第2話 サウナと漫画と……
私は渡良瀬歩。しがない三十代のOLだ
ある金曜日の夕方。ようやく定時になったとノートパソコンの蓋を閉じたところで、例によって中園課長が声をかけてきた。
「渡良瀬さん、帰る前にちょっとお願いしたいことがあるんだけど」
いつもならば断ることができずにずるずると仕事を引き受けてしまうのだが、今日はどうしても時間通りに上がりたかった。なぜならば……。私はカバンに忍ばせたチケットに視線を落とす。
今日は会社の福利厚生で手に入れたチケットを使って、日帰り温泉の施設に行こうと思っていたのだ。前から気にはなっていたのだがなかなか訪れる機会がなく、先日何となく福利厚生のサイトをチェックしていて見つけたときには心がときめいた。施設の公式サイトを見て一通り何があるかは把握し、会社帰りの短時間で全てを満喫することは難しいだろうからポイントを絞って楽しむ予定を組んでいる。送迎バスの時間も考慮すると、私に与えられた時間はあまりにも短い。こんなところで無為に過ごして本数も少ない送迎バスを逃すわけにはいかないのだった。
頑張れ、歩。断るのだ。ほら、勇気を出して。
「午前中に作ってもらった資料のこの部分なんだけどね、先方の要望で……」
「あの、すみません、それは今日中に終わらせないといけない作業でしょうか? 急ぎでなければ月曜にしたいのですが」
「えっ?」
中園課長は驚いた顔で私を見た。いつも従順に仕事を受ける私の初めての小さな反抗が意外だったのだろう。私はと言えば、発言した側から弱気になっていた。
仕事帰りに温泉に行きたいから作業を明日に引き延ばすだなんて、わがままじゃないだろうか。私さえ我慢すれば丸く収まるのに、こんな主張をして良かったのだろうか。
「あの、何なら月曜の朝に早く出勤して作業しますから……」
不安に駆られて固まっていると、隣から塔子さんが助け船を出してくれた。
「課長、定時後に作業を依頼されて今日中と言われても困ります。渡良瀬さんも今日は用事があるようですし、それはどうしても今日中に出さなきゃいけない資料じゃないですよね?」
「ああ、大した修正じゃないし、月曜の昼までに直してくれればそれでいいよ。メールで内容送っておくから」
何か言われるのではないかとドキドキしていたが、中園課長は納得した様子で頷いた。
「じゃあ渡良瀬さん、お疲れ様」
「……あ、お先に失礼します……」
塔子さんの作り出した自然な流れに乗って私は職場を出た。
自分のささやかな予定を優先させてしまったという後ろめたさと、自我を通してもいいのだという昂揚感がせめぎ合う胸を手の平で押さえて宥めながら、私は会社の最寄駅から出ている送迎バス乗り場に向かった。
***
バス乗り場といっても看板がある訳ではなく、公式サイトの地図に描かれている場所に立って、合っているのだろうかと周りを見渡す。すると、同じように少し手持ち無沙汰な様子で立っている人が数組ほどいる。一人で立っている女性もいることに勇気づけられつつ、私はぼんやりと正面を見てバスを待った。
やがて、お目当ての日帰り温泉施設の名前がラッピングされた小さなバスがやってきて指定場所に停車した。待っていた人々がわらわらと集まってきて自然に列をつくる。
バスに乗り込むと、前に座った2人組の女性たちが楽しげに会話をしている。これから温泉に入れるという昂揚感は大人しくしている私だって一緒だ。このバスに乗る人々は皆、温泉に行くという目標を共にしているのだという不思議な一体感すら覚えながら、人々を乗せて動き出したバスの車窓を眺める。
駅前のごちゃごちゃとした風景から、次第に落ち着いた街並みへと変わっていく。バスに乗っている間に私は施設のサイトを見て、あらかじめ立てた計画を脳裏で復習した。
今日行く施設には、露天風呂のほかに岩盤浴やサウナなどもあるようだ。もちろんそれらは楽しみだ。しかし今回の私の一番の目当ては休憩スペースだった。この施設には膨大な数の漫画が所蔵してある。まさに温泉つき漫画喫茶といったネーミングがふさわしい夢のような施設なのである。
私は口コミやネット情報を見て考えた。当然土日は混んでいる。更に、平日の日中も、すいていると思ったら混んでた、の口コミ多数だった。私は混んでいる場所が苦手だ。元がビビりなので、人がいるだけでいろいろなサービスの利用を遠慮してしまうからだ。もちろん混んでないに越したことはないと思っている方がほとんどだと思う。
そんな人が行くべき時間帯は平日の夜だ。それだと仕事帰りのサラリーマンが同じ時間帯にどっと押し寄せるのではないかとの懸念もあるだろう。しかし私の体感だと、温泉施設は意外と日中より夜の方が空いている。もちろんサービスデーや安いクーポンが出回っているときなどは避ける必要があるが、大抵平日の夜は快適に過ごすことができる。欲を言えば金曜ではない方がもっと空いているが、翌日の仕事への影響を考えると金曜の決行もやむを得ない。
平日の夜となると最終の送迎バスの時間などを考えるとどうしても滞在時間が短くなってはしまうが、短い時間でも有意義な時間を過ごせるように綿密な計画を立て、更に状況に応じて臨機応変に、より良い選択をしていきたいところだ。
岩盤浴がある場合、専用の岩盤浴着があれば良いのだが、今回はそれはない。従って館内着が汗で濡れることを考慮してスケジュールを立てる必要がある。今回は時間が短いので、追加の館内着の購入は見送り、ほどよく岩盤浴と休憩を楽しんだ後、最後に風呂に入って岩盤浴の汗を流した後に自分の服を着てすぐに帰るプランにしようと決めていた。本当はレストランの料理の味もチェックしておきたいところだが、限られた時間の中なので今回は他のイベントを優先することとし、施設が気に入ったら改めて来たときに利用することにしよう。
***
そんなことを考えているうちにバスは目的地に到着した。運転手さんにお礼を言ってバスを降りる。駅から15分ほど離れたところにあるその施設は、街中から少し離れたところにあるだけあって結構広い。
受付を済ませて館内着などが入った手提げ鞄を受け取って更衣室に入る。館内着に着替えた後、私はまず冷え切った身体を岩盤浴で温めることにした。いくつかある部屋の一つに入ると、部屋の床面の両サイドには一面に砂利が敷き詰めてあり、寝転がれるようになっている。そこにはすでに数人の人達がバスタオルを敷いて横たわっている。気持ち良さそうな寝息を立てている人もいた。私も早くその世界に行きたい、とはやる気持ちを抑えながら、空いている場所にバスタオルを敷いて仰向けに寝転がった。
部屋は蒸し暑い。目を閉じると、バスタオルを通して温まった砂利の温もりが背中に伝わってくる。じんわりとした温かさが次第に全身に伝わっていく様子をしばらく楽しむ。
今日も仕事頑張ったな。帰りは我を通して退社してしまったが大丈夫だっただろうか。不安な気持ちも温もりと共に次第にほぐれ、明日になれば明日の風が吹くだろう、と私にしては珍しく楽観的な気持ちになっていた。特に今日は金曜日だ。来週になれば課長も先週末のやりとりなど忘れているだろう。
額を汗がつたって行く。暑い。でもそれが心地よい。全身の毛穴からじんわりと汗が吹き出してくる。
いいな岩盤浴。私は至福の喜びを感じながら、しばらく砂利の上に横たわっていた。さっきまで会社でぴりぴりしながら仕事をしていたのが嘘みたいだ。
充分温まった私は、一度外に出て火照った体を冷やすことにした。ペットボトルの水を買い、ひんやりとした水が喉を通り過ぎるのを楽しむ。しばらく涼んで汗が引いたところで、お待ちかねの休憩スペースへと足を伸ばすことにする。部屋に入った私は思わず呟いた。
「これは……期待以上だ」
背の高い本棚が壁一面を埋め尽くす。ジャンル別に漫画が整然と並べられていた。私は片っ端からどんな作品があるかチェックする。
「おっ、こんなのあるんだ」
昼休みに後輩が話していた漫画だ。聞いたことのないタイトルだったので少しマニアックかと思っていたが、そんな漫画まで置いてあるとは侮れない。さすがは温泉つき漫画喫茶の名を欲しいままにしているだけのことはある。もっともそんな名で呼んでいるのは今のところ私だけなのだが。
「仕方ない。来週の昼休みにあの子と話を合わせるために読んでおいてやるか」
数冊手に取り、空いているリクライニングシートに座ってページを開く。なんて快適なんだ。極楽浄土が存在するとしたらまさにこんな場所だろう。
仕事帰りの夕食時なので、子供の姿はなく周りは大人ばかりだ。一日を過ごして皆それなりに疲れているのだろう、静かでまったりとした時間が流れている。リクライニングシートを倒して眠る人や漫画に没頭する人など、皆思い思いの時間を過ごしているようだった。ほんのりと館内に漂う硫黄の香りに、この香りが自分に届くまでの経緯に思いを馳せる。これは温泉から直接香りが立ち上っているというほど施設の空気全体から香りが立ち上っているわけではない。先に入浴してからこの場所に辿り着いた人から移った残り香なのだろうか。
***
しばし漫画の世界に没頭した後、壁に掛かった時計の針をみて、自分に残された時間がわずかであることに気付く。温泉とサウナと楽しむためには、逆算して今すぐに浴場に向かわないと最終の送迎バスを逃してしまう。
早足で浴場に向かう。身体を清めた後に露天風呂へと向かった。外に出ると硫黄の香りが鼻をくすぐり、これが先程の香りの正体であったかと頷く。温泉地の露天風呂を模倣した、岩の形状のもので囲まれた浴槽の中に、ほのかに濁った硫黄の香りの湯が佇んでいる。楽しげにはしゃぐグループ客もいるがそれもご愛敬と思いつつ、湯に浸かって至福の時を満喫する。今日あった嫌な記憶は全て湯に溶けて消えていく。
ここでも皆、思い思いの姿勢で湯を楽しんでいた。自分ももっとリラックスした姿勢で湯を楽しみたいものだと思うが、まだそこまで大それた態度を取ることはできない。湯の中で体育座りをしてしばらく温まった後に、サウナへと向かうことにした。
サウナ室に一歩入ったところで、私は歓喜に打ち震えた。熱い。顔にむわっと押し寄せるこの熱気。程よい広さの、板張りの階段状になった床。正に待ち望んでいた空間がそこにあった。
最近はサウナブームでよくサウナの話を聞くが、男性向けのサウナは多々あるものの、女性向けの高温の乾式サウナは意外に少ないように感じている。湿式で温度の低いサウナもニーズはあるのだろうけれども、私は高温で一気に熱せられてその後水風呂で一気に身体を冷やすようなサウナに焦がれていた。
漫画を一番の目当てに訪れたこの施設で、こんな極上なサウナと出会うことができるとは。浮き足立ながらサウナ室の中段に、湯船のときと同じく体操座りで座り込む。
じりじりと肌を焼く熱気にうっとりとしていると、不意に面前から熱い風が吹き出してきた。これはもしかして、噂に聞くオートロウリュというやつか。定期的に蒸気を発生させ、室内の湿度を上げてくれるものらしい。湿度が上がっているのかどうかは正直分からないのだが、熱風に吹き付けられる感覚は悪くない。焼け付くような熱気の中で目を閉じ、こんな熱い中で何故か沸き起こる寒気さえも楽しみながら、私は無念無想の境地に達する。
これ以上我慢出来ないという状態まで身体を温めた後、サウナ室を出て吹き出す汗を軽く流した後に、すぐ側にある水風呂に徐に足を踏み入れた。これまで偉そうにサウナについて語ってきたのではあるが、実はサウナ初心者で、お恥ずかしいことにまだ水風呂に肩まで浸かることが出来ないのだ。
腰まで浸かったところでギブアップし、外へと出ていく。露天風呂の傍らに寝椅子が置いてあるので、身体を軽く拭いた後に身を横たえると、ひんやりとした空気が火照った身体を冷やしてくれる。極上の時間だ。この上ない至福の時に、私は何もかも忘れて、冷たい風にさらされてもなおホカホカとしている身体の心地よさを楽しんだ。
最終の送迎バスに乗ろうとしているのだろう、平日夜にも関わらず大勢の人達が洗面所でドライヤー片手に髪を乾かしている。平日の夜でこの混み具合ということは、土日はどんなに混雑していることだろうと思いつつ、私も何とかドライヤーを確保して必死に髪を乾かす。少しのんびりし過ぎてしまったようだ。
何とか最終のバスに間に合わせ、夜遅いとは思えないぎゅうぎゅうのバスに揺られながら、私はこの地への再来を心に決めたのだった。
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