その4

 1で私は、ブッダの教説は人間の意識を動物的生存の維持の枠から解放するものだ、と述べたが、正確には動物的生存の維持に淵源する執着から解放するものなのである。さらに言えば「動物的」は除いてよい。つまりブッダの教説は人間の意識を生存の維持に淵源する執着から解放するものなのだ。

 四念処(あるいは四念住)という言葉がある。四つの念ずべき事柄という意味である。ブッダに帰依する者は日々これを心に念じ、瞑想において観想する。それは次の四つである。


(一) この身は不浄である。(贓物や糞尿などに満ち、やがて壊滅する肉体。腐ると悪臭を放ち、膿のように流れ、親族も顔を背ける肉体。肉体をそのようにありのままに見つめ、肉体に対する執着を捨てる。)

(二) 感受は苦である。(五感が感受するもの、つまり目が見、耳が聞き、鼻が嗅ぎ、舌が味わい、身が触れるものはすべて移ろい変わるものであり、そのどれかに執着しても苦を生じる。)

(三) 心は無常である。(心に浮かぶあれこれの想念は機縁によって生じ、また滅するものである。めまぐるしく変転するものであり、執着するものではない。)

(四) 諸法は無我である。(すべての事物は変化するものであり、永遠不滅の実体を持たない。)


 (一)(二)(三)は人間主体の虚無性(肉体と意識の無常性)を指し示しており、(四)は人間を取り巻く客体世界の虚無性(無常性)を示している。つまり四念処は主体、客体共に無である(永遠不滅の実体を持たない)という認識を述べたものだ。この認識を意識に刻むことによって人間の自己及び外界に対する執着を断ち切ろうとしたのである。

 執着は生存維持の衝動を根源とし、四念処のような認識の欠如、即ち無明に媒介されて生じる。生存維持の衝動は動物においては本能に止まる単純なものだが、人間では発達した意識による判断、分別によって高められ、複雑化され、執着として固定される。こうしてそれは苦の原因となる。ブッダの教説の核心はこの執着を断ち切るための認識なのだ。

 四念処ばかりではない。例えばブッダの最初の説法(初転法輪)の時に述べられたと伝えられる四諦(四つの真理)の教えも執着の断滅を主眼とするものである。

 四諦とは、(1)苦諦(生存は苦である、すなわち現世における一切は苦であるという真理)(2)集(じっ)諦(苦が生起してくる原因は執着であるという真理)(3)滅諦(執着を断滅すれば苦は消滅するという真理)(4)道諦(苦を消滅に導く方法は八正道の実践であるという真理)である。

 (1)は現世の快楽への幻想を否定したものだ。それはこの世の種々の快に対する執着を突き崩す作用をする。(2)は執着がいかに有害な役割を果たしているかを明らかにし、(3)では執着が断滅された状態における真の(つまり苦に転化しない)快がしめされる。(言葉としても体験としても。)こうして人は執着の断滅へ促されるのである。

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