その7

 ブッダの教説には、絶対的なもの、超越的なものに関する積極的な言及は見当たらないようだ。あらゆる事物は相対的にあり、それをありのままに観ることこそ智恵であり、解脱への道なのである。

 それでは形而上的な絶対的存在、超越的な存在に対してはどういう態度を取ったのかというと、それは「無記」(無回答)である。有るとも言わず、無いとも言わない。ブッダによればそれは人間の現生における苦の解決には無関係なものである。原始経典によれば、ブッダは、(1)この世界は時間的に有限であるか、無限であるか、(2)この世界は空間的に有限であるか、無限であるか、(3)霊魂と肉体は同じであるか、別であるか、(4)人間は死後なお存在するのか、しないのか、という当時流行の形而上学的な質問を受けた時、質問者が答えなければあなたの下での修業は止めるといって迫ったにも拘わらず、答えなかった。その理由は、いずれかに断定することが「独断に陥る」ことであり、「意見の密林、意見の難路、意見の紛争、意見の乱闘、意見のしがらみに縛せられる」ことであり、「それは苦を伴い、破滅を伴う。そして、厭離・利殖・滅尽・寂静・智通・正覚・涅槃には役立たない」からだと言う。(南伝中部経典七二・六三)。

 またブッダは「何をか一切となすのであろうか」と比丘たちに問いかけて、「それは、眼と色(物体)とである。耳と声とである。鼻と香りとである。舌と味とである。身と蝕(感触)とである。意と法(観念)とである。」と延べ、いわゆる内外の六処を「一切」としてあげ、その他に「一切」を言うものがあったならば、それは「ただ言葉があるのみ」だと語ったと言う。(南伝相応部経典三五・二三)。

 つまりブッダは、現象世界(知覚や感覚によって認識し、判断することのできる世界)を超えた事柄についてはこれを問題としなかった。彼が説いたのはあくまで縁起の理法のなかで生滅変化する現象世界の一部としての人間、その人間の苦・苦の生起・苦の消滅に至る道であった。


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