その3
人を苦しみから解脱に至らしめる五つの勢力(五根)、五つのはたらき(五力)がある。信、精進、念、定、慧である。信は信仰であり、ブッダとブッダの教説、及びブッダの教説を行ずる出家者の集い、(以上、仏、法、僧)を信じること。精進は努力、精励すること。念はブッダの教えを常に心にとどめること。定は心の安定・統一を保つこと。慧は解脱に導く智慧を確立することである。
つまりブッダの教えを信じ、努力して念、定、慧を修していくならば苦から解脱できるというのだ。
ブッダの教えの実践項目は後世になると戒律として細分化し、複雑化していくようだが、この五つはその原初的なものとして早くから成立していたようだ。
考えてみるとブッダの教えであれ何であれ、人がある思想によってある成果を得ることを真剣に願う時、この五つは自ずから必要とされ、また備わってくるものではなかろうか。彼は先ずその思想を信じ、心に念じ、その思想に拠って精神の統一をはかり、判断や洞察を正確なものにしようとするだろう。そういう意味で私はこの五つが実践項目として挙げられたことはもっともなことと思える。
この五つの力は相乗効果をもって人を解脱に導いていくのだが、その集約点は慧(認識)であろう。信・念・定における精進は結局慧に結節し、慧を深め、確たるものにしていく。そして深められ、高められた慧は他の四つの力を更に強めるのだ。こうして人は解脱へ向かって高まっていく。この死まで続く向上の過程がブッダの「道」なのだ。原始仏典にブッダを「向上し来れる者」とした表記があるのはその意味で首肯される。彼は死に至るまで精励を説いた。『大パリニッパーナ経』(『大般涅槃経』)は「『諸々の事象は過ぎ去るものである。怠ることなく修業を完成なさい』これが修業を続けてきた者の最後の最後のことばであった」とブッダの臨終を伝えている。
信仰とは実践である。ブッダの教説は論理的ではあるが何らかの実践=修業による体験がなければ真実には理解できない。とくにその教えの目的であるニッ(ル)バーナ(涅槃)に関しては何らかの体験がなければその尊さ、美しさ、従ってそこに導いてくれるブッダの教説の有難さは理解できない。一度その境地を経験するならば、人はそこから簡単には離れられないだろう。なぜならそれは苦しみのない、楽しさから楽しさへ向かう境地だからだ。
考えてみればすべての認識において実践はキーポイントを担っている。実践無くしてあらゆる認識は真実には成立しない。認識における実践の中心的意義を正当に評価した哲学はマルクス主義だった。日常生活のなかでは誰もが承知している事ではあったが。
実践によって検証された認識は確信となり、さらに人を実践に向かわせる。その実践によって認識はさらに深まる。信仰の生活も認識の発展のこのサイクルと同一なのだ。
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