その6

 私は人一倍とらわれの強い人間だ。しみじみそれを感じる。思いへのとらわれが特に強い。それで自縛して苦しむ。それは仏典で渇愛(生きていることへの盲目的な貪り)と呼ばれているものから生ずる妄執だろう。私がブッダの教説にひかれたのは自分のこうしたさがによる苦しみからのがれたかったからと思われる。それがブッダへの傾倒の根底にあることは確かだ。

 物事にとらわれることが私の生得の性とするなら、それを拒否したりせず、とらわれればとらわれるままに動いたらいいという考えが胸を過ることもある。それが自己を偽らず生きることであり、自己を生かすことであり、充足に至る道であると。しかしその考えの観念性、非現実性は少し考察を加えれば明らかになるようだ。とらわれのままに動くというのは、とらわれから意識をそらさず、それを真正面に据えて、その解決のために行動する、つまりとらわれから脱するためにその原因を除去しようとあれこれ努めるという意味なのだが、そこがとらわれのとらわれたるゆえんで、一つのひっかかりが除去されると次のひっかかりが生じてくるのだ。結局、際限もなくとらわれを追いまわすことになるのだ。それはとらわれの中にますます深くはまり込むことを意味する。とらわれとは個々の現象的な原因から生じたものではなく(個々の原因は発現のきっかけに過ぎない)、一つの心の状態なのだ。渇愛に心が焼かれている状態なのだ。根元にある渇愛を滅ぼさない限り、とらわれはなくならない。それでは渇愛を自己の本性と見なして、渇愛のままに生きるべきなのだろうか。それは不可能だ。なぜならそれは際限の無い苦海に自分を沈めることだから。苦しみと束縛と愚かさを自己の本性と見なすことだからだ。そこには何の自由も希望も見出し得ない。とすればそれこそ自己の本性に逆らうことになるだろう。自由の追求はすべての人間の本性なのだから。とらわれやその根元である渇愛を従うべき自己の本性と見なすことは、自己に忠実でも自己を生かすことでもなく、アルコール依存症の患者が酒を握って離さないようなものだ。それは自分を滅ぼすことに結着する。

 とらわれの背後には強い生の充足への欲求、生きることにおいて完全でありたいとする欲望があると言われている。私もそうなのだろう。しかしそれを野放しにしておいては渇愛となって、却って私の生を損なうのだ。コントロールが必要なのだ。それが私にとってはブッダの教えだ。ブッダの教えは私の強い生の充足への欲求を、とらわれの方向ではなく、自由の方向へ解放してくれる。

 どうやら二つの真実がこの世界にあるようだ。一つはすべては変化し、滅び去るものであるということ、もう一つは、人間の幸福は内面の平安、充足にあるということだ。もし人がこの事を知るなら、彼はブッダの教えを受容するようになるだろう。またブッダの教えに従うならばこの事を理解するに至るのだ。ブッダの教説では前者は無常、無我として説かれており、後者は四諦の教えとして核心的に説かれている。五蘊(ごうん)(物質、肉体、意識)のなかに幸福は存在しない。なぜならそれは縁起の網の目のなかで不断に生滅、変化しており、絶えず人間の執着を裏切るからだ。執着する人間にとってこの世界はまさに苦悩の坩堝なのだ。それではどうすれば内面の平安や充足が得られるのか。それは一言で言えば五蘊との連関を断ち切ることだ。変滅限りない五蘊に引き回されていては平安は得られない。主体を五蘊とは別の次元に打ち立てることだ。それは五蘊を無視することではない。鍵は五蘊に対する執着を捨てることにある。五蘊の実相が無常、無我であることを徹見し、それへの執着がただ苦をもたらすことを了解して、執着を捨てることなのだ。それがブッダの教えだ。五蘊への執着を捨てることによって、五蘊に束縛されず、支配されず、逆に五蘊を調御する自在な主体となることができるだろう。言いかえれば五蘊と適合した関係に入ることができるのだ。

 五蘊に対する執着を断ち切った境地、それがニルヴァーナ(涅槃・解脱)であり、ニルヴァーナには深い充足がある。その境地を一時の陶酔的なものとせずに維持し、ますます深め、確立し、生涯そのものとすること、それが仏道修行であり、そのための実践項目が八正道を初めとする三十七菩提分法だ。

 言うは易く行うは難い。私のような渇愛の強い者がこの道を歩むのは容易ではない。しかしそういう者だからこそこの道を歩む他はないのだ。

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