その5

 言うことと行うことはまったく別の事柄である。正にTo say is one thing, to do is another なのだ。このことは銘記されなければならない。ブッダはこのことを熟知していたに違いない。彼は初転法輪の際次のように語った。4で述べたように初転法輪では四つの貴い真実(四聖諦)が説かれたのだが、彼はそれぞれの真実について次のように述懐している。

「比丘たち、とうとい真実としての苦とはこれであると、わたしには、かつて聞いたことのない法に対して、見る眼が生じ、理解が生じ、洞察が生じ、直感が生じた。比丘たち、このとうとい真実としての苦は知り尽くされなければならないと、わたしには、かつて聞いたことのない法に対して、見る眼が生じ、……(同前)……直感が生じた。」以下同様に集諦については、「とうとい真実としての苦の生起の原因は断ち捨てられねばならない……苦の生起の原因はすでに断ち捨てられた」、滅諦については、「とうとい真実としての苦の消滅とはこれである……苦の消滅は現実に体験されなければならない……苦の消滅はすでに現実に体験された」、道諦については、「とうとい真実としての苦の消滅に進む道はこれである……苦の消滅に進む道は実修されなければならない……苦の消滅に進む道はすでに実修された。」(南伝 相応部 五六・一一)

 このように四諦のそれぞれについて三重に考察して、「浄らかにそれらの真実をありのままに知見したから、わたしは最高の正しいさとりをさとったと自認した」と述べている(同前経)。ここにはブッダの自分自身の実践に対するチェックがある。彼は苦と苦の生起の原因および苦の消滅と苦の消滅に至る道を知り、実修し、現実に自らを苦から解放した。だからさとったと自認し、教えを説き始めたのである。

「世尊によりて善く説かれたる法は、現に証せられるものであり、時を隔てずして果報あるものであり、〈来り見よ〉というべきものであり、よく涅槃に導くものであって、智者によりてそれぞれ自ら知られるべきものである」というのはブッダの教えの性格を示すために原始仏典によく出てくるひとつのきまり文句だが、この言葉にはブッダの教説の実践性、現実性が反映している。

 ブッダが現実の苦悩を消滅させるのに役立たない空理空論を退けたことは『箭喩経』などに明確に出ている。ブッダにとって真実とは苦の現実における消滅である。原始仏教には来世、成仏主義は片鱗もない。極めて現実的実践的な立場が貫かれているのである。

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