろう。私は頭の中でストーリーを予想した。

 こんなのはどうだろう。背後の彼は、真ん中にいる少女の憧れの美容師だ。亡くなってしまった彼の意志を継いで、少女は彼のようなカリスマ美容師になるべく切磋琢磨する。努力と友情と勝利の美容師サクセスストーリーだ。


「一巻の一話目から衝撃的な展開なんですけれど、その後も怒濤の展開に巻き込まれてもう大変なんです。歴史的名作だと思います! ネタバレになっちゃうからこれ以上詳しくは言えないけれど、きっと先輩も気に入ると思いますよ」


 莉子ちゃんは自信満々に推薦する。きっと、美容師になったはいいけれど、お客様に失礼なことを言ったりカーラーの巻き方も忘れてしまう後輩に振り回されて主人公は苦労するのだろう。まるで今の私を見るようだ。展開が容易に目に浮かぶ。


「じゃあ私は自分の読む漫画を探してきますね」


 莉子ちゃんが再び本棚の方に戻っていく。

 私はリクライニングシートに腰掛けた。バスの最終時間までにはまだ十分時間がある。何冊か読み進めることができるだろう。

 週末最高だな。そんなことを思いながら私は莉子ちゃんご推薦の漫画の表紙をめくったのだった。

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