仕事上がりの日帰り温泉のすすめ
狗巻
第1話 岩盤浴後にビールで乾杯
「渡良瀬。昨日メールで送ってもらった資料だけどな」
ノートパソコンの電源を落としていざ定時退社しようとしていた私の背後から、念入りにセットした髪をかき上げながら上司の中園課長が声をかけてくる。
「何カ所か直して欲しい所があったから、今メールで送った。今日中に修正頼むよ」
金曜日こそは早く上がろうと思って、溜まった仕事を頑張って片付けて準備万端に用意してたというのに、何でよりによって定時になってから仕事投げてくるかな。私は忌々しい気持ちで心の中で舌打ちしながらも、笑顔で中園さんに返事する。
「分かりました。今日中ですね」
パソコンの電源を入れ直し、起動するのをじりじりと待つ。やっと立ち上がったかと思ったら今度はメーラーがなかなか起動しない。何度目かのクリックでやっとメーラーを開き、私は中園さんのメールを探し当てて添付ファイルを開いた。良かった、指摘自体は大したこともない。つまらない間違いでの差し戻しを避ける為に、昨日送る前に念入りにチェックした甲斐があった。中園さんは基本レビューに関してはザルだから、そんなに指摘も受けないだろうと予想していた通りだった。
今日一番の集中力を発揮して資料の修正を終わらせ、ざっと見直した後に資料をメールに添付し、送信ボタンを押す。
「中園さん、修正終わったのでメールで送っておきました」
声をかけると、若い女の子の部下と楽しそうに談笑していた中園さんはこちらを振り向いて言った。
「おお、早いな。ありがとう」
中園さんが内容をチェックしているのを待っていると、隣席の先輩の塔子さんがバッグを持って立ち上がるのが目に入る。
「あっ塔子さん、お疲れ様です」
「ごめん、お先に失礼するね」
「いえ、私ももうすぐ帰るので」
笑顔で挨拶する私に、中園さんが思い出したように言う。
「ああ、そういえば後もう一つだけ作ってもらいたい資料があるんだけど」
えっ、そうなの? 流石に私もげんなりする。そうやって金曜の定時後に作業依頼する癖、何とかしてくれないかな。少々苛立ちながらもそんな気持ちはおくびにも出さず、作り笑顔で応じる。
「何でしょう?」
「水曜日に打ち合わせでお客様に説明した件があっただろう? あの件について内容を分かり易くまとめた資料が欲しいとお客様からリクエストが来ている。来週の月曜にまた先方に伺う予定だから、今日中にその資料を作って欲しいんだよ。渡良瀬は資料作るの早いだろ。パワーポイント数ページでいいからさ、頼むよ」
中園さん、その話もう少しだけ早くしてくれても良かったんじゃないですか? 思わず口に出して言いそうになった私の怒りを察してくれたのだろう、塔子さんが無言でぽんと私の肩を叩いて宥めてくれる。
塔子さんは私より三つ上で、育児をこなしながら仕事もバリバリこなす、アップにした黒髪が素敵な女性だ。結婚もせず仕事で目立つわけでもない私とは出来が違う。そんな彼女が私の気持ちを分かってくれているということに慰められ、私は気を取り直してもう一度席に座り直した。
「頑張れ」
小声で言ってガッツポーズする塔子さんと視線を交わして頷き合う。仕方ない。あと少しだけ我慢して一仕事終わらせるか。塔子さんの後ろ姿を見送った後に改めてモニターに向き合う。
資料を作るからには自分が納得いくものを作りたい。できるだけ短時間で、なおかつ品質の良い成果物を提供するにはどうすればいいか。しばらく考えていると、不意に天からイメージが降りてくる瞬間がある。初めはぼんやりとしているそのイメージを、頭の中で少しずつブラッシュアップしていき、明確に見えてきた所でソフトを立ち上げて資料を書き出す。作るものが決まれば、後は機械的に手を動かすだけだ。絵心はないので、見栄えの良い資料作りはソフトのオプション機能にお任せし、私は最低限の書き込みで伝えたいことがきちんと伝わる資料を作ることに専念する。一時間ちょっとかけて、我ながらなかなか良い資料が作れたと自画自賛しながらメールに添付して送った。
「中園さん、資料出来ました。後は中園さんの良いように修正して使って下さい」
今度こそ帰るぞ、という強い気持ちを込めて、エクセルとにらめっこをして金計算をしている中園さんに声をかける。
「ああ、今内容をチェックする。ちょっと待ってくれ」
中園さんは私が送った資料を開いてざっと目を通した後、満足げに頷いた。
「ありがとう。助かるよ」
「他に何もなければ、今日はもう上がらせてもらいますね」
そう言ってパソコンをシャットダウンしようとしていると、中園さんがまた何か閃いた様子で話しかけてきた。
「あのさ」
今度は何だろうかと思いながら向き直ると、中園さんは満面の笑みで言った。
「渡良瀬、今日は随分そわそわしてるなと思ったけど、もしかしてこれからデートか?」
ああ、そういうの。私は心の中で呟く。お願いだから勘弁してください。
もう慣れているし、気にもしていないつもりだ。でもそんなことを言われる度に何故か胸の辺りがチクッとする。この痛みは一体何なんだろう。他の人と少しずれていることにコンプレックスを感じているのだろうか。頑張って仕事をこなした仕打ちがこれだとは、あんまりだ。
「ご想像にお任せします」
私は中園さんに向けてにっこり微笑むと、そそくさと職場を後にした。
急ぎ足で最寄りの駅に向かいながら、腕時計をチラリと見る。予定よりも二時間のロス。今からだと終電まで三時間程度の滞在になるが、せっかく楽しみにしていたのだ、ここは予定通りスケジュールをこなすことにしよう。私はそう決心し、普段の通勤時とは違う電車のホームに向かった。
***
私は渡良瀬歩。今年、とうとう三十代に突入してしまった。いつもつるんでいた同期の女子はいつのまにか結婚してしまい、恋人もいない私は最近一人で行動することが多い。同じ仕事をしている同年代の女性はほとんどが結婚している。こんなに皆、当たり前のように結婚していくが、私にはその相手の見つけ方からして、皆目見当がつかないのだ。一人でいる時間が快適すぎて、誰かと一緒に過ごす時間の良さが分からなくなってしまっているのかもしれない。
ネットの記事などで、仕事に打ち込み過ぎて婚期を逃したキャリアの女性がたまに出てくるが、私のキャリアはそんなに大したものではない。毎日至って平凡に仕事をこなし、特別なスキルがあるわけでもない。資料作りには少しこだわりがあるが、ちょっといい感じの資料を作る能力なんて上司に重宝されるくらいで、出世の道具にはならない。そもそも現在の私には、仕事に対してそんなに高い志がある訳でもないのだ。
入社したばかりの頃はバリバリと仕事をこなすキャリアウーマンに憧れたこともあったが、自分も特別な人間になれるという根拠のない自信は社会人になってから数年の間に打ち砕かれ、今では最近出て来た『ワークライフバランス』という使い勝手の良い言葉を前面に出して、及第点の仕事をこなしながら、いかにプライベートの時間を最大限に確保するかということに苦心している。
そうやって頑張って勝ち取った貴重な時間を、私は入浴とその後のリラックスタイムに充てていた。毎日の自宅での入浴もいいが、私の小さな楽しみは、金曜の夜の会社帰りに銭湯に寄ることだった。普段は会社から家に帰る途中の駅で降りて、そこから五分ほど歩いた所にある銭湯に寄るのが常だった。そこは小さな銭湯ではあるが天然温泉だった。いつでも混んではいるが、いくつか回った銭湯の中ではそこが一番私のニーズに合っていた。普段旅行などしなくて温泉に飢えている私は、すがるようにして毎週その銭湯に通い、温泉と湯上がりの時間を楽しんでいたのだった。
だがしかし、今日は給料日。たまには浮気心を出して最近流行の日帰り温泉なるものに行ってみても罰は当たるまいと考えた私は、少し遠出して街の日帰り温泉を訪れようと細やかなプランを考案していた。高い入場料の元を取るべく長時間の滞在を目論んでいた私は、危うく予定の決行を諦めかける所だったが、「今行かないと私はもう二度と日帰り温泉などというハイカラな空間に赴くこともないだろう。ここは這ってでも行くべきだ」という少々気負い過ぎな思いと共に、目的地へ向かう電車に乗りこんだのだった。
***
いくつもの駅を飛ばしながら遙か遠くの終点地を目指して走る電車は、会社帰りのサラリーマンやOLでごった返している。普段より十五分ほど長く電車に乗っているだけなのだが、会社帰りの非日常感が新鮮で何だかワクワクしてくる。駅から施設までの道筋を改めてスマートフォンで確認しながら、私は車窓から外を眺めた。みるみる後ろに流れていく夜景は、いつも乗っている路線よりも灯りが少なく暗い。馴染みのない街に向かっているのだなと改めて実感しながら、ボブの髪を揺らしながらいつもより少しだけ目を輝かしている、窓に映る自分に向けて自然に微笑みかけていた。普段は至って腰の重い、ものぐさな私にしては上出来ではないか。
やがて電車は大勢の人達と共に私を目的地のホームに下ろし、次なる駅へと走り去っていった。ちょっとした旅情を感じながら、人混みの流れに乗って改札口を出る。普段の生活圏内では見かけないデパートや店、通り過ぎる人々を眺めながら、街の夜道を歩く。
目的の施設は駅から数分歩いた場所にあった。通い慣れた銭湯とは趣きが異なる小綺麗なエントランスに腰が引けながらも、ここまで来て入らない訳にはいかないだろう、と覚悟を決めて中に入る。下足箱に靴を収めて周りを見渡すと、立派な受付とその先に階段が見える。
広いなあ。感心しながら周りを見渡す。私としたことが、風呂好きを自称しておきながらこういう世界があることを今まで知らなかったとは迂闊だった。最初の一歩を踏み出すのは億劫ではあるけれど、新しい世界を知るというのもなかなか悪くない。
受付を終えて館内着を受け取り、更衣室に入る。初めに行く場所はもう決まっている。何はさておき岩盤浴だ。いつもの銭湯で岩盤浴に入ろうとすると別料金なのに比べ、この施設では岩盤浴も込みの値段設定なので、この機会に思う存分利用しようと思っていた。
重い扉を開けると、むわっとした熱気が顔を襲う。幸いそんなに混んではおらず、私はバスタオルを敷いて岩盤の上に寝転んだ。石の硬い床からバスタオルを通してじんわりと熱気が身体に伝わってくる。自分の身体が思ったよりも冷えていることに気づき、こんなに熱い部屋にいるのに寒気を感じて身震いする。目を閉じると、床に触れた背中や腰が少しずつ温まっていくのを感じる。つい一時間程前までオフィスでキリキリしながら仕事をしていたのが信じられない。温かくて、気持ちいい。思えば、スマートフォンも見ず音楽も聞かず、ただ何もせずに横になる時間なんて最近はほとんどないように思う。誰も褒めてくれはしないけれど、私は毎日だらける時間も惜しんで仕事したり何かしたり、良く頑張ってるよ。心の中で自分を労う。
生きていく為に、自分のキャパシティを超えて頑張ってる。私にはちゃんと分かっているからね、なんて自分自身に語りかけてみる。
身体が少し痛くなってきたので寝返りを打った。今度は身体の脇の部分が床に触れて温かい。背中を汗が流れるのを感じる。こんな風に汗をかくのはいつ以来だろう。別に運動をして流した汗ではないが、毛穴から汗と共に老廃物も流れ出ていって、身体にいいことをしているような気分になる。こんな錯覚からの流れでつい自分を甘やかしてビールを飲んでしまうんだよな。きっと今日も飲んでしまうだろう。
平日の夜は、休日とは違って私のように一人で来ている客も多く、居心地が良い。幸せだなあ。私は再び仰向けになり、手足を伸ばして脱力する。もう自宅になんて帰らずにここに住みたい位だ。目を閉じると一瞬ふうっと気が遠くなり、はっと我に返る。今ちょっと寝ていたかもしれない。いびきをかいたりしていないか気になりつつ、もう一度逆方向に寝返りを打つ。囲炉裏で串に刺した魚を回転しながらじっくり焼くように、私はあらゆる面から岩盤の遠赤外線で温められ、いい感じにこんがりと出来上がっていく。
汗もたっぷりかいたし、そろそろ風呂に行こうかな。やはり私にとっては温泉が本日のメインイベントだった。この施設の湯は天然温泉であることはもちろん調査済だ。源泉掛け流しの浴槽もあるとのことで、私は大いに期待していた。こんな街中に温泉が湧くなんて正直驚きだ。私は日本という地の奇跡に感謝しつつ、その恩恵をありがたく楽しもうとワクワクしていた。
洗い場で軽く身体を洗った後、私は浮き足立ちながら早速半露天の天然温泉へと向かった。南国の植物に囲まれたその空間に思わずテンションが上がる。やっぱりいいな、こんな非日常感。遠路遥々ここまで来て良かった。改めてそんなことを思いながら、私は真っ直ぐに源泉掛け流しとコメントされた浴槽へと向かった。頭に濡れタオルを乗せて琥珀色の湯に一歩足を踏み入れる。さらりとした湯は友好的に私を受け入れてくれる。やばい。温泉最高。歓喜に打ち震えながら、私はゆっくりと湯の中に入り、肩まで浸かって長い溜め息をつく。
生きていて良かった。私の生きる意義が温泉に入ることにある、というのは喜ぶべきことなのか、悲しむべきことなのかは分からないが、少なくとも今この瞬間、私はこの上ない幸せを感じていた。なかなか人生の波を上手く乗りこなせないというやるせなさや、出来ることならば仕事をしたくないのに働かなくてはいけないという世知辛さも、今この瞬間だけは全て忘れて、至福の時にただ身を委ねる。
温泉、最高。私はしみじみと呟いた。今は初秋。これから段々と気温も下がり、ますます温泉の恋しい季節となる。名だたる温泉地に足を伸ばして自然の中で名湯を満喫するのが理想ではあるが、日々作業に追われるすさんだ日常の中で、仕事帰りにこうやって時間を見つけて小さな喜びに癒やされる、こんな時間もなかなか悪くはない。たまにこのような小さな贅沢に身を委ねることが出来るだけの時間と細やかなお給料さえあれば、私は幸せかもしれない。
周りを見渡すと、皆思い思いに湯を楽しんでいる。友人同士なのか談笑している女の子達や、腰掛けに身体を横たえて長湯している年配の女性。私もその中に混じり、憩いのひとときを過ごしている。皆、疲れ切った身体をここで休めて、そして再び日常という戦場に繰り出していくのかもしれない。勝手にそんな想像をしつつ、私はうっとりと目を細めた。ここでは多くを抱える者も何も持たない者も全てのしがらみから解放されて、裸になってのんびりと羽を伸ばしている。何て素晴らしいことだろう。
私は大したものは持っていないけれど、お風呂に入っている間はそんな自分を肯定出来る気がする。本当は入浴中に限らず、ずっと自分に自信を持てるようになるといいんだろうけれど、まあ自己肯定の第一歩としては悪くない。
風呂好きのくせにそんなに長湯が出来ない私は、少し逆上せてフラフラになりながら風呂から上がった。さあ、この後はお待ちかねの至福のビールの時間だ。替えの館内着を着てドライヤーでざっと髪を乾かした後、私はスキップでもしたいくらいの軽い足取りで、施設内のレストランに入った。
やっぱりここはビールと餃子でしょう。後、唐揚げも捨てがたい。至ってスタンダードな選択で私は風呂上がりの晩酌を楽しむことにした。少々自分にご褒美を与え過ぎではないかという後ろめたさはあるが、大きな満足感と充足感に私は胸が熱くなった。やはり奮発して日帰りスパ施設を利用した甲斐があった。
先に来た瓶ビールを良く冷えたグラスに注ぎ、窓から見える街の夜景を眺めながらグラスのビールを一気に飲み干す。喉を冷たい液体が流れていく。普段はそんなに酒を飲む訳でもないが、他の人がしていることを真似してやってみると、意外と悪くないことに気づく。また一つ、未知の世界を知ることができた。大人の階段を一歩上ったかな。しかしもういい大人なのにこれ以上何を目指すんだ、などと思いながら再びグラスにビールを注ぐ。
「あれ、歩ちゃん? お疲れ様」
不意に名前を呼ばれ、私は慌てて声の主を振り返った。そこには先程オフィスで背中を見送ったはずの塔子さんの姿があった。
「塔子さん。ここに来てたんですね」
「そうなの。良かったらここに座ってもいいかな」
塔子さんが遠慮がちにそんなことを言うので、私は大きく頷いて向かいの席を勧めた。
まさかこんな所で会うとは。私は意外に思いながら塔子さんを見た。てっきり塔子さんは高級スーパーで食材を買って、自宅で気の利いたディナーを準備して家族で楽しい週末の時間を過ごすのだと思っていたから。そんな私の疑問に応えるかのように、塔子さんは笑顔で話をする。
「今日は旦那がうちの子を連れて実家に帰っていてね。なかなか普段は一人で温泉なんて来られないし、折角だから羽を伸ばして過ごそうと思ったの。オフィスから離れた場所を選んだつもりだったんだけど、まさか歩ちゃんがいるとはね」
「私も全く同じ気持ちです」
すかさず私もそう返事し、二人で目を合わせて笑い合う。風呂上がりの洗いっぱなしの髪に薄いメイクの塔子さんは、キリッとしたアップヘアとハイヒールでオフィスを闊歩するいつもの彼女よりもずっと幼く見えた。
「私もビール頼んじゃおうかな」
「良かったら餃子と唐揚げも食べてください」
「ありがと。じゃあ被らないように他の料理も頼んじゃおうかな。何か食べたいものある?」
そう言って屈託のない笑顔を見せる塔子さんに、私も自然と楽しい気分になる。最近の出来事を思い返しながら心の中で延々と独り言を繰り広げる一人の時間も良いけれど、たまにはこんな二人女子会も悪くない。早速店員が持ってきた生ビールで乾杯し、当たり障りのない職場の話から始まり、酔いが回るにつれて次第に明け透けな会話へと進行していく。
「中園さんってば、面倒なプロジェクトはすぐ他の人に押しつけて、自分は美味しい所だけ取ってくんだよね。こちらはテンパってひいひい言ってるのに、自分だけ余裕で、髪型キメキメで格好つけちゃってさ。全く」
「塔子さんもそう思ってました? 私も最近無茶ぶりが目に余るなと思い始めてたんですよ」
「そうだよね。結構そう言ってる人多いよ。中園被害者友の会が立ち上がりそうな勢い。本当、悪口でも言わないとやってられないっつうの」
そう言って塔子さんはビールジョッキを傾けてぐいっとビールを口の中に流し込んだ。そんなに酒に強くはないのだろう、色白の肌が真っ赤に染まっている。私もビールを一口飲んだ後、ぽつりと塔子さんに言った。
「意外です。塔子さんはいつも完璧で、いつも前向きにバリバリ仕事をする人なんだって思ってました」
「私も人間だよ。そんなスーパーウーマンな訳ないじゃない」
塔子さんはそう言って飾らない表情で笑った。
「でも私密かに塔子さんに憧れてるんですよ。万年ヒラの私と違って出世頭だし、いつも冷静で頭の回転も速いし。私も塔子さんみたいだったらいいのに、って思うことありますよ」
それに、結婚して理解のある素敵な旦那様と可愛い娘さんもいるし。私は塔子さんのことを、全てを手に入れた一つ上のステージの人間として見ていた。
「そういう風に言ってもらえるのはありがたいけれど、私なんてまだまだだよ。失敗することだってあるし、仕事行くの嫌だなって思うこともあるし。だからそんなに褒められると何だか逆にプレッシャー感じちゃう」
塔子さんは素敵な笑顔で言葉を繋ぐ。
「所詮は同じ会社に属する一人の人間でしかないよ。それに、どうあがいても今の自分の能力の範囲でしか結果も出せないし。だから人と比べて仕事が出来るだとか、誰かにどう思われるか気にするとかじゃなくて、ただ常に自分が出来る最善の結果を出せるように心がけるだけだよ」
塔子さんはさらりと言ったけれど、それって結構難しい。例えば私が常にベストの結果を出すように前向きに取り組んでいるかと問われると、大手を振ってイエスとは言えないかもしれない。全力を出して頑張っていたとしても、それはそういう状況に追い込まれてやむなくやっているだけで、決して自ずからやっている訳ではない。そんな所が塔子さんと私の差なのかな、と自省しながら塔子さんの、ほとんどメイクしていないにも変わらず整った美しい顔を眺める。塔子さんはそんな私の羨望の眼差しもモノともせず、空になったジョッキを脇に置き、メニューに視線を落として次のドリンクを熱心に選んでいる。
「歩ちゃんももっと飲みなよ。ごちしてあげるから」
「いえいえ、とんでもないですよ。ここは割り勘にしましょうよ」
「たまには先輩らしいことさせてよ」
そう言って塔子さんはメニューから顔を上げ、上目遣いに私を見て悪戯っ子のような表情で微笑んだ。やっぱりこの人にはとても敵わない。そう思いながらも私は、鬱々としていた心が少しずつ明るくなってくるのを感じていた。塔子さんと話していると、明日から生きる為の糧を分けてもらったような気持ちになる。
「歩ちゃん」
塔子さんは正面から私を見つめて言った。
「最近、年取るのってそんなに悪くない気がしてきたんだよ。若い子と張り合うとしんどいけどさ、でもこうやって後輩と落ち着いた話もできるし、それに後輩に格好いい所見せることも出来るようになってきたからね。だから歩ちゃんも自信を持って年取りなよ。今の歩ちゃん、頑張ってて魅力的だよ。私は知ってるからね」
「塔子さん……」
私は何だか感極まって塔子さんに潤んだ瞳を向けた。憧れの人にそんなこと言ってもらえたら、明日からも頑張れる気がしてくる。
***
結局二人でたらふく食べて飲んで、すっかり良い気分でとりとめもない話をした。まさか塔子さんとこんなに打ち解けられるとは思っていなかったが、これも塔子さんの持つ人間力の賜物かもしれない。
塔子さんがトイレに行くと言って席を立ったので、私は酔い冷ましにアイスを食べながら窓の外を眺めた。そこには、すっかり夜も更けたが変わらず煌々と輝く街が広がっている。大人っていいな。塔子さんに感化されたのか、今更ながら私はそんなことを考えていた。こんな風に街で夜更かししても、誰にも怒られない。自分で稼いだお金で美味しいものを食べて、温泉に入って、素敵な先輩と酒を酌み交わしながら楽しく話ができる。こんなの大人の特権だ。年を重ねるというのも、なかなか悪くない。
本当に、こんな週末もたまにはいいものだ。なかなか報われなくても、頑張っていれば誰かが見ていてくれることもあるし、こんな楽しい時間を過ごせることだってある。私は珍しく前向きな気分になっていた。
明日からは、もうちょっとだけ頑張ろう。私はそう心の中で呟きながら、もう一度窓を眺めた。
窓に映った私は、酔っ払って真っ赤に染まってはいたが、いつもよりも少しだけイイ顔をしていた。
--完--
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